第四十六話 罪
車を停車させたところで、肥後が大きく息をついた。
また、八女市立花町に来ていた。昨日とは違って雨が降っていないから、周囲の光景がより明るく感じられる。水たまりが、道のあちこちにできていた。
「本当にいいのかい?」
サイドブレーキをかけて、エンジンを落とす。姉妹は、後部座席で顔を見合わせながらうなずいていた。実里が言う。
「大丈夫です」
「また、同じようなことになるかもしれない」
「それでもいいです。もう小細工はできないので、正面からぶつかるしかなくなりました」
「尼子も行くんだよね?」
「ああ」
「もう僕はいないほうがいいだろう。ここで待っているよ。車を動かした場合は、連絡する」
三人で車を降りて、路側帯に立った。空には綿雲が浮かんでいるくらいで、雨の降る気配は一切なかった。昨日、苦い気持ちで歩いた道を再度進んでいく。
また来ることを決めたのは、姉妹の意志によるものだった。あんなことがあったからこそ、ここで逃げてしまうと本当に話す機会を失ってしまいかねない。どんな結末になろうとも、最大限やれることをやりたいとのことだった。
(まだ、覚悟が足りていなかったんだと思います)
晴香は、落ち着いた様子でそう言っていた。実里も、力強くうなずいた。
(わたしたちのすべきことは終わっていません。そして、証明しなければならないんです)
平川夫妻と対面した場所にまでたどり着いた。角を曲がって10メートルくらいのところに、あのおばあさんの家がある。立ち止まって二人の顔を見た。
「尼子さん?」
後ろに立つ実里が、足を止めた俺を不思議そうに見返す。
「なんでもない。準備はいいか?」
「もちろんです」
つい、今朝のことが脳裏をよぎる。たった四文字の言葉が、ずっと頭のなかを回っていた。
(好きです)
結局、俺は、その言葉になにも返せていない。
角を曲がり、昨日と同じようにおばあさんの家のインターホンを押した。すると、ガタガタと物音がして、すぐにとある人物が出てきた。
「……あ」
細身の中年女性――平川祐希だった。インターホンを押してからすぐに出てきたようで、髪を乱したまま、引き戸に寄りかかるように立っていた。姉妹の顔をじっくりと見て、口を左右に伸ばしたり縮めたりしながら、苦しそうに胸を押さえていた。
平川祐希につづいて、おばあさんも姿を現した。
「……また……来ていただいてよかった」
玄関の傘立てには傘が三本刺さっていた。三和土には、男物の靴が一足残っている。
おばあさんは、俺たちの顔を見渡しながら言った。
「すべてを聞けたわけではないけど、ある程度はお聞きしました。お話をさせてください」
俺たちは、戸惑いながらも、その提案を了承した。
個人経営と思しき喫茶店に、俺たちは入った。
店内には、穏やかなストリングスが流れていた。木の匂いが漂っていて、シックな色合いの内装となっている。俺たち以外に客はおらず、店主もカウンターの奥で椅子に腰かけていた。その手には、文庫本が握られている。
コーヒーを注文すると、ペーパードリップで全員分のコーヒーを注いで、すぐにカウンターの奥へと引っ込んでいった。愛想はなく、客にあまり興味がなさそうだった。
「コーヒーだけは、意外とおいしいんです」
おばあさんは、上品な手つきでカップを口に運んだ。俺も飲んでみたが、悪くなかった。
一番奥のテーブル席に、俺たちは腰かけていた。一番窓に近い席に俺、隣に姉妹が座っていて、反対側におばあさんと平川祐希がいる。誰かに話を聞かれる心配は、あまりなさそうだと思った。
「あの……話を聞いたとおっしゃっていましたが」
真っ白な髪をおさえて、「ええ」と答えた。
「恥ずかしながら、わたしはなにも事情を知らなくて……。でも、ここにいることを知っていたということは、あなたたちのほうはいろいろ知っているのでしょう?」
「多少ですが」
肥後から聞いたことをそのまま話した。すると、おばあさんはゆっくりとうなずいた。
「そうです。わたしとこの方は、つい最近会ったばかりの関係です。でも、やっぱり、あの家のなかに一人は寂しくてね。だから、お招きすることになりました」
平川祐希は腕をさすりながら、小さくうなずいた。戸口に駆けつけたとき以来、俺たちと目を合わそうとしない。横目でこちらをうかがってくるが、すぐに視線をそらされてしまう。
「ここに来るまでの経緯……祐希さんにお聞きしました。あなたたちが娘さんで、まだ高校生であると。借金があったということも、聞いています。だから、わたし自身にも大きな問題があったということを思い知らされたんです」
「……なるほど。その借金については、なにか聞いていますか?」
「返していないということだけは。それ以上のことはなにも」
であれば、借りた相手が闇金だったこともわからないわけだ。
「もしも、わたしの勝手な行動によって、親子のなかを切り裂くきっかけを作ってしまったのであれば、謝罪をしなければならないと考えました。そして、仮にその関係を修復したいのであれば、わたしがその仲介をする必要があると思います」
俺は、未だに視線をよそに向けている平川祐希を見て、ため息をつかざるを得なかった。
……申し訳ないという気持ちが、ないわけではないのだろう。
昨日の段階で、きっぱり拒絶をした平川友治に対して、平川祐希はずっとうつむいているだけだった。その行動に、葛藤の気持ちがあったことは想像がつく。今日、俺たちが訪ねてきたときに真っ先に出てきたのも、おばあさんに事情を伝えたのも、その感情があってこそなんだろうと思う。
だが、肝心なことをぼかし、なおかつ自分からこの場で発言しないことに、非常に残念な気持ちを抱かざるを得なかった。おばあさんの罪悪感を利用して、自分がもっとも楽な道を選んでいる。それは、夜逃げしたときと全く変わっていないのではないかと思えた。




