第十話 返済
山手線に揺られ、御徒町に降り立つ。北口を出て、東側に進んで徒歩10分くらい。過去に調べた麓プロの事務所が、そこに存在している。雑居ビルの4階であり、エレベータが故障中のため、階段をのぼっていかなければならなかった。
「ここにいるんでしょうか……?」
不安そうに平川実里が襟をつかんでいる。すでに23時くらい。雑居ビルの蛍光灯はほぼ消えている。だから、外から入り込む光をもとに進んでいく必要があった。4階に明かりが灯っているのが見えたから、そこにはまだ人がいるはずだ。
「無理なら下で待っててくれ。なにをされるかわかったものじゃない」
「あの子を一人にするわけにはいかないです……」
「わかった。とにかく穏便にすませよう。無理に逆らおうとするべきじゃない」
「はい」
4階の事務所のドアは、少し汚れていた。凹んでいる箇所もあり、暴力的な匂いを感じてしまう。おそるおそる開くと、細長い通路と曲がり角が現れた。絨毯を踏みしめて角の先を見ると、そこには細長いカウンターとパイプいすが置かれていた。カウンターの奥には、女性が一人だけ座っている。
「なぁに、あんたたち」
手鏡を見て、口紅を引いていた。化粧で若く見せようとしているが、少なくとも四十には到達していそうだ。口紅のふたを閉め、わきのテーブルに置かれていたベルを鳴らす。と、奥のほうから神経質そうな目つきの男が現れた。
「客か? そこに座れ」
俺たちは、言われたとおりパイプいすに腰を下ろした。カウンターを挟んで向かい合う位置に男も座る。以前、平川家にやってきたなかに、この人はいなかった気がする。
「で、いくらだ。1000までならすぐに渡せる」
「申し訳ないが、俺たちは客じゃない」
男は煙草に火をつけようとしたところで、動きを止めた。それから、眉根を寄せる。
「じゃあすぐに出ていけ。話すことはなにもない」
「客ではないが、状況次第では優良な客にもなる。平川家の借金について話をしにきた」
「平川……? ははあ、そういうこと」
細い目が、平川実里を映した。そして、椅子の背もたれに背中を押しつけた。
「家族構成上、おまえみたいなやつはいなかったはずだが、彼氏かなんかか? 男を使って殴り込みたぁ、いい度胸だ」
「平川晴香が、今日ここに来ただろ」
顔色一つ変えず、男は灰を落とした。再度くわえて煙を吐く。
「意味がわからん」
「残念ながら、すでに裏はとってある。俺の知り合いに探偵の男がいる。優秀な男だ。3時間くらいで足取りをつかんでくれた」
「その男が優秀? そんな事実がないにもかかわらず?」
「今日の服装は、緑色のパーカーだった。そして、手ぶらでここに向かった」
「……」
「訪れたのは、午後1時くらい。隠そうとしても無駄だ」
「なるほど、優秀であることは認めざるを得ない」
ようやく言質を引き出した。このまま畳みかけるしかない。
「平川晴香を返してもらいたい。この国は法治国家だ。人権というものがある」
「人権? 本人が望んでいるのに?」
「借金が前提の話だろう。普通に考えて望んでいるわけがない」
「本人のみぞ知ることだ。てめえらが決めつけることじゃない」
「それを確かめるためにも話をさせてくれ」
正直なところ、俺だって恐怖を覚えている。過去、このような類の人間とかかわったことはない。ただ、危機的状況において、恐怖を覚えている余裕すらない。
「そもそも、返さない理由はなんだ。彼女はまだ未成年で、責任能力もない」
「場合によってはそれこそ価値となる」
「どうして、さっき俺が優良な客にもなると言ったのか、その意味を考えてほしいんだ」
そこで、男の目の色が変わった。煙草の火を灰皿で消す。
「これは興味本位だ。おまえはどういう関係だ。それで、なにがしたい」
話についていけないのか、平川実里が視線を行ったり来たりさせている。俺は、自分のなかに迷いがないことを再確認する。巻き込まれ事故に近い状態で、二人に思い入れがあるわけでもなく、俺自身に余裕があるわけでもない。正義感が強いタイプでもないし、まして二人に下心なんてない。それでもこの決断をする理由は、過去の出来事を経て作り上げられた自分という人格が、自然とそれを選んでしまったからだ。
俺は言った。
「関係なんてない。理由もない。俺は、そういうことをする人間だったみたいだ」
「へぇ」
男が笑う。なにが面白いのか、しばらくの間肩を揺らしていた。それから二、三回納得したようにうなずくと、そばにいた女に耳打ちをする。すぐに女がどこかに電話をかけはじめた。
一分程度の通話ののち、女が言う。
「よかったね。今のところは、手を出していないってよ」
「交渉成立、だ」
その言葉を聞いた瞬間に、俺の全身から力が抜けていく。さっきまで冷静さを保っていたつもりだったが、急にどくどくと心臓の音が聞こえるようになった。
「電話越しでもいいから、声を聞かせてくれないか」
女の人が取り次いで、スマホを渡してくれる。
「聞こえるか? 隣の尼子だ」
向こうから、息をのむような反応が返ってきた。
「どう、して……?」
現段階で、どこまで事情を聞いているのだろう。俺は、平川実里から捜索の協力を依頼されたこと、事務所まで訪れて交渉したことを伝えた。
「わたし、さっき言われたんです。もうすべて解決したから戻っていいって。なにもかも失う覚悟だったのに……。なにがなんだか……」
「そんなことはいい。なにもないんだな? 大丈夫なんだな?」
「はい……。でも、いったい、なんで急に……」
戸惑いを隠せていない。壁に立てかけられた時計を見て、終電に間に合うかなんて別のことを考えていた。俺は、バカなことをしているかもしれない。だとしても、救えたのであれば、それでよかったのだと思う。
「借金は、俺が返しておく」
その瞬間、隣の平川実里は口を手で覆い、電話越しの平川晴香は吃驚の声を漏らした。
俺はつづける。
「難しいことはわからない。恩を売りたいんじゃない。俺も、頭のなかがぐちゃぐちゃだし、これでいいのかもわからない。もう、なんでもいいから早く戻っておいで。君のお姉さんも心配している」
スマホを耳から離して、ほら、と平川実里に渡す。呆然としたまま受け取って、声を震わせながら妹に呼びかけていた。
「晴香……ごめん……」
そこから先は、涙まじりの声が事務所に響き渡った。
借金から始まった一連の危機は終わりを迎えた。闇金融からの攻撃もなくなり、姉妹は平穏な日常を取り戻すことになる。姉妹は俺の行動に戸惑いながらも、声が枯れるまで感謝の言葉を述べた。そして、俺と姉妹との新たな関係がスタートするきっかけでもあった。
……ちなみに。
闇金の男に言った「探偵」の話はすべてハッタリだった。肥後に依頼する時間なんて当然なかったから、ペットカメラ越しに見た光景とその時間帯から推察したことを、さも確認済みの事実であるかのようにうそぶいただけだ。
――賭けだったが……。
あとから思い返しても本当にうまくいってよかったと強く思う。




