第二十一話 勉強
アパートに帰って、平川家に入り、弁当箱を返すと晴香が感想を聞いてきた。さすがに会社の人に見られて恥ずかしい思いをしたことは言わず、おいしかったよ、とだけ告げた。
「それならよかったです。また作ります」
「いや、ほんとに無理しなくていい。俺は社食も結構好きなんだ」
「そうですか……」
晴香が残念そうにしている。しかし、女の子向けの弁当箱に入った、女子高生の作った料理を会社で食べるのはリスクがでかすぎる。なるべく断るようにしよう。
キッチンのほうからカレーの匂いがする。いつぞやに渡されたカレーと同じように見えた。
「今、温めますから少し待ってください。あとで持っていきますね」
うなずく。と、リビングの奥の部屋から、メガネをかけた実里が出てきた。俺に気づいて、あわててメガネを外していた。
「尼子さん。もう帰ってたんですね」
「うん。実里は勉強でもしていたの?」
「はい……」
実里の成績はかなりいいと聞いたことがある。日々の努力の積み重ねだろう。
「最近、あまり時間が取れなかったので、できるときにやっておかないといけなくて。あ、今日の卵焼きはどうでしたか?」
やっぱりあれは実里だったか。
「おいしかったよ。ありがとう」
「よかったです」
うれしそうに笑う。最近、実里は笑顔を見せることが多くなった。少しずつではあるが、俺に対して気安さを感じてくれているのかもしれない。俺は、ふと思いついて言った。
「もしよかったら、少し勉強を見てあげようか」
「え?」
想像もしていない言葉だったのか、実里の口がぽっかりと開いた。それから、胸の前に手を当てて、遠慮がちに言う。
「いいんですか?」
「もちろん。これでも、勉強はできるほうだったんだ。結構忘れているかもしれないけど、多少はアドバイスできるんじゃないかな。迷惑だったら断ってくれてもいいよ」
「全然迷惑なんかじゃないです。ご飯のあと、ぜひお願いします!」
実里は、跳ねるような足取りで奥の部屋に戻っていった。
カレーを食べて、片づけをして、風呂に入っている間に、午後9時を過ぎてしまった。
こんな時間に女の子の家に入っていいのかという抵抗感もあったが、正直今さらだ。約束してしまったし、相手が嫌がっていないなら取りやめる理由もない。
平川家の奥の部屋は、6畳くらいの大きさだった。勉強机が右と左の壁に据え付けられているから、二人の共有の部屋だったのかもしれない。
右側が実里の机らしく、そのまえの椅子に腰かけていた。モコモコした白いルームウェアを身にまとっている。前に見たコートといい、白が好きなのだろうか。
どう教えようか困っていると、実里が晴香の机の前にある椅子を近くまで持ってきた。
「どうぞ。しばらく晴香はこっちに来ないみたいなので」
「ありがとう」
椅子を引きずって、実里の隣まで寄る。机のうえには数学の問題集とノートが広げられていた。きれいな字で数式がいくつも書かれている。
「ちょうどわからないところがあったんです。解説を見ても、ここからここに至る理由が理解できなくて……」
命題の真偽を求める問題だった。
「この不等式が常に成り立つためには、それが成り立たない数があることを示せばいいというのはわかるんです。だから最小値を求める必要があることも。だけど、ここで微分した式から、なんでこれが式の最小値であることが言えるのかが納得できないんです」
「なるほど。その問題、詳しく見せて」
「はい」
過去の記憶を懸命に引っ張り出す。偉そうに教えるなんて言ったけれど、今の俺にそれだけの学力があるか自信がなかった。
考えているうちに、実里がどこでつまづいているのか理解できるようになり、その根本が、単純であることもわかってきた。俺は言う。
「そもそもこの問題、Ⅹが自然数だって定義されてるじゃん」
「あ、ちょっと待ってください」
シャーペンの先をノートに押しつけながら、しばらく考え込んでいた。やがて、今まで理解を滞らせていた障害がなくなり、すんなり頭に入ってきたようだ。止まっていたペン先が、するすると動いた。
「できました! 尼子さんのおかげです」
「いやいや。今回は、ただ勘違いしていただけだから。ほかにはなにかある?」
「あとこれも詰まっていて……」
次は数列の問題だった。どこがわからないのかを伝えてもらって、問題集の解説を見ながら頭を回転させる。5分くらい時間がかかってしまったが、これもどうにか理解できたので、わかりやすい言葉に変換して教える。
「そういうことだったんですね。よくわかりました」
「難しい問題、解いてるな。どれもこれも時間がかかってしまう」
「こんなにすらすら理解できちゃう尼子さんはすごいです。わたしなんか、一時間もうなっていたくらいですから」
「役に立てているならよかったよ」
勉強を教えるのは、大学時代に家庭教師をやったとき以来だ。一年くらいで別のアルバイトに変えてしまったけど、この感覚に懐かしさを覚える。




