第四十八話 区切り
「でも、もうそれらの記憶は、過ぎ去ったものとして区切りをつけなければなりません。それこそが、わたしたちが前に進むために必要なんです」
平川祐希は、着ているブラウスの首元を握った。
「区切り……」
「そうです。戻ることのできない場所です」
福岡と東京という距離以上の隔たりが、厳然たる事実として存在している。俺たちも姉妹も、そのことを理解していた。
平川夫妻の行動によって、姉妹がどんな未来を歩む可能性があったか。どれだけ苦しい思いを抱くことになったか。そして、どちらもその責任をとる覚悟を持っておらず、赤の他人として突き放したり、中途半端な接し方で自分の罪から目線をそらしたりしている。夫婦が姉妹を裏切ったあの日、姉妹がどうなろうと、地獄のような目に逢おうと、自分たちが助かることを優先したときに、つながれていた糸はぷっつりと切れてしまった。
平川祐希には、親としての感情が残っているのかもしれない。しかし、謝罪の言葉を未だに発さず、自分を救う言葉が来るのを待っているだけの人間が抱く中途半端な感情は、姉妹にとっては毒でしかないのだと思う。
「本当に、本当に……あの日から、つらい思いをしました。あまりにも突然に起こったことだったから、ずっと信じられない気持ちがありました。実際に会ったときに、つい期待を残してしまうくらい、わたしにとっても大事な時間だったのだと思います。だからこうやって話すことでようやく、自分に存在した未練を認めることができました」
「でも……」
「でも、なんです? 逃げたことによって生じた責任すべてを負って、東京に戻ってくるのですか? そんなことをするつもりはありませんよね。借金の責任から逃げたように、わたしたちを裏切ったことに対する追及や罪悪感から、逃れたい気持ちしかありませんよね」
平川祐希の目からは涙がこぼれていた。口をおさえ、声をおさえながら、鼻をすすっていた。
実里は、そんな哀れな母親の姿を観察するように、じっと見つめていた。
「だから、わたしは心を決められました。ようやく未練を断ち切って、前を進むことができるんです。お母さん、わたしの言っている意味がわかりますか?」
そのとき、実里の視線が俺に移った。
「お母さんは訊かなかったけど、どうして、わたしや晴香が前に進めるかわかりますか?」
胸の底が、ぐるん、とひっくり返るような浮遊感を覚えた。実里の瞳には、薄く涙の膜が張られていて、そのさらに奥に俺自身の姿が映っていた。
窓からの光が、温度を持って古いテーブルを照らしている。
店内を流れる音楽が、俺の耳から遠ざかるのを感じた。
「ここにいる尼子さんに、暗闇の底から、手を引いてもらったからです」
そう言った。今日、あの言葉を発したときみたいに薄く笑いかけていた。
ふんわりとしなやかな感触で、その声が俺の耳に伝わってきた。
「苦しくても、悲しくても、ときに自分の気持ちに負けそうなときがあっても、いつもそばにいて、わたしたちを信頼しながら、助けてくれた人がいたから、こんな気持ちになれたんです」
長いまつげの動きも、唇の動きも、スローモーションみたいにゆっくり見えた。
その一挙手一投足に自分の視界が吸い寄せられていくように感じた。
「尼子さんは、同情やエゴではなく、自分のなかにあるものと戦いながら、わたしたちと向き合ってくれた。迷いながら、導いてくれた。一つ一つを積み上げて、形にしてくれた。だから、わたしはここで、過去を断ち切って、前に進むことができる。そして、それこそが、尼子さんに助けられたという証明なんです」
……実里とも晴香とも、たくさんたくさん話をした。くだらないことも、大事なことも、一つ一つをゆっくりと紡いできた。長い道のりを、手探りで歩いた。苦しみを分かちあい、涙を流しながら一緒にいて、最終的に笑いあうことができた。まだまだそんな時間を過ごしたいと考えているし、これからもそうしていくのだろうと思う。
実里は、視線を前に戻した。視線の先には、すすり泣いたままの平川祐希の姿がある。
「いろいろなことがあったけど、わたしたちはあなたたちが与えたものを乗り越えて、幸せになるための道を見つけることができたんです。もう、あなたたちを求めることはない。未来を目指して生きていくことができる。だから、さようなら、です」
そして、最後に頭を下げた。
「今までありがとうございました」
泣くことも、怒ることもなく、淡々とそう言い切っていた。
まだもう少し続きます。




