04翡翠の空、紫苑の夜(下)
急いで用を済ませると、青年は女の子の部屋を訪れた。
「ごめんね、待たせちゃったかな?」
半開きの扉をノックするのも変な気がして、青年はそのまま足を踏み入れる。
目の前には、床に這いつくばって何かを探す小さな姿があった。
探し物の続きをやることしか頭にないようだ。
青年は、それを手伝う前に、室内を見渡す。
ぬいぐるみやオモチャ、愛らしい衣服などが所狭しと置かれていた。
「見つかりそう?」
青年は、女の子の隣にしゃがみ込むと、真剣なまなざしでぬいぐるみをひっくり返す姿へと声をかける。
女の子は、泣きそうな声で、「ううん」と首を振った。
胸ポケットの妖精は、隠れることに飽きたかのように、ひらりと飛び上がって、青年の肩に腰かける。
そこからしばらくの間、青年は、女の子を手伝うでもなく、じっと何かを考えていた。
「……あのね」
やがて、意を決したように、青年は口を開く。
女の子は不思議そうに、どこか遠くを見上げるようにして話す青年を見上げた。
「キサーシャさんは、餓死寸前だった。駄目だよ、動けない人には食べ物を運んで行ってあげないと」
「がし…? がしって?」
女の子は、大きく一度の瞬きをした。
もう、何度も見慣れた所作だった。
「お腹が減って、死にそうになっていたってこと。大丈夫。処置をして、今は落ち着いているから」
「でもね、おばちゃんはね、寝てたら治るって言ってたんだよ!」
女の子は、ぎゅっと拳を握って、必死にそう告げる。
青年は、困ったような顔で、彼女の頬に手を当てた。
「きっと君は、眠ってもいないんだろう」
女の子は、不思議そうに首を傾けた。
青年は、言葉を続ける。
「そして君はまだ、この世に生を受けて3年程度しか経っていない。意思を持ったのは、最近なのかもしれないけどね」
「おにいちゃん…?」
「…少しだけ、昔のことを思い出したよ。僕が住んでいた隠れ里にも、ちょうど10歳になる子供が居たんだ。その子は男の子だったけどね、こまっしゃくれた物言いをする、やんちゃな子供だったよ。そう、君みたいに純粋な時期は、とうに通りすぎていた。大人が思っているほど、子供は子供じゃないんだよ」
女の子は、返事を返せなかった。
「つまり君は、10歳にしては言動が幼すぎるし、知らないことが多すぎる。人間はね、ものを食べたり、夜に眠ったりしないと死んでしまうんだ。世の中にはいろいろな情報があるけど、生きていくために必要なものはほんの一握りしかない。でも、その一握りも知らないんじゃ、この世界では生きていけないよ」
女の子の頬から手を放し、青年は静かに、床に散らばっている絵本を手に取った。
「身の回りにたくさん大切なものが増えていく…それ自体はぜんぜん悪いことじゃない。だけど、使いこなすことができないものが増えていくのは、とても悲しいことじゃないかな。たぶん、ティルという女の子は、とても苦しんでいたんだろうね」
女の子は首をかしげるでもなく、固まったように動かない。瞬きはなかった。
妖精は、じっとその様子を見守っている。
「君の名前は、なんていうの?」
絵本を小さなテーブルに置いてから、青年は、目の前の女の子の瞳を見据える。
彼女の目は、困惑したように揺れていた。
「……ない」
あわせた瞳が、徐々にうつむいていく。
「名前無いよ」
「…ティルにつけてもらえなかったんだね」
女の子の目からぼろぼろと、耐えかねたように涙がこぼれる。
「ティル…だいすき…」
「大丈夫。自分の持ち物すべてに名前を付けたりする人なんて、ほとんどいないからね。君が嫌われているわけじゃない」
ぶんぶんと、ちぎれんばかりに女の子の首が振られた。
「でもね、あっちいってっていわれた!」
「……」
「みたくないって…」
「そう……」
青年はまた、少し困ったような顔をした。
「だから、食べちゃった?」
一転して、女の子の表情が見る見るうちに嬉しげなものに変わっていった。
「うん、…おいしかったあ」
「……そっか」
何を言おうかと、考えるための間が空く。
しかし女の子は、沈黙の隙間を埋めるかのように話し続けた。
「あのね、だからね、ティルのぶんまで絵を描くの。おばさんの絵もね、描いたらきっと元気になるよ! だけどね、羽根ペンがどこにもないの」
「……、……そう。でも、今のままじゃ、絶対に見つからないと思うよ」
青年の言葉に、女の子はまた、大きく一度瞬いてこちらを見てくる。
「おにいちゃんにはわかるの?」
「…うん。君は今、混ざってしまっている状態なんだ。僕は、君が本当のことを思い出す手助けをすることができる」
青年は、首にかけていたオカリナを手に取る。
女の子は、わかったような、わかってないような、感情が混ぜこぜになったような表情でこちらを見てきた。
「んっと……やってほしい」
考えたのか、考えてもいなかったのかはわからないが、それしか答えがなかったかのような返答だった。
青年は一度だけ頷くと、オカリナに口を当てる。
窓の外はセピアがかっている。
ちょうど夕暮れがやってくるところだった。
雲のすき間からオレンジ色の明かり雪が降ってくる中で、しずかに楽器に息を吹き込んでいく。
音は繊細で壊れやすく、息の強弱を間違えるだけで、水晶のように割れ散ってしまう。
そうならないようにと、細心の注意を払っての、細くやわらかな音が、さざなみのように室内を満たし始めた。
フォルテを忘れたピアノ・ピアニッシモ。
まるで、子守歌を思わせるようなメロディだった。
次第に、淡い緑の燐光が、室内を満たし始める。
集中のために閉じた瞳の中に、淡い映像が流れ込んできた。
それは誰かの意思を伴った、ちょっとした真実の光景―――
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孤独という感情が、誰かと何かを分かち合えない事柄からくるものであったなら、ティリアラは孤独だった。
洗濯や料理は大人達がやってくれるし、音祭りの準備だってしたことがない。
ほとんどの場合、ティリアラはされる側であり、する側に回る機会は少なかった。
しかしティリアラは幸せだった。
村人から愛されていることはわかっていたし、何不自由ない暮らしは父母の出稼ぎという悲しみさえ癒してくれる。
幸せだった。7歳の誕生日が来る時までは。
自分に備わった精霊の祝福が極小とわかった途端、急に周りのことが必要以上に気になり始めた。
ひょっとしたら、みんなに見えているものが、自分には見えていないのかもしれない。
他の人の何気ない所作一つを取っても、すべて祝福があるからうまくいくように見えてくる。
料理や洗濯すら、本当は祝福が備わっていないとできないことなのかもしれない。
そしてその推測が正しいかどうかを証明することは、祝福の量が少ない自分にしかできない。
村人からのプレゼントを貰うたび、今度は何が判明するのかと、おっかなびっくり確かめていくことから始めなければならなかった。
また、村人達の視線も必要以上に気になってくる。
自分を見る彼らの瞳が、どこかで自分を憐れんでいる気がしてならないのだ。
自分はかわいそうじゃないと、何も気にしてないようにふるまい続けることは、胃の中に鉛が降り積もっていくような感覚で、思ったよりもずっと苦痛だった。
そんな生活をしていくうちに、いつしか何をやるにも億劫になっていき、部屋にこもる時間が増えていった。
ティリアラは自ら、真の孤独を完成させたのだった。
意地になって数枚の絵を描き終えた後、『不思議な羽根ペン』は、もうずっとテーブルのペン立てに収まったままだ。
見たくもなかったし、積もった埃をぬぐうこともしていない。
だからこそ、どうしてこのような現象が起こったのか、きっかけが何なのか、まるで想像もできなかった。
「ティル、ティル!」
ある日。
いつものように、行商に行くお父さんとお母さんを見送ってからすぐ、唐突にテーブルの上から声がした。
読みかけの絵本を床に置くと、不思議な顔で立ち上がり、声のした方向に目を向ける。
すると、キラキラときらめく粒子を放ちながら、『不思議な羽根ペン』が、ぴょんぴょんとテーブルの上を跳ねていた。
わが目を疑うよりも、呆気にとられる割合の方が大きかった。
ぽかんとその現象を見ていると、羽根ペンはなおも声音を弾ませていく。
「あのね、しゃべれるようになった!」
思考が、ゆっくりと事態を噛み砕いていく。
「だからね、ティル、もうさみしくないよ!」
言いながら、羽根ペンはぴょんぴょんとティリアラのほうへ跳ねてくる。
「ずっと見てたよ! ひとり、さみしいよね? いっしょにね、あそぼう!」
「……いや!!」
バシンと平手で羽根ペンを薙ぎ払う。
テーブルに叩きつけられた羽根ペンにティリアラの表情を認知できる能力があれば、おびえきった顔が見て取れただろう。
しかし羽根ペンは痛がる様子もなく、何事もなかったかのように、またぴょんぴょんと跳ね寄ってくる。
「どうしたの、ティル? おえかきとかね、しよう…?」
ひ、と喉元まで込みあがってくる悲鳴をそのままに、ティリアラは叫びだす。
「あっちいって!」
「ティル……?」
羽根ペンはぴょん、と一度だけ跳ねた。
その瞬間、今までため込んできた、鬱屈した思いの丈が、ティリアラの中で大きな爆発を起こした。
「あんたなんかが来なければ…。こんなヤな気持ちになんてならかったのに! みんなにあんな顔をされなくて済んだのに! 喋れるから何!? そうやって、私の知りたくないこと、たくさん運んでくるのやめて! あんたなんて、見たくもない!」
ぴょん。
「知りたくなかった…知りたくなかったよ…」
ぐしゃぐしゃと頭を掻きまわし、耳をふさぐようにうずくまるティリアラに、先ほどと変わらない、明るい声が降ってくる。
「んっと……お絵かきとかね、いっしょに遊んだら、いやなこと、わすれられるよ!」
「……?」
ティリアラは、恐る恐るテーブルを見上げる。
羽根ペンの周りに漂うキラキラとした粒子は、いっそう濃くなっていくように見えた。
「いっしょにね、あそぼ?」
羽根ペンの後方に、矢が放たれる前のような光の収束が始まる。
たとえ精霊の祝福をまったく持たないものが見たとしても、ただならぬ雰囲気が漂っているのがわかっただろう。
それほどに、本能の根源に訴えかけるような鋭利な空気が充満していた。
「ひっ…いや、こ、こないで…!」
腰を抜かしたティリアラの胸に向け、羽根ペンの切っ先が向けられる。
「ティル……だいすき!」
部屋に鎮座していたぬいぐるみ達の目に、一条の光が映り込んだ。
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オカリナを吹き終え、青年は目を開ける。
(今の光景は…?)
青年は、戸惑っていた。
自分の役割は、モノによって歪にゆがめられた世界を、きちんと元に戻すことだ。
何が起こったか、真実を知りたいなんて、願ってもいなかったのに。
なのになぜ、あんなものが見えたのか。
いや、それよりも。
女の子の方に目を向ける。
ティルと呼ばれた女の子の中心で、羽根ペンがキラキラと瞬いていた。
「あ……」
女の子は、外見よりもずっと幼い笑顔で、ほとんど透けている自分の胸に手を当てた。
なつかしむように、胸の中の羽根ペンを見ている。
「こんなところに、あったんだあ…」
その瞳には、もうこの場の誰の姿も映ってはいない。
「ティル……あそぼ?」
女の子は、誰もいない方へと手を差し出して、まるで見えない誰かと手をつなぐような仕草をする。
細い歌声が静かに響いた。
かーごーめ、かーごーめ
籠の中の鳥ーはー
いーつーいーつー、出ーやーる
夜ー明けーのー、晩にー
ツールとカーメがすーべったー
後ろの正面、だーあれ?
女の子が、本当に楽しそうに振り返ると同時に、フツリと姿が消える。
羽根ペンが無機質に床に落ちた。
そして、うるさいほどの静寂がその場を支配する。
青年は、ゆっくりと、羽根ペンを拾い上げた。
「…モノというのは、持ち主のことが大好きなんです」
沈黙を嫌うように、言葉を投げかける。
「長年大事にされたものには心が宿るという話がありますが……もし、見向きもされなかったモノに心が宿ったとしたら、それはどんなにか残酷なことになるのでしょうね」
扉の方を振り向いた。
わずかに開いたすき間から覗いた目と、視線が合う。
「どうしてティルの様子がおかしいことを隠していたんですか、キサーシャさん」
蝶番がキィときしんで、中年の女性が子供部屋に入ってきた。
肩に居る妖精は、もはや隠れても意味が無いと思ったのか、ピクリとも動かない。
青年は、言葉を続ける。
「意思が宿ったモノは、人に必ず影響を及ぼします。ティルに拒絶されたあの子は、無理にティルを取り込み、受肉した。そうしないと自分を保てなくなるとでも思ったのでしょう。ですが、中途半端に混ざった生命体として、彼女は酷く歪な存在になってしまった。元の形を忘れた身でありながら、世界のルールの中で無理やり生きようとしたため、村全体から見境なく力を…生命力をも吸い続ける結果になってしまった。例えるなら、ブリキのバケツに空いた穴のようなものです。ティルは世界に空いた穴となり、そこから生命力という名の水が、とめどなく漏れていく。キサーシャさん、あなたはティルの一番近くに居たため、もう少しで命まで零れ落ちていくところでした」
精神的な冷えからか、キサーシャは自分の腕を抱くように震えている。
「一緒に暮らしていたあなたには、わかっていたはずです。彼女がもうティルではなくなっていたことに」
「あの子に何をしたんだい…」
弱り切ってしゃがれた声が床に転がる。
キサーシャの視線は、先ほどまでティルが立っていた空間を見ていた。
「…僕の力を込めた音を奏でて、本当の自分を手繰り寄せる手助けをしただけです。もうティルは、人としてもモノとしても、つじつまが合わなくなってしまっていました。それこそ、村を巻き込んでしまうほどの異分子として。自分が何であるかもわからないから、言動がちぐはぐになっていくばかりだった。モノにとってはとても幸せな結末だったかもしれませんが、人として成立しない存在になったことがティルにとって幸せなことだとは到底思えない。だから僕のやったことは…ぎゅうぎゅうの固結びを、ほどいていっただけのことです」
キサーシャは青ざめたまま、体を支えるように壁に手をついている。
「あの子は……。あの子は、村の宝だったんだよ…」
「…宝を守るために、すべてを我慢して、自分も村人も死んでしまっていい…と、思えるものなんですか」
首を傾けながら聞き返す。
悲鳴のような返答が返ってきた。
「よそ者に何がわかる! ああ、義兄さんや姉さんの留守中にティルがこんなことになってしまうだなんて、一体どう説明すればいいんだろう…!! そもそも、アンタは一体誰なんだい! 誰がこうしてくれなんて頼んだんだ、勝手に村の平和を乱して…!!」
青年は、キサーシャに向き直り、スっと居住まいをただした。
「申し遅れたことを許してください。僕はユディ。モノガリの隠れ里から来ました」
「モノ…ガリ…?」
「はい。ごく稀にですが、今のように、モノが意思を持つことがあるのです。多くの人が、その原因がわからないまま、世界のバランスを欠いた事象に飲み込まれて行きます。僕たちモノガリは、ある一定の年齢になると、バランサーとして、それらを狩る使命を持って、外の世界を旅するのです。例え、余計な世話と言われようとも、それが僕たちの使命なんです」
「原因? 原因だって? じゃあ教えておくれよ、ティルがどうしてこんな目に合わなくちゃならなかったんだい!? どうして、あの子が……」
「…モノが意思を持つキッカケは、竜の夢なんです。モノノリュウという竜です。竜が、夢を分け与えるのです」
キサーシャは、まだ憔悴から覚めたばかりのような顔で、相槌も打てなかった。
「人間が見る夢も、竜の見る夢も、実はそう変わらないのかもしれません。悪夢を見るときもあれば、幸せな夢を見るときもある。悲しい夢を見るときもあれば、楽しい夢を見るときもある。どれも混沌としていて、そして…ランダムです。災害などと同じように。ティルが持っている道具が選ばれたのも、おそらくたまたまなのだと思います。真相のほどはわかりませんが、少なくともモノガリの里ではそう教わりました。僕らは、竜の夢を、正しく還してあげる存在だと」
「たまたま……。そんな……」
キサーシャは、家の壁に寄り掛かるようにして、ずるりと崩れ落ちた。
意味があったほうが、救われたとでもいうのだろうか。
ユディは、キサーシャに手を貸そうとはしなかった。
まるで、自分にはその権利が無いとでも言いたげに。
「村の異変も、きっとこれで収まると、みんなに伝えてあげてください。…これは、ここに置いておきますね」
もう、使う者が居なくなった羽根ペンを、そっと子供部屋の小さなテーブルの上に置く。
キサーシャはどこか虚空を眺めていて、返事はなかった。
ユディは静かに、キサーシャの隣を通りすぎる。
最後に、玄関をくぐる前に、キサーシャの方を振り向いた。
何もしてあげられなかった。
なのに、何か…、なんでもいい何かを、言いたかった。
「…ひょっとしたら竜は、青い空の夢を見ているのかもしれません」
かろうじて出せたのは、何の慰めにもならないような、詮の無い言葉だった。
キサーシャは、項垂れたまま、返事が返ることはない。
ユディは静かに、その家を後にした。
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「あの村、これからどうなってしまうのでしょうか~~……」
村を背にしてしばらく進んだ時だった。
ずっと黙っていた妖精が、ようやくぽつりと声を出した。
ユディは、驚いて肩に乗る姿を見る。
妖精は、そっぽを向くように、瑠璃色の草原のどこか遠くを見つめたままだ。
リルハープと出会ってから、まだ、そう長い時を過ごしてきたわけではない。
しかし、二言目には人間への不信を口にする彼女が、人間の村の行く末を案じるだなんて。
……たぶん、本当は優しい子なんだな、とユディは思った。
情を移さないために、人間とは距離を置くようにしているのだと、そう思った。
しかし、ユディには、心優しい妖精が望むような答えを用意することはできなかった。
「あのままだと、滅びるしかないだろうね。子供がティル一人だったという時点で、限界集落の判を押される資格はあるだろう。全員で都会に移住すればいいんだろうけど、村が潤っている理由が、あの霊樹のおかげだという話だからね。あそこから離れられるのか、そして高齢者が新しい生活を受け入れられるのか、色々と問題は山積みだろうと思う。…ごめんね」
リルハープは、驚いたようにユディの方を見上げた。
「どうしてご主人サマが謝られるのですか~~?」
「…あんまり優しい答えを用意してあげられなかったから。自分のしたことに後悔はないけど、せめて上手な嘘くらい、つければいいのになと、…なんだか、そう思ったんだ」
リルハープは、ひどく戸惑ったようだった。
珍しく、言葉を探すような間を空けて、辺りを見渡す。
「……先ほど、故郷の話をされていましたね~~…。記憶が戻られたのですか~~?」
「どう…だろうね。断片的に、ふっと思い出したんだ。ひょっとして、このまま旅を続けていけば、これからも少しずつ、里での暮らしを思い出せるのかもしれない。…ねえ、リルハープ…」
妖精は、静かに、先を促すような目を向けた。
「僕はさ、竜の夢を還すのは、今日が初めてだったんだ。今日は、君が居てくれてよかった。一人で背負うには、竜の夢は、重すぎる」
ユディが思い浮かべていたのは、あの誰でもない女の子の笑顔だった。
どんなに歪な存在でも、笑顔があったのに。
もっと見ていたいとすら思っていた笑顔だった。
それを消してしまったのは、他でもないユディ自身だ。
同時に、こんな気持ちを抱くはずはない、とも思う。
あれはただのモノだ、と。
きっと、人間のティルと混ざってしまっていたから、少しだけ、情を感じてしまったんだ…と、言い聞かせるように思い直す。
ユディの頬に、リルハープの小さな手が添えられた。
「…何度も言わせないでください~~。リルちゃんは、恩を返すまで、嫌がられたってついていくのですから~~、次の夢だって、一緒に背負ってあげますよ~~。ご主人サマは、ぼんやりさんですからね~~!」
ユディは、リルハープと目を合わせた。
「…ありがとう」
とっくの昔に始めた旅だった。
なのに、どうしてか、今、旅が始まったと、ユディはそう思った。
瑠璃色の草原に目を向けて、風の中を歩き始める。
地平線が、世界の広さを教えてくれているような気がした。