一日目(1):悪党、行き倒れる
(はあ、はあ――)
角を曲がる。
追われているのを、肌で感じていた。
敵が、近い。
(はあ、はあ、くそ――)
路地の出口が見えて、少し躊躇する。
だが止まっている余裕はない。思い切って一気に大通りへと駆け出した。
ひゅいっ。
音がして、頬をなにかがかすめる。
鋭い痛みとともに生温かいなにかが頬を伝っていくが、無視。
速度を緩めずに夜の大通りを横切り、べつの路地に飛び込んだ。
(はあ、はあ、ったく、この――)
「なんで夜走りなんかを家ン中に飼ってるんだよ、あの成金はっ!」
走りながら、毒づく。
『夜走り』という言葉に、追って来るものが、きい、と金切り声を上げた。
「いっけねぇの……魔物飼ってるなんて、神殿に言いつけたらしばり首だぜ」
愚痴を言いながら、頬を流れる血を汗といっしょに手でぬぐう。
もちろん、ンなことが通る世の中じゃないってのは百も承知。
この世知辛い時代、金持ちと文無しを同列に扱うなんて、金と銅を1:1で交換するようなものだ。
つまりは無理、無駄、ナンセンス。だれがわざわざ貴重な金づるをスラムのガキ一匹のために処刑するって?
「ちっくしょー! こんな世の中にだれがしたーっ!」
なんだかよくわからないものへの怒りを叫びながら、路地から路地へと駆け抜ける。
後方の気配は着実に近づきつつある。追いつかれるのは時間の問題だ。
(やるっきゃないか……!?)
覚悟を決めた。
いったん腹が据わったらもう迷わない。男はだまって相手を殴る、が、クラックフィールド家の家訓なのだ。
――微妙に迷惑な家訓だということには、この際目をつぶることにしておいて。
振り返りながら、俺は腰に刺したナイフを抜いて正面に構えた。
工作用のみみっちいやつだが、これしか武器を持ってない。
ほぼ同時に、目を凝らしていた闇のなかから、小さな影がぼうっと姿を現した。
全身が獣毛に包まれたそいつは、一見して小人のような華奢な身体をしていた。
だがその手は背丈よりも長く、関節が4つもあり、異常に節くれだっていて、太い。その、異様な腕を足代わりにして、身体を支えている。
足は驚くほど小さいうえに脆弱で、とても身体を支えられそうにない。
夜走り。
正式には、夜を往くもの、と呼ばれる、異形の生物。
否、生物ですらない、禁断の『ありえざるもの』だ。
「かかってこい、化け物猿!
強きをくじき弱きを助ける世紀の大悪党、ライナー・クラックフィールド様が相手してやるぜ!」
せいいっぱい威勢よく言って、ナイフを正面に構える。
応じて夜走りが、きい、と小さな金切り声を上げて……
ぽと、と、そいつの目の前に、横の建物の屋根からなにかが落ちてきた。
「え?」
目を点にした俺の目の前でそいつはもぞもぞと這いまわり、節くれだった異様に長い腕で身体を支えて立ち上がった。
夜走り、だった。
「え? え?」
ぽと、ぽとぽと、ぽとぽとぽとぽとぽと――
さらに次々に、おなじようななにかが屋根から落ちてくる。
落ちてきたそれらはやっぱりもぞもぞ動き回って、それから節くれだった腕で身体を支えて立ち上がった。
やっぱり、夜走り、だった。
「あ、あは、あははははは……」
かわいた笑い。
整列した数十体の夜走りたちが、その笑い声に反応して、ざぁっ、といっせいにこっちに振り向いた。
そのうちの一体が、きい、と鳴いて、
「んなの、ありかぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
叫び声は怒涛と化して迫り来る夜走りにかき消され、そして――
(こうなったってわけだ)
空が見えた。
きれいな空だ。
街とか森とか、高いものがある場所では、こうもきれいに全方位の空は見えない。
障害物のない場所というのは、ひょっとすると初めての体験だったかもしれない。
「……きれいだな」
……………………
「って、なごんでる場合じゃねえっ!」
がばっと起き上がった拍子に、くらくらと強烈なめまい。
同時に腹がぐぎゅるるる、と、みじめな音で鳴いた。
「ぐえっ……」
ばたっ。
「そ、そういや俺、倒れてたんだっけ」
ようやく、ここ数日間になにがあったのか、俺は思い出していた。
(あー……たしか、マリアんとこの酒場でフィーの奴が俺のことを『こそ泥』呼ばわりしやがって。
で、腹立ったからこそ泥でないところを見せてやるって宣言して、成金のウォルゲンの家に忍び込んだんだよな。
そしたら、なぜかその家で飼っていた夜走りに襲われて)
あのときは、本気でもうダメかと思ったんだけど。
(で、どこをどうやったのか憶えてないけど、ともかくその群れをやりすごして突っ切って)
それからマリアんとこに行ったんだったっけ。
そしたら『あんたをかばったら、うちまで夜走りに襲われちゃうじゃない』って追い出された。
(冷たいよな、マリア。俺もおなじ立場だったらそう言うけど)
で、もう街なんかにはいられねえって城門よじ登って飛び出したのだが。
(飛び出してから、食いもん持ってきてなかったことに気がついたんだよなぁ)
そして今に至る。
(あー、腹減った。
草は食い飽きたし、野ねずみは逃げるし。逃げなけりゃ食えるのに。
なんで逃げるんだろ。俺、人望ないのかな)
街道筋を離れて、森に入れば狼たちには好かれる自信があるが、その場合に食う側はたぶん俺じゃない。
(あー、だれか、食料持ってきてくれないかな)
交換……できるものは持ってないから、やっぱり追いはぎするしかないか。
追いはぎしやすい旅人を思い浮かべる。女とか子供とか。
(いやいや。それじゃ俺、まるで小悪党じゃないか)
やっぱりここは、いかにも卑劣そう、かつ金持ってそうな小男とかがいい。
でも、男だとこの体力じゃ押さえ込めない。
ならば連れの女を人質に取って……というのも、やっぱり小悪党っぽくてよくない。
ここはひとつ、頭の足りなさそうな悪漢に捕らわれた美少女って組み合わせで。
で、女の子を助けて、悪漢は頭が足りないからどっかそのへんの木にでもぶつかって動かなくなって。
そして、感謝のしるしに女の子が俺に食料を分けてくれる、と。
(よおし、これなら完璧!)
拳をぐっとにぎってガッツポーズ。
なにか致命的にまちがっている気もしたが、深くは考えないことにする。男は細かいことをぐだぐだ言わない、がクラックフィールド家の家訓なのだ。
と、そのとき、視界にひとの姿が映った。
小柄な女の子と大男のコンビ。
(ラッキー、さっそく来た)
ほくそ笑む。まさに思い描いたとおりの組み合わせ。
あえて言うなら、大男が優しそうで悪漢に見えないのと、女の子が楽しそうにしゃべっているので捕らわれてはいなさそうなことが難点だったが、細かい差は気にしない。
だが、
(げ、要らないやつまで来た)
いや、思い浮かべていたのとちがう人物が来たわけではない。むしろ、思い浮かべたとおりのものが来たと言っていい。
つまり、ふたり連れの前に思い浮かべていた、いかにも卑劣そう、かつ金持ちそうな小男。
ごていねいにもちょび髭と片眼鏡のオプション付きだった。芸が細かい。
(いまさら来なくていいのに……)
困った。3人では、どうやっても追いはぎなどできそうにない。
かといって物乞いはプライドに抵触する。
でも草食って生きる毎日はいいかげんうんざりだ。
(……どうしよう)
悩んでいると、
「あ! あそこにひとが倒れてる!」
見つかってしまったらしい。
(ええい、もう、なるようになれ!)
やけっぱち作戦決行。ぎゅっと目をつぶって、相手が近づいてくるのを待つ。
近づいてきたら、あとはなるようになれ、だ。
「大変! 助けてあげなくちゃ!」
(そうそう、助けてくれぇ~)
たたたと駆け寄ってくる足音。あともうちょっと。
「やめておきましょう。どうせ野盗の擬態です」
ぎく。
かなり鋭い。
「なに言ってるんですか、サフィートさん! こんなちびっこくてかわいい子が、野盗のはずがないじゃないですか!」
ぐさっ。
「チビだからといって油断するのは考えものですぞ、ポエニデッタ様。子供とは限りません。もしかしたら、岩小人のような背の低い種族かもしれませんからな」
ぐさぐさっ。
(お、俺って、そこまで言われるほどチビだっけ……?)
深く傷ついた俺には気づかないまま、ふたりの口論は続く。
声からして女の子と、たぶんもうひとりは小男のほうだろう。
「そんなこと言ったって、倒れているのは事実じゃないですか!」
「いや、ひょっとしたら人間に擬態した魔物かもしれませんな。ともかく、危ないから関わらないのが身のためでしょう」
「で、でも……ほら、こんなに苦しそうに、ぎゅっと目をつぶってますよ」
「それが怪しいのですよ。寝ているだけだったり、気絶していれば、力など入れているはずもありませんからな」
ぎくぎくっ。
そうとう鋭い。
「まあまあ、ふたりとも、そんなに喧嘩しなくてもよろしいではありませんか」
第三の声がした。
「でも、その……」
「しかし、スタージン様!」
「ほら、持ち上げてみればわかりますよ」
――瞬間的に、なんだか知らない悪寒が全身を走った。
「お、おい、ちょっと、待」
ひょい。
遅かった。
「う、うわあああああああっ!? なんだこりゃあ!?」
じたばたじたばた。
「こらこら、おとなしくしなさい」
「これがおとなしくしてられっか! おい、こら、デカブツ! ちょっと下ろせ!」
後ろから首筋をつかんでいる大男に、叫ぶ。
大男は肩をすくめると、
「仕方ありませんな。はい」
「おわっ、たっ、たっ!」
いきなり手を離され、足がすべる。結果、俺の身体は絵に描いたようにきれいにコケた。
「ってえっ!」
見上げると、大男はにこにこ笑いながら手を差しだしてきた。
「いやあ、元気そうでなによりですなあ」
「て、てめえっ! いきなりなにしやがる!」
どなって、俺は奴の手をひっぱたき、起き上がりざまに拳を相手のあごにたたき込もうと
――したところでまたさっきのめまいがぶり返して、膝ががくんと折れた。
「あ、あれ?」
やばい、これは倒れるなー、とひとごとのように緊張感なく考えながら、やってくるだろう地面とのキスを覚悟する。
目をぎゅっとつぶり、
むに。
「むに?」
地面は、やわらかかった。
というより、ぷにぷにしていた。
つけ加えれば、ちょっち温かかった。
さらにもうひとつ言えば、とく、とく、と、リズミカルに動いていた。
(やわらかくて、ぷにぷにしてて、温かくて、とくとく動いている地面……)
「ま、まさか新手の魔物っ!?」
「んなわけあるかっ!」
どごっ!
みぞおちに凄絶な衝撃が走った。
「~~~~~っ!」
頭が真っ白になって崩れ落ちる俺の目の前で、地面――でなくて、女の子は顔を真っ赤に上気させて、
「よ、よくも~~っ、ボクの胸にいきなり顔を埋めるなんて、なんて破廉恥なヤツ!」
「ご、誤解……」
「問答無用! 覚悟しなさいっ!」
怒りの言葉とともに、ふたたび拳が突き出されて。
そして、俺の意識はぷっつりと途絶えた。
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「じゃあ、この子って、ここ数日はほとんどなにも食べていなかったの?」
小娘の言葉に、いかつい体躯をした男、パゼット・スタージンが答えた。
「おそらくは。やせ具合もちょっと不自然ですし、食べ物をなにも持っていませんでしたからな。
おそらく家出人か犯罪者か、その種の者でしょう」
「かわいそう……殴ったりして、悪いことしちゃったな」
すまなそうに、小娘。
……これだ。どうせ、この後に「この子を助けてあげよう」と続くのは目に見えている。
それがわかっていたから、この小僧と関わり合いを持つのを避けようと何度も言ったというのに。
私は深々とため息をついた。
(そんなことだから左遷されたというのに、なぜ気づかないのだ? これだからガキは嫌だ……)
憎々しげに見やる。
と、小娘がふとこちらを向いたので、あわてて私は愛想笑いを顔に貼り付けた。
「どうにか、助けてあげることはできないものでしょうか、サフィートさん」
ほらきた。
予想された質問だったので、私は即答することができた。
「先日、隊商を追い越したのを憶えておいででしょう?
おそらく、我々の位置から歩いてもさほど遠い場所にはいないと思います。引き返して、彼らに預けてはいかがでしょうか」
これでまた1日のロスだ。ちくしょうめ。
小娘はしかし、感激した様子だった。
「サフィートさんはすごいですね。いつでも、わたしよりも多くのことに気づいているんですから」
さっき自分のことを「ボク」と言ってしまったことには気づいていないようだ。外面の作り方すら未熟なのか、小娘め。
お手本、というわけでもなかったが、私は内心をひた隠しにしつつ大仰に頭を下げた。
「神官の気づかぬことに気づき、手助けするのは神官補の役割です。当然のことですよ、ポエニデッタ神官」
(我慢、我慢だサフィート・パリーメイジ。
ただの商売人の息子が、金で作ったコネを駆使して、異例のスピードで神官補まで登りつめることができたのだぞ。
もう少しで、神官の位が得られる。そうなれば格段に権力が増す。もう少しの辛抱だ)
「もう少しだ。もう少しで……」
「? もう少しで、どうかしたのですか?」
はっ。いかんいかん。危うく、我を忘れて内心を口走ってしまうところだった。危ない危ない。
「いえ、なんでもありません。
……そろそろ参りましょうか?」
「話がまとまりましたな。じゃあ、私が少年の身体を持ちましょう」
言って、それまでしゃべっていなかったスタージンが小僧の身体をかつぎあげた。
【2018年7月31日追記】
いくつか、視点が切り替わるところの描写がおかしなことになっていたので、書き直しました。この部分だけではなく、他の箇所も同様の理由で書き直しています。