第一話 雨
雨が降っている。天気予報を見ていなかったから、予想できなかった。周囲を見渡す限り、傘がなく困っている人がいないから、気象庁は正確に予報できていたのかもしれない。困ったことに会社からアパートまでは遠い。コンビニが車道の反対にあるからそこまで走っていくしかないだろう。
降り始めたばかりで雨足が弱いと判断し、俺は駆け抜けるようにコンビ二に向かった。
ビニール傘を購入して軒先に立つ。
少し横にずれたところに女の子が一人。どこかで見覚えがある気がする。
とはいえ、じろじろ見るわけにもいかない。傘を開こうとしたところで、「あ」という間の抜けた声が、すぐ隣からぼんやりと聞こえてきた。反射的に視線だけ向けてしまう。
女の子がこちらを見たせいか、さっきとは異なり、横顔ではなく正面の顔を視界に収める。ようやく、俺は見覚えがあった理由を理解した。
「隣の……?」
「そうです。やっぱり」
黒の長い髪。隣の姉妹の片割れだ。
見覚えがあっても会話したことはほとんどなかった。困り果てていると、女の子があわてたように頭を下げた。
「ごめんなさい、ちゃんと自己紹介できていませんでした」
邪魔にならないよう、出入口からずれたところで、女の子が胸に手を当てた。
「わたし、平川晴香っていいます」
「はい。どうも」
「ごめんなさい。急に話しかけてしまって、困らせてしまってますよね。実は、傘を忘れてしまったので、帰れなくなっていたところだったんです」
「そういうこと。別にいいよ。嫌でないなら、入っていけばいい」
「すみません」
スーツではなく、オフィスカジュアルだし、多少濡れることに抵抗もない。近づきすぎるのもよくないので、適度な距離を保って一緒に歩くことにした。
雨足は強くなる一方だった。月光も雲から透けているので、通り雨に近いものかもしれないが、少なくとも10分は降りっぱなしだった。
隣を歩く女の子は、あの日、涙を浮かべていた妹のほうだ。黒髪が雨に濡れて、皮膚に貼りついている。驚くほど歩くペースが遅いので、それに合わせてのんびり進むしかなかった。
「今日、雨が降るとは思っていませんでした……」
女の子が申し訳なさそうにつぶやいた。
「俺も同じだ。昼間は晴れていたから、折り畳みすら忘れていた」
無言。会話がつづかない。俺のコミュニケーション能力不足を恨むばかりだ。
「あんまり、こういうことはしないほうがいい」
沈黙が気まずかったので、そう声をかけた。
「……どういう意味でしょう?」
「隣とはいえ、赤の他人だから、大の男にこうやって声をかけるのは避けたほうがいいということだよ」
「おっしゃるとおりですね。ありがとうございます」
建物に挟まれた道。岩本町駅の方角には、まばらに人が散らばっている。首都高速が数十―メートル横にあって、建物の隙間から高架が設置されているのが見えた。日はすでに沈んでいて、ぽつぽつと人工的な光が浮かんでいる。
「見ていたかもしれないが、この傘はさっきコンビニで買ったやつなんだ。雨が降るとは思ってなくて、折り畳みも鞄に入れ忘れたから仕方がなかった」
「朝は、気持ちがいいくらい晴れてましたもんね」
「そうだな。というか、天気予報をあまり見ないんだ。予想外の雨が降るたびに、傘がたまっていく一方だ。あとでこの傘をもらってくれないか」
「え、そんな。悪いです」
「嫌か?」
「そういうわけじゃ……。では、もらいます」
親切心など見えないほうがいい。気を遣わせるだけだ。
「確か、尼子さん、でしたよね。表札にそう書いてあった覚えがあります」
「よく覚えていたね」
「たまにすれちがうときに挨拶したから覚えていました。わたし、人の名前はなるべく記憶するようにしているんです」
「俺は、正直、同じアパートの人の名前を誰も覚えていないけど」
一陣の風が吹き抜ける。居酒屋のある角を曲がると、俺たちの住んでいるアパートの姿が遠くに現れた。平川晴香という少女の背は低く、俺の体が風防のような役割を果たしていた。
「同じアパートにいるなんて、その程度の関係性ってことさ。変な奴がまぎ入れ込んでいる可能性もある。信用はしないほうがいい」
「はい」
だからこそ、俺にできることも、そういう分かり切ったことを伝えることだけだ。
「尼子さんは、変な人なんですか?」
おそらく、10くらい離れている俺に対して、そんなことを言ってくる平川晴香に心臓が妙な挙動を起こす。
「いい人間でも、優しい人間でもないけど、そういう変な人ではないつもりだ」
「なるほど……」
アパートの自室の前にたどり着くや、傘を閉じた。安っぽいビニール傘を差しだす。
「ありがとう、ございます……」
「じゃあな」
ドアを閉じる。明かりの灯っていない部屋に、窓から青白い光が仄かに差し込んでいる。
三和土の横に置いた傘立てには、数本の傘。だが、一本を除いて骨が折れてしまっている。
俺は、肩の雨粒を払いながら靴を脱ぐ。
くしゃみをまき散らし、マスクをはぎ取った。
ほんのり濡れた靴下を脱いで洗濯機に放り、着ていたチェスターコートをハンガーラックにかけた。セーターの袖口で鼻をぬぐう。暖房をつけっぱなしにしているから、帰ってきたばかりでも十分に暖かい。床に置いた細長い装置をどけて、壁際のオープンラックにある飼育ケースを取り出すと、がさごそと茶色の塊が暴れまわった。
ふたを外すと、透明なプラスチックの壁に体を密着させて、小さな体を仰け反らせる。
「遅くなったな」
あらかじめ一日分に小分けしたミックスフードを内部に落とす。待ってましたとばかりに零れ落ちた餌へと移動してつつき始める。
1年ほどまえに購入したハムスターだが、一人暮らしの精神安定剤となっている。名前はミミにした。こいつを買ったときの値段が3300円だったからだ。どうせ誰かにお披露目する機会もないし、たいそうな名前を付ける必要がない。
寝ころびながら、ポケットにしまっていたスマホをいじる。飼育ケースからは、ハムスターがむしゃむしゃしたり、動き回ったりする音が聞こえている。ニュース記事や匿名掲示板をいくつか眺めていると、急にスマホが震えた。俺は、ハムスターの反対側に体を回転させてから、電話に出た。
「もしもし?」
「お、陽介。仕事はもう終わったのか?」
「終わってる。なにか用か、親父」
こうやって話しているだけで、今にもタバコの臭いが漂ってきそうだった。酒もギャンブルもやらないが、タバコへの愛だけは強く、齢60を超えた今でも日に一箱は消費しているらしい。Peaceと書かれた青のライトボックスが、親父の胸ポケットにいつも入っていた。
「別に、大した用があるわけじゃないさ。生きているかどうか確認してるだけだ。東京ではなにが起こるかわからないじゃないか。このまえテレビのニュースで、電車内で暴れまわった人がいるって言っていたし。他にも駅前で刺殺事件があったとか……」
「巻き込まれてたら、先に警察から電話が来るだろ」
「わかってるって。なんにせよ、こうやって密に連絡を取ることが重要だろ。おまえはどうせこっちに帰ってこないし、電話くらいでしかまともに会話できないじゃないか」
「帰ってもすることないから仕方ないだろ。仕事も忙しいんだ」
「もう期待してないさ。雄介はちゃんと帰ってくるから、寂しくもない」
鼻がムズムズするので、ティッシュを手に取り、思い切りかんだ。ティッシュを丸めて、ゴミ箱に投げるも、うまくおさまらずに床に落ちてしまった。
「おふくろの調子はどうなの?」
「母さんか。代わるか?」
「いいって。退院してから、特におかしなところはない?」
「今のところはな。だが、俺も母さんも歳だから、いつなにが起こってもおかしくない。そんなに心配なら、こっちに戻ってきてもいいんだぞ」
「うっせえな。親父もさ、いい加減アレやめたらどうだ。せめて電子タバコに換えるとか」
「お前の言う通りだな。俺も考えなくちゃいけないな」
そこから5分程度とりとめのない話をして、やがて、最後に親父がこう言った。
「健康に気をつけて。孤独死だけはしないようにな」
「あんまり怖いこと言わないでくれ……」
電話を切ると、いつもの静寂が戻ってくる。
寝返りを打つように体勢を反対側に移すと飼育ケースのなかでのんきに食事をとるミミの様子が見える。ミミは俺を一瞥し、顔をそむけて奥に引っ込んでしまう。
一年たってもまだ、懐いてくれそうにない。