上の段
雪でもまた降るのか、私は吐く息の白さを感じつつ、妹が籠もる房に向かうべく廊下を歩く。ほんの半年前、目に希望の星を宿し、お勤めの為に本邸へと向かった妹。
「はあぁ、帰ってきたのは……、盆の風が吹く頃か……、籠もってからもう半年が近い、観月の宵、年越しの行事、新年の歌合わせも、勤めておれば、さぞや才をもてはやされ楽しめたろうに……」
ぼやきつつ指折り数える。歳月の速さに少しばかり切なくなる。妹は、すっかりやつれて戻ってきた。それからは誰一人にも文も出さず、気晴らしの管弦の宴を催しても顔を出さす、貝合わせを、香合わせと誘いをかけても、御簾の奥から出てこない。
十重二十重に几帳を立ててその向こうで、蹲り動かず、鬱々とただぼんやりとした日々を過ごしている。
坊主を呼んで祈祷させてみても、悪い憑き物はないという。ならば陰陽師に卦を立てて貰えば、
「何やら、鬼に気を喰われたご様子……」
「鬼、とな?仮にも入内を控えた姫様のお側近くに、その様な怪しき鬼はおるまい」
聞けば、そなたの書いた呪符がお屋敷に貼ってあったそうだぞ、と話せば、
「妹様の才知を妬む『鬼』の仕業で御座います」
そう告げられた。対処法を出せといえば、今は御心を癒やすようにとだけ、そう言い置き帰って行った。
くそぉ……あのクソ坊主に陰陽師!大枚叩いたというのに、どいつもこいつも役に立たんわ!
時の権力者である本邸のお方様から、末戚に当たる我が家にお話があったのは、扇(竹の扇)が蝙蝠(紙の扇)に変わる衣替えの季節だった。
才知溢れると名高い妹を、我が娘の女房として屋敷に上がるように、直々のお誘いである。先ずは帝の女御として来春の桜の季節に入内する姫の為、今から有能な年若い者達を、密かに集めているとの話だった。
「謹んでお受けいたします」
使者を丁重にもてなすと、父は即座に答えを出す。本邸との繋がりはあるにしろ、あってもない様な微かなもの。しがない受領である我が家、家長としてこんなに良い話を断るはずはない。
兄の口から言うのも何だか、妹は出来がいい、受領で我が家の内情は豊かだが、身分は低い。しかし金にあかせて集めた蔵書の数々、中には西国から取り寄せた貴重な冊子もある始末。
その為、幼い頃からそれを手習いの書として使うことにより、我が家は、漢文、和歌に優れた才を持ちいているのである。
歌に漢詩、あるいは器楽の才知、それは、身分低き受領階級の人間が、やんごとなき方々から、人として扱われる為の絶対的必要能力。
それを得ることにより、歌人、学者として名を馳せ、帝にも親しく呼ばれる立ち位置となる。政治的には何も力は無いが、やんごとなき方々の覚えもよろしく、現に父は風流人として確たる地位を築き上げている。
「お前が男の子ならば良かったのに」
私もそこそこは才知を持ち得ていたが、妹程ではない。代わりに銭勘定は得意なのだが。父は身内で歌合わせ等を執り行うと妹の手を読み、満足そうに頷くと決まってこう言う。
私もそうだと思う。書や琴の手も優れ、男並みに漢詩を諳んじる彼女は、私の自慢なのだから。
そんな事はございませんと、才知溢れる声で御簾越しからハキハキと答える彼女。どこに出しても、恥ずかしくないと常日頃から思っていた。
そこに降って湧いた女房の話。勿論依存は無い。肩身が狭くならぬ様、大急ぎで装束を誂え荷を作り、吉日を選び妹は、これから先の生活に胸を膨らませて、牛車に乗り込んだ。
「行ってまいります。お兄様、来春には……、禁中にて、お会いいたしましょう」
最後の別れの言葉は、何時もの妹だったのに……。
ああ!それなのにどうしてこうなった……。
「今日は殊更寒い、膳所に言いつけ、芋粥にあまずらの汁を入れて甘くしたのだが、好きだっただろう、食べないか」
乳母が膳を雀の涙程しか取らぬと、泣きついてきたので、今宵は私が手ずから運んでいる。妹は塗籠の御簾の奥、几帳の向こうに隠れている。特別に御簾の内に入り、女房達のすがるような視線の中で話しかける。
「蘇を作らせた。乳は滋養がある。餅はどうだ?今日つかせたのだが……羹もある、汁物はどうだ?力がつくよう、鹿肉で作らせた、それに餅を小さく千切って入れてある、硬くならぬ間に食べなさい」
訥々と語りかけていると、小さな返事がくる。
「……、いりませんわ、お兄様、う、う、う………」
鬱々とし、しくしくと泣いている声。はぁぁ、妹が陰気を放っているのか、重苦しい空気が淀んでいる。このままでは、屋敷内に疫病神を引き込みかねん。
「わたくしは……学を鼻にかけた、嫌な女なのですの、う………は、ぁぁ」
ポツリと漏らすと大きくため息をつく妹。
「そんな事は無いぞ、お前は私の自慢の妹だ……しかし、女の園とは恐ろしき鬼が住んでおるのだな」
膳をそろりと几帳の内に押し入れつつ答えた。
「……しの、お兄様に酒をお出しして……」
心配りに応えてくれる妹。全く……女房達の世界とは、どんな場所なのだか。身内といえど、きちんと気を使う事ができる姫なのだぞ。
「どうぞ」
温められた銚子に、干し魚の炙った物が塗の膳にのせられ運ばれてきた。
「私独りで飲むのはなぁ……お前も相伴してくれないか」
それにかこつけて食べる様に勧める。しばらく待っていると、はい……と答える声と、几帳から出るのか、衣擦れの音がする。中に控えている女房達が、介添えをしている様だ。
「……、しの、お酌をなさい、わたくしも食べます故、せっかくお兄様のお心遣いですもの……無にはできませんわ」
私はしのに酌をされ、酒をちびりちびりと、飲む。合間に干し魚をむしってしがむ。
妹は箸を取り膳の物を、ポツリポツリと食べている。甘い粥を静かに啜っている。
黙ったままで時を過ごしていたのだが、食べる事で少しばかり力をつけたのか、妹が徒然に話してくる。
「お兄様、賢い、聡いと言う事は、いけないのでしょうか、わたくしは、才知を請われたのではないのでしょうか」
「その様な事は無いのだが……そもそも才知がなければ、我らの今の暮らしはないぞ、それが有ればこそ、学者、歌人として帝の覚えがめでたいのだから……、阿呆だと、受領等、虫けらの様に扱われる、やんごとなき都人からはな」
ひと息に愚痴めいた事を話すと、器を煽る。腹に染み入る酒の熱。
「そうだと、思っていたのです、わたくしは……何も知らぬ雛でした……」
そう呟くと、お粥に合う牛蒡の未醤漬けを、ポリポリ食べる妹。
パチッ、火鉢にいこしてある炭が弾いた。紅い火の粉がちょろり、ちょろりと踊っていた。
三部構成
本日5時、6時、7時投稿で、完結致します。
かなりゆるーい設定の平安京で御座います。