三年前
カビ臭いジメジメとした雰囲気の地下に作られた、収容される人のことが全く考えられてない牢にイリヤは収容されていた。
長らく使われていなかった最下階に位置するそこは、常に扉の前に軍人が立ち、監視の目を光らせている。イリヤは何もない部屋の真ん中に座り込み、靴の底に仕込んであった刃を取り外した。切っ先を金属の床に当て、思いっ切り引っ掻く。嫌な金属音が部屋の中を跳ね回り、扉の向こうの看守の気を引いた。
「静かにしてろ」
イリヤはそれを無視して床を引っ掻き続ける。床には長方形とそれに繋がる螺旋構造、小さな幾つもの正方形が刻まれていった。
「さっきからうるさいぞ! 一体何をしているんだ?」
看守は扉の上部の小さな窓から中を覗いた。イリヤが刃物を持っているのに気づき、慌ただしく扉を開けた。迂闊にも近づいた看守の首に切っ先を突き付け、喉仏から背骨まで紅い線を引く。看守の背後に回ったイリヤは、背中を蹴り飛ばし、部屋から出た。扉がガチャリとロックされるのを聞きながら、細い通路を走り抜けた。
イリヤは螺旋階段を駆け抜け、足を止めた。階段を登りきったフロアには何人もの軍人が二人一組で待機していた。 イリヤは死角となる壁に背を付け、周りを確認する。
一、二、三、四……数えるのも面倒だ。 イリヤは刃を握り直し、脚に力を込めた。軍人が一組、階段のそばを通り抜けた。イリヤは一人の首に刃を突き差し、そのまま水平方向に引き裂く。さらに返す手でもう一人の側頭部を貫いた。
崩れ落ちた二人の腰から拳銃を抜き、落ちている二挺の突撃銃のストラップを肩に掛ける。二挺の銃のグリップを握り、壁に背を付け周りを再認識した。先程とあまり変わっていない隙のない配置。異変があれば直ぐに対応出来る洗練されたプラン。イリヤが躊躇っていると、向かいの階段から、小柄な軍人が降りてきた。
「皆さん、上で緊急事態が発生したようです。直ぐに向かうようにと指示が」
「状況は?」
「大尉、此処にいらっしゃいましたか。混乱していて情報伝達が上手く行われていないようです」
「分かった、すぐ行く」
大尉が階段を登っていき、それについて待機していた軍人達も去っていった。何があったんだ?
残った小柄な軍人は帽子を深く被り直し、小さく息を吐き、階下への階段に近付いてきた。イリヤは近付いてきた軍人に銃口を突き付けた。
「動くな」
軍人は目だけを動かし、イリヤを見た。
「聞いてた服装と少し違うけど、誤差の範囲内かな。うん、だいたい合ってる」
軍人は何かを納得したように呟いた。
「何を言ってる?」
「あなた、イリヤ・アーベルですよね? もう少し出て来るのが遅いと聞いてましたけど」
「……何者だ?」
「あ、ボクはエリクといいます。後で話しますので、今は何も聞かずについて来て下さい。早くしないと、戻ってきてしまいます」
エリクは銃口を手でよけ、イリヤに背を向けて階段を降り始めた。階段の中腹でエリクは止まった。壁に手を着いて、何かを探すように手を動かした。
「確か、ここら辺にあるらしいんだけど、確かめておけば良かったかな……あ、これか」
エリクは壁の継ぎ目に指を這わせ、腰に携えていたナイフを突き立て、その隙間に沿って滑らせた。どこからかピーッという電子音が発せられ、継ぎ目から右に壁がずれて階段が現れた。
「こちらに」
イリヤはエリクの後に続いて階段を上っていった。
▽
華やかな装飾を施された扉をくぐったディルクとレアは、別々に小さな部屋に通された。
「こちらで失礼の無い格好に着替えていただきます。着替えはこっちで預からせてもらいますので」
軍人はディルクに着替えを渡して、部屋を出た。ディルクはたどたどしい手つきで黒い背広とワイシャツに着替えた。部屋の中から外の軍人に声を掛けると扉が開いた。
「ネクタイはどうした?」
「結び方がわからなかった」
群青のネクタイを結んでもらったディルクは、長い廊下を歩き、謁見の間へと入った。真っ赤な絨毯が敷き詰められた天井の高い部屋の中央に、銀食器が並べられた真っ白なクロスの掛けられた長机が置いてある。三つある椅子の一つにディルクは腰を下ろした。
ディルクが席に着いてしばらく経つと、淡いピンクのドレスに身を包んだレアが入ってきた。髪も綺麗に整えられている。
「ディルク、似合ってなーい」
姿に似合わず、ディルクを指差し、レアははしたなく笑った。
「見た目は変わっても、中身は変わらないんだな」
ディルクが失笑した時に、料理が運ばれてきた。色取り取りの料理が美味しそうな匂いを纏っていた。長机一杯に料理を並べ終わった頃合いに、奥の扉からあからさまな、いかにも私が王様です、と言った雰囲気の、冠をかぶった小太りの中年が、従者を引き連れて歩いてきた。
従者が引いた椅子に腰を下ろした王は、ナイフとフォークを手に取り、自らレアに料理を取り分けた。
「ご馳走だよ、ディルク。ご馳走だ、正夢だ」
「ハハハ、お気に召したようで何よりです、巫女様」
「その巫女様ってのは何なんだ?」
ディルクは従者に取り分けられた食べ物を気に掛けず、暖かくない眼差しを王に向けた。
「朝食を食べてないのだろう? 話し合いはデザートでも食べながら、じゃ、ダメかな?」
隣で口一杯に食べ物を詰め込み、幸せそうな顔をしているレアを、一瞥したディルクは、目の前のフォークを手に取った。
「いただきます」
一口食べると、さすがと言うべきか、地上のものとは比べものにならない美味しさが、口の中に広がった。ディルク達は目の前の食事をあっという間に平らげ、運ばれてきたケーキにフォークを刺した。王がティーカップをソーサーに置いて話し始めた。
「何の話だったかな?」
「レアの事を何故、巫女様と呼ぶのか、だ」
再び威嚇的な態度をとるディルク。
「そう、それだったね。
巫女様は我々の国を救って下さったんだ。
三年前の話だ――」
▽
――三年前。
サウスバデータは空中都市として重要な任を担っていた。サウスバデータの周囲には、小規模な空中都市と大規模な地上都市が密集している。一つは空中都市同士の交易を補佐すること。もう一つは空中都市を守護することだ。小規模な空中都市は、大規模な地上都市とさして差はない。あると言えば、空に浮いているかいないか、ぐらいの差しかない。
地上都市には空中都市の存在を、羨み嫉む者達がたくさんいる。その思想はある種の宗教のように地上中に広まっており、空中都市を潰そうと考えるものも少なくない。その中の集団の一つは空賊である。空賊達は空中都市の一つを攻め落とし、拠点としており、地上の人間は反空のシンボルとしている。
その賊都の主領が地上都市間に降り立ったのがおよそ三年前。主領はなかなか空中都市を攻め落とせない三つの地上都市に、ある提案をした。攻め落とせないのは、サウスバデータの守護があるからではないか? サウスバデータを協力して落とせば、目的の都市も陥落させる事が出来るのではないか、と。
空中都市と違い、都市間で連絡を取るのが難しい地上都市で、初めて三つの大都市が手を組んだ。そしてサウスバデータに矛先は向けられた。サウスバデータは第一波を、制空権により凌いだ。が、第二波、第三波と賊都から配置された智将の策により、徐々に形勢が悪くなっていった。
そこでサウスバデータは国内から様々な人物を召集した。科学者、軍人、学生、ある程度有用性のある人物を片っ端からかき集めた中に、当時十歳のレアがいた。今みたいに、天真爛漫ではなかったレアは、招喚された時に、私は全ての事を知っています、と淡々と口にした。
「子供の戯れ言だとお思いでしょうが、策がないのだから、騙されたと思ってやってみて下さい」
王はその言葉を受け入れ、それに続く言葉を待った。レアは、迎撃配置を数センチ単位で指定し、迎撃時間も秒単位で指定した。王はレアに言われた通りに軍を配備した。その結果、智将の策を完全に打ち崩し、地上の戦意を殺ぐ事に成功した。
それでも僅かに残っていた火種を、レアの策を用いた智将の死を以て鎮火した。王はその結果をたいそう喜び、レアに褒美をとらせた。
▽
「……と、いうわけで、巫女様なのです。理解されましたか?」
「巫女様の所以は分かった。
だけど、イリヤの言ったとおり、レアは巫女様じゃないと思う」
「何故ですか?」
王は体面上だけ疑問を装ったように見えた。目が確信の光で満ちているからだ。
「話しに聞いたレアは、今のレアとあまりにも違いすぎる。年を経て大人らしくなるならまだしも、言い方は悪いが、何故退行している?」
「そんな事ですか? もし仮にその無邪気さが演技だとしたら?」
ディルクは少し考え込み口を開いた。
「レアはそんなに器用じゃない」
「そうですか。では真偽を確かめてみよう」
王は従者の一人に何かを囁き、従者はレアに近づいた。
「どうなるんでしょうね?」
どこか嬉しそうな王はディルクに問う。意味の理解できないディルクは従者の所作に目を移した。従者はレアの椅子を引き、レアの正面に立った。そしてレアの眼帯を外した。
レアは琥珀色の左目を静かに開いた。数秒の後、静寂がレアの悲鳴によって破られた。ディルクは立ち上がり、レアの元に行こうとした。
「動くな」
ディルクの後ろに控えていた従者が、ディルクに銃を向けていた。
「大丈夫です。別に何かした訳じゃありません」
椅子にぐったりともたれ掛かるレアを一瞥した王は、ディルクにそう言った。
「レアはどうした?」
ディルクは、先ほどよりも明確な敵意を王へと向ける。
「巫女様は巫女様となられたのですよ。巫女様を部屋へ」
不可解な言葉を告げた王は、レアを運ぶ従者に続き、部屋の外に向かった。
「そいつは、元のところに戻してやれ」
従者は王の命を聞き、ディルクの首に後ろから銃を押し付け、歩くことを促した。部屋の外に出たディルクは、持ち物を返却され、軍人達に引き渡された。持ち物の中にはディルクの銃とナイフも含まれていた。
軍人の一人が背を向け、歩き始めた。それに続いて周囲を囲まれたディルクも歩き始めた。
ディルクは、数歩進み、急に城の方へと走り出した。服の隙間からナイフと銃を取り出し、服は前方に投げ捨てる。急に視界を遮られた真後ろの軍人の首に腕を回し、ナイフを突きつける。首に回した手に持つ銃を、残りの軍人へと向ける。
そしてディルクは牽制しながら後ずさる。嘆息した一人の見覚えのある軍人は堂々と正面から近づいてきた。ディルクは少し躊躇ってから、引き金を引いた。が、銃からは引き金を引いた音しか発せられなかった。
「悪いけど、弾は抜かせてもらった」
ディルクは銃をベルトにさしてナイフを軍人に向けた。そして鍔の位置にあるスイッチを押し込む。
弾性力の位置エネルギーが運動エネルギーに変換され、軍人へと襲い掛かる。軍人はその刃を腰から抜いた特殊警棒で叩き落とす。
「こんなの機械に頼るまでもない。君はナイフはもう少し扱えるようになってから、という私の言葉を聞いてなかったのか? 連れてけ」
されるがままにされていた軍人が、ディルクと立場を入れ替え、手に輪を掛ける。両手を拘束されたディルクは、大人しくついて行った。