夜襲(2)
暗闇の中を靴の音だけが移動していく。埃っぽい人気のない部屋の前に着くと、中へと入っていった。エリクがディルクの目を見据えた。
「何で撃つのを躊躇ったんですか?」
エリクの顔が心なしか険しい。
「結果的に逃げれたからよかったものの、殺されるところだったんですよ」
ディルクが俯いたまま口を開いた。
「人を撃ったことなんか無いし……」
エリクがディルクに歩み寄り、無言でディルクの頬を打つ。
「……そんなことですか」
ディルクがエリクの顔を睨む。
「そんな事って、何だよ。人の命を奪うんだぞ!」
「そうですね。僕だってそんなことは分かってますよ」
「それなら何でそんなこと言えんだよっ!」
「僕はこの事のためだけに時間をかなり費やしました。助言や計画があったからと言って、それもいつ狂うか分からない。そんな不安定な足場で必死に計画が成功するように命がけなんです。
ただの料理屋の下働きが国に楯突くんです。軍から装備を盗んだり、必要なお金を騙し取ったり、必死なんです! 僕が下に落とされたらそこで全部終わりだったんです。 僕が……僕がどんな思いでここにいるかなんて、あんたには、あんたには絶対に分からないじゃないかっ!」
エリクはディルクの腰から銃を奪うと廊下を駆け出した。
「おい、待てっ!」
ディルクが慌てて廊下に出るも、エリクの姿は確認できなかった。
「これからどうすりゃいいんだよ」
ディルクは当てもなく廊下を歩き始めた。手元に得物がないと暗闇が急に襲いかかってくる幻想に取り憑かれそうになる。廊下の壁に手を付いて少しずつ歩みを進めると、先に一筋の光が扉の隙間から漏れているのが目に付いた。扉に近づくとギィと音を立てて隙間が広がった。中を覗くと見慣れた銀髪が明かりの元に揺れている。ディルクは思わず扉を大きく開けて中に入った。
「予定より二分と三十六秒早いな。不確定事項だから仕方ないか」
冷たい声を放つ、明らかに雰囲気の変わったレアを視界に捉え、ディルクは一歩後ずさった。居心地が悪い。感じる空気が体を歪ませる。
「逃げなくてもいいじゃないか。私はレアだぞ。もっともあんな不格好な振る舞いはしないがな」
レアは笑いながら立ち上がった。それと同時にディルクの後ろの扉が音を立てて閉まった。扉の影にいた大臣のステーン・アスペルが扉の前に立ち、腰の短剣に手を掛けた。
「遠慮するな、近くに寄れ。寝食を共にした仲だろう?」
ディルクは後ろを警戒しながら一歩一歩慎重に足を出した。自分のズボンの内側に冷たい感触があるのを確認して巫女を見つめる。
「その目の奥で何を考えてるのかは分かっているぞ?」
「お前は誰だ?」
確認の意味を込めて警戒色で聞く。
「見ての通り、私はレアだが?」
「一つだけ聞きたいことがある」
ディルクがレアの右目を見据えた。
「言ってみろ」
「その左目が全ての元凶か?」
「言葉の真意を測りかねる」
「その左目があるせいで、そんなことをしているのかと聞いているんだ!」
「私は……私は私だ。左目は後付けされた物に過ぎない」
レアは言い淀み、ディルクから目を逸らした。
「そうか」
ディルクはレアに近づき始めた。ディルクはズボンの裾を少し上げナイフを手に取り、レアの手を握った。
「は、はなせっ!」
レアが狼狽える。ステーンが短剣を抜き、ディルクに向ける。
「船長さん、さっきのことあんたにも聞くけど、レアがこんな風に振る舞ってるのは、あんたらがやらせてる事なのか?」
「そうだと言ったらどうする?」
「どうもしない」
さっきまでの背中を濡らしてた汗が、火照った胸の内を冷やしてくれる。この部屋に入ったときから感じていた居心地の悪さは、あるべき物があるべき所にきちんと収まってない事から来るとはっきりと理解した。それならすることは必然的に決まってくる。
「逃げ道はどこ?」
ディルクは視線をステーンの持つ刃に向けたまま、レアにいつもの口調で尋ねた。
「誰が逃げ道なんて教えるものか」
「この部屋の扉は私の後ろの一つだけだ。諦めろ」
ステーンがディルクにじりじりと間を詰めながら、冷たく言い放った。
「そう」
ディルクが体を沈め、足を浮かせた。
「後十秒」
ディルクが聞き直す前に、レアは手を振り解き後ろに下がった。ディルクは二の足を踏んだ。
その直後、レアの座っていた玉座の右後ろの壁が、開け放たれた。そこから銃を構えたエリクが駈け出てくる。エリクは周りを見渡してから、ステーンに銃を向けた。
「あなたはレアを連れて、さっさと逃げてください。僕はこの人に少し聞きたいことがあります」
エリクはディルクを一瞥して、直ぐにステーンに向き直った。ディルクはレアの手を引いて、エリクの現れたところへと走っていった。
▽
エリクはステーンに向いたまま、開け放たれたままの扉を閉めた。
「聞きたい事って何だ?」
「少し疑問を解消しようと思いましてね。ただの気まぐれです」
エリクはステーンを見て口元を緩めた。
「何で急にレアの居場所が分かったんですか?」
「……君は何者だ? 何を知っている?」
ステーンが訝しげな眼差しを向けた。
「僕は下働きの料理人の弟子です。ただの、ね」
「そうか。だが、お前なんかに構ってる暇はない」
ステーンが自分の胸ポケットから五センチ程の大きさの箱を取り出し、その中央に付いているボタンを押した。部屋中に、建物中に、非常事態を知らせる警告の、独特の耳障りな音がけたたましく鳴り響いた。
「直ぐに、城にいる者達がこの部屋に集まってくる。観念しろ」
「諦めても良いですけど、質問には答えてください」
「直ぐに処刑される者に何を言っても意味はなさないが、冥土の土産に教えてやろう」
「僕があなたに銃を向けている状況だって分かってますか?」
「私が話すまでお前は撃たんだろう? それとも私以外の者から聞くか?」
エリクは銃を向けたまま押し黙った。
「おそらく、私と共に船に乗った者に聞き出そうとでもしたんだろうが、何も聞けなかったのだろう? あの船に乗ってた者で事情を知ってる者はいないからな。さて、何が聞きたいんだったかな?」
「レアの居場所をどうやって突き止めたんですか? これまでも散々調べて有力な情報は何一つ得られなかったじゃないですか」
「コルスカンドの化け物は知ってるか?」
「想像の埒外のことをやってのける、あの科学者のことですか」
「そうだ。サーキュリウルの奴が情報源だ」
「やっぱりコルスカンドですか」
「満足か?」
「ええ、確信を得られたので」
エリクはそう言うと、玉座の後ろへと回り床を跳ね上げた。中から隠されていた階段が現れる。
それと同時に、ステーンの後ろの扉が開き、武装した警備の者達が雪崩込んできた。警備の者達がエリクに向けて発砲するよりも早く、エリクは階段を駆け下りた。警備兵達がエリクに続いて、中に入ろうとするのをステーンが留めた。
「放っておけ、それよりも先に巫女様だ」
ステーンが警備兵達に指示を出し、自らは階段を下りていった。
▽
エリクと別れたディルクは明かりの全くないどこまで続くのか分からない通路を慎重に進んでいた。レアはディルクの手を握り、大人しく付き従っている。
しばらく進むと、壁面に火の付いた松明が一つだけ掲げられている少し開けた場所に出た。恐らくエリクが火を付けたのだろう。ディルクはレアの手を離し、向き直った。
「レア、君が何を考えてるのかは分からないけど、無理をしてるのは分かる。何かをしようと一生懸命なのも分かるし、嫌な事もしたんだなって思う。でも、それは自分を犠牲にしてもいいって事じゃない」
「うるさい! なんにも私の事知らないくせに、知ったような事を言うな!」
さっきからレアの様子がおかしい。エリクと別れた時から、必要以上に感情的になってる気がする。
「まだ、あんまり知らないけど、寝食を共にした仲、なんだろ?」
レアがディルクの顔を見上げ、自分の右目を閉じた。雰囲気が懐かしい感じに戻った気がする。
「ディルクは……ディルクはこの目の事を知ってるの?」
「知らなかったけど、神格連鎖機構っていうものだって教えてもらった」
「この目はね、昔読んだ資料をそのまま言わせてもらうけど、ある一つの点について確定した事象と不確定の事象、つまり過去と未来の事なんだけど、それら全部を同時に脳に焼き付けるの。言ってる意味分かる?」
「あんまり……」
「例えば、ある人がいたとするでしょ。その人についてこの目を使うと、その人が子宮の中にいる所から自然に還るまでが全部、映像として同時に頭に流れ込んでくるの」
レアが手振りまで付けてくれたが、分からない。
「何となくは分かった。けど、理解できない」
「分かってないんじゃ」
「まず映像が同時に流れ込むってのがどうもなぁ」
「三年前、私はこの目でエリクについて見たの。そしたら一番最初に鮮明に見えたのが、お兄ちゃんが殺されるところだった。だから私はそれが起きないようにしようと、一生懸命頑張ったのに。それなのに……」
レアは言葉の途中で嗚咽を漏らし、言葉を紡ぐのを止めた。ディルクが俯いたレアの頭に手を乗せて、優しく撫でた。そして、強く撫でて銀髪を乱すと、しゃがんでレアに目を合わせた。
「レアは一人でよくやったよ。だから、これからは、オレとイリヤも手伝うから、そしたらみんなでここから出よう。ね?」
レアが小さく肯いたのを確認したディルクは、よし、と声を出して膝を伸ばした。レアの酷く小さな冷たい手を優しく、けれど力強く握って歩き始めた。
「その目は使わなくても良いから。絶対に無理はしないで」
レアが洟を啜りながら、うん、と小さな声で答えた。ディルクは松明を手に取り、先を照らした。埃だらけの床に、おそらくエリクの物だと思われる足跡が暗闇の中に続いていた。
足跡を辿っていくと壁に突き当たった。おそらく隠し扉になっていると判断したディルクは、壁に手を着いて、開くところを探した。ちょうどディルクの腰のあたりにずれそうな亀裂を見つけ、それをなぞり指を引っ掛けることの出来る場所に触れた。
「ここから先はたぶん、逃げ回らないといけないけど、準備は良い?」
ディルクが無理をして口に笑いを作り、レアに訊くとレアが握っている手に力を込めて握り直した。
「行くよ」
ディルクが声を出すのと同時に、慎重すぎるくらいゆっくりと、音を立てないように壁を引っ張った。ディルクがまず、顔を出して周りに人がいないのを確認してからレアを外に出す。ディルクは目立つ松明を置いてから、壁を元通りにはめ直した。松明を置いて空いた右手でナイフを握り、震えるレアの手を左手で包みこんだ。
足音を立てないようにゆっくりと廊下を進み始めた二人は往生していた。廊下が交差する度に、警備の声や足音が聞こえ、少し道を戻れば金属が擦れる音が聞こえてくる。歩みを進めても、外に出ることは出来ず、ただただ同じ所をグルグルと回っていた。
「やっぱり私、目を使おうか?」
レアが不安そうにディルクに提案した。
「いい。何とかするから」
ディルクは何とかすると言ったが、内心かなり焦っていた。時間が経つにつれ城内を見回る兵は増える一方で、事実先程から扉の影を行ったり来たりするだけで、ちっとも先には進めていなかった。それに加え、今現在のイリヤとエリクの事も気に掛かっていた。イリヤは上手く立ち回れたのか。エリクはまだ生きているのか。そして、自分はここから逃げることが出来るのか。
ディルクは頭を掻いて、自分のするべき事を決めた。レアを守る。今はそれしか出来ない。やらなければいけない、他に守ってあげることの出来る人がいないのだから。ディルクは不安そうなレアの頭を撫でた。
「大丈夫だから」
ディルクは自分に言い聞かせるようにそう呟いて、廊下を歩き始めた。最初の曲がり角で警備の持つ懐中電灯の明かりが、こちらに向かって伸びているのを確認すると、すぐさま方向を変えて近くの部屋に飛び込んだ。そこは客室のようで、クローゼットにベット、小さな円テーブルと大した物は置かれていない。
ディルクは窓際に近づきカーテンを引いて、レアと共にベランダに出た。その直後、扉の隙間から光の直線が、話し声と共に入ってきた。ディルクは神経を研ぎ澄まし聞き耳を立て、息を殺した。
入ってきた三人の兵の内二人がベッドの下を覗いたり、クローゼットの中を調べたりと、距離を詰めてくる。そして一人がカーテンに手を掛けた。ディルクの心臓が早鐘を打ち、額からの汗が頬を伝って地面に落ちた。
「おい、反対の方でガラスの割れる音が聞こえたらしいぞ」
扉の近くに居た軍人が通りかかった軍人との会話を部屋の仲間に伝えた。そして、三人は駆け足で部屋から出て行った。
ディルクは部屋が無人になったのを確認すると、中に入って胸を撫で下ろした。
「運が良かったけど、二人とも大丈夫だよな」
ディルクが聞こえるか否か微妙な声量で独りごちた。