第七話 拒絶
それから数日間、異変はなく、いつもの日常に戻った。ただし、平川晴香から、俺に声をかけることはなくなり、すれちがっても会釈をされるだけだった。割られた窓ガラスは、翌日に修繕されたが、おそらく敷金から支払われたのではないだろうか。
ペットカメラで録画した映像は、その日、帰ってすぐに確認した。事前にカメラの方向を窓の外に向けていたおかげで、窓ガラスが割れた瞬間の映像もきちんと記録されていた。
窓ガラスが割れる寸前、アパートと道路を隔てるブロック塀の上部に人の姿があった。しかし、顔全体が映っているシーンは一度もなく、マスクをつけ、帽子をかぶっていた。男であることはわかったが、顔の識別は非常に難しい。
二度にわたって石を投げつけたあと、すぐに踵を返して逃げ去っていた。おそらく、窓が割れたことに気づいてすぐに追いかけたとしても、追いつけなかっただろう。犬の死体といい、窓ガラスといい、ギリギリ捕まらない線をたどっているように感じられた。
このままの状態がつづくと、よくないことが起こりうる。
そして、そういう予感のほうが当たりやすかったりもする。
* * *
夜10時。仕事帰り、神田駅前の本屋に寄った俺は、漫画を数冊購入した。最近、社会問題を取り扱う青年漫画にはまっていて、その発売日が重なっていた。神田駅の周辺は飲み屋が立ち並んでいる。会社員や大学生と思しき人たちが淡い光に集って騒々しかった。
家に戻るために大通りを進んでいると、横道から見覚えのある女の子が近づいてきた。
「え」
すぐに、向こうも俺に気が付いた。そこにいたのは、平川実里だった。
白いコートと、膝丈より短いスカートを身にまとっている。以前に見たときと違い、顔に化粧が施されているのがわかった。
まずい、と思ったのがバレバレなくらいに、焦った表情。そして、平川実里の後ろに立つガタイの大きい男が、親しげに肩を叩いて言った。
「じゃ、次はお店でね」
俺を一瞥したのち、飲み屋街に消えていく。平川実里は、男の消えていったほうに視線を向けたまま立ち止まっていた。あるいは、俺から視線をそらして、俺が立ち去るのを待っているようにも見えた。
困惑していると、道の途中で止まった俺に酔っ払いがぶつかった。よろけて、足が勝手に平川実里のそばに向かって行ってしまう。
「その……」
話しかけないわけにもいかずに声を出したが、言葉にならない。
気づかないふりをあきらめたのか、平川実里も体を俺のほうに向けた。
「今見たことは、誰にも言わないでください」
すでに、ある程度の察しはついていた。ため息がこぼれ出た。
「いろいろあるんです。お金はどうしても必要で、たぶん、わたしにできることはこれくらいのことだから。でも、妹には心配かけたくないんです」
「さっきのは?」
「お店の人です。面接をお願いしたんです」
男の消えていったほうには、そういったお店がいくつかある。彼女の容姿を考慮すると、採用されないなんてことはまずないだろうと思えた。
「悪くなさそうな人でした。話している分には、穏やかだし、優しいし。だから、たぶん大丈夫だと思います」
その口ぶりとは裏腹に、声は震えていた。
「気にしないでください……。では……」
俺の横を足早に通り過ぎていく。俺はあわてて「待って」と言いながら追いかけた。
しかし、止まってくれない。俺も早足になりながら、言葉をつづけた。
「なんでわざわざ危険な道を進むんだ。ほかにも手段はあるはずだ」
「……」
「あくまで、あれは親の、だろう? 君たちがなにかをする必要なんてない」
「……っ」
「ほんとに、これは君の意志なのか。誰かに誘導されているんじゃないか。そうでなければ、こんなの、おかしいじゃないか」
「……うるさい」
ようやく聞こえてきたのは、苛立ちまじりの低い声だった。
振り向いた彼女の口は、斜めに歪んでいる。呼吸がうまくできないのか、肩で息をしているような状態だった。その剣幕に俺は気圧されてしまう。
「赤の他人のあなたに、いったいなにがわかるんですか!」
化粧した顔をくしゃくしゃにして、俺をにらみつけている。
「他にどうしろって言うんですか? ほんとに、どうにかできると思ってるんですか? 私だってなにも考えないわけじゃないんです! 何時間も、毎日毎日悩んで、それでもどうしようもなくて……そんな気持ち、あなたには絶対にわからないでしょう。ちょっとわたしよりも年上だからって、偉そうに言わないでください!」
通りすぎる人たちの注目を集めてしまう。そこで、平川実里はぐっと飲みこんだ。
声が途切れて興味を失ったのか、周囲の人はすぐに歩きはじめる。ひびの入った電球みたいに、白目に赤い線がいくつも走っていた。いつぞやに見た妹の目と同じだと思った。
「ごめん」
「……いえ、大声を出してすみませんでした。尼子さん、でしたっけ。あなたの考えていることは勘違いです。今の人はただの知り合いです。なにも危険なことはないしやけになってもいないです。だから、わたしたちのことは気にしないでください」
一息で吐き切るようにそう言った。
それからくるっと半回転して、少し駆け足で家の方角に行ってしまった。
心配だが、あのような言われ方をした以上、深入りすることが難しい。思わぬところで出くわして、考えながら言葉を発する余裕がなかった。
果たして、継続する嫌がらせと今回のことは無関係だろうか。残念ながら、そう思えない。
俺の予想が正しければ、嫌がらせを行っている連中の意図通りに事が進んでいる。飴と鞭によって、彼らに望ましい方向に誘導されているのではないかと感じられた。
俺も遅れてアパートに帰ると、なぜか先に戻っていたはずの平川実里が部屋の前で立ち尽くしているのが目に入った。隣には、晴香の姿もあり、誰かと話している様子だ。先ほど揉めたばかりで、顔を合わせるのが気まずい。部屋に戻りたかったので、極力そちらを見ないようにしてドアの前に向かった。
「そんなこと言われても知らんよ。無理なもんは無理だ」
耳をふさいでいるわけじゃないので、声が聞こえてくる。すぐにわかった。このアパートの大家の爺さんだ。すでに、どういう話をしているか察しがついてしまう。
「わしが契約しているのはおまえたちの両親。なにかあっても、おまえらじゃ責任をとれないだろうが。大変らしいが、ワガママを聞くわけにはいかないな」
あの爺さんがこの状況を看過するわけがなかった。冷たい印象のある人で、挨拶しても無視されることがあった。どれだけ苦境を訴えたところで、考えを変えさせることはできない。
「でも……」
「でもじゃない。法律の問題だ。いいから、さっさと出てっておくれ」
やがて、三人とも俺に気づく。大家の爺さんは、俺を一瞥してからその場を去った。平川実里も俺と顔を合わせたくなかったのか、さっさと部屋に隠れてしまった。
鍵を開ける俺のそばで、平川晴香が呆然と立っている。そして、声をかけてきた。
「あの……」
無視するわけにもいかず、首を動かした。
「あの、あの……。わたしたちの両親が、どこにいるか知りませんか……?」
「なにを言ってるんだ」
「どこかに、いるはずなんです。必ず、どこかにいるんです。だから、探して見つけないといけなくて……」
「俺は警察じゃない。警察にできないことが、俺にできるはずがないだろ?」
「はい。わかってます……」
目の焦点が合っていない。体が小刻みに震えていた。直面している現実に心が追いついていないようだった。
でも、俺になにができる?
慰めの言葉をかけることか。きっと見つかると、なんの足しにもならない希望をちらつかせることか。すぐにバレるかもしれない今日の出来事を教えて、余計な火種を持ち込むことか。隣に住んでいるだけの俺には、彼女たちの抱えている重荷をしょいこむことはできない。
それが、今日、平川実里に言われたことだ。
「わたしたち、どうしてこんな目に遭うんでしょうか。悪いことなんか、なんにもしてない。両親が戻ってきさえすれば、どうにでもなる話だと思うんです。みんなみんな、わたしたちを責めるけど、わたしたちに言われても……」
俺は、目をそらした。
「君の言いたいことはわかる。でも、現実は現実だ。戻ってくるかもわからない両親を待つよりもするべきことは他にあると思う」
「は、い……」
「じゃ、俺はこれで」
部屋に入る。ドアを閉めて、背中をもたれさせた。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。今のまま、なにもしないままでいいのか。かといって、どうすればいいのかもわからない。
その日、寝静まる時間帯、隣の部屋から壁越しに言い争う声が聞こえた。大家と話しているときに、平川実里は化粧を落としていなかった。わざわざ俺が話さずとも、そこから今日彼女がしていたことを妹にも知られてしまったのだろう。
音に敏感なミミは、不安そうに飼育ケースのなかで右往左往していた。一時間くらいで、隣の喧騒は収まり、水を打ったような静けさが辺りを包んだ。今日見た二人の別々の表情が、かわるがわる脳裏に浮かんでは消えていった。