第二十四話 おふくろ
俺のおふくろは、小さいころからずっと同じところで生きてきた。
北九州市で生まれ、育ち、結婚し、子供を作った。たまに博多に行くことはあっても、基本的に遠出はせずに狭い世界で暮らしていた。親父と出会ったのも福岡であり、ほとんどおふくろに押し切られる形で、若松区に住むようになったと聞いたことがある。
「結婚する前は、あんなに頑固だと思わなかった」
と親父は笑っていた。実際、生まれるまえの居住の話だけでなく、俺が見るおふくろの姿も「頑固」という言葉がぴったりだと感じていた。たとえば、小学生のときにゲームが欲しいとねだった俺に、おふくろは言った。
「そげなもん、昔はなかった。必要やなか」
最終的にこっそり親父に買ってもらったが、それを知られたときにはちくちくと嫌味を言われた。自分の価値観を強固として持っていて、そこから外れることを許容しない人だった。
そんなおふくろに、ずっと苦手意識があった。友人や先生と話して、新たな価値観を持ち込もうとすると必ず否定される。そげなもん、というのが口癖で、その言葉が聞こえてくるたびに耳をふさぎたくなった。
「あんたんためば思うて言うとる」
これもまた口癖だった。否定をして、しょげた顔をすると必ずそう付け加えられた。しかし、言葉通りに受け取ることができず、不快になることがほとんどだった。
そんな関係性だったから、年齢を積み重ねるたびに隠し事が増えた。なにごとも、おふくろにだけは知られないよう立ち回った。初めて彼女ができたときも、そんなそぶりを一切見せずに、家以外の場所で会うようにしたくらいだ。
そんな生活をしているときに、ある日、おふくろが言った。
「あんた、河野さんのところの娘さんと付き合うとーらしいな。あそこはろくでもなか。やめときなさい」
「は?」
なんでそんなことを言われなければならないんだと思った。隠していたはずなのに、なぜ気づかれたのだという焦燥もあった。
「言う通りにしなさい。あんたのためやけ」
「やめろよ。関係なかやろ」
「いいから」
当然、そんな意見を相手にすることはなかった。河野の親父さんも昔からそこにいたらしく、おふくろとは知り合いだったらしい。俺の親父に確認してみると、どうやら学生時代に、おふくろが容姿についてからかわれたらしい。それも20年以上前のことだ。
もし仮に、俺が彼女と交際をつづけた場合、最終的に俺の義父となる可能性もあった。その点をおふくろは危惧したらしい。そこまで理解したところで、あまりのばかばかしさに呆れてしまったことを覚えている。
おふくろにとっては、その狭い世界がすべてなのだ。何十年も同じ土地にいて、何十年も同じ人たちとかかわりあってきたから芽生えた価値観だ。自分とは違う……。
それでも自分にとっては一人の母親であり、ときに嫌悪しながらも、完全に仲がこじれたわけではなかった。日常会話は普通にするし、ごくまれに一緒に出掛けることもあった。
しかし、高校三年生のある日、おふくろに言われたことが、しこりのように残っている。
夏だった。頭がぐらつくような蒸し暑い日々がつづいていた。俺は、大学受験のために部屋にこもって勉強ばかりしていたが、ときおり、休憩のために居間に入るとおふくろが座椅子に腰かけながらテレビを見ていた。
飲み物をコップに注ぎ、飲み込んだときにおふくろがこちらを見た。
「あんた、あの子のこと覚えとる?」
急だったので、意味がわからなかった。おふくろも記憶があいまいだったのか、身振りや手ぶりで伝えようとした。やがて、「あの子」というのが、かつて近くに住んでいた三つ編みの女の子のことだということを理解した。
「その子がなに?」
「ふと思い出したんよ。そげな子もいたなって」
冷房の効きが悪かったから、家のなかは外よりも少し涼しいくらいだった。シャツは汗に濡れていたし、扇風機とあわせて稼働させないと耐えられなかった。おふくろも、テレビの前に置いた扇風機の風に当たっていた。
俺は言う。
「当然、俺も覚えとる。いろいろあったから」
「そうやったな。もう何年前んことやろう」
縁側につるされていた風鈴が、ちりんと音を鳴らした。ずっと以前、まだあの子がいたころ、この家に遊びに来たこともあったなということを思い出した。
そして、おふくろが言った。
「あの子は、××××××××」
最初、その言葉が理解できなかった。
あるいは、その言葉を受け入れることを脳が拒否していたのかもしれない。
一瞬、自分の足元が抜けていくような浮遊感に包まれた。いったい、この人はなにを言っているんだろう。
さらにつづけて口にする。
「もともと、××××××××やけん、うちらとは無関係や。だから、×××××××××××××××××××××××」
うるおしたはずの喉が渇く。手がしびれ、呼吸がうまくできなくなった。
そんな俺に気づいているのかいないのか、おふくろの声は止まらなかった。
「よそはろくでもなかところばっかりやけん。あんたもどこにもいかず、ここん大学に進学すればよか。わかるやろ?」
暑いはずなのに、体が冷えていく感覚があった。数メートルしか離れていないおふくろの姿がとてつもなく遠くにあるように思える。自分と同じ空間で、家族として長らく時を共有してきたにもかかわらず、まったく重なっていなかったのだと理解した。
そのあと、おふくろは何事もなかったようにテレビに意識を戻した。しかし、先ほどの言葉が耳から離れず、俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。




