第二十二話 信頼
「やっぱ、大学に行きたい?」
そう尋ねると、実里の手がびくっと震えた。ノートからペン先が離れる。
「……急になんですか?」
「急じゃない。ずっと前からどうなんだろうって考えてたんだ。だって、来年には高校三年生になるんだから」
「そういう状況じゃないのは理解しているつもりです」
さっきまで浮かんでいた笑みが奥に引っ込んでしまう。それだけ、実里も気にしていることなのかもしれなかった。
神田駅の近くで、実里と話したときのことを思い出す。化粧で自分を武装して、いろんな問題をすべて抱えこんでいた女の子の姿がそこにあった。もともと、責任感が強く、他人に頼ることが苦手なんだろう。背負いきれないような重い事情を抱えながら、第三者に助けを求めず、一人で解決することを選ぼうとしていた。食べ物を通して俺に助けを求めようとした晴香にも苦言を呈していたくらいだ。
今も、俺に頼りすぎないよう自制を働かせている。
「尼子さんには、お世話になりすぎています。少し家事を手伝ったからって、返せるものじゃないことは理解しています。だから、早く働いて、早くお返ししないといけません」
「そんなに深く考えず、行きたいなら行けばいいんじゃないかな」
実里のペンが、ぽとりと床に落ちた。
「前にも言っただろ。俺は小心者で、自分のために君たちを助けたんだ。見返りを求めていたわけじゃない。むざむざ自分の可能性を狭めなくてもいいんじゃないかな。大卒か高卒かで、その先の人生に大きな影響があることを理解していないわけでもないだろ」
ペンを拾うこともなく、顔を反対側に向けているから、どんな表情をしているかわからない。
「俺に負担をかけない形で進学する選択肢は、いくらでもある。急いで俺にお金を返そうとさえしなければ、迷うことなんてひとつもないと思う」
代わりに、床に転がったペンをとって、机のうえに置く。そのとき、実里の肩がわずかに震えていることに気がついた。
しばらくの沈黙ののち、実里が言った。
「ずるいです……」
かすれ気味だった。拾ったペンを見向きもしていなかった。
「尼子さんは、ほんとにずるいです」
椅子に座りなおして、黙って聞くことにした。実里は懸命に声を絞り出している。
「どうして、そんなことが言えてしまうんですか。もうあきらめていたのに、どうしてあっさりわたしが悩んでいることを見抜いて、解決してしまうんですか。そんなに優しい言葉をかけられたら、甘えたくなってしまうじゃないですか」
肩にひっかかっていた髪の一部が、重力に従って流れた。細かな息遣いまで聞こえてくる。
「親がいなくなって、こんなに自分はなんにもできないんだって思いました。だから、自分の感情は殺して、できることだけを考えることにしたんです。どうやったら、尼子さんに恩を返せるのか、そのためにはどうするべきなのか。でも、本当は、あきらめたくなかったのも事実です」
そのとき、実里が顔を上げてこちらを見た。うるんだ瞳が光っていて、その奥に映し出された俺の姿が揺れていた。
俺は、その目をまっすぐ見返して言った。
「甘えてもいいじゃないか。もともとは隣人でしかなかったけど、今はそうじゃないだろ。友人というには年齢の差があるし、家族と言えるほど大げさでもないが、簡単に切り離せないくらいには関係が深まったと思っている。信頼、という言葉に置き換えてもいいかもしれない」
「信頼……」
人間の心なんてわからないけれど、きっとこの人になら預けられると思える存在。お互いがお互いにとって必要であると認めているからこそ、成り立つ関係性。まだ知り合って短いものの、あれだけ大きなことがあったことで、取り繕えない奥の部分に踏み入る形となった。
そこで見えてきたもの。感じたこと。少しずつ積みあがって、そういう言葉がふさわしくなるほどのものが築かれてきている。
「俺は、実里のことも、晴香のことも信頼しはじめている。きっと、これからもいい関係性をつづけられるんじゃないかと期待している。だから、焦る必要はない。貸し借りの関係じゃなくて、普通に、一対一の人間としてとらえているからこそ、そう思うんだ」
姉妹の人間性を知るにつれて、根っこにある真面目さや誠実さに好感を持つようになった。そのことと、俺が助けたことに、もはや関係はない。だから、素直に二人にとっていい未来を歩んでほしいと考えている。
実里は、俺の言葉を聞いて深くうなずいた。
「わたしも、同じです」
膝に置いた手をぎゅっと握っていた。
「尼子さんのことを知るにつれて、わたしも、信頼してきているんだと思います。でも、やっぱり、与えられるもののほうが多いから、どうすればいいかわからず困惑していたんです。貸し借りだけじゃ、ないですもんね。だから、尼子さんの信頼に応えられるように、わたしも精一杯頑張るべきなんだって思いました」
「うん」
「だから、将来のことは、もう少し考えることにします」
力強くそう言い切った。俺は、「そうしてくれ」と笑って返した。




