第二話 同僚
「尼子さん、すみません」
「いいよ。俺にもこういうことはある」
後輩の野木から渡されたメールを眺めながらそう答える。製品の仕様変更に関するメールの宛から、今年新設された部署が漏れていたようだ。数日経って、俺をCCに入れたうえで苦情のメールが届いた。
「大変だろうけど、メールを送る直前に宛先は全部確認したほうがいい。こういうことでいちいち文句を言われるのも面倒だろ」
「気を付けます」
野木は、割と素直なほうなので気兼ねなく注意できる。大した話でもなかったので、俺はすぐに自分の業務に戻った。PCの表計算ソフトに、淡々と文字を打ち込んでいく。
昼休みのチャイムが鳴ると、同期の瀬尾が肩を叩いた。
「お疲れさん」
「だるい……眠い」
「いつもそればっかだな」
瀬尾は、隣の部署に所属している。だから、昼休みも一緒に飯を食べることが多い。
二階の食堂に入り、牛丼を注文してテーブルに座る。瀬尾はカレーライスを運んできた。いつものように醤油を数滴かけている。
「それうまいの?」
「うまいと思ってるからやってるんだ。今度、おまえもやってみればいいさ」
瀬尾は、うっすら髭の生えた口をもぐもぐと動かしている。俺は、七味唐辛子をふんだんに振り撒いてから、箸を手に取った。学生のときは辛い物が苦手だったのに、いつのまにか辛くないと物足りないまでになってしまった。
瀬尾が、うげぇという表情に変わる。
「いくらなんでもかけすぎだろ」
「俺もうまいと思ってるからやってるんだ。ほっとけ」
「だからって、肉の色が見えなくなるくらいかける必要はないと思うけどな。瓶の中がほとんどなくなってるじゃんよ」
「福利厚生の一環だ」
窓際に座っているから、日差しが直接肌に当たる。昨日の雨の影響で、アスファルトの端に水が溜まっていた。なんとなく、昨日一緒に帰った女の子のことも思い出す。
「確かに。うちの会社、規模の割りに給料がいいわけでもないからな」
「平均値と中央値は似て非なるものってことさ。おまえも経済学部出たなら、一回くらいは習わなかったか?」
「そんなの覚えてないねえ……」
ひっひと笑いながら、スプーンを口に運んでいる。俺も牛丼を箸でかきこむ。
スマホをどんぶりの横に置いて、ときおり画面を確認する。ペットカメラ越しに映したミミの様子をここからうかがうことができる。
「飽きずに、よくもまあ」
あきれた様子の瀬尾には目もくれず、飼育ケース内でうろちょろするミミを観察する。一人暮らしで、自分がいないときになにかあったら怖いと思って、取り付けることにした。犬や猫ならともかく、ハムスターで大げさかもしれないが、単純にいつでも様子を確認できるのは非常に便利だった。防犯にもなる。
食事を終えると、俺も瀬尾も元のフロアに移動する。節電のために、フロア全体の蛍光灯が消灯されている。未だ作業中のPCの画面が灯っているものの、それ以外は窓の外の柔い光のみだ。
机から歯磨き粉と歯ブラシを手に取ったところで、俺の後ろの席に座る女性社員が、パンを黙々と食べながら作業をしていることが気になった。
「仕事のし過ぎは体に毒ですよっと」
そのまま立ち去ろうとしたが、その女性社員が振り向いたので、足を止めた。
いつも食べているサラダロールが口に突っ込まれている。仕事中になんども髪をぐしゃぐしゃしているせいか、前髪が少し乱れていた。
しばらく、俺を見たままもぐもぐ咀嚼していたが、飲み込んでから口を開く。
「あっ、わたし?」
「他に誰がいるんですか。このフロアで、今仕事をしているのは先輩だけです」
中腰になり、しばらくフロアを見渡してから、「ほんとだ」とつぶやいた。
「手伝ってくれてもいいのよ?」
「課が違うんだから無理ですよ。もし同じ課だとしても絶対に手伝わないですけど」
「ケチ」
暗い空間のなかで、PCの明かりがやたらとまぶしい。
この人は、一年上の先輩である中嶋さんだ。いつも残業しているから、自分の繁忙期と重なったときにフロアで二人きりになったことがあって、その日を境に話すようになった。
目の下にはクマがあり、メイクもあまりしてこない。たまにぶつぶつ独り言をこぼしているし、近寄りがたいオーラがある。でも、性格は決して悪くない人だ。
初めて話したときも、夜食を分けてくれたことがきっかけだった。夜遅くまで残業していると、誰でもいいから愚痴をこぼしたくなる。仕事に文句を言い合って、気づけば妙に仲良くなってしまった。
「先輩は完璧主義だから時間がかかるんですよ。もっと手を抜いたらどうですか?」
「あとで文句言われる方が面倒でしょ? 横やり入れられるストレスに比べたら、全然大したことない。だからこれは、わたしの問題というより、組織の問題」
会社全体で人手不足の状況が続いている。一人頭の負荷が高まっている。
トイレの洗面台で歯磨きをして、顔を洗ってから戻ってきても、中嶋さんは仕事をつづけていた。やたらと速い打鍵の音を聞きながら、椅子に座って目を閉じる。今日はすんなりと寝られそうだと思った。