第八話 異変
「おーい、どうした? なにボーッとしてんだ」
昼休み。いつものように食堂で飯を食っていると、急に瀬尾からそう言われた。目の前には、食べかけの味噌ラーメンが湯気を立てている。
「別に」
「寄り目でラーメンの脂を凝視してるのに?」
「熱いから冷めるのを待っていただけだし」
「まだ一口も食べてないのに、なんで冷ます必要があるかわかるんだ?」
「……そろそろ食べようと思っていたところだよ」
箸を持ったまま停止していた右手を動かす。当然、そんなに熱くはない。
今日は、曇り空。空気が冷たくひきしまっている。黙々と食べていると、瀬尾がかつ丼を食べながら横目に見てきた。
「なに?」
「七味は?」
「……今、入れようと思ってた。本当に」
味に物足りなさを感じていたが、振り忘れていた。10回くらい振っておく。
「今ってそんなに忙しかったか? 先月は、いつも夜遅くまで仕事していたみたいだけど、最近は19時くらいには上がってたような」
「おまえの言う通り、別に忙しくない」
「ふーん。じゃ、ハムスターが死んじゃったとか?」
「物騒なこと言うな。ピンピンしとるわ」
昨日こそ大人しかったが、健康上はなんの問題もない。片手で麺をすすりながら、スマホを取り出してカメラの映像を表示する。
「じゃあ、なんなんだ。あと俺に思いつくのは、ギャンブルで大敗したとかだぞ」
「確かに、最近競艇で2万くらい負けたな」
すぐに食べ終わって、席を立つ。瀬尾は首をかしげていたが、それ以上深入りしなかった。
食堂を出て、トイレの個室にこもる。再びスマホで映像を表示した。
さっき映像を見た際、ミミに違和感を覚えた。カメラを窓際につるしたままなのではっきりしないが、ときおり体をびくっと動かし、首をきょろきょろさせていた。普段であれば、ホイールを回すか、飼育ケースの壁に貼りついているのかのどっちかだ。
ミュートを解除して、イヤホンをつける。
ざっざ、という雑音とともに、音声がクリアになっていく。カメラをズームアウトしていくと、部屋全体の姿が見えるようになった。部屋には異変がない。耳を澄ませるうちに、やがて聞こえてきた。
どん、どん、とドアをたたく音。
自室のドアが叩かれているにしては、音がこもっている。音量を上げて、耳に入ったイヤーピースを奥に押し込む。男の声がつづいて聞こえた。
(おい、いるんだろ)
また、ドアをたたく音。どうやら、この音に反応してミミが挙動不審に陥ったらしい。
こういうことが起きるのは、おそらく隣の部屋だ。ドアの前に立って、誰かが語りかけている。そして、そこにいる誰かを引っ張り出そうとしている。あの闇金だろうか。犬の死体を放り、窓ガラスを砕いた連中と同じだろうか。
男の声は、数週間前に聞いた声と同じ響きのように感じられた。
(さっきも言ったとおりさ、話があるんだよ。悪い話じゃないよ)
やわらかさとは無縁のねちっこい声質だ。ドアを突き破り、カメラに吸収されて、電波に乗せられた声だけを拾っているにもかかわらず、背筋を冷やす恐ろしさがあった。
イヤホンから吐き出される鈍く重い音が、鼓膜をかきまぜる。
どん、どん
(お兄さんたちは、君たちの敵じゃあないんだよ。俺たちは、貸したものを回収しなくちゃいけないが、無理やり奪おうなんて思っちゃいない。だから、早くこのドアを開けないか?)
まるで機械のように、延々と似た言葉を繰り返し、不規則なタイミングでドアを叩く。ずっと聞いているだけで頭がおかしくなりそうだと思った。
それから10分くらい、声と音が途切れることなくつづいた。俺が気づく前から行われていたことを考えると、もしかしたら30分程度やっていたのかもしれない。男の姿が映らないかとカメラのレンズを窓の向こうに動かしたが、なにも映ることはなかった。カメラの視界を通らずに行ってしまったのだろう。
スマホをしまった。そういえば、あの姉妹は普段どういう生活をしているんだ。高校生のはずだが、あんなことになってしまった以上、高校に行く余裕もないのか。
気分が悪くなった。仕事をさぼるわけにはいかないので自席に戻るも、呪詛のごとく一定の調子で耳をつついた男の声が脳裏を離れない。主のいない、ぽっかりした部屋のなかで、じんわりとねちっこい声色がふくらんでいくのを感じた。飼育ケースのなかでおびえていたミミの姿は、隣の部屋にいたかもしれない姉妹のありさまと重なっているのではないかという錯覚もあった。こうやって、昼休みが終わるのを待っている一秒の間に、少しずつ状況が悪化している。過去にかかわってこなかった二人だけれど、たまたま隣にいたというだけで見させられ、聞かされてきた数々の出来事を思い返すと胸に鋭い痛みが走った。
(赤の他人のあなたに、いったいなにがわかるんですか!)
今だって、まともに心を通わせていない。他人事でしかないと感じていて、にもかかわらず中途半端な言葉を吐いて、余計に苦しめてしまった。少し知ってしまったからって、勝手に同情しているのもエゴでしかない。俺は、あの二人を助けることができない。彼女たちを苦しめる元凶と戦うことができない。ただの会社員で、ただの一人の人間でしかない。
午後の仕事を乗り切って、帰路につく。余計なことを考えないようにしようと思った。
しかし、晩飯を食べ、シャワーを浴び、自室でのんびりしていたところだった。
急にインターホンが鳴った。時計を見ると午後10時を過ぎていたし、あんまり出たくはなかったけれど、無視するわけにもいかず応答した。
「……はい」
「夜分遅くにすみません。妹を見ませんでしたか?」
声からして平川実里だろう。意気消沈したような声色だった。
「見てないけど、なにかあったの?」
「普段であれば家にいるはずなのに、いないんです。電話してもつながらないし、どこに行ったか全然わからなくて……」
「なるほど」
数秒程度、迷った。それでも俺は、突っ返すような真似はできなかった。
「今出る。詳しく教えてくれ」




