第五十話 親子
――あの子は。結局よそ者なんよ。
――もともと、このへんには住んどらんかったやけん、うちらとは無関係や。だから、うちは、たまたま、ひどか災難に遭わされただけや
10年ほど前のおふくろの言葉は、未だに俺のなかに根づいている。当時、俺はショックを受けて、おふくろとうまく接することができなくなった。
災難なんて言葉で片づけてほしくなかった。故郷とそれ以外で線を引いて、線の外の出来事として切り捨ててほしくなかった。俺にとっては、なによりも忘れがたい記憶だったし、両親にとってもそうだと疑っていなかったから、突き放した言い方に納得がいかなかった。
* * *
今の俺の前には、おふくろが立っている。まだ黒髪の混ざっていた当時と違い、髪は真っ白になっていた。不機嫌そうな表情が貼りついていた顔には、しわばかりが目立ち、負の感情が入り込めないくらい弱っているように見えた。背中が丸まっているせいか、身長もだいぶ低く感じられる。
木製の杖が、おふくろの体重をうけて左右に揺れていた。今にも倒れてしまうんじゃないかという気がした。
――親父はどこだ?
周囲を見渡す。一目見ただけでわかった。おふくろが一人でここに来られるわけがない。
やがて、奥のほうから親父の姿も現れた。先におふくろを降ろして、車を停めていたのかもしれない。親父も俺の姿に気づいて、驚いたように目を見開いた。
「……あの、尼子さん?」「どうしたんですか?」
硬直した俺に、実里と晴香が戸惑っている。親父とおふくろは、俺たちの前に並んで立っていた。気まずさのあまり黙っていると、やがて親父が言った。
「日にちが日にちだから、こういうこともあるか」
正直なところ、親父と直接会うのも数年ぶりだ。親父はあまり変わっていないけれど、どのようなことを話せばいいかわからなくなってしまう。
「陽介。そちらは?」
まずい、どうやってごまかせばいい。前の二人が両親であることを姉妹にこっそり告げた。
すると、肥後が前に出てきてくれる。
「あんまりお会いしたことはなかったと思いますが、陽介君の友人の肥後です。僕は今、探偵業をやっていて、この二人はその職員です。話の流れで、お墓参りに同行してもらうことになりました」
職員にしては若いが、暗さのおかげか親父は納得したようだった。姉妹も、職員のふりをして会釈をした。
霊園には、俺たち以外に人の姿がない。静かだった。風が鼓膜に触れる音も、自分の鼻から吐き出される息も、すべてが静けさのなかに浮かびあがっていた。急に訪れた両親をまえに、俺の思考回路がショートを起こしている。かつて一緒に暮らし、たくさん話をしてきたはずのおふくろとどう接していたのかわからない。
おふくろは、表情一つ変えずに、杖に寄りかかりながら立っているだけだった。俺の後ろに立つ姉妹や肥後に目もくれず、俺の顔だけを真正面に見つめている。その視線にどう映っているのかが怖くなり、俺は親父に向けて言った。
「……なんでここに来たの?」
「なんでもなにもないだろう。俺たちだって、あの子に会う権利がある」
親父が墓の前に行きたがったので道を譲ると、おふくろも親父につづいた。数珠を手に持ちながら、しばらく黙祷をした。目を開けた親父は、大きく息を吐きながら空を見あげる。
「あれから、ずいぶんと経ったな……」
親父の来ているジャケットの胸ポケットには、煙草のケースが入っていない。過去に俺と来ていたときは、必ずそこに入っていた。墓参りを終えて、車に戻るといつも煙草をふかしていたからだ。線香の匂いとはまったく違うのに、立ちのぼる煙が女の子を供養しているかのように感じていた。
俺の視線に気づいたのか、親父が胸ポケットを叩きながら笑う。
「おまえの言う通り、最近やめたんだ。もう、2か月つづいている」
「あんまり、煙草を吸わない親父の姿は想像つかない」
「自分でも信じられないくらいさ。でも、そのおかげか体の調子がいい」
そう言って、不安定なおふくろの体を支えている。親父がしっかりしているおかげで、おふくろも普段の生活を送れているのだろう。
「陽介は、いつこっちに来たんだ」
「金曜の夜に。実家に帰ろうとしたんじゃなくて、別の用があったんだ」
「それで、いつ東京に帰る?」
「……今日の夜の飛行機で発つよ。だから、もう少ししたらこの場を去らないといけない」
「そうか」
寂しげな表情が浮かんだ。もしかしたら、実家に連れ帰りたかったのかもしれない。
おふくろはいまだに言葉を発さない。俺のことを忘れてしまったような雰囲気さえあった。最後に交わした会話がろくでもなかったから、どこに糸口を見出せばいいのかわからなかった。
「雄介とはなにか話したのか?」
「お前も、実家に帰れってことだけだ。親父に聞いている以上の近況は聞いていない」
おふくろが足を悪くしたことや入退院を繰り返していることは知っている。実際、目の当たりにしているおふくろの姿は、その話と相違ないものだった。きっと少しずつ、なかにあった生命力や気力が失われていったのだと思う。抜け殻みたいにぼんやりとしていた。
親父はおふくろの腰に回した手をそっと押した。おふくろの左足は、数センチくらい、地面から離されていた。親父と同じく60過ぎくらいなのに、それ以上に老けている。目尻に力が入ったと思ったら、その口からようやく声が聞こえてきた。
「あんた、まだ、結婚しとらんのか?」
俺の左手に、指輪がはまっていないことを確認したらしい。久しぶりに聞くその声は、かつてよりもかすれていて、聞き取りづらかった。
「まぁ……」
「そ。遅れんうちに、結婚しんさい」
小さな体が翻った。そのまま去ろうとするおふくろを、あわてて親父が引き留めていた。
「母さん、せっかく会えたんだから」
「関係なか。帰る」
「陽介も、なにか話をしてやってくれないか。10分くらいなら、飛行機にも間に合うだろ」
俺は、その背中を見て、おふくろへのいろんな感情を思い起こしていた。
狭い世界に生き、狭い価値観のなかに閉じこもりつづけた。自分の考えだけが絶対で、他人の考えなんてまったく認めない。果てには、あのことでさえも、その理屈のなかに押し込めて話をした。そんなおふくろを見て、俺のなかでぷっつりと切れてしまった。
ずっと距離を置いて、話をすることを避けて、不意打ちのように発生した対面の場。
俺のなかにあるわだかまりは、消えないまま残っていた。いくらおふくろが年老いて弱ったとしても、自分のなかにあるそれが、俺の心を開かせようとはしなかった。
「帰りたいなら、帰らせればいいじゃないか」
ポケットに手を入れて、そう吐き捨てた。
「急にそんなこと言われても、話すことなんかなにもないよ。お互い望んでいないのに、わざわざ時間をとる必要はない」
羽虫が一匹、不規則に飛び回り、人工的な光がぽつぽつと灯るなかを駆け抜けて、再び夜闇に紛れていった。古いテレビのノイズみたいに、胸のうちをかきまわす。口が渇いて、空っぽになった肺を満たすかのように勝手に空気を吸いこんでしまう。
蝉の鳴き声や、風鈴の音を聞きながら、すぅっと体温を奪われたときの感覚が、背筋から手の先、足の先まで広がっていく。
俺は言った。
「今さら、ここに来てなにがしたい。俺が向こうにいたころは、来なかったくせに」
親父の車に乗って行くときは、二人きりか、雄介を加えた三人だけだった。もともと故郷を離れたがらない人だったから、日帰りでも遠出を嫌がった。お墓が引っ越されるまえも、自分から墓参りに行く姿を見なかった。
「あの場所で、ずっと引きこもっていればいいだろ。それがお望みのはずだ」
「陽介……」
憐れむように、親父が俺を見ている。言い過ぎたことには、自分でも気づいていた。
「……こんな感じで、無理に話そうとしても冷静になれない。勘弁してくれ」
小さいころから堆積して、こびりついてしまったもの。女の子に対する発言で固められてしまい、今さらそれを剥がすことはできない。
おふくろは、俺の言葉を小さな背中で受け止めていた。昔であれば顔を真っ赤にして怒るところだったが、微動だにせず、その場に立ち尽くしている。渦巻いているだろう強烈な感情に体が追いつかず、自分のなかで消化するしかないのだろうか。
やがて、おふくろが、ぼそりとつぶやいた。
「好きに言えばよか。あんたがそう思うなら、それでよか」
背中を向けたまま、もう俺の顔に目を向けようとしない。負の感情を一方的にぶつける形となり、もやもやが募った。反論してくれたほうがはるかにマシだった。
骨と皮同然の細くて小さな体。故郷にいたころはもっと大きく見えていた。体の横に添えられた手には、筋が出っ張るくらい肉付きがない。かつて、その手で髪の毛を切ってもらったこともあったが、今ではハサミ一つ持つこともかなわないんじゃないかという気がした。
親父が言った。
「……母さんだって、悩んでいないわけじゃないんだ」
他の墓に添えられた色とりどりの花が、風に揺られていた。
「地元を愛している気持ちやプライドが変にとらえられてしまうこともあるが、母さんだって人間だ。いつだって、そんな気持ちだけで成り立っているわけじゃない」
俺のなかのおふくろの記憶は、難しい顔をしたものばかりだ。当時はどうしてなのかわからなかったけど、そこに、俺と同じものが秘められていることは理解していた。
(俺はさ。ただ、小心者なんだよ)
気が小さくて、臆病で、思い切って踏み出すことができない。
おふくろが地元に固執するのは、外に出ることを恐れているからだ。そして、そんな臆病な自分が周囲からどう見られるかということにもおびえている。だから、壁を張って、周囲を威嚇するように気を立たせて、自分を保っていた。
「おまえが怒るのもわかる。でも、母さんのことを少しは許してやれないか?」
いつぞやに、雄介に言われたことと同じこと。とはいえ、自分のなかのわだかまりは、簡単に解消されるものじゃない。
わかっている、俺にもわかっている。
小さいころ、あの故郷で一緒に暮らしていたとき、俺のことを大事に思っていたことを知っている。怒っている姿だけでなく、笑っている姿だってたくさん見てきた。髪の毛をおかっぱにされることは嫌だったけど、髪の毛を切るときのおふくろは楽しそうで、そんなおふくろを見ること自体はそこまで嫌ではなかった。たまに機嫌がいいときは、やたらとくっつこうとするから暑苦しくて大変だった。
人間は完璧じゃない。おふくろには、おふくろのいいところがあることは理解している。
でも、一緒にいることが苦しかった。おふくろの考えについていくのが、無理だと感じてしまった。離れた場所で生活するようになって、あのおふくろの発言について考えることも減って、ずいぶんと気持ちが楽になったのは事実だった。
「あのことに苦しんだのは、みんな同じだ。そして、母さんにとっては、あの子よりもおまえのほうが大事だった。手放して、あんな姿で帰ってきたのを見たら、おまえのことを手放したくないと思うのは、無理からぬことだろう」
親父としては、当時、その状態を危惧していた。だからこそ、東京に出る手伝いをしてくれたわけだ。こんなにも長く、会わなくなるとは考えなかったのだと思う。
……一度だけ、おふくろの心情を想像したことがある。
地元から出る勇気のないまま大人になったおふくろにとって、あの出来事がどれだけの恐怖を与えたかは想像に難くない。地元の外には、悪意や害意がはびこっているという夢想までしていたのではないかという気がする。徐々に俺が成長するにつれて、故郷の外に出る可能性が増えてきて、それが恐ろしくなった。外の世界なんてろくでもないと伝えながら、懸命に俺を引き留めようとした。
だが、結果的に、あんな最低な言葉が紡がれてしまった。その言葉は、どうしようもないほどに溝を作り、今でさえも俺とおふくろの前に横たわっている。
「おまえのことを大事に思っていることは、今も昔も変わらない。だから、たまに帰って、顔を見せるくらいのことはしてくれないだろうか」
「……」
「ダメか?」
顔をうつむけて、自分の足元から伸びる影に意識を向けた。気持ちの整理ができなかった。折り合いをつけられるほどの感情じゃない。胸の内がざわめいて、理性よりも先に本能的な部分が拒絶してしまう。答えに窮していると、突然、影の先に立つおふくろが、声を発した。
「そげなもん、もうよか」
「あ……」
その言葉に、ふいに懐かしさと悲しさがこみあげてきた。いったい、何年ぶりに聞いただろう。当時とは全く異なる響きで、俺の耳朶を震わせていた。
つづけて言う。
「あんたの好きにすればよかよ」
そして、おふくろはおぼつかない足取りで去っていく。
すぐにでも倒れてしまいそうな儚い背中を見送る。
こんなにも遠く離れて、会話もしなかったのに、奥底にしまわれていたものが顔を出す。
月日が記憶を薄れさせ、過去を隅に追いやっても、消えてなくなることはない。
どこからか流れてきた赤い花びらが、ひらひらと俺の足元に舞い降りてきた。
俺は眼をつむり、黒く覆われたまぶたのうえに、在りし日の光景を思い浮かべていた。




