竜の絵
「これだけは、変わりませんのね」
私の後ろに控えて、気配を殺した男は答えない。
振り返れば、シワの寄ったシャツに少し丈の足らないスボン。白いシャツは彼にしては珍しく布地の白さを保っているからおろしたてだろうに、所々絵の具が付いてしまっている。
「とっておいても、仕方ないでしょうに」
私の呟きに対する返事はない。彼はといえば、いつも通り何かを諦めたような気だるげな態度。自嘲するように口元は歪んで、目だけは静かに不服を訴えてくる。長い黒髪は大して手入れをしていないはずなのに、もつれることなく緩くひとつに結えられていた。取りこぼした髪が肩口へ垂れている。
いつ見ても彼は、不思議な気品のようなものを身につけているのだ。それなりに整った容姿のせいだけではないような気がしたが、私は彼がどんな風に育ったかなんて知らないから判断できない。
「それは、売りませんよ」
「ええ、知っています」
低く小さくこぼされた声を拾って、裸のまま壁に掛けられた絵に向き直る。
簡素な木の額の中には絡み合う二つの色。薄く灰がかった布地に叩きつけるように乗せられた、群青と瑠璃の色。それは、雲の中で争う竜の絵だった。
群青の竜と瑠璃の竜とがコウモリのような翼を広げ、ヘビのように鈍く光るしなやかな首と尾とを互いに絡ませ、鋭い爪を鱗の生え揃った胴体にくい込ませている。
荒々しい二つの生き物は、ともすれば犬や猫や鳥やそれらの私にとって身近な生き物たちと同じように争っていて、それでいて対の動きで舞う剣舞のように静謐な、単純な動物達の持ちえない何かを感じさせる。
私はこの絵が好きだ。何度ここへ足を運んでも、初めて目にした時と同じように心惹かれる。どうにか持ち帰って私だけの目に触れるよう隠したいし、画廊にでもやってもっと多くの人の目に触れさせるべきだとも思う。
彼がこの絵を描いたのは、5年前。彼は十九で、私は十三だった。私がねだった、竜の絵。今よりずっと活きた目をして、今よりずっと優しかった彼が、私の誕生日に贈ってくれるはずだった絵。
「それで、何か用でもありますか」
「ええ、先週引き取らせて頂いた作品の買い手の方が貴方に直接依頼なさりたいそうよ」
愛想なく問われて愛想なく返す。このアトリエに踏み入る前から手にしていた白い封筒の手紙を差し出す。
「それを、わざわざ貴女が」
「私が」
言葉だけ見れば皮肉の様だが、声色からすれば単純な興味か驚きか。受け取ろうとしない男に苛ついて、壁際の長机に置いてやる。
長机の上にはいくつかの絵の具の瓶。目に付く瑠璃と群青。
「これで用は済みましたわ」
「そう、ですか」
そう広くはないアトリエの戸口へと踏み出して、名残惜しくなって振り返る。
私が執着しているのは、何なのか。名残惜しいのは、離れ難いのは、手に入れたいのは。
竜の絵、思い出のあるこのアトリエ、それから──
対峙するふたつの竜のように絡み合って、裂けた私の心は葛藤する。
このまま変わらずに。だけど、貴方のためなら変えられるのに。
同じ、冷たい距離を保って。どうすれば、手を取ってくれるの。
きっと誰も許さない。いったい、何がいけないことだっていうの。
彼が一言与えたなら、たちまちふたつの竜の均衡は破れて、勝敗が決するだろう。
押し開いた扉は存外軽くて、肩に力が入っていたのを知る。
閉ざされる扉の向こうで、小さく、名前を、呼ばれたような気がした。
ここまで目を通していただいて、ありがとうございます。
男は画家、女は画商の娘でした。
私の中では案外簡単にハッピーエンドを迎える予定ですが、悲恋っぽい雰囲気を楽しんで頂けたらと思います。