第十二話 兄
兄から電話がかかってきたのは、その週の金曜夜だった。
「おひさ」
兄――雄介は、俺の4つ年上である。俺は、あんまりこの兄が得意ではない。
「どうしたの? 子どもの声が聞こえるけど、相手してあげたら?」
「いつも相手してるからいいんだよ。それよりも、おまえに話があるんだ」
ぱーぱ、ぱーぱという幼い声と、はいはいあとでねーという甘い声のあとに、雄介が何回か咳ばらいをした。
「休みの間、たまには実家に帰ってほしいんだ。あんまり好きじゃない故郷かもしれないが、父さんも母さんももう歳だろ? いつまで会えるかわからないし、向こうもお前のことを心配している」
「電話ならたまにしてるよ」
「そうじゃない。電話していればいいという話じゃないだろ」
脳裏に浮かんでくるのは、斜面の多いさびれた風景だ。道幅は狭く、どこの家も古びていて、通りすぎるたびに換気扇からの臭いを嗅ぐはめになった。区画整理が不十分で、不規則に並ぶ住宅の間をくねくねした道が差し込んでいた。当然、遊ぶところなんてほとんどなかった。
「おまえも聞いているかもしれないが、母さんの体調が悪い。入退院を繰り返してる。あんな田舎だと病院に行くのにも時間がかかるんだ。少しは手伝おうと思わないのか?」
自分の脳みそがオフになるのがわかった。雄介の言っていることは正論だろう。しかし、そんな言葉を聞き入れる気にはまったくならなかった。
「そのうち行くよ」
「嘘をつけ。あとで、なにかと理由をつけてごまかす気だろ」
いかに電話を切ろうか考える。久しぶりで、つい電話に出てしまったのは失敗だった。
「こう見えて、俺も忙しいんだ。できる限りのことはするけど、自分の生活を最優先にせざるをえないことは理解してほしい。明日――」
明日も仕事で忙しい――なんて言い訳をさせないために、金曜にかけてきたのかもしれない。
「なんだ? 明日、用でもあるのか?」
「なんでもない。洗濯物を取り込まないといけないから、切るよ」
「おい、おま――」
容赦なく通話を切った。それからスマホの電源を落として、電話がかからないようにする。
洗濯したり、干したり、畳んだりという作業はすべて晴香がやってくれた。なので、家事をやらなければならないというのは真っ赤な嘘だ。
晴香には、本当にお世話になっている。大金を出したとはいえ、ここまで面倒を見てくれるとは思わなかった。一人暮らしの男の部屋に入り込むのはどうかと思うが、自分から言うまでもなく、勝手にやってくれる。もしかしたら、なにかをしていないと不安という気持ちもあるのかもしれなかった。
半面、実里は今のところなにもしてこない。ただ、なにもしようとしていないわけでもない。晴香と違い、実里はもうすぐ18になる。そして、最近の法改正のおかげで親の同意なくアルバイトができるようになる。
春から高校三年生でもあるから、今後の進路について考える時期が来ている。しかし、実里は誰かに頼りたくないという気持ちが強いらしく、俺に相談してくることはなかった。
――実の親のことよりも、赤の他人のことを気にしているのは、普通じゃないんだろう。
それでも俺は、自分の考えを変えようという気にはならなかった。
しかし、今日の雄介への対応について、すぐに後悔することになる。
* * *
土曜日。恐ろしいことに、休日であろうと平日であろうと、晴香は朝に押しかけてくる。
平日よりは遅い時間帯だけど、休日くらいはゆっくり寝かせてほしい。
「尼子さんは普段なにしてるんですか?」
午前九時。慣れてきたのか、当たり前のように晴香と実里がみそ汁をすすっている。徐々に抵抗感がなくなっているのは、俺も同じである。
「なにもしていない。たまに友達と会って、飲みに行くくらいだよ。俺は無趣味なんだ」
「……寝ぐせすごいですね?」
「ごめんなさい」
起きたばかりで、ろくに身だしなみを整えていない。実里も眠そうにはしているが、俺のところに来るときはいつも隙のない状態になっている。俺はもしかして、二人よりも生活力のない人間なんだろうか。
「わたしと姉さんは、たまに夜、ランニングしているんです。尼子さんもどうですか?」
「皇居のほう?」
「そうです。もともと部活やってましたから。幸い、シューズやランニングウェアは残っているので、今もつづけているんです」
ちなみに、俺の家にはランニングシューズもジャージもない。運動することを想定していない状況だ。実里は、俺の表情をまじまじ見てから言った。
「嫌ですか? わたしも尼子さんと一緒に走りたいと思っています」
俺は、驚いてしまった。こういう自己主張をあまりしないタイプだからだ。茶碗についている米粒を一つずつ拾って口に入れていた。少しだけ、顔が赤くなっているように見えた。
確かに、毎年の健康診断の結果はあまりよくない。機械の弾き出す体年齢は、いつも実年齢よりも上だし、要経過観察の項目も増えてきた。せっかくだし、運動するべきかもしれない。
どう答えようか迷っていると、急にインターホンが鳴った。
「誰でしょう?」
滑らかな動きで晴香が立ち上がったので、俺はあわてて止めた。
「出なくていい、出なくていい。宅配も頼んでいないし、どうせろくでもない勧誘だ」
「そうなんですか?」
「というか、俺の家なんだから、晴香が出る必要はまったくないぞ」
そのまま食事を続行したが、すぐにまたインターホンが音を発する。さすがに気になった俺は、ドアスコープから外をのぞくことにした。
「…………!」
そこに立つ人物を見た瞬間、声が出そうになって口をおさえた。なんでここにいる!




