エピローグ
東京に戻ると、いつもの生活が待っていた。日付が切り替わったら平日だ。
「で、どうだったの? 『はるか』ちゃんとの旅行は?」
こちらを見もせずに、キーボードを高速で叩きながら中嶋さんが訊いてきた。昼休みのフロアに、煌々とパソコンの画面が灯っている。
「なんで、そうなるんですか? 高校の友人と行ったんです」
「じゃあ、高校の友人が『はるか』ちゃんなのかしら」
ああ言えばこう言う。ちなみに、高校の友人だけでなく、晴香も一緒だったので、どちらも間違いではない。中嶋さんは、サラダパンをくわえながら、どこに行ったのか訊いてきた。
「福岡です。生まれがそこらへんなので」
「実家に帰ったの?」
「……そんなところです」
帰っていないと言うと怪しまれるので、そう答えるしかなかった。
日が暮れるまで仕事をしたあとに、瀬尾からミミを回収した。きっちり面倒を見てくれたらしく、元気に飼育ケース内を動いていた。
「感謝しろよ。あと、ハムスターをどこで買ったのか教えてくれ」
「……ハムスターの良さに目覚めたか」
同志が増えるのはいいことである。うちに戻ってきたミミは、再びの変化に戸惑っている様子だったが、すぐに元の環境に順応した。
「ミミちゃんに、わたしがえさをあげてもいいですか?」
晴香が、三日ぶりのミミに興奮している様子だった。実里も飼育ケースの前にしゃがみこんで、エサをむさぼるミミを観察していた。テーブルのうえには、食べ終わって、空になった皿がいくつも並んでいる。
「口が小刻みに動いていてかわいいですね」
実里の言葉に俺はうなずく。ミミがいなければ救えなかったかもしれないことを考えると、ミミには感謝しかないなと改めて思った。
福岡への旅を終えても、俺たちの関係に大きな変化はなかった。あの告白に対する返答は、まだしていない。どうすればいいのかは、これからじっくり考えなければならない。
いろんなことがあったあの旅から無事に帰った日常が、非常に尊く感じられた。
* * *
夏が過ぎ、秋を通り、冬を越えて、また春へと至る。時の流れというのは、残酷なくらいに速いのだと改めて思い知らされる。桜の花が散り、緑の葉をつけて、やがてその葉を落とし、枝が外気にさらされても、また芽をふくらませて再び鮮やかな花を身につける。ずっと見上げていると上下が分からなくなるほど澄んだ青空に、ツグミが羽を広げていた。取り残されたみたいに回っていたが、やがて行き先を見つけたらしく、北のほうへと飛んで行ってしまった。
俺は、普段は着ないスーツをまとって、歩道の端に立っていた。ポケットに手を入れて、かすかに聞こえてくる歌声に耳を澄ます。張りつめた涼しい空気を吸い込み、やがてにぎやかな声とともに人波があふれでてくるのを黙って見つめていた。
――これでは、ただの怪しい人だな。
自嘲気味に笑う。俺の視線の先には、積み上げられたレンガで作られた塀と解放された門扉と、縦に長い立て看板が存在していた。その立て看板には、「卒業証書授与式」という言葉が記載されていた。
姉妹の通う高校の卒業式である。実里が卒業し、晴香が二年生として卒業生を送る。式を終えたばかりの生徒やその家族が、様々な表情を顔に貼りつけながら話している。
正門の周囲には、同じ制服を着た生徒たちがたくさんいた。あのなかに、実里や晴香もいるのだろうけど、どこにいるのか見当もつかない。しれっと中に入ってしまえばいいかもしれないが、そんな勇気はない。ほかの人間以外がテリトリーとしている場所に足を踏み入れるのは妙な罪悪感がある。学生時代に、別のクラスに入ることに心理的抵抗があるのと同じだ。
桜の木が、校舎につづく道のりに沿って植えられている。今日初めて訪れた場所だけど、その美しい光景に目を奪われた。ゆっくりと時間が過ぎていくのを、桜の花びら一つ一つが緩やかに落ちる様に重ねて、緊張がほぐれるのを感じていた。
卒業式に来てほしいと、頼んできたのは実里だった。
(尼子さんのおかげで迎えられるんです。絶対に、その姿を見てほしいです)
もちろん平日なので、わざわざ有休を取得した。自分にとっても大きな一日だし、実里に頼まれた時点で行くと決めた。スーツをクリーニングに出し、ネクタイを結ぶことに苦戦し、地図とにらめっこしながらここまでやってきた。
自分の卒業式の記憶は、あまりない。母親との仲が悪いまま迎えたから、いい思い出がなく、無意識にその記憶を抹消してしまったのだと思う。だから、うれしい気持ちを抱えながらこの日を迎えられたことが非常に感慨深かった。
スマホをつけると、一通のメッセ―ジ。返そうとしたところで、急に横から声をかけられた。
「尼子さん」
フリックの手を止めると、すぐそばに晴香が立っていた。紺色のブレザーを身にまとい、楽しそうに笑いながら俺を見上げている。
「ほんとにスーツで来たんですね。正直、あんまり似合わないですけど」
スタイルがよくないと、スーツはあまり似合わない。自分でもわかっていたことだったが、改めて言われるとがっくりきてしまう。
「そこは、お世辞でもかっこいいって言ってくれ」
「うーん。でも、似合わないものは似合わないので仕方ないです」
卒業式は終わったばかりで、まだ余韻に浸っている生徒たちが多い。おそらく写真撮影やら、男女のアレコレで盛り上がっているのだろう。仲のいい先輩もいただろうに、こっちに来ていいのか尋ねると、晴香は瞬きをして、俺の腕をポンポンと叩いた。
「尼子さんは一人で寂しくしているだろうから、抜け出してきたんですよ」
ありがたい心遣いだ。
「そりゃ、おまえたち以外に知り合いなんて一人もいないからな」
「だからってこんなところにいなくてもいいじゃないですか。探すのに苦労しました」
「さすがに中に入るのは気が引けるんでね」
「卒業生の兄弟や親戚のふりして、素知らぬ顔で歩いていればバレませんよ」
「おまえたちに話しかけられたとき、周囲のお友達にどう関係を伝えればいいかわからん」
もしかしたら、仲のいい友人に家族構成を明かしているかもしれない。そうなった場合、矛盾が生じないように会話をするのは困難だ。ろくなことにならないのは目に見えている。
「そこはうまくごまかしますよ」
「どうやって?」
「顔の似ていない親戚のお兄さん」
「そんな人間がわざわざ卒業式に来るのか?」
「たまたま出会って仲良くなったとか」
「考えうる最悪の表現じゃないか……」
後者に至っては、あながち間違いじゃないのが恐ろしい。さらに晴香は爆弾を放り投げる。
「じゃ、姉さんの恋人になる人」
「……おいおい、あんまり余計なことを言うな」
きょろきょろ周囲を見渡していると、晴香がクスクス笑った。
「でも、事実でしょ?」
俺は否定できなかった。
……福岡のホテルで、実里からあの言葉を受け取って一週間後。俺は、実里に言った。
(その、いったん、高校を卒業してから、というのは、ダメ、だろうか)
実里は、一瞬、なんのことか考える仕草をした。それから合点がいったというように、ああ、と声を出した。
(ああ、ってなんだよ。こっちは真剣に考えていたんだぞ)
(ごめんなさい。急で驚いてしまって……)
(いやいや、わかるだろ。この話をするのも遅すぎたくらいだ。それに、言ってきたのはそっちじゃないか)
(そのまえからバレていると思っていたので、返事を求めていたつもりではなかったんです)
恥ずかしそうに実里は笑った。確かにそんな雰囲気はあったが、あんなにはっきりと気持ちを伝えられるとは思っていなかった。
結局、俺の言葉通り、高校卒業を待ってから改めて気持ちを確認するということになった。そして、今日が、まさにその日なのである。
「実里は、もう忘れているかもしれない。あれからその話題になることはなかったからな」
すると、晴香がジト目で俺を見てきた。大きなため息をついている。
「まあいいです。あ、ちょうど姉さんが近づいてきましたね」
「え?」
晴香の指さすほうには、黒の丸筒を手に携えて、友人らしき女子生徒と談笑しながら歩いている実里の姿があった。その顔に涙はなく、晴れやかな表情を浮かべている。
実里は、無事に大学受験を終えた。4月からは大学生になる。その表情は、新たな階段を上ることのできる喜びによるものなのかもしれない。
「ほら、尼子さん」
背中を押される。俺の足は一歩だけ、敷地のなかに踏み入れてしまった。
ざっ、と足音が小さく響く。足元に桜の花びらが点々と散らばっていた。
顔を上げる。
実里も俺に気づいたらしく、会話をやめて、俺の姿を真正面から見つめていた。
そして、さっきまで楽しそうに笑っていた実里の表情がゆがむ。
眉を曲げて、引き結ばれていた唇が波打つように動く。降り注ぐ日差しが眩しいのか、それとも別の理由か、目を細めて、手に持った丸筒を胸の前にぎゅっと握りしめていた。
――そうか。
俺は、かつての実里の言葉を思い返していた。
(わたしはここで、過去を断ち切って、前に進むことができる)
(そして、それこそが、尼子さんに助けられたという証明なんです)
ようやく、本当の意味で理解できた気がする。
立ち止まっていた実里の体が前に傾いた。
駆け足になり、桜が舞うなかを、まっすぐ進んでくる。
どんどん近づいてくる実里に、俺はなんて声をかければいいか迷っていた。
いろんな感情がせめぎあって、整理できないのは俺も同じだ。
一年以上も、家族同然に過ごして、少しずつ俺のなかでもその存在が深く根を下ろすようになった。
心臓の鼓動が速くなる。
全身に伝わる脈動が、じわじわと皮膚をおしあげている。
いくつもの言葉が巡るなか、俺は、強引にそのなかの一つを拾い上げた。
無難に、卒業おめでとうと言おうとした矢先、俺の視界がなにかに覆われる。
実里の唇が、そんな言葉を発そうとした俺の唇に強く押しつけられていた。
……きっと俺たちは幸せになる。
暗い過去を乗り越えて、新しい未来に向かって、自信をもって進んでいくことができる。
そして、最近買ったスマホで、たどたどしく文字を打っただろうあの人に対しても、きっとなんの皮肉もなく、堂々とその姿を見せることができる。
そんな未来予想図を脳内に思い描きながら、唇の感触を喜びの感情とともに受け入れていた。
《完》
これにて、完結となります。
ここまでお読みいただいた読者の皆様には感謝しかありません。
ウェブ小説のいいところは、読者の方の反応をダイレクトに受け取ることができることだなと改めて思いました。
皆さんがいたからこそ、最後まで書くことができたのだと確信しています。
本当に、どうもありがとうございました。




