夜襲(3)
男は周りが忙しなく足音を立て続ける隙間を悠々と歩き、そこだけ隔離された空間のような静けさの部屋に入った。消毒液の臭いが鼻にくる。いくつもの寝台が備え付けられた白を基調とした清潔なイメージの部屋で、男は雑多に薬瓶が置かれた棚へと近づいた。その棚からいくつかの瓶を手慣れた様子で抱え込み、その下にある引き出しから、ガーゼと包帯を取り出した。そして、近くのベッドに腰を沈み込ませた。
「まさか医者までかり出されてるとはな。まぁそれだけここでも、神格連鎖機構が重要視されていると言うことか」
男は誰に聞かせるでもなく、虚空に向かってそう言うと、自分の服をまくり上げた。右脇から臍に至るまでの浅い切り傷が外気に晒された。男がガーゼに消毒液をしみこませ、傷口に当てる。小さく息のような声を漏らして、別のガーゼに同様に液をしみこませ頬に付いたいくつもの切り傷を拭った。
男は腹部の傷に不器用に包帯を巻きつけ、服を着直してから立ち上がった。整理されたファイルが並ぶ白い棚に近づき錠の掛かったガラス戸を懐から取り出した特殊警棒で打ち抜いた。ガラス片が音を立てて、床に当たり散乱する。
男は破片に気を付けながら一冊のファイルを取りだした。その中身に軽く目を通して、小脇に抱え棚に背を向けた。その時、棚の下方に付いている引き戸が、ガタンっと音を立て、男は身を小さく震わせた。
男がファイルをベッドへと投げだし、警棒を構えた。引き戸が乱暴に吹き飛ばされ、中から身を低くしたエリクが走り出てきた。男が突っこんで来るエリクの足を引っかけると勢いの付いていたエリクは派手に転がり、頭から壁へと激突した。エリクは後頭部を押さえ蹲った。
男はエリクの左腕を掴み、背中へと回し膝で押さえつけた。そして、エリクの髪を掴み顔を自分の方へと向けた。
「どこかで、見た顔だな」
男が首を傾げたのと同時に、男の背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「まさか、こんな所に通じていたとはな。大尉、そこで何をやっている?」
大尉は顔だけをステーンに向けた。
「大臣こそこんな時に、うろつき回っていてもよろしいのですか? たしか緊急招集が掛かっていたと記憶しておりますが」
「私の事はいい。それよりそいつを連れてこい。聞きたいことが山ほどある」
ステーンは集まり始めた兵士の合間を抜けて廊下へと出た。エリクが大尉に無理矢理立たせられ、歩くように促された。
「コイツを頼む」
大尉は近くにいた兵にエリクをまかせると、ベッドの上に放り投げたファイルを拾い、ステーンと逆方向に歩いていった。
▽
ディルクはレアの手を引っ張り、隠れていた部屋から出ると迷わず走り出した。警備が手薄になっている隙に、ここから逃げ出すためだ。どこまで逃げ延びることができるかは分からないが、行けるところまで走り続ける。
途中で見つけた階段を下りしばらく走り続けると、レアがいきなり足を止めた。それにつられ、ディルクも足を止める。
「どうし……」
ディルクはレアに尋ねるのと同時に、複数の足音がするのに気付いた。しかし、気付くのが少し遅すぎた。窓からはいる月明かりに照らされた三人の兵士が、ディルク達に銃を向けた。
「……しまった」
ディルクが横を見遣ると、レアは目の前の三人を見据えていた。レアは右目を瞑った。
「レア?」
ディルクが握る手に込める力を少し強くする。レアはディルクの言葉には一切反応せずに、真っ直ぐに三人の先を見ていた。
「巫女様から離れ、武器を捨てろ」
ディルクは一歩横にずれて、手に持つナイフを放した。それを見て、一人の兵士が前へと進みレアの右腕を取った。レアが体勢を崩し、前のめりに倒れる。ディルクは反射的に体を動かす。その横を何かが掠め、ディルクは静止した。飛んできた方向を見ると、中央に構えた兵の持つ銃から煙が出ていた。
「動くな」
ディルクは発砲した男に怯み、動き出すことができなかった。その間にレアが兵士に起こされ、顔をディルクの方へと向けた。レアは相変わらず右目を閉じたままだったが、琥珀色だったはずの左目は真っ暗で、まるで虚のようだった。しかし、その色も一瞬で変わり、様々な色が縦横無尽に泳ぎ回り、溢れるかと思えば、混濁し真黒を辿り、元の琥珀色に落ち着いた。そしてレアは右目を開いた。
兵士に無理に腕を引っ張られて行くレアは、顔を背ける間際に口を動かした。
だいじょうぶ。
ディルクはレアの言葉に耳を疑った。この状況で大丈夫なはずがない。打破するには幾分材料が少なすぎる。いくらレアが神格連鎖機構の左目を所持しているからといって、攻撃されない理由にはならないし、ましてディルクがどうなるか何て想像に難くない。
レアが三人に囲まれる前にと、ディルクは意を決し、身を屈めた。ディルクがナイフを握った瞬間、ガラスが粉々に吹き飛び、窓の横にいた二人の兵士に降りかかった。ガラスが床に当たり砕ける音と共に、兵士が一人倒れた。男のこめかみの辺りから紅い液体が流れ出していく。
残りの二人の兵士が怯み後退ったところで、壁に何かが当たる音がした。そして、窓際の兵士の左腕が吹き飛んだ。生々しい液を纏った肉片が壁に当たり、ぐちゃり、と耳障りの悪い音がする。兵士が傷口に右手を当てると、脇腹から血を吹き出して、横になった。
ディルクはナイフを握り込み、叫びながら、現状に追いついていない、レアを掴んだ兵士へと走り寄った。肩から兵士にぶつかると、レアが兵士から離れた。勢いの付いたディルクはよろめいた兵士にのしかかるように、倒れ込んだ。ディルクが両手を地面について体を起こし、レアの方へと振り返った。
レアは真っ直ぐとディルクの方を見ていた。捕まれた腕を押さえてはいるが、目立った傷はない。ディルクは、押し倒した兵士を見た。兵士の背中には銀の刃が血に濡れて、堂として立っていた。兵士は俯せのまま動かない。だめ押しのように飛び込んできた弾丸が兵士の頭を貫き、血飛沫を上げディルクを濡らした。
……刺した。
刺して、殺した?
ナイフで刺して殺した、人を。
「……あ、ア、アアアアァァッ!!」
ディルクは自分の血に染まった両手を見て、震え、頭を抱えた。獣のような咆吼を上げ、慟哭し、自分の中にあった物を勢いよく吐き出した。濡れた地面に両手をついて、頭を垂れ、蹲った。
「……い」
ディルクはなおも叫び続ける。声に飲まれた音にも気付かずに。
レアがディルクに近づき、右腕を取った。そして袖をまくり、腕輪型の情報表示端末に触れた。直後、大声が拡がった。
「オイッ! 聞け! この愚図が」
レアがディルクの耳元に、大音量を発する腕輪を近づけた。
「……い、イリヤ?」
「レアを連れて今すぐに、その窓から外に出ろ」
いつも通りの冷静な声音がディルクの耳に届いた。
「オレ……ひっ、人を殺した……」
ディルクが弱々しく呟いた。
「お前は誰も殺しちゃいない」
イリヤが穏やかな口調でゆっくりと言った。
「でも、刺して、動かなかった」
「あぁ、刺したな。でも、お前の短いナイフの刃が少ししか刺さってない状態で、人は死なない。そいつは俺が頭を撃ち抜いた。分かったらさっさと出ろ。騒ぎすぎたせいで、兵達が集まり始めてる」
「で、でも」
「うるさい! うだうだ言ってないで逃げろって言ってんだ。さっさと出て来い」
イリヤが怒りまくし上げた。
「よくやった」
最後に静かな声で声を掛けて、通信を切った。レアがディルクの腕を取って立ち上がらせ、破片に気を付けて、窓から外へ飛び出した。