二十四日目(5):第四決闘-シン・ツァイVSグラーネル・ミルツァイリンボ
「なんだ、シンか」
「やあ、ライ氏」
洞窟の出口……というわけではないが。
明らかに、この回廊の出口らしき大広間に俺がたどり着いたとき、先客はシンだけだった。
……そう。
思いっきり血を頭から流してて、包帯を巻いてる途中のシンだけ。
「敵とやり合ったのか?」
「なかなか手強くてね。さすがに最後の試練の敵だけはあったよ。
ま、それもなんとかカタがついた。ここから先、もう僕らを阻む者はいないさ」
「シンさあ」
「なんだい、ライ氏」
「あんた、嘘つくの下手だなあ」
俺の言葉に、シンはあははと笑った。
「ダメか、やっぱ」
「最後の試練ってのがなんなのか知らないけど、あんたがそこまで怪我するレベルのが残ってたら、万が一リッサとかが先行してたら死んじゃうだろうが。
あんたがそんなヘマするわけないだろ」
「信頼してくれて嬉しいよ」
「グラーネルか、相手は」
「ああ、そうさ」
シンはそう言って、ため息をついた。
「今度こそやったと思ったんだがなあ、油断した」
「会ったばかりのとき、俺、あんたから聞いたんだよな。あいつがあんたの師匠だって」
「そっか、それは教えてたんだっけ」
「あのときは俺も、力も経験もない馬鹿だったから、不用意に踏み込んじまったんだよ。悪いな」
「あはは、そういえばそんな感じだったね、ライ氏は。
成長したねえ……神になったなんていう、そんな表面だけじゃない。君はいっぱしの人間になった。口だけじゃなく、誰かを助けられるなにかになったんだ」
「ああ。だから、背伸びして加減を知らなかったあのときとは違う。
その上で聞くぞ――グラーネル・ミルツァイリンボ。あいつは、あんたの、なんなんだ?」
俺は真剣に、シンの目を見て言った。
シンはあははと笑った。
「答えなかったら?」
「べつにそれはそれでいいよ」
「そっか。そう言われると、答えないと悪い気がしてくるね」
「好きにしろ」
シンはその言葉に、少し嬉しそうにうなずいた。
「まあ、ありきたりな話だよ――戦争があった。小さな戦争だが、巻き込まれてひとつの国が壊滅した。その数少ない生き残りが、復讐の力を求めて外道に手を染めた。そんな話だ」
「それで、あいつに弟子入りしたのか」
「まあね」
「で、なにを見た?」
「地獄さ」
シンはさらりと言った。
「いや、本当に地獄だったよ。グラーネルの奴には倫理観というのがない。いや、厳密には倫理を理解しているんだけど、実感してないんだ。
たまにそういうタイプの人間がいる。こうすれば他人に『いいこと』だと思われるだろうな、というのはわかるけど、ピンと来ない。『悪いこと』のなにがいけないのかもわからない。だから善悪という判断基準がくだらなくて仕方なく見える。そういう奴が力を持ったときにやることは、だいたいわかるだろう?」
「善も悪もなく、損と得だけで動く……か」
「そう。君がよく口癖みたいに言っていた、『悪党』という方向性とも違う。そもそも彼は――善も悪も等しく踏みにじる。僕と違って、彼には自身が外道に落ちたという自覚すらないだろう。
弟子というのも口実でね。多くの人間を地獄に突き落とす悪事を何度も手伝わされた果てに、僕は捨て駒として捨てられたよ。そこを生き残ったのは、本当に偶然だ」
「そうか……でも、だから復讐したい、というんじゃないんだろう?」
「おや、どうしてそう思う?」
シンは意外そうな顔をした。
「いや、なんとなくだよ。復讐心っていうのは本当にエネルギーのいるものだ。だから、二方向に復讐するってのは、まあ、あんまり考えにくいんじゃないかなって」
「あはは、言えてる。
そうだね。僕がカイ・ホルサって神様の力を受け継いでるって話はしたっけ?」
「何度か聞いたな、たしか」
「その力を使って、最初に志した復讐は果たされた。もう僕に当初の動機はない。
まあ、グラーネルにうらみがないわけじゃないが、積極的に殺したい、と思うほどじゃなかったよ。今回の仕事だって、たまたま依頼されたから引き受けたんだ。最初はね」
「じゃあ、なんでいまさら、あいつを殺しに行くんだ?」
「なんでだろうねえ」
シンは、本当に自分でもわからない、といった顔で、つぶやいた。
「そんなに執着がないつもりで、実は執着してたのかねえ。僕は」
「……ま、好きにすればいいんじゃね?」
「おや。興味は失ったのかい?」
「正直言うと、義侠心とかで殺そうとしてるなら、止める気だった」
俺は言った。
「でもまあ、そうでないってんなら止めるのも野暮だ。だから、好きにすればいい」
「なんだい、見透かしたようなことを言うねえ。ライ氏」
「俺にそんな器用な真似はできねえよ。でもまあ、なんとなくでいいんなら当てられるかもしれないな。あんたの心を」
「ふむ。聞いてみようか」
「見ていられなくなったんじゃね? ぶっちゃけ」
俺の言葉に、シンはきょとん、として。
それから、少し嬉しそうに、うなずいた。
「……ああ。たぶんそうだろうね」
「引導、渡せると思うか?」
「たぶんね」
シンは肯定した。
「あの生き汚いじいさんのことだ。いつもなら、何重にも安全装置を作って自分の安全を確保して行動するところだろうけど――今回だけは別だ。
今回、安全なんて確保できるほどの余裕はグラーネルにはない。一か八か、乾坤一擲の賭けに出て、それに負けたんだ、彼は。だから、彼を殺しきるチャンスがあるとすれば、それはいましかない」
「……わかった」
俺は言って、広間の壁に背を預けた。
「俺はここでキスイを待つよ」
「ああ。手はず通り、揃ったら進んでくれ。
もう炎獄回路も近い。おそらくスールト機構のせいでひどい熱気だろうから、注意して進んでほしい」
「あんたは、もう行くのか?」
「うん。行ってくる」
「終わったら打ち上げしようぜ。コゴネルとかも混ぜてさ」
「期待しとくよ」
手を上げて、シンは去って行った。
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ライナーには言わなかったことだが、カイ・ホルサの後継者となるための条件というのがある。
それは、その力を私情のために使わない、という制約である。この約束を果たせる者でなければ、秘密結社『見えざる神殿』はカイ・ホルサの力の継承を認めない。
……というのは、表向きの話。
実際には、カイ・ホルサの力の継承というのは、代償に己の人間性を捧げるような行為である。ちょっとは旨味がないと、継承してくれる人間が現れない。
だから、歴代の継承者には、その欲望をひとつだけ、無制限に叶えることが許されている。たったひとつだけ。
シンはそれに、己の復讐を選んだ。
(だから、厳密に言えばこれは、規約違反だ)
そう考えて、苦笑する。
センエイには、カイ・ホルサとしてもグラーネルは殺すべき対象だ、などと言った。それは嘘ではないのだが、先ほどライナーに指摘された自身の動機を顧みれば、なるほどこれは姑息な嘘だ。
やはりセンエイはいつでも真実を見通す。自身は『偽物』を標榜するくせにだ。
(そのへん、『悪党』を自称するライ氏とは、なにか通じるものがあるのかね)
シンは考えて、それからかぶりを振った。
いまから追う相手は、気が散った状態で倒せるような相手ではない。
妖術師グラーネル・ミルツァイリンボ。地獄の顕現者にして、手強い霊魂技師だ。一筋縄では行かない。
熱気ただよい、底の石が溶岩となってあふれ出した炎獄回路を、シンは歩く。
この道は坂道になっていて、登っているように感じるのだが、その感覚はおそらく錯覚である。実際には、聖典世界もここまで奥に来ると、通常の幾何学は通用しない。
ずっと下っていったら元の場所に戻った、なんてことは当たり前。天井だと思っていたところを歩いていた、いつの間にか谷を挟んで反対側にいた、などなど。なんでもありである。
それが転生の輪だ。最果ての街テンジクの文献に曰く『向き付け不能円環類体』と類される、異形の構造体。
とはいえ、グラーネルの位置を見間違うことはない。
先ほどの交戦で、すでに彼の身体には擬制神聖文字で文字を刻んでおいた。あの呪いを解かない限り、シンには彼の居場所は手に取るようにわかる。
先ほどからグラーネルは、動かずにこちらを待ち受けている。
それがなんの理由を以てなのかは知らないが――
(ひとつだけ断言できる。あの老人が生を諦めることは、ない)
油断せず、ゆっくりとシンは進む。
やがて、溶岩の川幅が広がってきた。
よく見ると、先の溶岩の流れがふたつに分かれていて――いや、合流している地点があり、その奥に中洲のようになっている島がある。
そこに、グラーネルはいた。
結界を張り巡らし、防御を固めながら、足から流れる血を止めるための治療をしていた。
(なるほど。さっきの攻撃が足に当たったか。それで逃げることが簡単にできなくなったと)
「来たか、弟子よ」
「来たさ、師よ」
じろり、とにらむグラーネルを、シンはにらみ返した。
グラーネルは、ふう、と軽くため息をついて、
「よく、わからんのお」
と言った。
「どうしてこうなったのやら……おぬしがこのタイミングでここに来るなら、またぞろ例の『二重性』とやらに従ってかと思ったのじゃがな。
取引を持ちかける間もなく襲いかかられるとは、思わなかったわい。故に不覚を取った」
「二重性、ね」
「実際、どうなのかのう? カイ・ホルサはかつて、『愚者』フィーエン・ガスティートを熱心に支援しておったと記録にある。
最後に仲違いをしたという情報もあるが、それにしても、世界を滅ぼしてやり直すことに決して消極的ではない神性であったはずじゃ。この認識、間違えておるかの?」
「情報が古いんだよ。カイ・ホルサはその路線は、とっくの昔に放棄した。いまとなっては、ホルサの剣士が破滅を許容することは、あり得ない」
「そこは計算違いじゃったのう。……にしても、じゃ」
グラーネルはまた首をひねった。
「それを鑑みても、まだ納得いかんわい。『剣が折れとる』こと、おぬしは知っておったんじゃろう? それにもかかわらず儂を執拗に追い回す理由が思い当たらん。
世界を滅ぼせるアテが失せた儂が、その後生きようが死のうが、カイ・ホルサにとってどうということもあるまいに。実際、バルメイスの剣で取引をしたとき、おぬしが見せた態度はそういうものじゃったろう?」
「ああ。まあ、カイ・ホルサ的にはどうでもいいと思うよ。あなたの生死なんてのは」
「……まさか」
うめくように、グラーネルが言った。
「おぬし、当初の依頼に義理立てして来たとでも言うつもりか? シン・ツァイとして受けた、儂の討伐依頼を、遂行しに来たと……?」
「あはは」
言われて、思わずシンの顔がほころんだ。
「懐かしいことを言うねえ、師よ。そういえばこの旅は、そんな話から始まったんだった」
「……違う、と?」
「言うまでもないだろ。そんな酔狂な人間に見えるか、僕が」
「…………。
では、なぜじゃ?」
溶岩の川を挟んで。
ふたりの師弟が、真っ正面から視線をぶつけ合う。
「なぜ、儂を殺す?」
「見ていられなくなったからさ」
「…………」
グラーネルは沈黙した。
シンは、小さく笑った。
(なるほど、どうやら正解みたいだよ、ライ氏)
自分で言ってみてわかった。この理由は――実にしっくり、いまの自分の心意気に合う。
「そもそも、今回の騒動自体が、あなた的ではないんだよ。師よ」
「儂的ではない……?」
「そうだ。あの、何度討伐隊を組まれてものらくらやり過ごし、溢れんばかりの殺意の山を渡ってきた妖術師グラーネル・ミルツァイリンボが――
よりによって、こんな雑な負け方をするような仕掛けをするなんて。そもそもがおかしいだろう?」
シンは、あくまでグラーネルから目線を外さず、問う。
「師よ。焦ったな? 老境にかかり、自身の限界が見え、情報集めもそこそこに博打に出たのだろう? でなければ説明がつかん。あなたは――老いたのだ」
「…………」
「おそらくあなたを放っておけば、生き汚いあなたのことだ。どうせ生きて聖典世界を脱出するだろう。そして、またどこかで悪事をたくらみ、なにか不幸をもたらすだろう。
だが率直に言おう。しょぼいよ、師よ。そんな負け犬じみた放浪の果てに、なにがあるというのか。一度でもあなたに師事した人間として、率直に言おう。見ていられないほど無残だ。あなたは、ここで死ぬのがふさわしい」
「言うてくれるのう」
かかか、と笑うグラーネル。
「ま、それがみじめかどうかについて、細かい反論はせんよ。どうせ互いに、腹は決まっておるのじゃ。
――本当に儂がもうろくしたのか、身体で味わわせてやる。来い、馬鹿弟子めが」
「ふむ?」
シンは軽く片目をつぶって、魔術で周囲を精査。
来い、と言われたときに真っ先に疑ったのは、島に入らせないトラップ、あるいは島に入ることで発動するトラップの存在。
飛び移ろうとして島ごと覆っている結界に阻まれたら、即座に溶岩流にダイブである。油断はできない。
……特にそういう反応はない。が。
「よし、飛び道具で行くか」
「ぬ?」
「剣線の儀、始動」
ひゅひゅひゅひゅん、と、シンの前方を見えない剣が斬り払い。
その斬撃の跡が、文字を形作る――擬制神聖文字で編まれた魔法陣を。
そしてその即席魔法陣から、灼熱の火が飛び出した。
「なぬうっ!?」
グラーネルはあわてて杖をこちらに向け、防御陣を形成。
それに火が着弾するのを確認せず、シンは跳んだ。
溶岩の川を越え、一気に対岸まで。
グラーネルに余計な対処をさせず、一気に渡る心づもりだったが。
「!?」
がくん、と足がなにかに引っ張られるような感覚がして。
そして、盛大に溶岩が爆裂した。
同時に、その爆裂した溶岩の先の地面から、じゃがごごごごっ! と地面を割ってたくさんの土の槍が空を貫く。
「かか……かかかか」
グラーネルは笑った。
「あっさり負けすぎなのはどっちかのう、弟子よ。この程度の川も越えられぬでは、失望もいいところじゃろうて」
「そうだね」
「ぬう!?」
グラーネルがうめく。
たしかに溶岩流に落ちたはずのシンは――平然と、その溶岩の上に立って、グラーネルを見据えていた。
「最初の落下は足がらめの術。地面に普通敷くはずのものを、カモフラージュの上で空中に敷いた。こちらが跳ぶことを想定しての術だね。
で、溶岩に落ちるか、なんらかの方法でこらえて島に入るか。溶岩に落ちてなんとかするのなら、オーソドックスには溶岩を氷に変換する価値干渉。島に入るなら、さっきの罠のスイッチになっていた島の結界をやはり干渉でごまかして入る。どちらも、師に教わった魔術を使えば、簡単にできることだが」
「しかし、どちらも使わなかった……な?」
「ご明察」
シンの足下の溶岩は氷になっておらず、また島の罠結界も発動(しかも空振り)している。
グラーネルはうなって、シンをにらみつけた。
「儂の罠を――看破したというのか」
「ああ。正直あきれた執念だと思うよ……最初に魔術を教わったその段階で、僕に呪いを仕込むとはね。自分に逆らったときに魔術が発動しなくなる呪いを。
まさかこの展開を見越していたわけでもあるまいに。その用心深さ、さすがは師と言っておこう」
「……じゃが、貴様は切り抜けたな」
「実在する溶岩を幻とすりかえた。夢幻刀儀……カイ・ホルサの魔術には、あなたの呪いは無力だ」
言いながら、シンは一歩、歩を進める。
じゃじゃじゃじゃじゃじゃっ! と土の槍が立て続けにシンを狙うが――それらはすべてシンの身体をすり抜け、雲散霧消した。
「故に宣言しよう。この戦いで僕は、あなたから学んだ魔術は一切使わない。ただ、ホルサの剣士としての力だけで――押し通る!」
「言ったな、小童が!」
グラーネルは激高し、杖を高く掲げた。
「邪蛇よ、来たれ!」
「やはり蛇か!」
シンは叫びながら、グラーネルに向けて一直線に駆ける。
転生の輪――無限循環の蛇に例えられるこの場では、蛇の使役術は強化されている。油断すべき相手でもないが、
(ここは氷雪原野よりなお深い。僕の力を封印する理由はどこにもない!)
「真儀解放!」
ぐん、とシンの身体が一気に加速する。
杖の先から出た輝く蛇をかいくぐって一気に肉薄し、グラーネルの首めがけて見えない剣を一閃。
手応えは――なかった。
「!?」
あわてて蛇を避けるために飛び跳ね、その先に仕掛けられていた土槍のトラップを剣でなぎ払って、それからグラーネルを見る。
ククク、とグラーネルは笑った。
「驚いたかね、弟子よ」
「幻……! だが、我が夢幻刀儀が効かないとは……!」
「カイ・ホルサの夢幻刀儀。ま、かなり格上の術ではあるがの」
グラーネルはたしなめるように言った。
「思いあがっとらんかな、弟子よ? どんな術でも、素性がわかっとれば対策はできる。ま、儂ほど一流の術者になれば、という話ではあるがの」
「……! そうか、混線か!」
思えば、その可能性はあった。
グラーネルは、バルメイスの襲撃を一度、生き抜いている。あれもかなりの不意打ちで、命の危機だっただろう。
そのバルメイスの神威として最も有力なのは、相手に斬撃の効果を召喚する技。これを当たらなくする方法は極めて限られる。
シンも、あそこでグラーネルが生き残ると想定はしたものの、具体的な方法を絞り込むことまではできていなかったが、なるほど。
「魔術的につながっている存在までのルートを極端に長く複雑にして、遡及打撃などの類を本体に届かせるまでの時間を稼ぎ、その間に対策を取る技! 聞いたことはあったが、ここまで実用範囲で使えるとは……!」
「少しは感心してくれたかね?
ま、よいわ。これもタネが割れれば対策を取られてしまうでの。――故に、ここから先は休ませんぞ!」
「!」
次々押し寄せる光の蛇を、斬り払い、かわし、飛びはねながらシンは考える。
(通常ならば、やることはひとつだ。グラーネルの本体の位置を割り出し、直接攻撃する。だが!)
それだと、カイ・ホルサの夢幻刀儀という、こちらの主戦力が封じられてしまう。
相手の真の狙いはそこにある。である以上、シンにできるのはその逆。
「ならば、こちらも切り札を切らせてもらおう!」
シンは襲い来る光の蛇のひとつに手をかざし、それを――叩き切った。
「がっ!?」
案の定、手応えがあった。
「き、貴様、なにを……!」
「言った通りだ。カイ・ホルサの夢幻刀儀――その神髄は、幻と現実を区別しないこと。
幻を斬れば本体が斬れる。本体の攻撃は幻に変換できる。このあたりはよく知られているが、奥の手がもうひとつあるのは知らないようだな、師よ」
「まさか……」
「そう。相手の攻撃を幻に変えた上で、その幻を術者とする。カイ・ホルサにとって、あらゆる持続的な術攻撃は、むきだしの術者そのものだ」
それこそが、『秘剣』カイ・ホルサの神髄。
魔術師にして神たるカイ・ホルサは、同時に魔術師殺しのエキスパートでもあるのだ。
ぽたぽたと、なにもない空間から血が流れ出る。『混線』の技は、準備してなければ不可能だ。あらかじめ用意した幻影ならともかく、蛇の攻撃魔術には、その用意もなかったのだろう。
「秘匿していた本体の位置は割れた。もはや終わりだ」
「おのれええええ!」
魔術師が叫んで杖を振り上げる。
その瞬間に、シンは一気に踏み込んで、
――恐るべき怖気が、一瞬で彼の行動を変えさせた。
それはまさに、修羅場を歩んできたシン・ツァイという魔術戦士だからこそなしえた、究極の勘。
彼は跳んだ。跳びながら身体をひねり、後ろを向いた。
自分の下を、背後からとんでもない速度で襲う、なにか得体の知れない禍々しいものを見ながら。
シンは、剣を振り下ろした。
「まったく……やってられんわい」
盛大に血を吹き出しながら、グラーネルはぼやいた。
「最後の不意打ち。わざと血を見せて本体位置を誤認させ、誘ってからの背後からの襲撃。
あれは魔術的にも物理的にも、察知できるはずがない技だったんじゃがのう。いったい儂は、なにを失敗したんじゃ?」
もはや彼は助からない。出血に加えて、致死的な効果のある呪いを身体に刻まれてしまっている。
シンは、それを見ながら、荒れた息を整えて言った。
「師が……」
「?」
「師が教えてくれたことです。獲物を仕留める最大の隙は、そいつが『勝った』と思ったその瞬間にある、と。
僕は『勝った』と思った。その瞬間に勘が働いて、罠の可能性を疑った。後の判断はギリギリでしたが――なんとか賭けには、勝てたようです」
「かっ」
びしゃ、と血が、グラーネルの口から漏れる。
「なんじゃお主。儂の教えを使わんと言っときながら、結局最後の最後には頼っとるのか。情けない弟子じゃ」
「返す言葉もない」
「じゃが……まあ、仕方あるまいの。その情けない弟子に不覚を取るようでは、おぬしの言う通りじゃ。儂はもうろくしたんじゃろうよ」
グラーネルはそう言って、気の抜けたように、目を細めた。
それから、シンの方を見やって、
「これから、どうする気じゃ。シンよ」
「これから、とは?」
「魔人たちにとっても、聖地の民にとっても、貴様は半端に裏切った者じゃろう。いまさら儂を仕留めたところで、許しを得られるなどという甘い考えは、よもや持つまい?
どうする気じゃ? 一度外道と分類された者の歩む道は、そう楽ではないぞい?」
「どうもこうもありません。僕はホルサの剣士。それ以外の因縁はもはや、この世にありません。
ある意味、あなたが唯一だった。ホルサの剣士としてのシン・ツァイではない、ただのシン・ツァイと縁があるのは、もはやあなただけだった。だから――あなたが死ねば、ここにいるのはただのホルサの剣士になります。シン・ツァイなどという者は、この世にはもういなくなる」
「かか」
グラーネルは、愉快そうに笑い、
「そんなわけがなかろう、たわけが」
と、罵倒した。
シンは首をかしげ、
「なぜです、師よ」
「わからんか。ただのカイ・ホルサであれば、あの最後の奇襲でおぬしは死んでおったではないか。
おぬしはカイ・ホルサではない。シン・ツァイだから、儂に勝てたのじゃ。その事実がある限り――シン・ツァイは消えんよ。そうであろう?」
「……そう、でしょうか」
「死に往く師の言葉じゃ。信じよ」
「はい」
シンは素直に首肯した。
かつて自分を捨てた師が、いまは師としてここにいるのを、確かに実感して。
そして、ふと彼は、ずっと気になっていたことを口にした。
「師よ、ひとつ尋ねてもよろしいでしょうか」
「なんじゃ、弟子よ」
「なぜ、あなたは創造主などを目指したのです? いえ、そもそも、あなたはなにを目指していたのですか?」
それだけは、わからなかった。
彼に師事した短い間でも、彼がシンに気を許したことは一度もなかったが故に。
シンは、グラーネルが悪事を働く理由というものを、いままで結局、つかみかねていたのである。
「簡単なことじゃよ。実に簡単じゃ……」
グラーネルは、夢見心地のような言葉で、つぶやくように言った。
「善悪などという、くだらない感性で動き、それで人が山のように死ぬ。それが人の摂理じゃ……」
その目は遠く、ここではないどこかを見つめたまま。
「そんなものはくだらないとわかっていた。儂だけではない。誰もがわかっていて、それでも世界はそうなっておったのじゃ」
ごふり、と血を吐き出して、グラーネルは言う。
「善悪ではなく、シンプルな損得のみが報われる。そんな単純な世界にしたかった」
言葉が、だんだんと小さくなっていく。
「そんな世界じゃったら、儂も……」
そこで、言葉が途切れて。
それが、彼の最後の言葉になった。
妖術師グラーネル・ミルツァイリンボは、かくして倒れた。
おそらくその死は、大往生と呼ばれるにはほど遠いものではあったが。
しかし、どこか満足げな、そんな死に顔であった。
【余談】
二日目の段階ではライは、シンを「おまえ」と呼んでいますが、この段階では「あんた」と呼んでいます。
そのあたりに、微妙な彼の成長があったりします。