腰巾着令嬢は、拾われる
エチュバステール家の近くに停められた、見るからに地味な馬車に乗り込んでから一時間。すっかり座席に根が生えた頃、馬車はようやく目的地に到着した。
そこは、王都の中心から少し離れた、のどかな自然に囲まれた場所だった。
目の前に広がるのは、豪奢そのものの大邸宅。丁寧に手入れされた薔薇の庭園が咲き誇り、まるで夢の世界に迷い込んだかのような光景だった。
「さ、着いたわよ」
「あ……ありがとうございます……?」
ぽかんと口を開ける私をよそに、アーデルハイト様はさっさと私の手を取り、優雅な動作で屋敷の中へと進んでいく。
いやいやいや、ちょっと待って。心の準備というものがあるでしょう!?
なにせ、あのアーデルハイト様が、わざわざ私をエスコートして、こんな立派な邸宅まで連れてきたのだ。これはきっと何か裏が――。
「ほら、ぼーっとしてないで行くわよ」
半ば引きずられるようにして中に入ると、内装もまた驚くべきものだった。
広々としたホール、きらきら輝くシャンデリア、壁に飾られた名画らしき絵――エチュバステール本家の内装なんて、もはや比べるのも失礼なレベルだ。
アーデルハイト様は迷いなくホールを突っ切り、長い廊下を抜け、一室の前で立ち止まった。
中に入ると、そこはソファーとテーブルが並んだ、落ち着いた応接間だった。
「とりあえず、フェリシアはここで座って待っていて」
「え、あ、あの……!」
慌てて声をかける私に、アーデルハイト様はにっこりと微笑みかけた。
それはもう、"異議申し立ては許しません" と言わんばかりの完璧な笑顔である。その迫力に負けて、私はソファーに沈み込むしかなかった。
満足げに頷いたアーデルハイト様は、そのまま音もなく部屋を後にする。
取り残された私は、呆然と時計のカチコチ音を聞きながら、置物のように硬直するしかなかった。
……今って、夢? 現実?
あのアーデルハイト様が平民に降格した私をわざわざ迎えに来て、こんな豪邸にご招待してくれるだなんて……都合のいい夢過ぎるだろう。
私は本当は今も貴族牢でうたた寝してて、これは夢だと言われた方が納得する案件だ。
そんな現実逃避タイムに、コツンと軽いノック音が鳴った。
「フェリシア様、失礼してもよろしいでしょうか?」
「あ、はい」
反射的に返事をした私の前に、静かにドアが開く。
入ってきたのは、年配の妙齢の女性だった。手にはティーポットとケーキが載ったトレイを持ち、柔らかい微笑みを浮かべている。
「お初にお目にかかります、私はこの館の管理を任されているジュヌヴィエーヴ・モンタニエと申します。どうぞ、お気軽に『ばあや』とお呼びください」
そう言ってばあやと名乗る妙齢の女性は、優雅な所作で紅茶とケーキをテーブルに置いた。
まるで長年王宮で仕えてきた侍女長かと思うほどの、完璧な動作である。
「あの……」
戸惑いながら声をかけると、ばあやさんはさらににっこりと微笑んだ。
「アーデルハイト様から、フェリシア様のお世話をするよう仰せ使っております」
「へ……?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔の私に、ばあやさんは落ち着き払った声で続けた。
「お気になさらず。私はただのばあや、いわば使用人でございます」
どう見ても「ただの」レベルを超越していたが、ばあやさんは勝手に話を完結させた。
「アーデルハイト様を、どうぞよろしくお願いいたします」
「は、はい……」
勢いに押され、つい勢いで頷いてしまう私。
ばあやさんはそんな私に満足そうにまた微笑み、「それでは失礼いたします」と一礼して部屋を出て行った。
残された私は、ただ呆然とドアを見つめる。
「……一体何が起こっているんだろう?」
目の前に置かれた紅茶からふんわり立ち上る香りに誘われるまま、一口。
……うん、美味しい。とっても美味しい。
さらにケーキにも手を伸ばして、もぐもぐ。昨日からろくに何も食べてないから尚更美味しく感じる。
こうなったらもう、現実逃避するしかない。
「ケーキおいしい」
幸せな甘味に包まれながら、心の中の混乱を見なかったことにしていると――
コンコン、と再びノックの音が鳴った。そして、優雅な足取りで入ってきたのは――。
「え?」
間抜けな声が口から漏れた。
銀の長髪を後ろで一つに結わえ、サファイアのように輝く瞳を持つ、絶世の美貌の青年。
纏うのはこの屋敷にあったらしいシンプルながら品のある衣服。それがまた、彼の美しさをいやでも引き立てている。
私は目を瞬かせた。だって、その人は――。
どう見ても、アーデルハイト様に、そっくりだったのだから。
「紅茶とケーキは口に合ったかい?」
「あ、はい……」
「そうか」
私が答えると、彼は机の上に置かれていたティーポットを手に取り、空いていたカップに中身を注いだ。そして軽く口をつけ、「さすがばあやだ」と微笑んで称賛する。
「あ、あの……」
「ん?」
「どちら様でしょうか……?」
思わずそう尋ねてしまった。だって、そうだろう? こんなにも美しい男性が、親しげに私に話しかけてくるなんて状況が理解できない。
自慢じゃないが、私は異性との関わりが極端に少ない。そろそろ嫁いでもおかしくない年齢にも関わらず婚約者はいないし、縁談も来ている様子はない。二年ぐらい前に一度二十五歳年上の子爵の後妻に――と言う話が浮上したが、相手の不祥事が明るみに出て縁談が無くなった事がある。何でも、その相手となる予定だった人は若い女性が大好きで、年を召した前妻に暴力を振り、挙げ句の果てには殺したとか何とか……。
本当に縁談が纏まる前に不祥事が明るみになって良かった……。
「……ああ」
そんな私の混乱をよそに、目の前の男性は小さく笑った。
「フェリシア、私が分からないかい?」
「……え?」
名前を呼ばれて、私はもう一度目の前の青年を見る。
……声は確かに違うけれど、どこか聞き覚えのある話し方。そして、その整った容姿は……アーデルハイト様に酷似している。輝く銀髪と、宝石のような碧眼はまるで天から授けられたように美しい。
でも、アーデルハイト様のご兄弟にこんなにそっくりな方はいない。上の兄妹の方々は公爵夫人に似て紺色の髪色で、唯一公爵様の髪色を引き継いだのはアーデルハイト様だけだから。
――本人が男になった。
「あ……」
現実的にはありえない。けれど、その説明が一番納得できる。
そんな私の戸惑いを見て、男性はにっこりと微笑んだ。
「ようやく気づいたか、この鈍感娘」
「あ、アーデルハイト様……??」
「それ以外の誰に見える?」
そう言って目の前の男性――もといアーデルハイト様は挑発するような不適な笑みを浮かべる。その笑みは、まさに時より見せる人間らしい表情を浮かべたアーデルハイト様のご尊顔で……。
私は呆然と見つめるしかなかった。アーデルハイト様は紅茶を一口含み、再び口を開く。
「なんだその顔は? ああ、もしかして私が『私』だと信じられないのか? こんなにお前の傍に居たというのに?」
「い、いや……だって、アーデルハイト様は女性で……」
「男でも女でも、私が『私』である事は変わらないだろう?」
その余裕たっぷりの笑みは、確かに私が知るアーデルハイト様のものだった。
「確かに……アーデルハイト様のその美貌の前では、性別なんて些細な問題ですね」
私が敬愛して、腰巾着となったのはアーデルハイト様のその生き様故だ。アーデルハイト様がどんなお姿をしていようと私はその生き様に惚れたのだ。
だから、アーデルハイト様がアーデルハイト様であるかぎり、些細な問題だという事で……。というか、男でも女でも魔性なお人なのは変わらなさそうだし。
アーデルハイト様がどんな姿であっても――私にとっては、何も変わらない。
「……っ! ふははっ!」
真剣な表情で私がそう言えば、何故かアーデルハイト様はお腹を抱えて笑い始めた。その無邪気な笑顔は、今まで見たことがないほど自然で、眩しいものだった。
「お前は本当に相変わらずだな」
その眼差しは、どこまでも優しく、あたたかかった。私は思わず胸の奥が高鳴るのを感じる。
そんな中、ふとアーデルハイト様――いや、彼は真面目な顔になり、私に向き直った。
「……ところで、フェリシア。これからは私のことは『アベル』と呼んでくれ」 「えっ……」
「今の私は、もう“アーデルハイト”ではない。私自身として生きるために、この名を選んだんだ」
「アベル様……」
その名は、どこか彼本来の強さと優しさを感じさせる響きだった。
「……はい。分かりました、アベル様!」
私がそう応えると、彼――アベル様は満足そうに小さく微笑んだ。
「さて――フェリシア、お前から見て私はあの侮辱を黙って受け入れるような人間に思えるか?」
「いいえ! 私の知るアーデルハイト様は、やられたら10倍にして返すお方です!」
公爵令嬢アーデルハイト様は、基本的には公爵令嬢らしい嫋やかなお方だ。でも、一度敵を向けられれば容赦はしない。相手を徹底的に追い詰め、二度と歯向かう事が出来ないように叩きのめす。それが私の知るアーデルハイト様だ。
「さて、問題だ。私はこの後何をすると思う?」
「それはもちろん……報復ですよね?」
「正解」
アベル様は唇の端を持ち上げ、まるで獲物を追う狼のような笑みを浮かべた。思わず息を呑むほど、絵になる姿だった。
同時に――私は心の中でそっとあの王子様に哀悼の意を捧げた。絶対にこうなったアベル様に勝てるはずがない。だって、あの残念なユーリッヒ殿下ではアベル様に勝てる事と言えば……権力があるという事だけなのだから。そして、アベル様は間違いなくその権力を蹴散らす策略を考えられるお方だ。
うん、つまりユーリッヒ様は怒らせてはならない人を怒らせたという訳だ。
「元々私はあの馬鹿とは結婚する気はさらさら無かった。だから、婚約破棄やその他諸々も穏便に済ませようとしていたんだ。だがあの馬鹿は私の心遣いを台無しにした」
「おっと、仮にも王太子を三度も馬鹿と言いましたね。流石アベル様」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い?」
「はい、何にも悪くありません!」
即答した私を見て、アベル様は再び大笑いした。
……そんなに面白いかな、私の反射的腰巾着モード?
「という事で、あの馬鹿は私の温情を無下にした。それは万死に値する行為だと思わないか?」
「そうですね!」
私は再び全力で肯定する。
しょうがない、私はアーデルハイト様の全肯定腰巾着なので。アーデルハイト様の言う事は絶対なのだ!
「だから、私はあの馬鹿に復讐することにしたんだが――まぁ私よりもあの馬鹿を恨む人間がいるからな。そいつに協力して貰うことにしている」
「協力者……ですか?」
「ああ、もうすぐ来るはずだ」
アベル様がそう言った瞬間――。
コンコン、とノック音が響き、間髪入れずにドアが開く。
そこに現れたのは、燃えるような赤い髪と、王家の血を証明する黄金色の瞳を持ったアベル様とはまた違った美青年。
「やぁ、お邪魔するね」
それは、第三王子――カールハインツ・フォン・ロッシュフォール様だった。
「か、カールハインツ様!?」
「やぁフェリシア嬢。元気そうでなによりだね」
爽やかな笑顔を浮かべるカールハインツ様は、やはり――相変わらずのイケメンだった。