最後の晩餐
礼拝堂に集まってきた住民たちは、ハキ神国軍の兵士が100人くらい中に居たので、恐れてなかなか入って来なかった。
そこでフィリップ神父が、美しい顔で優しく微笑みながら「教会に国境や敵味方は関係ありませんよ」と言って、中に入るよう説得したので、恐る恐る礼拝堂に入ってくれた。
フィリップ神父の笑顔は、女性相手だと本当に役に立つ。
イツキは、ハビル正教会のシーバス様に借りたラグリム2枚を両肩に掛けて、祭壇の上に立ち蝋燭に火を点けた。
ラグリムとは、幅10センチ、長さは2メートル位ある濃い青い布で、銀糸で綺麗に縁取りがしてあり、同じく銀糸で特殊な模様が施された、それはそれは美しい聖布である。
ファリス(高位神父)以上の神父しか肩に掛けることは許されておらず、特別な祭礼や儀式の時しか使われることはないが、一般人はそんなことは知らない。
ラグリムの美しい銀糸が蝋燭の灯りでキラキラと輝き、イツキの顔を光で浮かび上がらせている。
ラグリムを肩に掛けて演壇の前に立つイツキは、年齢や性別を越えた、何か現実的ではないような存在に見えた。
「これより【鎮魂の儀式】を始めます。祈りの言葉は、古代語を使ってブルーノア様がお創りになられました。言葉が分からないと思いますが、死者に思いを馳せ、死者の魂(霊)が安らかに眠れるよう祈りましょう」
イツキは聖杯に水を注ぐと、高く清んだ声で祈り始めた。
実はイツキ、【鎮魂の儀式】の祈りを捧げるのは初めての経験だった。それどころか正式な祈りの言葉は書物で読んだだけだ。
昔リーバ(天聖)様が祈られていた(練習していた)のを、1度だけ少し聞いたことがあった・・・
現在正式な【鎮魂の儀式】の祈りの言葉とされているものは、ブルーノア様が創られた言葉を、分かりやすく現代語に直してあるものだった。
事故死などの時に使われるのは、現代語に直した言葉を、より略式に直されており、祈る時間も半分以下だった。
ファリス(高位神父)以上の神父でも、現代語の正式な祈りを捧げられる者は4人しか居ないし、その4人以外は略式の祈りしか捧げられなかった。長いこと戦争が無かったことと、あまりにも長い祈りだから使われる機会もなかった。
イツキはそのこと(現代語の正式な祈りがあること)を知らず、古代語を使った【鎮魂の儀式】の祈りの言葉を、つい最近覚えたのだった。
何故現代語の正式な祈りがあると知らないのか・・・それはイツキがブルーノア本教会を旅立つ時、「読める箇所だけでいいから覚えなさい」と言われ渡された、リーバ様から戴いた教典を教書としたからであった。
その本は、現在軍学校のイツキの部屋のクローゼットの中に大事にしまってある、表紙を銀糸で縁取られ金糸で文字が縫いとられている、とてもとても古い教典だった。その内容は、半分が現代語で書かれていたいるが、半分は古代語を混ぜた特殊な文字で書かれていた。
その文字はブルーノア文字と呼ばれていて、歴代のリーバが長年に渡る研究で、ようやく意味が少しだけ解読されたが、読みや祈り方は一部分しか解っていないものだった。
現在のリーバ様はその一部分だけを使って祈りを捧げていただけだが、4歳になったばかりのイツキは、そんなことなど知らされていないし、ただ美しい言葉が並んでいると感じて、記憶に残っていただけだった。
その古い教典は2冊あった。1冊はブルーノア様が書かれた原本で、リーバ様が大切に保管されている。イツキが持っているのが写しである。
原本の最後のページには、ブルーノア様の直筆で、こう書かれていた。
〈〈 我が意志を継ぐ者は、祈りの言葉の秘密を知るだろう。そして大いなる力を持って大陸を統べるだろう。この文字を紡ぐ者こそがブルーノアである 〉〉と。
8年前リーバ(天聖)は賭けに出た。この混沌の時代を救うと【予言の書】に書かれていた、《予言の子》であるイツキが教典を解読できると・・・
イツキは完全に覚えている自信は無かったけど、できる範囲でやろうと考えていた。
全3章から構成された【鎮魂の祈り】の、1章だけを今日捧げることにして、イツキは祈り始めた。
「頭上の空に昼と夜があるように、地上の生きものには生と死がある。それは決められたことであり、逆らうことはできない理である。ある人は言う。まだ生きたいと。またある人は言う、もう生きる希望もないと。・・・天と地の間の世界は、風と雲が支配し恵みと災害を運んでくる。・・・全てのことには表と裏があり、真実と偽りがある。・・・今、生きることを感謝しながら、死者の魂(霊)を葬送らん」
何処からともなく礼拝堂の中に風が吹き込んできた。
大人数がぎっちりと詰まっていたので、礼拝堂の中は熱気でかなり暑かった。吹き抜ける風が空気を入れ換え、イツキの祈りに感動していた人々に、一時の癒しを与える。
いつもなら感動の涙を流す人々だが、言葉が理解できないので、涙を流す者は居なかった。
もう1度、礼拝堂の中でふわりと風が起こった。今度は窓も壁の穴もない祭壇の奥から吹いてくる。
それなのに、イツキの髪も肩に掛けたラグリムのも、蝋燭の灯も揺れてはいない。
人々は不思議に思いながら祭壇の方を注視する。
際壇上では、祈り終えたイツキが、聖杯の中に白い花びらを入れている。
入れ終えたイツキが聖杯を両手で持ち上げた時、2つの蝋燭の灯が、炎となって天井に届くくらいに立ち昇った。そして少しだけ入れた白い花びらが、数百倍の量となって聖杯から噴き出してくる。
花びらは祭壇の奥から吹く風に乗り、礼拝堂の奥に居た人々の頭上まで舞い降りてくる。
イツキも人々も、何が起こったのか解らなかったが、イツキが膝まずき礼をとったので、皆も慌てて膝まずいた。
『神様がいらっしゃったのだ!』と礼拝堂の中の全員が思った。
もちろんイツキもフィリップたちもである。
真実は違うのだが、この時のイツキは、それが古代語で創られたブルーノア語の力だとは思ってもいなかった。
「さあ皆さん、お茶を振る舞いますので外へどうぞ」
信じられない奇跡の現象に、息をするのも忘れて神の存在を感じていた人々は、イツキの言葉でふーっと息を吐いた。そして、周りに落ちている花びらを一生懸命に拾い始める。
薔薇の花に似た少し大きな白い花びらを、神様がくださった花びらだからと、有り難そうに掌に載せて、感動の涙を流している。
『やっぱり泣いちゃうんだ』とハモンドは思いながら、イツキ先生って、本当に何者なんだろう?と考えていた。
礼拝堂の前で、住民と兵士にお茶を振る舞いながら、「今夜は肉入りのスープをご馳走しますので、カップかスープ皿を持って来てくださいね」と、マルコ神父とフィリップ神父が住民に呼び掛けている。
兵士の皆さんは、狩りの成績次第で食べに来ることになっている。
コーズ隊長とソウタ師匠が、ロームズの町の教会に到着したのは午後4時だった。
大きな猪を木にぶら下げて、2人で担ぎながら得意気に教会まで歩いてきた。
イツキはフィリップと顔を見合わせて、最後の準備をするため薬の調合を始めた。
ドグとガルロは猪を器用に捌いていく。
マルコ神父とハモンドは、隔離した病気の患者と、眠り続けている患者の様子を診に出掛けて行った。
コーズ隊長とソウタ師匠は、ハキ神国軍の本部テントに挨拶に行き、片言のハキ神国語とカルート語で各班の狩りの様子を伝えていた。
午後4時半、狩り競争に出掛けていた兵士たちが、続々と本部テントに獲物を持って帰ってきた。
勝負は、捌いた後の肉の重で決定される。美味な動物には、奨金として1頭に付き金貨1枚が教会から支払われる。
夕食と金貨の懸かった勝負である。当然兵士たちは頑張った。が、大きさで評価するなら、コーズ隊長とソウタ師匠の猪が1番大きかった。
戻ってきた兵士たちは狩りの興奮で、どこの部隊が何頭だ、やれ数ではない!とか、旨さで勝負だ!などと大騒ぎをしている。久し振りの運動で疲れてはいるが、皆満足した顔でガヤガヤと騒いでいる。
勝負は林に狩りに出た部隊が優勝し、2位はコーズ隊長がこっそり山羊を渡した部隊に決まった。残りの3部隊は量より旨さを優先し、それぞれ金貨1枚ずつを手に入れて、揉め事もなく調理に取り掛かることができた。
約8,000人分のスープ作りは、軍の鍋も借り町中の鍋を集めて、町の女性200人も手伝って始まった。
イツキは【魔獣調査隊】全員を礼拝堂の祭壇に集めて、今日最後の作戦確認を行った。そして、黒蝶真珠のように輝く瞳で、全員の顔をしっかりと見て頷きこう言った。
「さあ、最後の晩餐を始めよう」と。
そして神に祈りを捧げ願った。
作戦成功と、これ以上住民が飢えずに戦争が終結しますようにと。
他の7人のメンバーも、イツキの後ろで共に神に祈った。
ハキ神国軍の占拠以来、暗く沈んだロームズの町の人々の顔に、久し振りに笑顔が戻っていく。
午後5時半には早目に作り始めた猪肉のスープが、収容所の男性たちに届けられた。猪肉は煮込み時間が殆ど必要なく、だしも出て少し甘めの味に仕上がった。
収容所に入れられてから初めて食べる温かい食事だった上に、少ない量だが肉も入っていたのだから、その喜び様は言うまでもない。
午後6時になって子どもたちが集まってきた。いい匂いに誘われるように鍋を囲んで、待ちきれない気持ちを我慢しながら出来上がりを待っている。
同時に作っていたのが、ハキ神国軍の入賞した兵士の分のスープで、イツキ自らが軍学校特性スープの味を真似て作っていた。
兵士たちのスープは、感謝の気持ちと作戦遂行のため、青菜と美味しい肉を使った少し厚切り肉が入っている。
『明日の朝には、このスープを食べた兵士の中から眠り続ける者が数十人出ることになる。どうか作戦が成功しますように』
フィリップは、自分が無作為に選んだ肉に仕込んだ、睡眠薬エピロボスグリナ草が効きますようにと、神父らしく神に祈りを捧げてから、出来上がったスープを兵士たちのカップに注いでゆく。
イツキは、本部テントで休んでいたイグニード副司令の様子を診がてら、病み上がりにも良さそうな薬草入りの特別スープを渡そうとやって来た。
「イツキ様、シュルツとグードから聞きました。奇跡を起こしてくださったと。ありがとうございました」
イグニード副司令は、他の兵には聞こえぬよう小さな声で礼を言いながら頭を下げた。
「いいえ、全ては神のご意志ですから。薬膳スープですお飲みください」
と、明るい笑顔で応えて、スープを差し出した。
そこへ1人の兵が走ってきて、目覚めて熱も下がったイグニード副司令に、ある報告をした。
「副司令、ブーニクス大尉が宿舎を抜けて、勝手に本陣に向かいました」と。
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