第四十二話 思い出
蝉の鳴き声が、空気に貼りついているかのように延々と響きつづけている。風が吹くたびに木の葉がこすれる音がして、車がすれ違えないくらいの狭い道のうえをゆったりと走るトラックのエンジン音も、そのなかに紛れて聞こえる。
実家の近くには、標高300メートルほどの山があり、湾から離れると勾配のきつい斜面が、山に向かって伸びていた。古い家屋と新しい家屋が並んで建っていて、白線のくっきりした道路もあれば、舗装の剥がれかけた道もいくつかあった。山に近づけば近づくほど整備が甘く、自然のにおいが強く漂ってくる場所だった。
家は、山に近い位置、斜面のなかに建てられていた。そのためか、床がわずかに傾いていて、ビー玉を置くと緩やかに転がるほどだった。
実家から離れた位置にある北九州市の病院で生まれ、退院後はずっとその地で暮らしていた。幼稚園や小学校も近くにあったから、子供のころはほとんど遠出もしなかったように思う。
そして、あの女の子と会ったのは、幼稚園に通うようになってからだった。
両親がたまたま出かけていたから家に帰れず、幼稚園に残っていた日があった。夜遅く、ジグソーパズルで遊んでいたときに、同じように残っていた女の子が声をかけてきた。
「こんにちは」
目がくりくりしていた。髪の左右を三つ編みにしたその子は、楽しそうに笑いかけていた。
同じ幼稚園に通っているはずなのに、あんまり知らない顔だった。黙ったまま見つめていると、もう一度話しかけてくる。
「あっ、まちがえた。こんばんは、だった。ね、きこえてる?」
聞こえてはいるのでうなずくと、ぱたぱたと近づいて、俺の手元をのぞき込んだ。
「ふぅん。こんなことして、たのしいの?」
「わからないけど……おとうさんもおかあさんもまだかえっとらんから」
女の子は、俺の隣にしゃがみこむ。鼻と鼻がくっつくような距離で言った。
「じゃあ、わたしとおんなじだ」
あとから知ったが、女の子は年中で、俺は年少だった。一つ離れているから、ほとんど顔を合わせなかったのは当然のことだった。年中の子が全員帰ってしまって、暇だったのだろう。わざわざ年少クラスまで来て、話しかけた。それが、俺とその子が知り合うきっかけだった。
女の子は快活な性格で、その日の会話を皮切りに俺に話しかけてくるようになった。いつもハキハキと話して、なにごとにも物怖じしない様が、当時の俺には大人びて見えていた。年齢差があっても不思議と一緒にいると心地よくて、少しずつ仲が良くなっていった。
女の子と同じ地元の公立小学校に進学したが、小学校でそれぞれ別の友達を作っても、俺たちは当たり前のようにともに過ごすことが多かった。女の子は母子家庭で、夜遅い時間になるまで母親が帰ってこない。だから、晩御飯の時間になるまで女の子の家に入り浸って、ゲームをしたり、お菓子を食べながら話したりした。
「陽介君は、あんまり男の子って感じがしないね」
「え?」
夏の日、アイスを食べているときにそんなことを言われた。女の子はいつも同じ髪型だった。三つ編みが気に入っているのだと教えてくれたことがある。
アイスについていた木のスプーンをくわえていると、女の子が笑った。
「だって、髪がおかっぱで女の子みたい。それに、からかったりとかしないもんね」
当時の俺に、理髪店や美容院に行く権利はなく、いつも母親が髪を切っていた。自分でも変な髪型だとわかっていたから恥ずかしくなった。なんやそれ、とふくれていると、女の子が頭をポンポン叩きながら笑った。
「かわいくていいってこと。ほめているの」
「かわいいなんてほめ言葉じゃない」
「そんなことないよ。陽介君のそういうところが気に入っているんだもん」
子供扱いされているようで、むずがゆかった。いつもは同年と思うくらい気安く話しているのに、たまにお姉さんっぽいところを見せてくる。身長も負けていたし、俺たちのことを知らない人に本当の姉弟であると勘違いされることもあった。
「かっこいいって言われたほうがうれしい」
「でも、陽介君は、かっこよくはないじゃない」
「もういい」
「あーあ、怒っちゃった」
本当に怒ったわけではなかったが、あんまりかわいいと言われたくなくてそっぽを向いた。アイスを黙々と食べていると、女の子がつぶやいた。
「わたしね。男の子も、大人の男の人も、あんまり好きじゃないの」
すぐに振り向いた。珍しく、ぼそぼそとした喋り方だったから気になった。
「だからね。ほんとに、かわいいってのは、ほめているんだよ」
怒ったふりが案外効いてしまったのかもしれない。俺は、ため息をついた。
「わかったわかった。でも、気にしてるからあんまり言わないで」
「うん」
また、女の子といるとき、斜面をのぼって山の近くまで行くことがあった。山につづく長い道の左右に霊園があった。霊園はかなり奥へとつづいていて、山へと伸びるその道のりが天国ともつながっているんじゃないかという気がしていた。霊園には、俺の先祖の墓や女の子の祖父母の墓もあった。
俺らにとってそれは探検だった。遠くまで行きすぎると戻ってこられなくなるから、道を覚えられるところまで、面白い場所がないかを探し回っていた。でも、子供の足で行ける範囲に限界があって、最終的にはいつも同じ場所を訪れていた。
「今日は、ずいぶんと先まで見えるね」
山のふもとをなぞるみたいに、細長い道が通っている。山側もその反対側も、鬱蒼とした緑に覆われて薄暗い。でも、その途中に誰が使っていたかもわからない空き家があって、その敷地のなかに入ると、高い位置から湾に至るまでの景色が一望できた。天気がいい日であれば、さらにその奥の陸地まで見通せる。あちこちに立つ電柱が、電線を通してどこまでも続いている様子が見えて、自分もどこにでも行けそうな気がした。
「さっき、蚊にさされちゃった」
「俺も」
砂利のうえに腰かけて、駄菓子屋で買ったお菓子を食べた。俺が好きだったのはココアシガレットで、親父の真似で煙草を吸うふりをした。だが、俺の見た目に合わないということで、女の子にはよく笑われた。
「タバコってそんなにかっこいいかなぁ?」
女の子も吸うふりをしたが、やはり様にはならなかった。
「わからんけど。なんかマネしたくなる」
「大人っぽい感じはするかも」
こういうときに雨が降ると最悪で、家に帰りつくまでの道のりをずぶ濡れになりながら走るしかない。だから、からっと晴れているときにしかここには来なかった。高い位置にある太陽の光が、俺たちに直接当たっていた。
「ねえ、天使のはしごって知ってる?」
空を見上げながら、女の子が訊いてきた。俺は知らなかったので首をかしげる。
「このまえ、テレビで見たの。雲の間から、スポットライトを当てたみたいに、光が差し込むことがあるんだって。すごくきれいでびっくりした」
「それが、なんで天使のはしご?」
「見てみればわかるよ。本当に、空からなにかおりてくるんじゃないかって思っちゃう。昔の人は、天使がいるって思ったみたい」
残念ながら、そこにあるのは、青い空ともくもくした雲だ。日光はまぶしいだけで、幻想的な光景を作ってはいない。
「それがどうかしたの?」
「わたしも見てみたいなって、思っただけ」
夏は、空が赤らみはじめたころ。冬は、日が沈みきって星が瞬きはじめたころに、女の子と一緒にいる時間は終わる。そうなると、俺たちは町に戻り女の子の家の前で手を振って別れた。
「またね」
女の子はいつも、大きく腕を伸ばして、顔いっぱいに笑いながらそう言った。




