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第三話 犬

 少しだけ残業をして、20時前には帰宅の準備を整える。


 フロアの半分以上がすでに退社している。瀬尾も帰宅済みだ。当然のごとく、後ろの人はまだ仕事している。


「お疲れ様です」


 中嶋さんは小さくうなずくだけだった。


 外に出ると、雨は降っていなかった。徒歩で家路を進み、アパートの前に着いたころには、20時を過ぎていた。


 俺の暮らす105号室の隣――106号室。角部屋で、俺の住むワンルームよりも広いらしい。特に、変わった様子はないようだ。換気扇からわずかに食べ物の匂いが漂っているから、料理中なのかもしれなかった。


 部屋に入り、シャワーを浴びて、5分くらい経ったころ。急にインターホンが鳴った。


「なんだ?」


 カメラがついていないので、ドアスコープで外を確認すると、そこにはあの女の子が、なにかを手に持った状態で立っていた。


 ドアを開けた。平川晴香は、俺の顔を見るや、ほっとしたような表情に変わる。


「どうも。こんばんは」

「こんばんは。突然、どうしたの?」

「このまえは、傘、ありがとうございました」


 その時点で、手に持ったタッパーに入れられたものが、そのお返しであることが理解できた。俺は首を横に振る。


「気にしないでくれ」

「お礼に受け取っていただけませんか?」


 目の前の女の子の切実そうな瞳を見ていると、断る気持ちが萎えてしまう。それを受け取って、玄関の靴箱のうえにのせた。


「今日作った、カレーです。ご迷惑じゃなければ、是非食べてください。当然、変なものも入れていないし、味も悪くないって姉が言ってました」

「そうか。ありがとう」

「……ええと」


 俺の困惑を察したからか、平川晴香がコートの襟をつかんでうつむいた。


 しばらく、黒目が上下左右に忙しなく動いたが、止まり木を見つけた小鳥のような動きで、急に俺の顔のところで固定された。額に絡んでいた前髪がほどけて流れる。充血しているようで、血管の赤い線が幾本か見えてしまった。丸く開いた口から声にならない吐息が漏れ出していて、目が離せなかった。


「どうした?」

「いえ。おやすみなさい」


 そして、慌てたように自分の部屋に戻って行ってしまう。


 違和感を覚えながらもドアを閉めて、さっき置いたタッパーを開くと、言われた通り、野菜のたくさん入ったカレーがあった。特に、食べられなさそうなものはない。冷蔵庫に食べ物を保管していたが、せっかくなので、早速いただくことにした。


 電子レンジで温めて、炊いてあったご飯と一緒に皿に盛りつけた。一口食べると、なるほど、実際に味は確かだった。


 ミミは、相変わらずケース内で走り回っている。カレーの匂いを嗅ぎつけたからか、体がさっきからずっと俺に向いている。ハムスターは匂いと音に敏感だ。さっきインターホンが鳴ったときも体が反応していた。


 それからしばらく。食事を終えて、歯ブラシをくわえていると、窓のほうから物音が聞こえた。物が落下したときのような、鈍い音だった。ここは一階だから、地面と衝突した音がダイレクトに聞こえてきてしまう。


 冷気が侵入しないよう、わずかばかり窓を開けた。


 俺の住むアパートに隣接する一軒家との間には、吹き付け塗装された白い塀が建っていて、その距離は一メートルもない。明かりとなるものは、住まいから漏れ出す光と左右の端に走る道路から放たれる街灯しかない。スマホを拾い上げて、懐中電灯アプリを起動して、窓の奥を照らした。


 無造作に生えた雑草が、風に揺られている。一部は、色が落ちてくずおれている。次に隣の部屋の前を照らしたところで、暑くもないのに汗がじんわりと浮かんだ。


 なにかいる。動物だ。


 窓をさらに開放すると、外から流れ込んでくる風でカーテンが揺れた。服の内側が冷気で包まれて、ほんの少し体が震える。


 犬の死体だった。


 まだ成長しきっていないのだろう。大きさは50センチもない。耳のあたりから長い毛が垂れていた。その目は閉ざされている。横に向けさせられ、その前足に黄色いロープが強く結びつけられ、後ろ足にはガムテープが貼りついていた。


 喉から釣り針の軸が生えている。針先と思われる箇所は、喉を食っていた。


 スマホの光をさらに奥に向けると、アパートと道路を隔てるブロック塀がそびえている。


 おそらく、あそこから投げ込まれたのだろう。上の階から投げ込むともっと大きな音がするし、隣家から投げ込まれたとも考えづらい。さっきの音の正体は、たぶんこれだ。


 平川姉妹の反応はない。窓はカーテンで覆われたまま、内部を窺うことができない。

 すぐに脳裏をよぎったのは、以前有休をとった日の出来事だ。


(面白いことをいっぱいいっぱい考えてるんだ)


 あれから、問題が解消された様子はない。というのも、平川家の夫妻と出くわしたことが一度もないからだ。俺の悪い予感が当たったということになる。


 犯人らしき足音も聞こえてこないし、すでに立ち去った後という可能性が高い。どうすることもできないと判断して、俺は窓とカーテンを同時に閉めた。室温が下がってしまったので、暖房の設定をいじってから歯磨きを再開する。


 悪臭はなかった。まだ出来立てほやほやの死体なのかもしれない。とはいえ、あのまま放置するのはまずい。簡単にスマホで調べ物をした。


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