第四十七話 答え
姉妹も、俺と同じように平川祐希にじっとまなざしを注いでいる。視線を受けていることを平川祐希も気がついているはずだ。いったい、その視線の意味をどう捉えているのだろうか。矢面に立ったことで、許されようとしているのか。それとも、責められることが分かっていながら、すべてを聞こうと考えているのか。
どちらにせよ、罪悪感を受動的に解消しようとしているのだろう。
「おばあさんの話は、理解できました。ありがとうございます」
状況は理解できた。この人はまったく関係がない。この人と話をするのではなく、どうにかして平川祐希に口を開かせないといけない。それは俺も同じで、姉妹を助けた人間ではあるけれど、この先の話には本人同士で直接ぶつかる必要がある。
俺は、膠着状態がつづいてしまっている親子の姿を眺めた。視線を前に向けない平川祐希と、冷静な表情でそれを眺める姉妹。ここにかつて、家族同士としての温度が通っていたことが信じられなかった。
どうしようもないくらいに壊れてしまったものは修復できない。どんな関係が過去にあったとしても、どれだけの月日を費やして積みあげられたものでも、数か月の間に起こった出来事の重みが勝ってしまう。
最初に、言葉を発したのは実里だった。
「顔をあげてください」
平川祐希は、言われたとおりにゆっくりとその顔を持ちあげた。ようやく、その目が俺たちにも向けられる。すがるような目つきだった。
「わたしは、ずっといろいろ考えていました。自分のなかで決着をつけるためにどうするべきなのかを、何度も何度も……。昨日のこともあったし、自分の気持ちを整理しきれていなかったし、悩むことは多かったです」
丁寧語を崩さず、穏やかな表情を浮かべながら語りかけていた。かといって、昨日の父親のように突き放しているわけでもない。淡々と、その心の内をさらけ出しているように見えた。
「怒って、どれだけのことがあったかを説明して、あなたたちを苦しめればいいのでしょうか。実際、あなたたちを責めて、自分のなかにある感情をぶちまけることをよく想像しました。だけど、そんなことをしても現実は変わらないし、あなたたちが変わることもないだろうし、今までに抱えたいろんな感情がなくなるとも思えませんでした」
平川友治は、おそらくあの家にいたはずだ。それでもこの場にやってこなかったのは、もう会うことはないという意思表示なのだろう。夫婦それぞれの逃げかたが目の前に示されているけれど、どちらも本質に相違はない。正面から姉妹に向き合ってはいない。
「昨日も言ったように、わたしはあなたたちのことを許すことはできません」
平川祐希の背中が曲がった。乱れた長い髪が垂れさがっている。
「そして、これからもずっとそうです。もう二度と元の関係には戻れない。だから、あなたに会うことも、おそらく最後になります」
すがるような瞳から、力が失われていくのがわかった。
よく見ると、昨日よりも顔に疲れがあるようだ。目の下にはクマがあったし、頬も少しこけている。この人なりに悩んでいたのかもしれない。
昨日、姉妹と衝突したあとに、どんなことを考えたのだろう。
実里は、それでも話をつづける。
「今日会うことは、間違いなく必要だったのだと思います。だから、こうして話す場をもらえたことには感謝しています。ようやく、自分のなかで答えを出すことができました。このことは、ここに来るまえに晴香とも話したことだったんです」
コーヒーの香りが、鼻のなかをまさぐってくる。店内に流れる曲を聞いたことはなかったけれど、聞いていると気持ちが落ちついた。木目のはっきりしたテーブルに、球型の照明の光が当たっていた。
実里と晴香は、お互いの視線を通わせる。
そこに、もう迷いはもうないようだ。
しばらくの間をおいてから、実里は口を開く。
「未練を断ち切ることこそが、わたしたちに必要だったんです」
がちゃり、とカップが揺れる音がした。平川祐希の手が震え、力加減を間違えてしまったようだった。
「……未練って……」
ようやく紡がれた言葉は、か細くて、弱弱しいものだった。
「そんなことを、言わなくたって、いいじゃない……」
実里は、大きく首を振った。肩の力が抜けていくのがわかった。窓からの光に照らされながら、平川祐希の姿をまっすぐ見つめていた。
「わたしは覚えています。過去にあったいろんなことを、今でも鮮明に思い出すことができます。まだ三歳のときに、初めて海に行って、砂浜で、海が大きいことや冷たかったことを笑いながら話しました。五歳のとき、クリスマスプレゼントが思ったものじゃなくて、泣きじゃくったことがありました。十歳のときにわたしから初めて手作りのプレゼントを贈って、お母さんが泣いたときもありましたね。中学生になってからは、勉強を教えてもらったり、困ったことを相談したりもしました。たくさんの思い出があります。そのすべてを忘れることはできないのだと思います」
「……あったわ、わたしだって覚えてる」
それから、晴香のほうにも視線を向けた。
「実里だけじゃなくて、晴香のこともいっぱい覚えてることがある……。いつも泣いてばかりだったことも、成長して、わたしの家事を手伝ってくれるようになったことも……」
晴香は、一度目をつぶってから、また目を開けた。
「うん。お母さんが、一度手にけがをしたことがきっかけだったね。料理をほめてくれたのがうれしくて、徐々に作る回数が増えた」
「そうよ。子供の成長する姿は、なによりも喜ばしいことだったもの」
少しずつ、かつてそこに存在した関係性が浮かびあがってくるようだった。
いま語られていることだけでなく、ほかにもたくさんの記憶が眠っているのだろう。実里はおよそ16年間、晴香は15年間も一緒に暮らしていた。そこには悲しいことや苦しいことばかりではなく、楽しいこともたくさんあったはずだ。




