プロローグ
プロローグ
有休をとり、平日の真昼間から惰眠をむさぼっているとき、それは聞こえてきた。
「そ、そんなの困ります!」
起き上がったのは、あまりにも切羽詰まっている声色だったからだ。瞼を擦って、背中をぼりぼり搔きながら、裸足でドアの近くまで歩いていく。
「それに、お父さんもお母さんも帰ってきてなくて……だから、それまでは……」
「あのな、嬢ちゃんたち」
声だけではなく、隣に誰かが踏み入る音も、そのなかで家具が動かされているような音も聞こえた。薄アパートの壁は、ドアの近くや隣の部屋の大きな物音を、打ち消すことができない。さすがに気になった俺は、チェーンをつけた状態で、こっそりドアを開けた。隙間はわずか数センチ。視界の右端にとらえたのは、二人の女の子と、やたらと恰幅のいいおっさんの姿。
「聞いてるか聞いてないのか知らんが、おまえらの両親はうちから借金してんだよ。借りてからすでに3年くらい経つか。期日までに返す約束を反故にして、散々していた警告も無視したから、こうやってわざわざ赴いてあげてんのさ。これはね、親切心ってものなんだ」
女の子達には見覚えがある。まだ女子高生だったはずだ。しかし、今は制服ではなくて、カジュアルな服装を身にまとっている。
平日なのに、学校はいいのか、という疑問が頭をもたげる。
二人は隣の住人だ。たまにすれ違うときにインプットした家族構成を思い起こすと、確か4人家族だったはずだ。父親、母親、娘二人。しかし、今は両親の姿はない。
姉妹のうち、片方は茶色の髪で、肩にかかる長さ。もう一人は黒髪で、腰まで伸びている、
「それでも、返すアテがあるってことか?」
「いえ……」
「なるほど、やっぱりおまえらじゃ話にならねえか」
「お父さんとお母さんに話してください! わたしたちだけだとわからないです!」
茶髪の子――姉のほうだったか――が、ドアの前に立ちふさがる。もう一人の子は、二人の間でおろおろするだけだった。
恰幅のいいおっさんは、尖った革靴の先端を地にたたきつける。
「逆に、それこそこちらが訊きたいことではある。おまえらの父さんとお母さん――平川友治と祐希はどこに行ったんだ?」
「あの!」
そこで、ようやく、おろおろしていた黒髪の子が声を発した。
「……二人とも、全然帰ってこなくて……。急に実家に帰るとか言って、わたしたちを置いて行っちゃったんです。でも、おばあちゃんちに電話しても、二人は来てないって」
「ほう」
「わたしたちも居場所はわからないんです。こんなことは初めてで……。あの、だから、その、もうちょっと、もうちょっとだけ待ってもらえないでしょうか」
「なるほどなるほど、かわいそうなこったなぁ」
おい、とおっさんが中にいると思しき人たちに声をかける。姉の子の背中から、ぞろぞろとガラの悪い連中が出てきた。
「ほんとにいませんぜ。どうやら、間違いないみたいです」
「そうかそうか。楽しくなってきたなぁ」
にやり。おっさんは、顔の右半分だけをくしゃりとゆがませた。
「かわいいかわいい子猫ちゃんたちのために、今日は、これで勘弁してやろう」
姉妹は露骨にほっとした表情を見せた。しかし――
「あくまで、『今日は』というだけの話。おまえらの両親が、たとえどこに消えたとしても、借金をしていたという事実も、返していないという事実も変わらない。我々は決して上品な類の人間ではなくてねぇ……。面白いことをいっぱいいっぱい考えてるんだ。この先、どうなっていくのか、楽しみで仕方がない」
声は明るいトーンだったが、底冷えするような冷たいまなざしをしていた。
安心した様子だった二人もそれに気づいて、再度、顔をこわばらせた。
こっそりのぞいていたことがバレないように、おっさんたちが踵を返したタイミングであわててドアを閉めた。外からは、いくつもの足音が威圧感を伴って鳴り響いている。
姉妹の片方の押し殺すような泣き声、それから慰めるような震えた声。
鍵をかけなおして、ドアチェーンを外す。さっきまでの惰眠による眠気はなくなっていた。
二時間くらいして、夕飯の買い出しのために外に出たとき、隣の部屋の前になにかが落ちていることに気づいた。丸められた紙。拾い上げると、そこには、こう書かれていた。
【督促状】
さっきまでのおっさんたちの緩い口調とは裏腹に、四角四面な言葉が綴られている。
――なるほど、500万円、か。
別に、俺は彼らとまともに会話したことがない。たまに出くわすときに、軽く頭を下げるくらいで、ろくに事情を知らない。
ただ、さっきの話を盗み聞きした結果、推測できることがある。
それは、おそらく、あの子たちの両親は、一生帰ってこないということだった。
夕暮れ。もう、泣き声も慰める声も聞こえてこない。あの二人は、部屋の隅で、これから先訪れるだろう脅威におびえながら、夜を過ごすのだろうか。
俺は、コートのポケットに手を突っ込んで、その場を後にした。