第四十五話 笑顔
エアコンのランプが、薄く灯っている。暗い部屋のなか、まぶたの裏に焼きついた女の子の姿が今も離れなかった。
「――ずっと悔やんでいた。もし、俺の行動で未来が変わらなかったとしても、なにもできなかった自分をあれほど憎らしく思ったときはなかった。あんな残酷な姿ではなくて、もっと、明るくて楽しそうな姿で戻ってきてほしかった」
あのときから、一つ一つの行動をよく思い返していた。そのなかで自分ができたはずのことを妄想して、現実ではできなかった自分を責め立てた。
女の子の母親が亡くなったときに、女の子の将来のことをもっと考えてあげればよかった。
泣いて俺にすがったときに、話を聞いて、どうにか救う方法を見つければよかった。
車を追いかけて靴が脱げても――
裸足で走って足の裏に血が染みても――
靴なんかほっぽって、
砂利なんかいくらでも踏んづけて、
全力で走って、手をのばして、女の子を車から引きずり出さなければならなかった。
もしも過去に戻ったのならば、彼女を救うために自分はきっとなんだってする。
あんな思いをするくらいなら、自分のすべてを投げうってでも、助け出す道を選ぶだろう。
失ったことを知ったときに味わった、根こそぎ自分のものをはがされたような感覚は、それほどに計り知れない痛みを伴っていた。
「20年近く経った今でさえ、忘れ去ることができない。きっとこれからも、この痛みを抱えて生きていくことになる。だからこそ、こんな痛みを二度と味わいたくなかった。二人のことを知って、助けなければおかしくなると思ったんだ。全部、自分のためだった」
どんなに遠く離れても、自分の魂はいまだにあの場所に縫いつけられている。
湾を一望できる高台で、宙に熱を奪われながら呆然と立ち尽くして、一人きり、緩やかな風に吹かれていたあのときから、一歩たりとも前に進めていない。
俺は、いつまでもそこに縛りつけられている。
「二人のためと言いながら、自分のそんな身勝手な罪悪感を解消するためにやっていた側面もある。だから、二人にはそういう意味でも申し訳なく思っている」
俺の左右で横になっている二人は、口を閉ざしたままだった。重みに耐えかねた苦しそうな吐息がときおり聞こえてきた。
「話しすぎた。もう寝よう」
「尼子さん……」
「やはり、酔いすぎだな。今度からは自重する」
強引にでも話を打ち切らないと、昂ぶった感情が暴れだしそうだった。まぶたを閉じると、どうしても過去の情景が思い浮かんでしまう。普段は意識していなくても、こうやって話しただけで簡単に強い感情が蘇る。奥底にしまわれているが、いつだって自分のなかに存在する。
ぼんやりした意識のなかで、俺はこぼれそうになるものを懸命にこらえていた。
夢を見た。
いつのまにか陰鬱な膜のなかに飛び込んでいて、生ぬるさを肌に感じながら、どす黒い水底に沈む。流されていく体がふわふわして、声を出そうにも息すらできない。水面が見えなくて、強い水圧にしめつけられたまま、ゆるゆるとそこを漂っていた。
胸が苦しい。不思議と呼吸はしなくても大丈夫だけど、体全体がじくじくと痛み、手や足に力が入らなかった。視界は、黒一色で塗りたくられて出口があるのかわからなかった。
すると、急に水のなかを切り裂いて、あの子の姿が現れた。
三つ編みの女の子。ピンクのワンピースを着て、俺の頭上を漂っている。
手を伸ばすも、遠い位置にいるせいで、その指先を届かせることができない。女の子は、俺をじっと見ながら、同じ距離を保って浮かんでいた。
20年も経って、俺の背はずいぶんと高くなった。顔つきは変わり、当時は男の子っぽくないとからかわれた髪型も、きれいに刈りそろえられている。
対して、女の子は当時からなにもかわらず、小学生のときの姿のままだった。時が止まって、もうこれ以上、どうやっても先に進めない。女の子は、俺と一緒にいたときと同じように笑みを浮かべていた。
目を細めて、唇を薄く開いて、頬に緩い曲線を作って、俺に笑いかけている。
(……っ)
また、その笑顔を見て、うれしくなって、俺の心が緩んだ。
自分のなかに閉じ込められていた感情が、一気にあふれ出してくる。
会いたかった。もっともっと会いたかった。しばらく離れた故郷でも、得体のしれない場所でも、今住んでいるところでもいい。ともに同じ時間を過ごして、思春期を越え、一緒に大人になってみたかった。かつて、温かい家庭があり、古びてしまったあとも俺たちを迎え入れてくれた女の子の家のなかで、くだらない話をしたり、アイスを食べたりしながら、その笑顔をもっと見ていたかった。
失いたくなんか、なかったのに……。
余計に苦しくなって、唇をかみしめた。その笑顔に手が届くのならば、どれだけよかっただろう。俺の名前を呼ぶ声が、心をじんわりと温めてくれたはずだ。この渇きこそが、俺のなかにできた空洞の正体だと知っている。
夢でもなんでもいい。その笑顔がそばにあるのであれば、きっとなんだって耐えられる。
けれど、俺の願いとは裏腹に、女の子が徐々に遠ざかりはじめた。
待ってくれと叫ぼうにも、声が喉から出てこない。もう取り戻せないものだと理解していても、その手はどうしたって限界まで伸ばしてしまう。だんだんと小さくなっていく女の子の姿を、大好きだったその笑顔を、何度だって取り戻したくなる。
(今度こそ、離れたりしないから)
やがて、一筋の光が差し込み、俺の夢の世界ごと、粉々に砕かれた。
目を覚ます。
頭が、ゆっくりと元の世界に帰ってくる。
窓の外から鳥の鳴き声が聞こえた。開いたまぶたの先に、さっきまでの光景ではなく、白い天井や橙色の電球が映る。外から入り込んだ淡い日差しが部屋のなかをじんわり照らしていた。
――朝か。
腕を頭のうえにのせた。寝る前の頭痛は、嘘のように消えていた。酔いは覚めていて、昨日の夜のことがずいぶん前のことのように感じられる。
上半身を起こそうとして、体に力を入れた。しかし、なにかに引っかかっているようで体が持ちあがらない。違和感のするほうを見ると、実里の手が、俺のシャツの裾をつかんでいた。その目は、まだ閉ざされている。
――寝ているのか。
このままでは身動きができない。どうしようか考えていると、静けさのなかにまぎれるように、控えめな声が聞こえてきた。
「好きです」
最初は聞き間違いかと思った。二人ともまだ寝ているし、その内容も耳を疑うものだった。
実里のほうを見ると、まぶたは開かれていない。気のせいだと思って目線をずらしたときに、シャツの裾が小さく引っ張られた。
そこには、薄く目を開いた実里の姿。微笑みを浮かべて、もう一度言った。
「尼子さんのことが、好きです」
俺は、その実里の表情から目が離せなかった。




