第四十九話 名前
周囲をぐるぐる走っていたらしい肥後に電話して、近くの場所で合流した。俺や姉妹の落ち着いた様子に、安堵した様子を見せていた。
「今回は、スムーズだったのかな」
実里も晴香も、無表情だった。緊張していたようだったから、やるべきことを終えて気が抜けている。
結局、俺たちは泣いている平川祐希や困惑しているおばあさんを置いてここまで戻ってきた。平川友治とは会わなかったし、お互いに笑顔で終えられたわけではない。しかし、必要だった区切りをしっかりとつけられたのだと俺も認識していた。
「……姉さんと、昨日、たくさん話をしたんです」
晴香が、顔を上に傾けながら、肩にかかったシートベルトを握っていた。
「自分たちにとって、なにが最良なんだろうと。自分たちが幸せになるために必要なことは、なんだろうって。遅くなりましたが、ようやく決められました」
「そうかい。それはよかった」
肥後も、うれしそうな顔をした。エンジンがかかり、車が発進する。立花町から遠ざかるにつれて、心を縛っていたものが緩んでいくような感じがあった。県道に戻ると、左右の建物がよく目に入るようになり、驚くほど周囲を見ている余裕がなかったのだと再確認した。それは姉妹も同じみたいで、初めて来た福岡を楽しむ気持ちが少しずつ芽生えたようだ。
「11時半だ。ご飯でも食べようか」
赤信号で車が停まっているときに、肥後が言った。俺も同調する。
「せっかくだし、美味いもん食わないとな。スマホで探してみる」
「頼んだ」
姉妹に食べたいものを訊くと、積極的に答えが返ってくる。ようやく旅行らしい雰囲気になり、車のなかに笑い声が響いた。
四人で話し合った結果、天神でごまさばを食べることとなった。混んでおり、行列を一時間程度並んでから椅子に着くことができた。
姉妹の評価はきわめて高かった。俺と肥後は何度か食べたことがあるけれど、姉妹にとっては初めての味だ。好き嫌いが分かれることもあるので不安だったが、ネット評価の高いところに行ったことも功を奏したのだろう。
帰りの飛行機は21時半くらいだから、時間にはまだ余裕がある。そこでようやく、スマホにメモした内容が役に立ち、いくつかの候補から海の中道に行くことにした。水族館や公園があり、日が暮れるまでの時間を楽しむのに最適だと判断した。
「ショーもやっているみたいですね!」
「うわ、サンゴ礁って書いてあります! すっごくきれいです」
二人とも、はしゃいでいた。この期に及んで、周囲から自分たちの関係がどう思われるのか気になった。兄妹とでも思ってくれればいいのだけど、そうなると二人が丁寧語で話していることが怪しくなる。
そんなことを姉妹にも言ったところ、二人はあっけらかんとこう返した。
「ダブルデートってことにすればいいんじゃないですか?」
頭を抱えたくなった。
日が傾きはじめたタイミングで、水族館を出た。このあとは夕飯でも食べて、早めに空港に向かったほうがいいだろう。
「もつ鍋がおいしいって聞きました。よかったら是非食べてみたいです」
「いいね。じゃあ、また探してみようか。な、尼子」
俺は、駐車場の途中で立ち止まった。涼しい風が背中から吹きつけていた。横並びの自動車のなかで、俺たちの乗ってきたワンボックスが赤い光にさらされている。
さっきからずっと迷っていたことがあった。自分のなかに心残りがあって、水族館の展示を楽しみながらも、そのことが頭から離れなかった。どうして昨日姉妹と話したときに、あの女の子のことを思い浮かべたのか、もう一つ理由があった。
「尼子さん……?」
心配そうに実里が問いかけてきた。俺は、意を決して前を向いた。
それから言う。
「どうしても、もうひとつだけ行きたいところがあるんだ。飯の後でいい」
姉妹は顔を見合わせる。その奥で、肥後が俺の顔をじっと見ながら尋ねてきた。
「もしかして――」
「違うんだ。そこじゃない」
故郷に戻りたいんじゃない。あそこに戻る決心なんて、まだつけられていない。
東京に来てから、何年経っただろうか。おふくろと疎遠になってから、記憶のなかに大事にしまったまま訪れることがなかった。だけど、福岡まで来た以上はどうしても行きたかった。
「そんなに時間はとらせない。申し訳ないが、付き合ってくれ」
俺は、肥後と姉妹にそう頼み込んだ。
* * *
女の子が亡くなったあと、故郷の霊園に骨をうずめたのち、親戚夫婦は、一度墓を引っ越しさせた。理由は二つある。一つは、夫婦の住む博多から故郷までのアクセスがあまりよくないせいで、墓の手入れを頻繁に行えないことを心苦しく思ったため。もう一つは、もともと祖父母のものだった墓に母親と女の子の骨を入れることになったことを受けて、新たに作り直したいと親戚夫婦が考えたからだ。
現在、女の子とその家族の墓は、博多の郊外にある。そこでなにか特別なことをしようなんて考えていない。墓石の前で手を合わせることができたら十分だと考えていた。
晩飯のあと、俺の要望通りに肥後が車を走らせてくれた。
「――尼子に、そういう過去があったんだね。これくらいはお安い御用だよ」
周囲は暗くなっている。渋滞していないので、墓参りをしてすぐ空港に戻れば、余裕をもって搭乗手続きが行える。にぎやかな街並みを過ぎて、目的地の霊園に至るまでの道のりを進むにつれ、きらびやかな光が少なくなってくる。俺は、窓の外を眺めながら頬杖をついていた。
「命日はもっと前だったけど、その女の子と別れた日が今日なんだ」
ずっと、後悔しつづけた日。何度も戻りたいと願ってやまなかった日。
ぐるぐると月日が回りつづけるなか、20回目のこの日を迎えた。遠ざかっていく女の子を目に焼きつけて、それから二度と元の姿で帰ってくることはなかった。未だに自分の傷跡となっているあの姿を、俺は繰り返し思い返していた。
「本当に久しぶりだ」
霊園が近づいてくると、俺の体が冷たくなっていくのを感じた。
もう何年も訪れていないのに、自然と足は正しい道を進んでいく。故郷にいたころは、この場所に何回訪れたかわからない。親父の車に乗ったり、電車を乗り継いだりして、時間を見つけてはここまでやってきたものだった。
洋型の、横に広い墓石の前に立った。竿石には、家族名が刻まれていて、その手前に横向きで霊標が建てられている。俺はひざまずいて、霊標に彫られた一つの名前を手でなぞった。
――萩尾小春
ずっと自分のなかで封印していたその名前が、はっきりと刻まれている。
「この方が……」
実里の声に、俺はうなずいた。
失ってしまった、大切だった女の子。もう会うことはできなくなってしまった少女。
今さら、ここに来たところでどうすることもできない。俺は大人になり、東京に移り、女の子とは縁もゆかりもない人たちとともに生きている。だから、こうやってお墓の前に来ることは、俺の自己満足でしかない。
俺は手を合わせて静かに目を閉じた。
いつも心のなかで話すことは同じだ。謝罪と感謝と、それから懐かしい日々のこと。
言葉が返ってくるわけはないと知りながら、いつも同じことを話してしまう。
ぐるぐるといつまでも同じところを回りつづけている。
……手を合わせて十秒くらいたったとき。
俺たちのいる方向に、一人分の足音が聞こえてきた。じゃり、じゃりと音を立てながら、驚くほどゆっくりとしたペースで歩んでいる。
その足音は、俺たちのいる場所へと近づいてきていた。
目を開けた。なにげなく足音のする方向を見た瞬間、俺の心臓が大きく跳ねた。
――なんで……。
そこには、自分の記憶よりもはるかに年老いた、よく知る人物がいた。背中を曲げ、杖をつきながら、震える体を懸命に進めて、やがて、女の子の墓石のそばで足を止めた。
どれだけ年老いても見間違えるわけがない。あれほど会うことを避けていた一人の姿が、街灯の光に照らされながらぼんやりと浮かびあがっていた。
――おふくろ
しゃがみこむ俺を驚いたように見つめながら、おふくろはそこに立っていた。
一陣の風が吹く。俺は、突然の事態に呆然として、しばらく動くことができなかった。
残りは長めの一話+エピローグのみです。
目標は、エピローグを日曜(22日)夜までに、と考えています。
残り2回の更新については、気長にお待ちいただけると幸いです。




