第三話「魔法使い」
第三話「魔法使い」
1
木々の葉に、渋みの色が見え隠れする。
寮の前に溜まった紅葉を、箒で集める寮の管理人に挨拶をして、辰巳は学校へ向かった。
吹きつける風に目を細め、土曜日なのに、と呟いた。
部活動をしていない生徒も体育祭の準備に回される。
ポケットに手を突っ込んで歩いていると、ほのかに甘い香りが鼻をつつく。花屋を横切るところだった。ガラス張りの店頭に台が置かれており、秋色の花々がその上にずらりと顔を並べている。
また、背丈のある草木が周りを囲んでいた。
店内ではスーツを着た男性が、キンモクセイの鉢を手にし、カウンター越しに女性と談笑する。エプロンを着たその女性は、店長という名札を胸に付けていた。
綺麗な女に男は弱いらしい。スーツの男は間抜けにも頬が崩れている。
辰巳は歩幅を広げ、花屋を通りすぎた。
鼻を擦り、学校の校門を抜ける。グラウンドには陸上部が集まり、トンボを引いていた。なぜかユニフォームに着替えている陸上部員たち。
憐れな彼らを横目に、向かった先の下駄箱では、運動の嫌いな生徒たちが愚痴を吐き合っていた。面倒臭いのは、皆同じのようだ。
「おはよ」
教室にいた前川に挨拶して席に着いた。
「いつも元気がないが、今日はすこぶる調子が悪いみたいだな。風邪気味か?」
前川が机の上に座る。
その尻を叩いて退かし、辰巳は突っ伏した。
「んー、いや。土曜と日曜がなくなるのは嫌だな」
「月曜日が休日になるんだからいいだろ。月曜に予定が無いなら、カラオケ一緒に行くか? 後部と他数名も参加するんだが」
「バイト、見つけるつもりだから、また誘ってくれ」
「そうか。なら俺もやめるか。耳、痛くなるし」
「いいのか?」
「転入生の歓迎会を兼ねているらしい。寿美の発案だ。強制連行みたいな感じだったから、バックレても問題ない」
「後部は、お前を無理やりつれていくんだろうな」
「言うな。どうにかして撒いてやる。そろそろ、俺が優位に立っていることを教えてやらないといけないからな。いい機会だ」
意気込む前川だったが、目は虫のそれ。光が見られない。
前川を憐れむ暇も無く、教室の戸が開け放たれて現れたのは、背の高い女子生徒。後部だ。ずんずんと歩み寄り、小柄な前川を抱きしめる。
「おっはよー辰巳くん!」
「おはよう。前川、カラオケ行かないって」
「え? そんなの許さないよ」
何が許さないんだ、と言いたげな表情の前川。
それを無視して、後部がきつく抱きしめる。
(カラオケ当日は、部屋に匿うことになるのだろうか。面倒だ。)
チョークスリーパーを極められ、悶絶している前川に助けを求められたが、無視した。
「辰巳くんも来るよね?」
「俺はいいよ、お金ないし」
「転校生をもてなしたいから、なるべく大勢がいいんだけど」
「ごめんなー」
「うーん。仕方ないかー」
川鍋が教室に入ってきて、後部は身動きの取れない前川を連れ、席へ戻っていった。
川鍋は机を叩き、静粛にするよう促す。
「休日に登校ご苦労さま。うん、全員いるよな。では早速、準備に取り掛かってもらう。委員会の生徒と、三年に従ってがんばってくるように。困ったら職員室な」
川鍋が作業の分担を始める。出席簿と黒板を使い、適当に生徒を割り振っていく。グラウンドの整備と飾り付け、体育倉庫からの道具出しを数人。当日は市長も来賓するので、教室の掃除も欠かせない。
辰巳、前川、後部の三人はまとめて体育倉庫に派遣された。他のクラスからも数人、送り込まれる。
体育祭実行委員の命令に準じ、大玉や玉入れの籠の準備に取り掛かる。
2
前川と後部が、二人で玉入れの籠を運ぶ。
校内では有名なカップルだ。四六時中一緒にいるように見えて、案外、そうでもないことを辰巳は知っている。前川からすれば、友だちの延長線上の関係に過ぎないことも、辰巳は薄々、感じていた。何故だかは知らない。
倉庫の入り口の隅でさぼるように、辰巳はその様子を眺めた。
辰巳も男女の関係を気に掛ける年齢だ。ふと思い出したのは、前川の顔である。
「おい、そこ。手伝ってやれ」
メモを確認していた実行委員に、見つかってしまう。
実行委員の指差す先を見やる。
辰巳と同じく、一人になった女子生徒が籠の傍に居た。顎に手を置き、籠の前で小首を傾げていた。
辰巳は言われた通り、籠の足部分を持った。見た目よりも重い。
そこにいた女子生徒も、すかさず籠を持ち上げる。
「名前、なんて言うの?」
一緒に籠を持つ女子生徒に、話しかけられた。
頭の両サイドに長い髪をまとめた女子生徒だ。着ている学校指定のジャージには、張りと固さが残っている。
「名前おしえてよう」
柔らかい喋り方をする子だった。
「辰巳。上村辰巳だけど」
「タツミ……うーん、カッコイイ名前だね」
「よく言われる」
「え? なに?」
「……えーっと、キミは」
「私はネイロ、橘音色。二年の転校生なんだけど、分かるかな。まだ同じクラスの人の顔も覚えられていないんだよね」
橘音色と名乗った生徒は、夏のひまわり畑のように、眩しく笑う。
「あぁキミが、隣のクラスの」
「あっ、隣なんだ。よろしくねタツミくん」
グラウンドの朝礼台の隣に籠を寝かせ、平均台の運搬に移った。長く重量のある平均台を女性が持つのは厳しい。
助けを呼ぼうとする辰巳を制止して、橘は平均台に手を伸ばす。袖をまくり、無駄な肉のない腕で、片側を持ち上げてみせた。無理をしているようにも見えない。
「ほら、そっち持って」
「力持ちなんすね」
「それ、女子に言うかな普通。デリカシーないよー、チミー」
「すいません。悪気はありませんでした」
「というか、同級生なんだから敬語じゃなくていいよ」
「ん、そうか。それじゃ、えっと」
「ネイロ。橘音色」
「橘、でいいか。そっち、しっかり持っていてくれ」
辰巳も負けじと平均台を持ち上げて、倉庫の外に持っていく。以後も、二人一組で作業する流れになった。辰巳はそのまま橘と組む。
陸上部員と共にトンボでグラウンドをならし、石灰で線を引いていく。力のいるトンボでのグランド整備も、橘は汗一つ垂らすことなく熟していく。
「橘はスポーツとかやってたのか?」
「剣道、弓道、柔道に空手、水泳、ダイビング。球技もほとんどやってたよ。どれも好きになれなくて、長続きはしなかったけどね」
捲られている袖から、血色の好い腕が伸び、トンボを握りしめる。長距離ランナーのように引き締まった腕だ。
橘は頬に手を当て、苦い笑いを浮かべる。
「太って見えるのかな」
「いや、そんなことない。首回りとかもすっきりしているから、気になっただけだ。にしても、いろんなこと経験しているんだな」
「裏を返せば、飽き性ってことだけどね。辰巳くんはなにかやっていたの?」
「スポーツはからっきし。中学んときから寮暮らしで、バイトとかしていたから、部活もやってなかった」
「そうなんだ。やっぱり、良い大学に入りたくてここに?」
「まあ、そんなところ」
「ごめんね、詮索してるみたいになっちゃって」
「いいよ。学校のことでも分からないことがあったら聞いてくれ。まぁ、クラス違うから滅多に顔は合わせないだろうけど」
「私のクラスのみんなも優しいから、気を遣って話しかけてくれるんだよね。転校生ってだけなのに」
「転校生ってそういうもんだろ」
「息抜きしたいときは、そっちのクラスに遊びに行こうかな」
「どこのクラスに遊びに行ってもいいが、女癖の悪い奴に目を付けられないようにしろよ。真面目な奴が多いけど、やっぱりそういうやつの一人や二人いるから」
「辰巳くんは、そこのところどうなの?」
「外見も中身も可愛い子は好きだよ。そんな子たちに当たっては砕けを繰り返している畜生でございます」
「そこに直りなさい、畜生め」
「……後生ですから、どうか腹切りだけはご勘弁を」
二人してトンボを止めたので、川鍋に見つかるなり、怒鳴られてしまう。
昼にはあらかた準備が終わり、食事にありつくことが出来た。
前川、後部と合流して教室に戻ろうとする辰巳に、橘が駆け寄ってくる。下駄箱で砂埃を払っている時だ。
ぞろぞろと生徒が集まる下駄箱前で、橘はこけてしまう。
「うぉっ」
という低い呻き声を上げて、辰巳の背中に頭から突っ込んでいく。
辰巳は予期せぬ鈍痛に悶え苦しんだ。一瞬だけ息が出来なくなり、地面に沈む。
コント染みた惨劇に周囲がどよめく。先を歩いていて巻き込まれずに済んだ前川が、辰巳の背中をさする。
「大丈夫か?」
「あ、あぁ」
何事かと振り向けば、女子生徒が血の垂れる鼻を抑えてうずくまっていた。
「橘?」
後部に介抱されながら、橘は黙って頷いた。
3
よく晴れた空だった。乾いた空気で喉が痛む。
応援席のシートにじっと座りながら、辰巳はクラス対抗の玉投げを観戦していた。飛び交う声援、鬨の声。教職員も入り混じり、得点を競い合っている。
例え熱気に満ち満ちようと余所事で、寒気は治まらず、体が震える。風邪だ。
常備薬を飲み、登校してきた。出場予定の競技はクラスの友人に任せ、応援だけはしようとグランドに出たはいいものの、頭が重くてそれどころではない。
ふらつきながら立ち上がる。クラスメイトに一言、伝えてから保健室へ向かった。
喉奥に残りそうな刺激臭が鼻を襲う。辰巳は保健室に入るなり、保険医に説明して、空いているベッドを借りた。
横になるだけで、頭が軽くなった。
保健室から先生が出ていく。怪我をした生徒を見に行ったようだ。
軽くなった頭で少しだけ、ものを考えてみた。これからどうするか。
目蓋の裏に焼き付いた田舎の風景が、気持ちを後退させる。ホームシックだ。風が首筋を撫でたような気がした。
辰巳がくしゃみをすると、隣のベッドで布が刷れる。
すかさず謝罪の言葉が出た。
「すいません」
「いえ、寝てますのでお気になさらず」
先客は女子生徒だった。判断材料が声しかないので、声の高い男の可能性もある。
「はあ」
「貴方も体育祭が嫌いで?」
二枚のカーテンを挟んで話しかけてくる。
辰巳は肘をついて上半身を起こした。
「具合わるくて、それで休みに……」
「そうなんですか。風邪ですか、へぇ」
「……なんすか」
「五メートル以内に近づかないでくださいね。私、日の下に出るのもしんどいくらい虚弱なので、風邪なんか引いたらぽっくり逝ってしまいます」
隣のベッドが軋む。寝たのだ。
消毒液の臭いが染み付いたベッドの上で、辰巳も目を閉じた。入学以来、近づいたことの無い保健室は、居心地の悪い場所だった。ベッドは固い。
(こわい。)
それでも長い時間は眠った。途中で、川鍋が保健室に来て、先客となにやら揉めていたが、寝返りをうって気を紛らわす。
ベッドを覆うカーテンが、赤橙に塗りたくられる。体育祭の喧騒は止み、生徒たちは片付けに移っていた。
秋めく風に鳥肌が立つ。熱は下がり、難なく布団を退けて起きあがれた。
隣のベッドのカーテンが揺れる。女子生徒はもういない。
ふらりと立ち上がる辰巳。
前川が出入り口の椅子に座り、本を読んでいた。
「お前、なにやってんだ?」
「なにって、お前の事が心配で見に来たんだ」
「お、おう。なんか悪いな」
「っていうのは建前で、片付けをサボりたかっただけなんだけどな」
下校のチャイムが鳴った。本を閉じて前川は立ち上がる。
「ほら辰巳、帰るよ」
「俺は手伝ってくるよ」
「病人はさっさと家に帰る。これ常識」
「もう治った」
歩き出す辰巳だが、その足元はおぼつかない。壁に手を付いてしまう。
「嘘を吐け、嘘を」
「朝から何も食ってないだけだ」
「優等生っぷりを教師方にアピールするほど、成績は悪くないだろ。いいから今日くらい休めって」
腕を引っ張られて学校を出た。
寄り道をすることなく帰路に着く。車道をトラックや乗用車が、忙しなく行き交う。
商店街に差し掛かる手前。前川は自動販売機でスポーツドリンクを買い、辰巳に渡した。
「さんきゅ」
「歩くの辛いならタクシー呼ぶか?」
「そこまでしてもらわなくても大丈夫だ」
信号が変わり、雑踏する交差点で人とぶつからないように歩く。
辰巳は鼻をすすって顎を上げた。
「どうした? やっぱり辛いんじゃないのか」
「いいや。折角の体育祭がな。年に一回、しかも三年だけ。そんなときに限って体調を崩さなくても、って思ってな」
「ふむ。らしくないことを言うな?」
「やっぱ、変か」
「季節の節目だ。犬にかまれたと思って忘れるんだな」
後方で信号機の誘導音が鳴っていた。辰巳の肩を強引に持ち上げようとする、軽快なメロディだ。前川が横で鼻歌を歌う。
辰巳はこめかみを押さえた。聞き覚えがあった。足から力が抜けて、その場で倒れそうになる。前川に手を借りてしゃがみ込む。
「タクシー呼ぶか」
「ちょっと、立ちくらみしただけだ。腹も減ってる」
「なら良いんだが……ん? うぉっ、なんだ、ありゃ」
不意に驚嘆する前川の視線を、しゃがんだまま追う。
中型のトラックが、猪の突進を彷彿させる速度で、先の方から近づいていた。対向車線の車を停止させ、蛇行しながら走ってくる。
それに気づいた歩行者は皆一様に、慌てて路地裏へ逃げ込んでいく。
「おいおいおいおい。やばいぞ。俺らも」
「あと、頼むわ」
「は? お、おい! 待てって!」
辰巳は低い姿勢で走り出した。
マスクとペットボトルを投げ捨て、後方へと向かう。歩道の真ん中で座り込んでいる子どもを見つけたからだ。
前川の言葉も無視して、子どもの下へ駆けていく。
○
トラックはガードレールにぶつかる。だが、跳ね返るようにして進路へ戻り、止まることなく直進する。その先には子どもがいる。
(風邪を引いたのも、体育祭に不参加だったのも、この時のためではないのか。)
絞まるような胸の痛みに、歯を食いしばる。
トラックの方が速い。辰巳が子どもの身体を抱えた時には手遅れだ。
信号機の音響装置からメロディが流れる。
ビスケット。ポケット。歌詞が自然と頭の中に浮かび上がる。口遊もうとして足を止めれば、粉微塵に吹き飛ばされることだろう。
足が逆方向へ折れ曲がり、頭部から地面へぶつかる。頭部は原型を留めず、トマトのように爆ぜる――事故の鮮明なイメージが、頭痛とともに浮かんでくる。
「辰巳ぃ!」
前川の叫びと泣きじゃくる子ども、それと耳に突き刺さる甲高いメロディに耳を抑えたくなる。加速するトラックのエンジン音も、やかましい。
辰巳は全ての音を振り切るように地面を蹴った。反対側の歩道へ、飛び込む。
○
子どもを胸に抱えていたので、空中で仰向けになる。
(止めなければ、止めなければ。)
辰巳の念が届いたのか、トラックが十メートルほど手前で鈍い音を立て、止まった。
背をうって、呻き声を漏らす。半身を起こし、揺らぐ視界に、トラックの姿を捕えた。
トラックは黒い壁にぶつかっていた。
コンクリートの地面を割いてめり込んでいる黒い壁は、車の行く手を阻むために造られていた。壁の正体は屋根瓦の束。生えたのか、降ってきたのか、分からない屋根瓦の束がトラックを止めた。
辰巳は抱えていた子どもに視線を落とす。子どもは辰巳の胸の中で泣きじゃくっている。
壁――屋根瓦が崩れ、フロントガラスにひびを入れたトラックが顔を出した。運転手はハンドルに突っ伏して気を失っている。
その光景を見ていた者は少ない。ほとんどの人間が、歩道から逃げ出していた。前川も呆然と佇み、屋根瓦の壁とトラックから目を離さない。
そして、辰巳の手には当たり前のように拳銃が握られている。
重い拳銃を握りしめ、辰巳は辺りを見渡す。スーツを着た会社帰りの男性、中学生、割烹着姿の女性、皆一様に目を見開いている。壁を作った張本人を見つけることは叶わない。
糸が切れたかのように、辰巳は横になった。子どもを退けて空を仰ぐ。肺と背が痛む。
拳銃が消えても、首をかしげることはなくなった。
顔面蒼白で走ってきた前川の手を借り、起き上がる。
「アホ! お前っ! 無茶するなアホ!」
頭をド突かれて、辰巳は我に返った。
「アホって二回も言うな」
前川が息を呑み、また息を呑んで、張っていた肩と、振りかぶっていた拳を下ろす。
「……そっちの子は無事か?」
「大丈夫っぽいけど、泣き止まない」
前川が子どもと視線を合わせて話をする。その間、辰巳は辺りの様子を伺っていた。
「あぁ、もう。なんだ、これ」
人だかりができていた。トラックと同じ高さほどの壁は、辰巳が瞬きをすると、地面に穴を残して無くなってしまう。ざわめきが一層、大きくなる。
子どもの手を握り、前川は頬を引き攣らせながら言った。黒目を塗り替えてしまうほどの、大きな黒い塊がそこにはあった。
「ハハッ。夢でも、見ているのか」
「夢じゃねえ。瓦だよ。屋根瓦」
「見りゃ分かっ……あぁ、もうなんなんだ。ははっ、ありゃあ、なんだ」
カラ笑いをする前川。ヘリコプターが寮にぶつかった時も、青ざめた表情をしていたのだろうと辰巳は思った。
パトカーと救急車のサイレンが聞こえてくる。
警察の事情聴取から解放され、前川と無言の時間を過ごした。部屋で茶を啜るだけ。日が落ちてから、前川は立ち上がる。深呼吸してから辰巳の部屋から出ていく。
食堂の席に着いた。晩の食堂は事故の話題でもちきりだった。
「なんでも、突風で飛ばされた屋根がトラックを止めたらしいよ」
「うっそくせー」
「お前だってひしゃげたトラック見てきたんじゃないのか?」
「屋根なんか見てねえ。それより、今日マネージャーが校内で幽霊見たって騒いでたぞ」
「あのビッチが? どうせ文化部の生徒と見間違えたんだろ。よくあるよくある」
大盛りカレーと、色彩豊かなフルーツサラダを前にしても、食欲は失せたままだ。辰巳は口を覆い隠す。胃が石のように硬く、重い。
運転手の発作による運転の不手際が事故の原因だ。運転手を含め、怪我人は出なかった。
スプーンを落とし、その金属音に体がビクつく。横の席でカレーを食べていた生徒も椅子を鳴らした。
「すいません」
よく謝る日だった。
髪の長い女子生徒は、正面の壁と向き合ったまま、口を開いた。
「聞きました? いやぁ世も末ですね……。幸い、体育祭の片付けのおかげで、ここの寮の生徒は事故に巻き込まれずにすみましたね。よかったですよね」
前髪の下で頬を吊り上げる。
「えぇ、はい。よかったですよね」
話に乗り気ではないが、エネルギーを使って無理やり腹を空かそうとする。
「屋根が降ってきた……なんて、アナタは信じますか?」
降ってきたかどうかはさておき、現場にいて、体験している。屋根瓦に救われた。
辰巳は答えるのが面倒になって、持ち直したスプーンでカレーを掻き込む。
「私は信じますけどね……。事故が起こったことも、被害が無かったことも、どちらも事実ですからね。そういう、運命だったんですよ」
辰巳は怪訝そうに視線を向ける。
しかし、女子生徒は臆さず話す。
「たとえ、誰かの手が加わって、トラックが止まったとしても……です。運命論ってやつで、始めっから決まっているんです。結末も何もかも……。すいません。ウザいですよね。すぐ退くんで勘弁してください」
女子生徒は長い髪で顔を隠して席を立った。
翌日、屋根瓦の事故はニュースにも取り上げられたが、屋根瓦に関する情報が流されることはなかった。道路に開いた穴も修復された状態でテレビに映る。
4
猫塚への電話は、いまだに繋がらない。
パンを齧りながら携帯を弄る。前川と後部が睦まじく食事をしている。後部が一方的に前川を餌付けていた。
辰巳には、前川がなぜ後部を拒絶するのか、分からなかった。後部は背こそ高いものの、気配りができ、元気に溢れ、男女問わず人気がある。
「なあ辰巳」
口の中に箸を突っ込まれながら、前川は神妙な面持ちで言った。
「事故のことか」
聞かれれば、猫塚のことも含め、辰巳の知る限りのことを全て話すつもりでいた。ただ自分から話すことは決してない。
「そのことはもういい。分からないことは考えないよ。辰巳はまだ気になるのか」
「いや。考えても分からないよな、普通」
「飛行機が飛べる理由も厳密に証明されていないんだ。事故現場の近くの家から屋根が、形を保ちながらどうやって吹っ飛んできたのか、些細なこと……些細な……」
前川はしかめっ面で不服の様子。口では自らを納得させようとしている、ように見受けられる。
「で、なんだ。なにか他に言いたいことがあったんじゃないのか」
「あぁ。コイツをどうにかして」
「だとさ後部」
「無理だねえ。飛鳥はツンデレだなあ」
「いまさらツンツンするなよ前川。もう長い付き合いになるんだから、見られるくらい平気だろ?」
「辰巳……キミは都合が良すぎる……」
光の失せた眼も、何度も見てきた。
ぼうっと頬杖を突く辰巳の肩を、橘音色が叩いた。
橘は手に弁当箱をぶらさげている。花柄のフキンに包まれた、二段弁当だ。
「やっほ」
「おお、橘」
頭の両側で束ねた髪が、ぴょん揺れる。そして、まばゆい笑顔は絶やさない。
後部もそれに負けないくらいの笑みを返した。
「音色ちゃんコンチワー!」
「こんちわっ。すっごいね二人とも。昨日のカラオケのときも思ったけど、めちゃらぶじゃーん」
柔い囃しに、やめてくれ、と前川はうな垂れる。
「付き合ってないんだよね?」
「飛鳥ったら恥ずかしがり屋だからー」
「付き合うのはまだ早いって言ってるだけだ。それに、お前は視野が狭い。もっと周りを見て、歳を食ってからでも、遅くなっふごお」
弁当を食べさせてもらっているのに、断固として認めない。
コロッケを口に突っ込まれる前川を置いて、辰巳は席を譲ろうとして立ち上がる。遠慮する橘に、もう食べ終えたから、と強引に言って聞かせる。
「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとね」
「立ったままじゃ飯、食えないだろ。それでカラオケは楽しかったか?」
「楽しかったよ。ここの試験って割と難しくて、てっきり、ガリ勉な学生さんが多いのかなって思っていたから、ちょっと意外だった」
「こいつらみたいに、ところ構わずイチャつくカップルもいるしな」
前川と後部を親指で差す。学校の規則上、不純異性交遊は禁止なのだが、年頃の学生に恋をするなと、口酸っぱく言えるはずもなく、純粋な異性交遊だから大丈夫だ、と学校側は黙認しているのが現状。
「辰巳くんはなんで来てくれなかったの?」
「金がなかった。バイト始めるつもりだから、機会があれば一緒にカラオケ行くか」
「行こう行こう。私もバイトしたいな。辰巳くんと一緒のバイトしようかな」
弁当箱を開けた。揚げ物や野菜が華やかに飾られている。
橘は小さめの端でそれらを摘まんでいく。
「あー、止めた方がいいよ。ソイツの言うバイトって大抵、体力のいる仕事で、コンビニや本屋の接客業みたいなやつじゃないから」
橘の箸を止めるように前川がアドバイスした。
「体力は自身あるからいいけど。どんな仕事?」
「隣町の銭湯の掃除、朝刊配達、あと土木とかやってたよな」
「土木は短期しかやったことない。あと自販機の補充とか喫茶店のバイトも。つっても、もう受験前だからそんなにキツイものは探さないよ」
珍しいモノを見る橘の目に、辰巳は不安を覚えながら、カバンにパンの袋を突っ込んだ。
辰巳には遊んでいる暇などないのかもしれない。実家へ戻って話し合う日までは大丈夫だ、と根拠のない理由で、なんとかして地に足を付けている。
下手の考え休むに似たり。ヘリコプターに部屋を壊されても、屋根瓦がトラックを止めようとも、辰巳にできることは、今の生活を続けることだ。
「決めた。私も辰巳くんと一緒にバイトしよう。ね、いいでしょ?」
橘が嬉々として言う。持ったばかりの箸を置いて、辰巳の方に振り向く。
「良いも何も……勉強は大丈夫なのか。あと学校から許可が下りないとバイトできないぞ」
「いやー私、地元が遠いところで、親にも無理言って、ここに通うことにしたんだ。だからバイトくらいしないと。体育祭前の小テストは良い点だったから、平気だよね」
「俺に聞かれてもなあ。今から職員室に聞きに行くか」
「行きましょ。働くぞ、私は働くぞ!」
橘は白いご飯を口いっぱいに掻き込んだ。おかずも頬張り、お茶で流し込む。
座ってから僅か5分足らずで立ち上がる。その頬には米粒が付いていた。
辰巳が注意をすると、赤面して頬を摘まみ出す。米粒を口に入れる姿は、より幼さを強める。
日差しが強く、暖かな廊下を歩いて職員室に向かった。
「もうちょっと、自分の容姿に……なあ?」
「前の学校でも良く言われた」
担任の川鍋先生を待っている間、廊下に並んで立ち、辰巳は言った。
「よく言われたのか」
「幼稚っぽいってね。そんなつもりはないんだけど」
「見た目に反して、って感じはする。この間も、昇降口でコケてたろ」
「あれは慣れてなかっただけだから」
そっぽを向いて誤魔化した。
職員室から顔を出した川鍋先生に、その場で了承を貰った。教師方は生徒の事情を把握している。
「その代わり、学業を疎かにしてはいけない」
説得する方法を考えていた辰巳だったが、肩透かしを食らう。自分のときは何度も職員室に行って頭を下げたからだ。もっとも、その時は中学生だった。
橘は意気込み、勇んで学校を出る。辰巳の腕を引っ掴み、前川と後部を連れて街へ出向いた。バイト探しだ。
直接、出向いてバイトを募集していないか、聞きまわる。コンビニとカラオケ店、それから駅前のショッピングセンターを訪ねたが、どこに行っても渋い顔をされてしまう。
「二人はちょっと難しいかな」
求人広告を持ち帰り、辰巳の部屋で一度、体制を立て直そうとした。
帰り道にあった和菓子屋の、ほんのりとした餡子の匂いに、後ろ髪を引かる思いで店内から立ち去る。
ここでも断られてしまった。
「なんで一緒なんだよ。俺まで働けねえんだけど」
「ごめんね。バイトとかしたことなくて不安なんだよね」
橘は頭を掻いて言った。
「誰だって最初はそうだ」
「でしょ。だから、一緒にバイトしてくれる人がいるなら、一緒にバイトしたいよね」
「バイトが出来なきゃ本末転倒だ」
元通りに直っている事故現場を、そわそわと落ち着きのない様子で橘は通りすぎる。
「どうした? もよおしたか?」
キョロキョロと辺りをうかがっていたので、辰巳は聞いてみる。遠慮はない。
「え! うん? あっ、うん。違うって。ほら、どこかバイトできそうなところはないかなーって。っていうか、デリカシーなさすぎだよう」
橘は人差し指を上げた。その先には花屋の看板がある。
店を囲む木々と、嗅ぎ分けの付かない花の香りが一際、目立っている。鼻歌交じりに店のドアを開けると、もわっとした空気に押し返されそうになった。ついでにベルも鳴る。
「いらっしゃい」
レジに立つ店長が、透き通るような声で言った。泣きぼくろの似合う女性だ。
店内に客は一人。スーツを着た男性だった。
二人はまだ若く、同い年のようにも見える。
辰巳は渋い顔をした。既視感を覚えたからだ。
「それじゃ、また。なにかあったら連絡してね」
男が踵を返す。それに合わせるように、橘が辰巳の脇腹を突いて、道を空けるよう催促した。
ベルの音の余韻にひたり、辰巳は店内を見て回った。植物園に連れて行ってもらった経験がないので、奇抜な香りや形をした植物に、じわじわと引き込まれていく。
小指ほどしかない食虫植物とにらめっこをする。
その辰巳の後ろを通り過ぎて、橘は店長に話しを持ちかけた。
「すいません。少しお伺いしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「はい。構いませんよ」
「第一帆士高校の二年生なのですが、ここでアルバイトとして雇ってもらえないでしょうか?」
外に張り紙はなかった。
辰巳も傍に寄って話を聞く。店長はゆったりとした喋り方の、いかにも温厚そうな人で、突然の物言いにも耳を傾けてくれる。
「アルバイト?」
「はい。私たち、寮生活で懐事情に悩んでいるんです。あっ、もちろんこんな素敵なお店で働けたらなって思ってます思いました。もう一目ぼれしました。お花も店長さんも、こんなに綺麗だなんて」
橘は前へ前へと乗り出していく。
ずいずいっ、と寄ってくるものだから、店長も背を反らす。あくまで笑っているが、橘のテンションに置いてけぼりを食らう。
「私たち、って言いましたよね?」
助けを求めるように視線を反らす。
辰巳は橘の服の裾を掴み、一歩後ろに引かせて店長の顔を覗く。
「この子だけアルバイトとして雇ってもらえないでしょうか?」
「アルバイトですか。うーん」
顎に手をついて頭を悩ませる。それもそのはず。彼女は一人で店を切り盛りしていて、これまで他の店員を雇ったことがない。
大通りの隅にある、こぢんまりとした店だ。開店から五年が経ち、固定客も増えて自動車で宅配する機会も増えた。
「貴方はその、どうなんでしょうか」
「俺は構いません。この子一人で」
橘が苦悶の表情を浮かべる。妥協しなければならない。突然、押しかけて二人もバイトとして雇ってもらうのは無茶があった。
「そう……ですね。では形だけでも面接はしたいので、明日にでも履歴書を持ってきてもらえませんか?」
二人は礼を言ってから花屋を出た。
前川、後部と合流して辰巳の部屋に向かい、日が落ちるまで遊んだ。ふくれっ面の橘も最終的には納得してくれた。
辰巳は三人を見送る。寮の方から濃いソースの匂いがして、外にいても嗅げる。腹の鳴るいい匂いだ。
寮の方へ振り向き、その視界の端で蠢く物を捉える。塀の上を駆けるそれは、電灯の明かりを掻い潜り、近づいてくる。猫だ。
人生、いや猫生経験豊富な年寄りか、はたまた人懐っこい飼い猫なのか、辰巳の存在に怯えることなく、地面に飛び降りては、目の前を通り過ぎていく。その間ずっと、ガラス玉のような目を光らせ、辰巳を睨んでいた。
負けじと睨み返す辰巳だったが、首輪のない猫は尻尾を垂らしたまま去っていく。
辰巳は猫背で寮に戻った。猫と睨みあうなど、どうかしている。バイト探しで長時間、歩き回り、空腹でもあった。
食堂でハンバーグにありつく。呑気なものだ。しかし、猫に後を着けられていたとは到底、思いもしない。
猫は電灯から逃げるように裏道へ入る。裏道からスーツを着た男が姿を現したのはすぐのことだった。男は寮の前で一旦、立ち止まり、また夜道へと歩き出す。
5
ひと月が経ち、橘にバイトの給料が支払われる。しかし、その表情は浮れているようには到底、見えない。
「店長がストーカーにあっているの」
橘は顔を青ざめ、単刀直入に述べた。
学生が首を突っ込むようなことではない。店長も、押しの強い橘に負けてしまい、なし崩しに話してしまっただけ。
休日に街へ出て、駅前のデパートでアイスクリームを食べながら、四人でテーブルを囲む。ストーカー対策についての話し合いを始めた。
「警察に連絡しよう」
その案は至極、現実的で最も合理的な手段。
辰巳がそのように口走ったのは、以前にスーツの男を花屋で見かけたからだ。
「なーんでそう、極論を言っちゃうのかな。男の子として恥ずかしくないの?」
「店長さんのことを考えているなら、そうするべきだ」
橘が口をへの字に曲げて、スプーンでアイスを何度も突いた。
「連絡はしたけど、相手にしてくれないんだよね。だからこうして、貴方たちに話したの」
見回り強化の旨を受けた、と付け足す。
実際、ストーカーにあっているものの、被害は出ていない。下手に行動してストーカーの気に触れれば、元も子もない。
自身の意見を述べた辰巳は、前川に視線を送る。前川は黙って腕を組んでいる。
「お願い三人とも! 私のワガママに付き合ってください!」
ついには頭を下げた。そうなるとトコトン弱いのは前川だ。
辰巳は友だちも作らず、中学に進学するなり、バイトを探して奔走していた。そんな辰巳に前川は声をかけた。前川はそういうやつだ。
「聞いたからには、手伝わずにはいられないな」
「はいはーい、じゃあ私もー」
後部も続いて手を上げる。
これでは辰巳も参加せざるを得ない。したり顔の橘を睨んでから、肩を落とす。厄介事は猫塚だけで十分だった。
その日は解散となり、後日また、店の周りを見張る。一週間、見張りを続けたがそれらしい人物は見当たらず、辰巳が目星を付けていた男性も一向に現れない。
「ありがとうね、みんな。もう大丈夫みたいだから」
店長に笑顔でそう言ってもらえただけでも、行動に移った甲斐がある。だが橘だけは、帰り道でずっと唸っていた。突けば破れてしまいそうなほどのふくれっ面だ。
6
辰巳は朝、早起きをする。起床後、食堂へ向かう時に廊下に張り出されたメニューをチェックすることが日課となっていた。寝覚めが良いと、腹が減る。
そしてメニューを想像しながら一日の気合いを入れるわけだ。朝食にはメニュー表に載っていなかったビスケットが一枚、ついていた。
小旅行に出かけていた寮母のおみやげのようだ。余らせておいた牛乳でビスケットを流し込む。甘さに欠けるビスケットだったが、朝には丁度いい。
(食い合わせなら。)
「ヨーグルト、ですかね……」
また隣に座ったのは、あの髪の長い生徒だ。
「おはようございます……隣、失礼しますね」
長い髪を垂らして食事にありつく。髪を器用に退けながら食事の手を進めた。
「なんでいつもそこ、なんですか」
特に面識もないのに、話しかけてくる。不快、とまでは行かないが見知らぬ相手に親しく接せられるのはあまりいい気分にはならない。
いつからだ、と辰巳は記憶を遡る。初対面時もやけに馴れ馴れしかった。
「だめですか」
「いや、勝手だけどさ。俺とキミ、初対面ですよね」
お互いに箸の手が止まる。長髪の生徒が辰巳の方に体を傾けた。髪の隙間から覗く瞳は大きくぱっちりとしている。
眼元は暗い。影とクマで大変、不健康に見える。
「すいません……不快でしたか」
「不快とか、そうじゃなくて。なんで俺の隣に、それも頻繁に座るのかなって」
長髪の生徒は、小馬鹿にするように片眉を吊り上げる。
「さあ……?」
「さあ、って」
「自意識過剰すぎません?」
「なっ!」
「では、一目惚れとかですかね……。そんなこと、アナタにとっても私にとっても、どうでもいいことですよねー……まあ邪魔だと言われれば消えますよ、すぐにでも」
うっすらと笑みを浮かべる。その顔がまた不気味だ。
「どうせまた、顔を合わせるんですけどね……運命って大変ですね……」
辰巳はそそくさと、逃げるように席を離れた。なるべく関わりたくはなかった。
部屋に戻って携帯を弄る。受信していた一件の未読メールを素早く開いた。息を止めたが差出人の名前を見るなり、そっと目を瞑った。
橘からのメールだった。予習するからノートを借りたい、とのこと。辰巳はメールを返信するなり、学校に向かった。外は少し肌寒い。
学校に着き、隣のクラスを覗きに行くが、肝心の橘が見当たらない。他の生徒に居場所を尋ね、保健室で暖を取っていることを聞く。
「自分から頼んでおいて、ったく」
ノートを片手に、愚痴を吐きながら階段を下りる。寒いのは皆、同じだ。
ずいぶんと冷えてきた。学校へのカイロの持ち込みは黙認されている。
しかし、懐にも寒風が吹いていて、カイロを購入することすら躊躇わせる。
制服のポケットに手を突っ込んで歩いていた。保健室までの渡り廊下を過ぎ、出入り口で教師と鉢合わせた。反射的に、ポケットから手を抜きだしたため、ハンカチが落ちる。
教師は担任の川鍋真見だった。校内だというのに厚手のコートを羽織っている。
川鍋先生は落ちたハンカチを拾って、辰巳に返した。
「おはよう上村くん」
「お、おはようございます」
手が触れ合う。辰巳はわたわたとハンカチをしまった。
畏まってしまう。辰巳にとって川鍋先生は堅物のイメージだ。口調は柔らかいが、法や校則にきびしい。
「寒いからといって、だらしのない格好をしないように」
と、真っ先に注意を促すほどだ。
「すいません。気を付けます」
「ところでバイトは見つかったか? あまり無理はするなよ。橘は花屋でバイトをしているそうだから、一緒にそこで働かせてもらえないのか」
「一緒にバイトを探していて、そこはあいつに譲ったので」
「そうだったのか。ほら、橘は遠くの方から転校してきたばかりだろう。こちらの生活にも慣れていないはずだ。誰かが一緒に居てやれば、そんな不安も少しは解消できるんじゃないか、と思ってな」
「あの性格じゃ、平気そうですけど」
「そう言うな。もう仲良くなったんだろ、流子とも」
「流子? 誰ですか」
「あー、そうか。橘と流子が仲良さそうにしていたから、てっきり、そうなのかと。保健室にいる子なんだが……会えばわかるか。保健室に用があるんだろう?」
「はい。そうです。では、失礼します」
一礼して川鍋先生の脇を抜けた。教師の前に立つといつも緊張してしまう。
角を曲がるところで、渡り廊下に目が行く。川鍋はまだその場から動かずに辰巳の方を向いていたので、お辞儀をしてからさっさと歩いた。
保健室の戸に手をかける。頭の中が考えで渦巻き、その手が止まる。川鍋先生は辰巳とは反対方向に行ってしまった。
ふと自分の将来を見据えた。なんでもない一瞬だ。教師。なんとなく、で目標としていた職業だが憧れてもいた。しかし、いくつもの禍根が入り混じる現状、それを叶えることができるか、どうか。
元々、奨学金を借りて大学に通うつもりでいた。現状を考えれば、バイトも出来るだろうと踏んでいる。
しかし、答えは出ない。一呼吸置いてから、戸を静かに開けた。保健室はカーテンで閉め切られ、薄明りに包まれている。霧の出る山の明け方に似ていた。そして温かい。
暖房の効いた保健室には、しっかりと加湿器まで設置されている。
橘が、ベッドを覆うカーテンから顔を出した。
「おはよう辰巳くん」
「おはよう。ほれノート」
半身をカーテンから出したままの橘に、ノートを手渡した。
「ありがとー! うわっ、字きれい」
「体調が優れないのか?」
ノートを見て驚き声をあげる橘に、異常は見られない。
「違う違う。保健室で暖を取っていたでござるよ」
「真、許しがたき行為」
「ひえええご堪忍をー」
橘はカーテンを開ける。
橘は椅子に座っており、ベッドには別の生徒が横になっていた。女子生徒だ。入ってきた辰巳を一睨みすると、手に持った本へと視線を落とす。
「えっと、同じ二年の、上原流子ちゃん。こっちは上村辰巳くん。名前、似てるよね」
「私はドラゴンの方じゃなくて、川が流れる方のリュウですけど」
頭を掻く橘。その横の椅子に辰巳は座り、ベッドの生徒を観察する。制服を着ておらず、緑色の無地のセーターを着ていた。
乱暴に伸ばされた髪は艶やかだ。電灯の光をはね返す。
流子は鬱陶しそうに髪を掻き分けた。本を読むには邪魔すぎる。そして、露わになった痩せ気味の頬が動く。
「貴方が辰巳さん、ですね。この子が話していました」
名前を呼ばれて、辰巳は肩を強張らせる。ノートを読みだした橘をちらりと見てから、流子の焦げ茶色の瞳と視線を交わした。
「はじめまして。流子さん、でいいですか」
流子は顔を上げていた。少し上品に首をひねる。
「はじめまして、ではないですけどね」
「……どこかで会いましたか?」
「覚えがないならいいんです。流子で構いません。名乗っていませんでしたね」
視線を落とし、読書に戻った。
学校に居るにも関わらず、制服を着ていない。それだけで不思議な空間を作り出す。目の保養となる緑色のセーターが、拍車をかけ、童話に出てくる病弱な少女のようだった。
その空間に呑みこまれ、黙って気まずくならないよう、辰巳は二人の方を向いて尋ねる。
「えっと、流子さんは何年生?」
「きみたちと同じ二年生ですよ。持病でしてね、長らく保健室と自宅で療養しながら勉強していたんです」
辰巳の視線が若干、下に、セーターへと移った。ハエのように手を擦り、誤魔化す。
「橘とはいつから知り合っているんですか」
「橘さんとはつい最近、ここで知り合いまして。そういう二人は付き合っていたりするんでしょうか?」
「あははは、ないない」
素朴な疑問の押収に橘が割って入った。ノートを写しながら淡泊に言う。同じように、辰巳は鼻で笑った。
「少し柄の悪い根暗男と、尻が軽そうな女でお似合いだと思うんですけど」
(いま何と言ったのだろうか。)
悪の強い言葉を聞き逃すはずもない。辰巳は苦笑して聞き返す。「え?」
「いえお気になさらず。長らく世間から外されていたもので、男女間における常識も欠落しているんです。一般的に、ノートを渡す程度では、恋仲にあらず、ただの友人関係と捉えていいんですかね」
流子は澄ました顔をする。
「流子ちゃんやっぱりおかしいね」
きゃはきゃは、と黄色い声で橘が笑う。午後も保健室で他愛もない話をした。
バイトがある、と言って橘は先に席を立った。
「もう少しいてくれませんか」
流子は辰巳に言った。日暮れの淡い光で、表情に陰りが出る。
逆に辰巳は、苦笑いをする。悩む間もなく、橘に肩を掴まれて、椅子へと戻される。橘が出ていき、しばらく無言の時間が続いた。
窓際のカーテンが虚しくはためく。換気のために開け放たれた窓から一際、強い風が入り、それに合わせて流子は小さく鼻で笑った。口元を軽く隠す仕草は、令嬢を彷彿させる。
「辰巳さん、何か喋ってもいいんですよ」
「何か、って言われてもなあ」
「まあ静かなのは嫌いじゃないです。貴方もそうですよね。けれど少しだけ、きみとお話をしたいな、と」
喰い気味にそう、尋ねる。流子の手元に本はない。
辰巳にとって流子という存在は、不可解、その一言で片づけられる。辰巳は口を閉じたままだ。借りてきた猫のようだった。
静寂を断ち切るようにケータイの唸りが二人の間に介入する。バイブレーションも大きく唸る。
辰巳はポケットからケータイを取り出し、猫塚の名前を見るなり、立ち上がる。頷いた流子を一瞥し、ベッドを離れた。
7
保健室を出てから廊下で電話に出る。
「で、電話にでんわ~……なんちって」
辰巳は安堵の溜め息を吐く。途端に恥ずかしくなって、声を荒げた。
「ふざけんなっ」
「な、なに? 急にどしたの」
「こっちから電話かけてんのに、一切でなかったくせに、あーもう」
空いた手で頭を抱えた。それから廊下を見回し、誰の目にも触れられていないことを確認してから、そっと壁に背を預ける。
「ご、ごめんなさい。ちょっといろいろ、あって」
電話の向こうで慌てふためく様が容易に想像できた。
辰巳は自身の過失を認めたが、決して謝りはしない。
「気がかりなことが起こった。一月前くらいに、交通事故が起こったんだ」
「交通事故? どんな?」
「暴走していたトラックを、屋根瓦の塊が止めた。降ってきただか、生えてきただか、分からないが突然、現れたんだ。俺は現場に居て、目の当たりにしている。あれはお前の言う、水の少女みたいなやつの仕業なんだろう」
猫塚は間髪入れず答えた。
「絶対にそうだよ。わ、私たちは想像したことなら、なんでもできるの。たぶん、物理的に不可能なことでなければどんなことでも」
反射的に、辰巳の口から漏れ出したのは――魔法使い。
「か、上村くん?」
「なんでもない。確認を取るようなことでもなかったか、と思ってな。それで少し聞いていいか?」
「私は大丈夫。なんでも聞いて」
辰巳も馬鹿ではない。気遣われていたことに勘付く。
やはり、それでも聞かずにはいられなかった。
「物理的に可能なら手を動かさず……いや、念じることすら必要ないのか」
「対象を選ぶために念じるってことは必要だけど、私たちみたいな存在自体が、どこかでなにかしらの影響を及ぼしているのかもしれない。そう仮定すれば、念じることすら不要なのかも。やっぱり、どう考えても異常だから」
「異常かどうかはどうでもいい。つまり、俺の説明した事故は意図的に起こったことと、解釈していいんだな」
「う、うん。私たちってどこにでもいるから、そんな可笑しなことが無意識的に起こっていたら、いまごろ世界中、荒野だらけだよね」
また辺りを見回してから、一旦、通話を切り、外に出て校舎の影で電話をかけ直す。その間、屋根瓦の束が何を意味しているのか、を考えた。
「俺らのような存在を、仮に《魔法使い》と呼称しよう」
「ま、魔法使い?」
「水の少女がそう言っていた。それで、お前は《魔法使い》に関してどこまで知っている」
「それは自分のことだから、うん。あと私は他の、その《魔法使い》とも接触しているから結構、いろいろなこと知っているつもりだよ」
「そうか……」
「だ、大丈夫?」
「落ち着いてはいる。だけど、不思議でならない。魔法使いが関わっている事件が、一切、公の場に報道されていないんだろう。身体を水に変えたり、屋根瓦を生んだり、人を襲ったり、なんでもできてしまう力を持っているのに、なぜなんだ」
最も考えられるのは、それらを抑止する権力を持つ者の介入だった。
猫塚の答えも核心を突くものではない。だが、より近い答えであることに変わりない。
「色々な魔法使いがいるんだよ。力による災害、もしくは魔法使い同士の衝突を隠ぺいしようとする魔法使いや、上村君の言う屋根瓦の人だってそうだけど、力を良い方に使う魔法使いだっている。元々は、人間なんだから」
猫塚の言葉には確かな思いがこもっていた。いままで出会ってきた同士の言葉でもある。
「それと、上村くん。私からも、知っていてほしいことがあるの」
辰巳は虚ろ気に、あぁ、とだけ言って受け入れる。
「この力に目覚めた人間が生き残る確率は少ないはず。目覚めた直後、自分の存在に疑問を抱き、何であるかが分からなくなる。そこに力が作用してしまい、肉体が崩壊する。例え、その現象に至らなくても、力を持ってしまった人は皆、等しく殺人衝動に駆られるの」
随分と風の強い日だった。校舎を囲うように植えられた木々が、ざわつく。腕を掲げながら風の来る方を向けば、眩しすぎる日差しが空を赤く染めていた。
消え入る前、最後の抵抗と言わんばかりにぎらつく太陽が、校舎の影を払おうと、赤く深く燃え上がる。
腕の先が、ぎらりと赤い光を反射した。辰巳の片手に今、拳銃が現れた。
風に合わせて足音を殺し、太陽から逃げるように、校舎の裏へ裏へと移動した。
撃鉄に指をかける。
「上村くん? お、おーい」
辰巳はケータイの電源を切って肩を強張らせる。背中を校舎の角に合わせ、90度の視界の中、ただ待った。音と言う音に集中する。左右対称だがカメレオンのようにギョロリと眼を動かす。
一分が一秒に、一秒が一分に、時間の感覚が伸び縮みを繰り返す。
瞬きするのを忘れ、呼吸すら止まりかける。拳銃を両手で握りしめた。時間をかけて力強く、撃鉄を起こしたところで、拳銃が消えてしまった。
冷えた空気を何度も吸う。ずるりずるりと、壁伝いに腰が落ち、尻もちを着いた。手は拳銃を握りしめた形のままだった。指が自然と解けていき、ポケットのケータイに伸びる。
電話に出た猫塚も事情を察した。
「だ、誰かに聞かれた? それとも」
「いた。近くにいた。拳銃がまた現れたんだ。けどすぐに消えた」
「す、すぐにって、通話切れてからニ十分くらい経ってるよ」
冷や汗が辰巳の首筋をなぞる。心臓が、これでもかと躍動していた。
「俺は、俺には、魔法使いに襲われた経験しかない。あの屋根瓦だって、俺を殺して子どもだけを助けようとしただけかも知れない。そうだよ。あのとき、横断歩道に子どもがいたんだ。周囲の視線、だから俺を殺せなかった」
「上村くん」
「ふざけんなよ。もう、あんな思いはこりごりだ。苦しいのは、痛いのは嫌だ。殺されてたまるか、死んで、たまるか」
「上村くん!」
震えだした体に、猫塚の活が届く。平常心を取り戻さなければ、それこそおしまいだ。
「自分を律して。貴方ならできる。見えないものは怖いけど、貴方にはそれを撃ち払うだけの力がある」
どこからともなく湧きあがる不安が、猫塚にも見えた。
「恐れているってことは、慢心していない証拠。胡坐掻いてるやつとは雲泥の差だよ。それに貴方の拳銃は、私たちの常識外で生み出されたものだと思うの。私たちは所詮、人間に毛が生えた程度の存在。人間の常識内でしか力を使うことができない。けれど、貴方は少し違う。私たちよりも更に一歩先へ踏み出た存在なんだよ、たぶん」
「……たぶんって、なんだよ。それにお前だって、殺そうとしたんだぞ」
電話越しの言葉が心強く思えた。自分が単純な性格をしていることに、辰巳は腹を立て、拳を握りしめる。
手の平に爪をめり込ませて、痛みに耐える。下唇を噛み、また痛みに耐えた。
「ありがとう。自分が襲われると考えた瞬間、これだよ」
「私も始めは怖かったから、凄い分かるよ」
「そうだよな。俺だけじゃない。他の魔法使いだってそうなんだ」
「うん。さっきの話の続きになるけど、殺人衝動の基となる部分は、同じ力を持った魔法使いに対するもので、それはきっと生物としての最大の目的である、生存競争に勝つことと繋がっているんだと思う。人間の三大欲求に一つ、欲が追加されたイメージを私は持ってる」
「やろうと思えば、その欲は抑えられる」
「欲に気付かず、ただ人を襲い、勘違いで満足しているやつは、他の魔法使いの恰好の的になる。人を殺すくらいなら、と自分の命を断つ魔法使いもいる。だ、だから、力に目覚めても生存確率は極端に低い」
「だから前に、出会ったら即発砲、みたいなことを言ったんだな。襲ってくるのは、戦闘経験抱負なやつの可能性が高い」
「い、色々と整理できていなかっただろうから、余計なことで混乱させちゃうと思って」
「ありがとな」
電話が終わってから、辰巳は立ち上がる。辺りは暗くなっており、肌寒い。
暖かな保健室に戻ると、流子が帰りの支度を始めていたところだった。セーターの上に分厚いコートをはおり、首元にマフラーまで巻いている。鞄も持っている。
「辰巳くん、暇ですか? 暇なら遊びに行きましょう。そうしましょう」
さらに手袋をしてから、辰巳の手を取って保健室を出た。
手を握り合ったまま、校門も抜ける。
「お、おい。俺カバン持ってねえ」
「保健室に置いてあったやつですよね。持ってきました」
他の生徒に目撃されたが、お構いなしにずんずんと進んでいく。
大通りを歩き、それでも手を離さない。逃げ出そうとしていることが、読み取られているようだった。なし崩しに着いていく。
駅前のデパートまで歩いてやってきた。その時には日は完全に落ち、店や電灯が所狭しと街を埋め尽くす。
(こいつは本当に病人なのか。)
「病人ですよ。夏ごろからよくなってるんです。三年から教室に通えるかもしれません」
流子はエスパーのように言い返す。ようやく手を離して、辰巳に顔を見せた。白い肌に笑顔は栄える。
先ほどとは一転、緊張感の欠片も無い時間を辰巳は過ごす。服や食品を買って回り、外に出てゲームセンターで遊ぶ流子を、ぼうっと見ていただけだった。
荷物を持たされ、ファミレスに連れ込まれる。営業スマイルの眩しい店員にテーブルまで案内された。辰巳は逃げることを諦めて、学校もしくは学校付近にいる魔法使いのあぶりだし方を考えていた。
「なんでも注文していいですよ。私のおごりです」
対面に座る流子にそう言われても、辰巳は黙ったままだ。駅前に連れてこられてから、一度も口を開いていない。
乾いた喉を潤すためにコップの水を口にする。
だんまりを決め込む辰巳を、流子は料理が運ばれてくるまで、じっと見つめていた。フォークとナイフを手に取り、目の前に置かれたハンバーグを一口サイズに切り分けながら、質問を投げかける。
ファミレスは親子連れや会社員、学生でガヤガヤと賑わっている。それでも前に座る辰巳には、嫌でも聞こえてしまう。
「きみは、変わりたい、自分を変えたいって思ったこと、ありますか?」
食べやすいサイズに切り終わると、手に持った食器を丁寧に、ハの時に置いた。
流子と辰巳は始めて目を合わせ、口を開けた。
「なんのことだよ」
「そう邪険にしないでくださいよ。連れまわしたことは、謝ります」
「待ってくれ。別に、遊びに出るくらい、どうってことない。俺の勘違いだったみたいだ」
だが、頭を下げたのは辰巳の方だった。
辰巳は水を飲み干して、流子の話に耳を傾ける。流子の身の上話だ。幼い頃から病弱で友だちがいなかったことを中心に、話は続いた。
「それで、自分が変わりたいかどうか、だったか」
「橘さんにも聞きました。それで、友だち第二号のきみにも言ってほしいなって。もっと知りたいんです」
「あいつはなんて?」
「分からないって、言ってましたよ」
「ふーん。俺は別に、生活に不自由はしてないからなあ」
その答えを余程気に入ったのか、流子はニコニコと食事を始めた。
「なんか、デートみたいですね」
「今日、知り合ったばかりなのに、よく分からんやつ」
「相手がイケメンでないのが悔やまれますが、まあ我慢します。ほとんど喋ってもくれませんでしたけど、楽しかったですし」
(たまに、口が悪くなるが、仕方ないことなのか。)
流子が食べ終わるまで、辰巳はポテトを注文して摘まんでいた。
割り勘で会計を済ませる。外に出てから、ファミレス前で黒光りする高級車に向かって、流子は人の名前を言い放つ。車の中から出てきたハーフの男に会釈をさせて、辰巳に手を振ってから、慣れた様子で乗車し、帰っていく。
辰巳は数十分前に戻って、金持ちに変わりたいと、言いたかった。素直に奢って貰えば良かった、とも後悔した。帰路に着き、寮へ向かう。
その途中でメールが入った。猫塚からかと思ったが違った。橘からだった。
花屋まで迎えに来て、とのこと。遅くまで店の手伝いをしていたので、帰りが遅くなり、一人で帰ろうとしたところ、店長に止められる。
電話をしながら辰巳は花屋に向かった。店の灯りで、通りは明るい。
男には上品すぎるほどの、香しい花の店に入った。
「あ、いらっしゃい」
レジ前でメモを取っていた女店長が、顔を上げる。そのほほ笑みは、ファミレスのバイトとは比べ物にならない。
辰巳が言葉を口にする前に、橘が店の奥から顔を出した。橘は女店長と同じエプロンを着ており、二人は姉妹のようだった。
「辰巳くん今行くからっ」
そう言ってエプロンを脱いで、立ったまま器用に畳む。
「本当に二人で大丈夫? タクシー出せるけど?」
「もー、店長は心配しすぎなんですよー」
「忘れものはない? よかったら手ぶくろとマフラー持って行って」
「平気ですって。それじゃあ、おつかれさまです」
半ば強引に、挨拶をして店を出ていく。辰巳も去り際にお辞儀をして、後を追う。
「ありがとね」
隣を歩いている時だ。橘が赤い鼻を擦りながら言った。
「さっきまで流子といたんだ。丁度、近くにいたからな」
「それもあるけど。あのお店、紹介してくれてありがと、ってこと」
「あぁ。店長、優しい人だな」
「すっごい良い人。けど自分のことには頓着なくて、大変なんだよね」
寮に着くまでバイトでの出来事を語る。
辰巳もバイトをしなければならなかった。
寮前で橘と別れ、貰ったコーンポタージュ缶を握りしめて、今度こそ帰宅する。寒風が制服の隙間に入り込み、身体から熱を奪っていく。歩みが早まった。