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第六話 三つ編みの少女

 おやすみなさい、とだけつぶやいて、二人は部屋に入ってしまった。俺は、額を手で覆いながらドアを開けた。


 つけっぱなしの蛍光灯がまぶしくて目を細める。いつもであれば、まっさきにミミの様子を確認するが、そんな気にもならなかった。鞄を放って、ベッドに倒れこむ。急に、脳裏に浮かびあがってきた光景があった。小さいころ、俺がまだ8歳のときに見た幼馴染の女の子の姿。常に両サイドを三つ編みにしていたその子は、その日だけ髪を結ばずにわんわんと泣いていた。離れたくないと言っていた彼女に、結局、二度と会うことはなかった。


 こんな小さいころのことを鮮明に覚えているあたり、きっと自分のトラウマなんだろう。


 あの姉妹と顔立ちが似ているわけでも、シチュエーションが重なるわけでもないのに、妙に心に引っかかる。あと少しリミッターが外れれば、もっと深入りするところだった。


 飯を食い、シャワーを浴びたところで、気持ちが落ちついてくる。スマホで最近始めたばかりのソシャゲを遊んでいるうちに、深夜0時を回っていた。


 そろそろ寝ようと、スマホを充電器につなぐ。電気を消すために壁際に移動した。スイッチを押すと部屋が暗くなり、ミミの入っている飼育ケースから、がん、と音が鳴った。同じような時間に電気を切っているが、毎回驚くらしい。ベッドに潜り、目を閉じるとすぐに眠気が襲ってきた。


 夜行性のハムスターは、昼よりも今のほうが活発的に動く。サイレントホイールにしているから大きくはないが、人によっては気になるほどの物音だろう。薄壁のせいで隣室にも聞こえていたら申し訳ないなと思う。


 意識が遠のいていく。体から力が抜けていく。


 砂漠に立ちのぼる陽炎のようなゆらめきが、脳裏に広がっていた。サイレントホイールを回す、小さな洗濯機のような音が陽炎に絡まる。それはやがて、記憶を巻き戻すトリガーとなり、奥底にしまいこんでいた光景を引っ張り出す形となった。


 黄色いTシャツを着て、鍋で煮込まれているかのごとき暑さに見舞われている。手が小さく、脚は短く、目線が低い。ミニサイズの自分の体を見下ろしている。裸足のまま靴を履いていて、その後ろをかかとでつぶしていた。青地に白のラインが入ったアシックスだ。ぐるっと周囲を見渡して、どうやらここが公園のなかだということがわかった。


 水飲み場の蛇口が開けっ放しなのか、ちろちろ、水が垂れている。おぼつかない足取りで向かうと、自然と靴が脱げて、排水溝の網のうえに足の裏がぴたりと貼りついた。頭から水をかぶると、徐々にうだるような暑さが解消されていく。視界にこびりつくゆらめきも、薄まっていくのを感じた。


 ――ねえ


 そのとき、呼びかける声が聞こえた。靴を履こうと思うが見当たらない。諦めて、そのまま振り返った。


 三つ編みの女の子。なにが楽しいのか、満面の笑みを浮かべていた。なにか返そうと思うが、頭のなかが靄で覆われていて、うまく言葉にならなかった。


 つづけて言う。


 ――今日、アサガオが咲いたよ


 アシックスの靴はいつのまにか、数メートル離れた滑り台の下に転がっていた。しかし、彼女を放って拾いに行くよりも、話を聞いたほうがいい気がした。


 ――あとね、冷蔵庫の氷をこっそり食べちゃった


 うなずく。


 ――かき氷を作るアレ、このまえ落として壊しちゃったから、あきらめた

 ――あーあ、もう夏休みが終わっちゃいそう

 ――遊ぼうよ


 また、うなずく。手を引っ張られてしまったので、靴を放置するしかなかった。不思議と、砂利を踏んでも全く痛くない。公園を出て、懐かしい街並みを縫うように進んでいく。


 駄菓子屋のまえを通りかかると、シャーベットを食べたくなる。ピアノ教室を視界の隅に見かけると、こっそり耳を澄ましたくなる。通学路を横切ると、小学校に通っていたころを思い出す。


 プリズムに光を通したみたいに、あちこちの景色が輝いていた。人の気配はなく、色とりどりの光景が周囲を覆っていた。


 やがて、三つ編みの女の子が止まった。どうしたの、と声を出そうとしてまた失敗する。


 喉につかえる理由は、女の子の名前が分からなくなってしまったからだと気づいた。


 隣り合ってガードレールにもたれかかる。空は、底が見えないくらい青かった。


 ――学校なんか始まらなきゃいいのにね


 女の子は、足元に生えていたタンポポの茎を抜いて、綿毛に息を吹きかける。


 緩やかに中空へと広がった。その綿毛の動向を追っているうちに、時間の流れが遅くなるのを感じた。飛んでいく様だけでなく、一つ一つの綿毛が回転している姿まで見えた。スローモーションの世界は、徐々に完全な静止状態へと移行する。


 まるで、自分一人が取り残されてしまったかのようだった。


 妙な浮遊感を感じていると、耳が遠くなり、視界が狭まっていった。

 そして、さっきまで見ていた光景が、粉々に砕け散っていく。



* * *


 パリン、と大きな音を立てて、現実世界が俺の知覚範囲に戻ってきた。酒を飲んでもいないのに視界がぐらつく。そして、もう一回、パリン、と大きな音がした。


「え!?」


 驚き、体が大きく跳ねて、寝ぼけていた頭が一気に覚醒する。


「な、なんだ?」


 ベッドに寝転がっていた体を起こして、部屋を見渡す。異変はない。


 あの音は、外から響いているような気がした。カーテンを開けて、窓の外に目を向ける


 カーテンレールに引っかかっていたコードをずらして窓を開けると、冷気が飛び込んでくる。すでに日が昇っている。感覚的に、普段起きるよりも一時間程度早そうだ。


 以前、犬の死体が放られていた場所には、それに近いものは転がっていない。しかし、すぐに俺は異変に気がついた。


 雑草がちらちらと光っているように見えた。うまくピントがあわず、目を細めて凝視して、その正体が何なのかを理解した。


 ガラスだ。


 さっきの音を踏まえて考えると嫌な予感がする。窓から身を乗り出して、隣の部屋の窓を見て、そのガラスが割られていることを視認した。


 ――音の正体はこれか。


 音は一回ではなく、二回だった。そして、ガラスを割ったであろうものはこの周辺には見つからない。もしかしたら、ガラスを突き破ったのかもしれない。人が入れる大きさではないから、人が侵入したわけではなく、石かなにかを投げ込まれた可能性が高い。


 俺はコートだけ着て、外に出た。すると、ちょうど平川姉妹と出くわす。


「あ……」


 気まずそうに二人が目をそらした。見る限り、どうやら怪我はないようだ。


 なにがあったかを問いただすと、俺の予想通りに石が2つ投げ込まれたらしい。パニックになり、外に飛び出したとのことだった。


「……ごめんなさい」


 平川晴香は、少し充血した目でそうつぶやいた。おそらく、トラブルに巻き込んでしまったことを申し訳なく思っているのだろう。


「いや、悪いのは割った人間だろう」

「もともとの要因は、うちですから……。しかもこんなに朝早くに……」

「そんなこと言っている場合じゃないだろ。これは警察を呼ぶ必要がある」

「はい……」


 そこで、すぐに犯人を捜さなかったことを後悔した。すでに遠くに逃げてしまっているかもしれない。犬の死体と同一犯かわからないが、捕まえない限り状況は好転しない。


 警察に電話するとすぐに駆けつけてくれた。しかし、簡単に事情を確認したのち、被害届を出すかどうかを確認されただけだった。このような事件では、現行犯でないと捜査は難しいらしい。結局、ろくなこともできずに出勤時間になってしまった。


「わたしたちのことは気にしないでください」


 姉――平川実里が、なんの表情も浮かべず、淡々とそう言い放った。心配そうに見上げる妹の姿など見えないような様子で、心の壁を強固に守っている印象があった。


 仕事をさぼるわけにもいかず、着替えて会社に向かった。テレワークの浸透が進んでいないことを苦々しく思った。


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