第10話 書記 守殿千代は値踏みする
横断幕を直す作業は特に問題なく進む。
ハトメに紐を通して、バトンに結ぶだけだから、脚立の上でのバランスにさえ気を付ければ何ということはない。昨日のマイクケーブルの絡まりをほどくよりもずっと簡単なことだ。
俺は二か所目の作業も終え、ハサミをポケットにしまって、脚立を降りる。
「慎くん、おっつー」
地上まであと二段というところで、俺は脚立を押さえてくれている水無瀬先輩の方に目を向ける。
――っ⁉
忘れてた! いつも第二ボタンまで開けてるから、この角度で見るとがっつり……。
ちらっと見えたあの黒い生地ってブラッ――。
邪な考えが頭を巡った瞬間。俺は脚立から足を踏み外してバランスを崩す。
なんとか足は着いたが、身体の重心が後ろに傾き、周り景色がスローに見える。水無瀬先輩が慌ててこっちに手を伸ばすが間に合いそうにない。
ヘルメット被ってるから命は大丈夫かな? という顛末の心配をし始めたその時。
「大丈夫、救世主君」
「へっ?」
後ろに倒れかけた俺の背中に手が回され、そのまま力強く抱き起される。
あまりの一瞬の出来事にあっけにとられながらも、助けてくれた人の方に顔を向けると、サラサラのショートカットのイケメン……かと思ったが女子の制服⁉
「よかったー。慎くんにケガさせたら、会長激おこだよ」
「夏恋、もうこっちの手伝いに来てたの?」
「誰かがトラブルに油を注いだから、急ぎ呼ばれたんよ、千代」
ということはこちらのイケメンが軽音部と喧嘩をしたっていう生徒会の書記殿?
「あ、あれは軽音部の……あの十割そばみたいな髪した奴がぴーぴー五月蠅いから」
間違いない。喧嘩を売ったのはこの人だ。俺の想像の書記キャラクター像を急ぎ更新する。とはいえ、あのメタル風情の軽音部に喧嘩を売っていたんだ。ここはすぐに丁重なるお礼の言葉を述べねば。
「あの……危ないところを助けていただきありがとうございます。なんとお礼を申し上げたらいいのやら」
ジーっと俺を値踏みするように見ていたかと思うと、ニッと笑う書記殿。
「夏恋、あたし、この子に竜宮城にでも連れて行かれるのかな?」
「慎くんって、面白いよね。私にはヤクザの親分みたいだったし」
こっちはいたって真面目に事を荒立てないようにしているだけなんだけどな。
「へー、救世主は慎君って言うのか。私は守殿千代、上の名前は?」
「黒瀬です。黒瀬慎です。……えっと、その救世主っていうのけっこう広まってます?」
心春先輩も俺のことを救世主って言ってたからな。変に広まる前に火消しに回りたい。
守殿先輩はうんうんと頷いてから。
「昨日、夏恋があれだけ派手に言ったからね。あの場に二年や三年けっこういたし」
「水無瀬先輩ってそんな影響力あるんですか?」
「影響力っていうかインフルエンサー的な。きっとみんな黒瀬=救世主って覚えてるだろうな」
なんてことしてくれてんだよ。
全然知らない先輩たちに救世主って、認識されるだなんて罰ゲームでしかない。
俺は思わずジト目で水無瀬先輩の方を見てしまう。
「ちょ、ちょーっと、そんな目で相棒を見んなし」水無瀬先輩は突き出した手を振って。
「あれは別に悪気があって救世主って言ったわけじゃないし。あん時はマジで困ってたところを、慎くんが助けてくれて、救世主だー! って言ったわけで――」
「おーい、横断幕が直ったなら、リハの準備始めるぞ」
霧島先輩が音頭をとって、この後のスケジュールを読み上げ始めた。
心春先輩も守殿先輩も指示に従って、急いでリハの準備に取り掛かる。
もともと、リハの係員でもない俺は邪魔にならないように、工具箱と脚立を持ってステージから退散しようと。
「こらこら、もう私たちの作戦忘れた?」
担いだばかりの脚立を水無瀬先輩が奪いにきた。
「水無瀬先輩もリハの準備で忙しいかと思って」
「残念、私は片付けの方の担当だから、リハは係員は免除されてる」
「それって、今日、俺が生徒会室に呼ばれてたからですか?」
水無瀬先輩は奪った脚立を担ぎ直してこっちを向く。ギャルと脚立という普通なら一緒に並ぶことがないはずなのに、水無瀬先輩が担いでいると妙にしっくりとくる。
「そういうことは、聞かないのが、紳士の嗜みしょ」
指を口に当て、にひっと笑って見せる。
たしかにやぶな質問だったけど、まさかギャルから紳士の嗜みについて、教授されるとは。