第二十六話 公園
休日の午後五時くらい。空の半分くらいを雲が覆っていて、日差しもその内側に隠れている。一定間隔で地面を蹴り、短い呼吸を繰り返す。耳に入ったイヤホンからは、アンドレギャニオンの「めぐりあい」が流れてきていた。
ランニングをはじめてから、すでに一か月半。徐々に体力が戻ってきて、一度も立ち止まらずに皇居の外周を走ることもできるようになった。タイムはまだ一周37分くらいだけど、明らかに肺活量が増えてきているのがわかった。
皇居の外周は景色がきれいで、ときおり視線を内側に向けると堀の水面が周囲の緑を逆さ映しにしていて、目の保養になる。現在は夕刻なので、赤く染まった日差しが周囲を染め上げていた。
「ふぅ……」
俺は、二周を走り終えて足を止めた。最近、姉妹と一緒のときは、俺が二周、姉妹が三周走ることにしている。一緒に走りはじめても、最後のタイミングが同じになりやすいからだ。もっとも、三周は非常に大変なので、俺が先に終わることのほうが多かった。
和田倉噴水公園のなかに入って、石のベンチに腰を下ろす。ビルが立ち並ぶなかに広い空間があり、その中央で花のような形をした噴水が3つ並んでいる。奥には楕円の一部を刈り取ったような形をしたレストランもある。
三月も半ばになったが、未だに気温は高くならない。運動後の火照りのおかげで現在は寒さを感じないが、冷めてきたら寒くなってくるだろう。
10分くらいして姉妹が戻ってきた。いつもよりも少しだけ遅い。
「お疲れさん」
姉妹は、汗をぬぐいながらうなずいた。
ここにくる途中に、自販機で飲み物を購入していたのでそれを渡す。実里にはスポーツドリンク、晴香にはミネラルウォーターだ。どうも二人の好みは別々らしい。
実里が俺の右隣に、晴香がさらにその右に腰を下ろした。
「最近はだいぶ先に来ているみたいですね。さすが、男の人です」
「……いやいや、俺は二周しかしていないからね。三周なんて俺にはまだできないから」
「はじめたときのことを考えたら、すごい伸び方だと思います。尼子さんって、わたしたちと一緒にいないときも走ってるんですか?」
「うん。平日もできるだけ走るようにしているよ」
自分の成長が感じられるので、最近はランニングが楽しくなってきた。呼吸法を変えてみたり、腕の力を抜くように意識してみたり、試行錯誤するのも面白い。足の筋肉が増強されたおかげで、階段の昇り降りも楽になってきた気がする。
まぁ、それだけ運動を怠りすぎていたということでもあるけれど。
「毎日走ってみて思ったのは、やっぱり二人ともすごいんだなってこと。三周を、しかも鬼のようなペースで進んでいるんだからかなわないよ。マラソン大会に出てもいい成績を残せるんじゃないかな」
晴香が、そんなことないですよ、と手を顔の前で振る。
「陸上で長距離をやっている人たちは、もっとすごいですから。わたしたちは、自分たちのペースで走っているだけです」
「晴香の言う通りです。学校の体力測定で長距離のタイムを比較できるんですが、専業の人たちに一分以上の差をつけられるんです」
「へー。二人でも、そんな感じなのか。世の中、すごい人がいるもんだなぁ」
確かに、タイムを伸ばすためにやっているのと、そうでないのとでは練習の質も異なるだろう。二人はあくまで体調管理のために行っているから、無理して走ることはまずないと思う。
「それに、長距離も男女差があるんです。陸上部以外の運動部に所属している男子相手でも、タイムで負けることはざらにあります。そんなにマラソンしているわけではなさそうなのに」
噴水の水しぶきを目で追いながら、実里が悔しそうに言う。体格の違いによるものだろうか。二人とも身長は160センチくらいだろうから、走るときの一歩の幅が小さいのかもしれない。
日がさらに傾いて、赤く染まった空が、天頂から徐々に暗い藍に侵食されていく。中央の噴水がライトアップされて白く輝いた。ビルの窓の光、夜闇に紛れていく裸木。非常に美しい光景で、目を奪われる。近くには、スマホで写真を撮っている人もいた。
「わたし、ここが好きなんです」
そう言ったのは、晴香だった。
思い返してみると、ランニングのあとの待ち合わせ場所を指定していた。ここの光景を見るためにそうしたのかもしれない。
「中学生のとき、嫌な気分になるとよくここに来ていました。頭をぼーっとさせて、なんとなくこの光景を見るんです。だんだん、思い悩んでいることが消化されていくような感じがして、荒れた心が凪いでいきます」
「うん、確かにそんな感じがする」
水の音。自分のなかのものが洗い流されていく感覚もあった。噴き上げられた水が重力に従って落ちたあと、水面を滑っていく様が見てとれた。ここに越してからしばらく経つのだから、もっとこの公園に来てもよかった。今後は、仕事帰りに寄ることも考えよう。




