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第二話「紙芝居お兄さん」

第二話「紙芝居お兄さん」

 紙芝居を抱えて家を出た。

 散髪した頭にタオルを巻いて、母の自転車を拝借し、まずは駄菓子屋に向かった。棒アイスをあるだけ買い、保冷ボックスに突っ込む。おばさんに怪しまれるがその視線を振り払い、公園に移動した。

 公園は、いつもよりも広く感じられた。生い茂る雑草を踏み倒して、辰巳は座り慣れたベンチの前で立ち止まる。

 いざ、となると羞恥心が勝るものだ。

(今どきの小学生が、時代錯誤の代物を面白がるのか。)

 缶蹴りをして遊ぶ子どもたちに、おぼつかない足取りで近づき、声をかける。

「紙芝居するから、よければ見てってくれー」

 街中なら通報ものだ。

「アイスもあるぞー」

 街中なら補導は免れない。しかし、その一言で怪しい者へ向けられる眼差しが一変する。

 十人にも及ぶ子どもたちが、辰巳の後ろに、ぴたりと付いてくる。その中には猫塚の従妹、それから以前、一緒に川へ行った二人がいて、他の子たちを先導していた。

 自転車の荷台に縛り付けていた紙芝居を立て、アイスを咥えた子どもたち相手に演じてみせる。こっそりと声の出し方を練習していたので、噛むようなことはなかった。

 蝉の合唱に負けないほど、大声で迫力を出す。

「その時、西の彼方に現れたのは黄金の蝙蝠だった――」

 しかし、子どもたちの目は、これでもかと言うほど肥えている。繊細な色使いのアニメや、発想力を育むゲームが、山のように生産されている世の中だ。

 まばらな拍手に冷や汗が止まらず、追加のアイスを手渡し、その場はお開きとする。

 アイスを食べて元気になった子どもたちは、缶蹴りを再開した。

 辰巳はベンチに腰を下ろし、溜め息を吐く。紙芝居の内容は、よくできている。技量の問題も目に余るものがあった。

 ただ大きな声を出して、滑舌良く喋るだけでは。気を引けない。

 アイスの棒を口に咥えて、足を揺する。

 その隣に、猫塚の従妹が座りにきた。ちらちらと、辰巳の顔を見ながら、柔和な笑みを浮かべた。

「あのっ、気に病まないでください。とても面白かったです」

「ごめんな。つまらない兄ちゃんで」

 露骨に同情を誘う、汚いお兄ちゃんでもあった。

「そんなことないです。一人でああやって喋るのって、かっこいいと思います。憧れます」

 辰巳はいたたまれない気持ちになった。

「ありがとうな」

 励まされたのだから、期待に添えるよう努力しなければならない。

 自然と女の子の頭に、手が伸びる。してあげられるのは、頭を撫でることくらいだ。

 猫塚の従妹は、笑顔を見せた。もはやそれすら、無理をしているように、辰巳は思えた。

「そういえば、名前、なんて言うんだ?」

日野杏子(ひのあんず)、って言います。この間、一緒にいた二人は、えっと、帽子を被っている方が平野海人(ひらのかいと)くんで、ちょっと女の子っぽい方が高藤武(たかふじたける)くんです」

 遊具近くで缶を踏む帽子の少年と、その少年の傍で退屈そうにしている少年を、杏子は指を差して言った。缶が宙を舞うと、二人は別々の方へと走っていく。

「アンズちゃんに、カイトくんに、タケルくんな。アンズちゃんは夏休みだから、こっちの方に遊びにきたの?」

「はい。おうちはちょっと遠い所にあって、夏休みは毎年、電車でおばあちゃんの家に遊びに来てるんです」

「電車は大変だったろうに。何も無いところでつまらないでしょ」

 杏子はかぶりを振る。

「そんなことないです。山も川も綺麗ですし、愛理お姉ちゃんや海人くんや武くん、他のみんなとも遊べますから」

「そっか。ごめんな、つまらないなんて言って」

「お兄さんは、ここが嫌いなんですか?」

 顔を曇らせて杏子が尋ねた。

「いいや。ただちょっと、物足りないんじゃないかって、思っちゃったんだ」

「じゃあ、私たちみたいな子どものころは、どうたったんですか?」

 そう言われ、辰巳は苦笑する。

「子どものころ? んー、退屈じゃなかったけど、街中の方には、憧れていたような気がする。ここの雰囲気も嫌いじゃなかったけどやっぱり、羨ましかったな」

「今は、別の所に住んでいるんですか?」

「あぁ。今はね。自分の家がここにあるから、杏ちゃんと同じで、遊びに来ているんだ」

「もしかして、愛理お姉ちゃんに会いに、ですか?」

「それは……どうかなあ」

 二人の少年に呼ばれ、杏子は缶けりに戻っていった。

 猫塚が公園にやってきて、入れ代わりで辰巳の隣に腰を下ろした。白いブラウスと水色のスカート姿は、場に似合わず、容姿を浪費している。

「飲み物、買ってくるわ」

「え、え? ひどい」

 立ち上がる辰巳の方を、猫塚は振り向く。

「なにがだよ」

「だ、だって、私が来た途端、逃げるみたいに」

「自意識過剰だ」

「そ、そんなことない、はずたぶん」

 顔が火照るほどの熱に曝されながら、辰巳は近くの自動販売機まで歩いた。

 人通りの無いバス亭まで歩き、ついでに休憩も取った。バス亭小屋に密着している自動販売機で、缶ジュースを購入する。

 自販機から出てきたのは、おしるこだった。パルプ入りのオレンジジュースを買ったつもりが、故障により異物を吐き出されてしまう。

 火傷に用心しながら缶を手にした。よりにもよって熱い。腰に手を当て、意を決し、口を付ける。だが飲めるはずもなく、残りは自販機の裏に零した。

 どろどろと、黒い液体と豆粒が淀みなく落ちていき、おしるこの水たまりが出来る。気泡の浮かぶおしるこを、辰巳は屈んで見つめた。

 緑の草を侵食し、おしるこは平らに広がっていく。

 水の少女を撃ち抜いた武器の感覚が、缶を持つ右手に蘇えった。

 エアガンや水鉄砲で遊んだことはあっても、まさか実物を手にする日が来るとはゆめゆめ、思いもしなかった。

 辰巳はため息を吐いた。震える右手を持ち上げる。重く、自制が効かない。

 おしるこに手を付く。

 まるで絵本の中の出来事の様に、父の最後を想像してしまう。

 指と指の隙間から音を立てておしるこが溢れ出た。

「あっつ……」

 がらにもなく、考え込んでしまう。



 村の神社で祭りが開かれた。お囃子の音が犬の耳を立たせ、ぼんぼりが灯る。男どもは半裸で神輿を担いで街を練り歩く。神社は人の波で埋まる。

 賑やかで明るい夜だった。辰巳は公園のベンチで体を横に倒し、寝ていた。

 辰巳はずっと紙芝居を続けていた。子どもたちに気を遣われながらも、自作の紙芝居を作るなどして、工夫を凝らす。

「園児向けの絵本でもそんなに幼稚じゃねーぞ」

 一昨日の事だ。帽子の子――平野海人に貶され、躍起になる。

 資料探しで本屋を走り回る。アイスで釣っているとはいえ、時間を貰っているのだから、二日ばかりの徹夜もなんのその。

 しかし、突きつけられる現実。血相と目のクマで認められ、拍手の数は増えた。

 その後、猫塚のメールで、祭りの話題が持ち上がった。

 一旦、家に戻り、また公園に赴いて猫塚と合流。出店で何か買って来ようと猫塚が公園を離れる。辰巳は一人になったところで、つい眠ってしまった。

 三十分も経てば猫塚が戻ってきた。

「お、おーい。起きろっ。お、起きてくださーい」

 フランクフルトとリンゴ飴を両手に持ち、割り箸部分で辰巳の頬を突く。

「んあ……?」

「は、はい、どっち食べる?」

「両方、ちょうだい」

 寝起きの辰巳に、食べ物を押し付け、ベンチに腰かけた。

 猫塚は薄い布地の長袖服を着ている。虫に食われない様にとジーパンも穿く。

(気を遣わせたか。)

 辰巳は口に出さず、心の内に留める。

「しっかし、まぁ。松村(まつむら)飯田(いいだ)も先に顔くらい見せてくれてもいいのに」

「じ、じきにくると思うよ」

「あいつら二人、付き合ってるってマジなのか」

 松村光(まつむらひかり)が男。飯田朝(いいだあさ)が女。辰巳は朝ドラの子役二人に重ねて、思い出していた。

「ま、まじマジ。小学校の時から松村くんのこと好きだったんだよ、朝さん」

「松村って飯田の尻に敷かれていただろ。飯田のプライド的に、考えられなくてなあ」

「そ、そこは、私たちがお節介を焼かせていただきました。朝さんだって立派な女の子なんだから、家が隣の幼馴染を好きになるよ」

「ベタだよなあ。二人がきたら盛大に弄ってやることにしよう」

「ほ、ほどほどにね」

「変わるもんだな。いまでも、俺の中のお前らはちびっ子のままだ」

「ご、五年近くも戻って来なければね」

 猫塚に他意はなかったのだが、辰巳には耳の痛い話だった。

「同窓会は、まだ先か」

 猫塚から視線を反らし、公園の隣にある校舎を眺める。網越しの職員室には、まだ明かりが点いている。教職員も夜が更ければ、祭りに参加するはずだ。

「先生方に、顔を出しにいくか。どうしたもんか」

「ら、来年も戻ってくるなら、急がなくても大丈夫だよ」

「そうだな。あと数年だ。急ぐことも無いか」

 手に持ったフランクフルトを食べて、リンゴ飴は猫塚に渡す。

「お前はもっと食わないとな。そのうち倒れて寝たきりになりそうだ」

「な、なにそれ。私はこれが普通なんですけど。こ、これで充分だよ」

 猫塚はガリッという音を立てて齧った。ルビーのように赤い結晶が零れる。

 鮮やかな赤色のリンゴ飴を、手元でくるりと回して遊んだ。

 辰巳の向けていたその熱い視線に、猫塚が勘付く。

 猫塚は口元をリンゴ飴で隠した。

「な、なに」

 飴の赤が顔に移る。

 辰巳は残りのフランクフルトを食べきった。

「いや、なんでもない。飲み物、買ってくるわ。なにか飲みたいものあるか」

「お、お茶」

 辰巳は草履で駆けだした。ジュースを二本買って、一つを首にあてがい公園に戻る。

 公園のベンチに、浴衣を着た三人組が囲っていた。飯塚朝と松村光、それに桂夕海だ。

 辰巳は着物を着た昔馴染みに仰々しく挨拶をする。猫塚に笑われた。



 昼間から父の部屋に忍び込み、漁り散らかす。部屋はそのままにしておく――それは、母の願いだった。

 葬式の翌日には、笑みを作っていた母に感化され、辰巳は先のことを見据える。

 とりあえず体を動かす。紙芝居もそのためだ。

(エロ本くらい処理しておこう。)

 棚の後ろに一冊、机の引き出しの裏に一冊。小学生のころはもう三冊ほど見かけたのだが、処理されていた。二冊の本を回収する。

 他に何か目ぼしいものはないか、調べて回るが、へそくりすら隠されていない。写真の一つでもあれば、大粒の涙を零して泣いていたことだろう。

 辰巳にとって父は、好敵手と呼べず、しかし命を取りたいと憎む存在でもない。

 紙芝居をしろ、という最後の言葉が道しるべになろうと、苦難に頭を抱えるばかりだ。

 部屋を後にした。辰巳は、太陽の照る外に出た。

 自転車をこぎ、隣町に向かった。父の事故現場を訪れる。駅が近くにある、見通しの悪いT字路だ。ひき逃げに合い、即死だったと目撃者は言う。

コンクリートの塀には、焦げたような黒い血痕が残っている。

 辰巳は次に飲み屋へ行った。店内には入らず、外観だけを眺めて、また移動する。

 辰巳の家から学校を挟んだ先にある田んぼの、その傍にある家の前で自転車を止める。

 60坪ほどの土地に、ぽんと置かれた二階建ての家は、立派なものだった。広い庭をトンボが散り散りに飛び交う。

 ここもすぐに立つつもりだった。眼鏡をかけた猫塚が、二階の部屋の窓から顔を出した。

「な、なにしてるのー?」

「ちょっとなー」

「よ、よかったら上がっていきなよー」

 長い時間の自転車での走行は、体を披露させた。甘えて、辰巳は敷居を跨ぐ。

 玄関の棚に透明の花瓶が置いてあり、白ユリが活けられていた。二階から猫塚が降りてくるまで、澄んだ水とユリの花をじっと見ていた。

「お、お母さんとお父さん出かけてるから、ほら上がって上がって」

 短い黒髪を揺らして、階段を駆け下りてきた。

「お邪魔します」

「わ、私の部屋でいいよね。い、居間がいいかな?」

「どっちでも」

「じゃ、じゃあ私の部屋で。飲み物入れてくるから、先に入って待っててああああ、勝手に漁らないでね、部屋の中」

「そんな趣味ねーよ」

 辰巳は階段を上り、突き当りの部屋の戸を開ける。ウグイス色のカーテンがまず目に入る。部屋を包む爽やかな柑橘系の香りは、黄色のカーペットと合っていた。

 ベッドの足元には大きな熊のぬいぐるみがあった。色褪せや毛のほつれが目立つ。

(これ以上、見回すのは失礼か。)

 座布団に腰を下ろして待った。

 猫塚は冷茶と煎餅の乗ったお盆を持ってきた。それを布団の上に置き、勉強机の椅子に座る。

「え、えっと、わざわざ、うちの前に来たのってなんで? わ、私に用事があったとか?」

 知識をひけらかすつもりでも、構ってほしいつもりでもない。猫塚はそういうやつだった。その目が光っている内は、例え火の中、水の中、誰にでも手を貸す。

 だから、口数は少なかったものの学級委員に選ばれる。人に頼られる。

「なあ、一緒に紙芝居、作ってくれないか。頼む」

 数年の間、音沙汰も無く、帰ってきたかと思えば、訳の分からないことを手伝えなどとほざく辰巳。

(阿呆だな。)

「か、紙芝居? それって公園でやっているやつ?」

「暇がある日でいいんだ」

 分かっていても、頼まずにはいられない。

「も、もっと早く言ってくれれば良かったのに。あ、杏子ちゃんから話を聞いていたから、面白そうだなーって思ってたんだ」

 そんな辰巳にも、猫塚は快く応じた。

「それで、どんなもの作る? な、何か決まってるの?」

「まだなにも。一人で作ってはみたんだが……」

「う、うん。杏子ちゃんからほとんど聞いてるから。で、でも、作っていくうちに慣れるから、これから毎日一作、がんばろう!」

「一日一作とか、無理過ぎないか?」

「だ、大丈夫。台本は私が書くから。そ、それなりに上村くんは絵を描けるみたいだから、問題ないって。他の子たちも呼ぶ?」

「出来るだけ、俺が作りたいんだ。我が儘言うようで悪い」

「こ、こちらこそ誘ってくれてありがとうね」

 翌日の朝から二人で話し合いが行われた。辰巳も猫塚に負けまいと、案を持ち出す。

 まずは誰もが知っているような話を基盤とすること。アレンジを入れて、コミカルでより分かりやすく、さらに笑いを取りにいく。

 猫塚も納得し、作品に手を加えていく。

 筆の速さは並々ならぬものだった。辰巳が二日かけて作るような台本を、二時間で書き終えてしまう。

 そこからが辰巳の仕事だ。台本を読みにかかる。身振り手振りを付け加えていかなければならない。

「ここのキツネとタヌキのくだりは、テンポ良くした方がいいよな」

「う、うん。子どもたちは上村くんも見ているんだから、ちょっと小話も挟んでみたりしてみて、飽きさせないようにね。例えば、たぬきそばと、きつねうどんの話に持っていくとか」

「関東と関西で違うっていう話か。雑学っていう手もあったな」

「か、簡単に分かりやすくね。タヌキなら団三郎狸の話とか、キツネならすっぱい葡萄の話とかもあるよ。そ、そういうのも、ちょっと入れてみようか。子どもって、思慮深いところがあるから、馬鹿にできないよ」

「台本作り、手慣れてるのな」

「ま、まぁ、中学の頃から小説、書き始めてたからね」

 猫塚は手元でごそごそと作業をしていた。その手には茶色の折り紙が添えられている。額を拭い、タヌキと思しき物体の完成に猫塚は満足する。

 四肢の生えた岩石にしか見えない。裏側はもっとお粗末な作りだ。

「捨てろ」

「ひ、ひえええ。か、かわいいじゃんっ。なんだよ、もう」

 そのアイディアも借りて、辰巳は紙芝居作りに没頭した。相も変わらず、絵はキュビズムよりもマシな程度だが、台本は上々だ。

 昼食時には無事に完成する。

 猫塚の母が、散らかる部屋の戸を叩いた。

「愛理、辰巳くん。ご飯できたけど食べる?」

 冷やし中華を机に置き、正座で辰巳と顔を合わせた。

「辰巳くん、お久しぶり」

「お久しぶり、です。朝からお邪魔していてすいません」

 辰巳は正座をして挨拶する。初対面のようなものだ。

「いいのよ。元気そうで良かったわ。うちの子でよければ、いつでも遊んであげてね。いっそのこと貰ってっちゃってくれても」

「ほ、ほら、お母さんはもう戻ってよ」

「はいはい」

 含み笑いをしながら部屋を去っていった。胃が絞られるような、気まずい空気が部屋に残る。猫塚は冷やし中華の皿に手を伸ばして言った。

「た、食べようか?」

 英気を養い、子どもたちのいる公園に向かった。保冷ボックスを自転車カゴに入れ、紙芝居を持った猫塚を二台に乗せて、あぜ道をを自転車で突っ切っていく。

 公園に到着するなり、紙芝居を始めた。ぞろぞろと惰性で集まる子どもたちに、一泡吹かせてやろうと張り切る。

 素人の描いた味のある絵に、子ども受けを狙った台本。しつこすぎるくらい、大げさな演技が反響を呼んだ。紙芝居の途中に混ぜ込んだ小話や人形劇も功を奏した。

「にーちゃん、よかったよ。おもしろかった」

 平野海人に尻を叩かれたので、叩き返す。



 残り少ない夏休みも、紙芝居を作って過ごした。子どもたちに酷評されても、猫塚に手伝ってもらい、努力に勤しむ。

 辰巳は空に浮かんだ暗雲を仰ぐ。身支度をして、明日には学生寮に戻る予定だ。

 いつもは二時頃が紙芝居の時間だ。昨日の内に作っておいた紙芝居を持って自転車を走らせた。辰巳が家を出たのは、11時だ。

 坂を下りて平地を走っていると雨に降られる。小雨だったが、公園に着くころには大粒となっていた。

 保冷ボックスにはスイカを二玉、丸々用意していた。そのスイカも無駄になってしまう。公園に子どもの姿はない。

 自転車から降り、辰巳は肩を落としながら、ベンチの後ろの木に寄りかかる。雨足は強くなっていく。ケータイを取り出して、猫塚に電話した。

「おう。こりゃ中止だな」

「い、いまからそっち行く」

 傘を揺らし、水たまりに足を取られそうになりながら、猫塚は慌てて駆けてくる。

 猫塚の持ってきてくれたタオルで顔を拭く。

「タオルありがとうな。スイカ買ったんだけど、よかったら貰ってくれ」

「ス、スイカ買ったの!? た、高かったでしょ」

「そうでもないよ。けど生憎、この天気じゃあな。スイカ割りもできない」

「あ、あの。今、うちに海人くんと武くんが遊びに来ているから、上村くんさえよければ、見せてあげられないかな? ス、スイカ割りはできないけど」

 二つ返事で答え、猫塚の家に招いてもらう。三人に紙芝居を見せることが出来た。

 皆で一玉のスイカを切って食べた。塩で甘味を引き立て、舌つづみを打つ。

「にーちゃんはなんで、紙芝居やってるんだ?」

 今日は帽子を被っていない海人が尋ねた。辰巳に視線が集まる。

「俺にも分からない」

 ソファーから辰巳は立ち上がった。それを阻止するように、杏子が聞いた。

「紙芝居を仕事にするんですか?」

「そういうわけでもないよ」

「俺、にーちゃんみたいになりたい」

「僕も僕も」

「おう。ちゃんと夏休みの宿題を終わらせていなきゃ、俺みたいにはなれないけどな」

 外はまだ雨が降っている。

 天気予報では日暮れ時には止むとのことだった。中々に晴れない外を、辰巳は物憂げに眺めていた。



 子どもたちは日の沈む方へ、ぬかるんだ土を踏んで帰っていく。

 杏子は手を振って二人を見送った。杏子も明日、ここを立つ予定だ。握りこぶしを作り、小さな胸に置いた。

 子どもにとって一年はとても長い。下唇を丸める杏子に、猫塚は膝を曲げ、目線を合わせる。

「冬に、また遊びにおいで」

「覚えててくれるよね」

「大丈夫。杏子ちゃんが忘れなければ、ずっと一緒にいられるよ」

 杏子は玄関に走っていった。

 生ぬるい風に、辰巳も背中を押される。

「猫塚、いままで手伝ってくれてありがとう」

「う、ううん。わ、私も楽しかったから」

「またさ。機会があったらやりたいな」

「そ、その時はまた誘ってね」

 黒雲を割り、赤く燃える空が広がる。その情景が、愛しく思えてきてしまう。

 自転車の湿ったハンドルを握りしめ、辰巳は言葉を舌に乗せた。

「海人くんと武くんと杏ちゃんで、川に遊びに行ったときがあっただろ」

「うん」

「そのときに、変な、幽霊みたいなやつに襲われたんだ。おかしな話かもしれないけど、こうして生きて、紙芝居をしていることが不思議でならない」

「あ、頭、ぶったの?」

 顔をしかめられたので、辰巳は笑ってしまう。

「ひっでえな」

「ほ、本当なの?」

「神隠し、みたいだったなあ。お前と杏子ちゃんが丁度、川を離れた時だったよ」

「いまいちだなあ、そのジョーダン」

「お前に言われたくはねえ。じゃあ、もう帰るわ」

 ぬかるみに負けないよう、自転車を強く押す。一夏で、勉強疲れしていた肩も随分と柔らかくなった。父のお蔭である。

 その肩を猫塚に掴まれて、足を止めた。

 振り向けば、猫塚の整った顔が鼻の先にあった。

 水晶のような瞳が、辰巳の目には美しく写る。大きくなる鼓動を聞かれないようにと、半歩だけ下がった。それに合わせ、猫塚も手を離して一歩、下がる。

 辰巳は唸るように尋ねた。別れの挨拶は済ませたはずだ。

「なんだよ」

「ゆ、幽霊って言ったよね。それってどんなやつ?」

 思いのほか食いつきが良かった。その顔は眉を寄せ、遺憾の意を表する。


     〇


「背格好は、杏子ちゃんと同い年っぽかったな」

「人なの?」

「人っていうか、水の塊だったな。こう、スライムみたいな。もういいだろ、話をしたのは俺だけどさ。恥ずかしい」

「あの日、どこかに行って昼寝していたんでしょ?」

「俺にも分からん。けどあの日は、あの日だけは覚えているんだ。異常だった」

 もう、日は沈み切ろうとする。辰巳の意思も崩れていきそうになった。ずっと紙芝居を作っていたい、という気持ちが高まっていく。

 猫塚は袖をまくって、背を向けようとする辰巳に掲げて見せた。珠のように綺麗な肌だ。

 その不自然な行動に歩みを止め、辰巳は眉間に皺を寄せる。

「猫塚?」

「その幽霊ってさ」

 一拍、置くと腕が色を失い、無色透明になって、音も無く爆ぜる。

 肘から先が無くなってしまった。断面で血管が脈打っている。

「こんな、感じ?」

 辺り一面が夜の闇に包まれた。塀の向こうで家の明かりが点き、月は怪しく光る。


     〇


 自転車が倒れる音も、辰巳の耳には届かない。身体が硬直し、動くことを頑なに拒んだ。

 口を半開きにしたまま、半分が陰に隠れた猫塚の、憐れむような表情を見据える。

 猫塚が腕を降ろすと、その足元の地面から水が打ち上がった。水は肘に吸い付いて手の形を作り、肌色を取り戻す。

「お、驚かすつもりはなかったんだよ。本当だよ」

 足を震わす辰巳にそう告げた。

 辰巳は尻餅をついた。猫塚が近づき、手を伸ばす。

 対話が出来るからといって無事でいられる保証はない。蘇えるトラウマに息を呑み、辰巳は相手を睨む。相手は人を潰すくらいなら朝飯前。ましてや食らうと言う。

 敵だ、紛れもない敵だ、さあ撃て、と言わんばかりに、泥を握っていた辰巳の右手に、またしても拳銃が現れる。九発の弾丸が込められた拳銃は手に張り付いて離れない。

 銃口を猫塚の胸元に向けた。引き金にかかる指は震えていた。猫塚が目を瞑り、互いに動かないまま時間だけが過ぎていく。

「どうしたの? う、撃たないの? 撃たないとやられちゃうよ」

 猫塚の言う通りだ。

 手が出てからでは遅い。

 だが、辰巳は銃口をそっと下ろした。

「お前は、猫塚だ。あの少女じゃない」

 手を借りることなく、自力で立ち上がる。

 泥を払い、猫塚と目を合わせて、しっかりと地に足を付ける。状況の整理が追いつかず、動悸が鎮まろうとしないが、話をする分には問題ない。

「それでお前は、俺に、何か用があるのか」

「わ、私は上村くんを殺すつもりでいたのに、なぜか上村くんの中では、もう殺したことになっていて……。そうだ。なんで、上村くんは私に殺されているはずなのに……あれ?」

 混乱しているのは猫塚も同じだった。

「待て。なんでお前が動揺する」

「え、え? だって」

(救うのに殺すなどと、物騒な矛盾も口走る。どういうことか。)

 今し方、蘇えった記憶に合致する点がある。

 水の少女も同じように、しどろもどろしていた。

「公園に行こう。長い話になりそうだ。誰かに聞かれて良い話でも、ないだろう」

「大丈夫……大体、把握できたから」

 影のかかった顔半分を手で覆い、猫塚は拳銃に視線を落とす。

「お前と、水の少女の関係はなんだ」

「わ、分からない。そ、その子も私と同じで、人じゃないことくらいしか分からない。それと、たぶん上村くんも同じで、もう人じゃないっ」

 言い切ると、猫塚は自分の肩を抱いて体を小刻みに震わせた。

「どうして、どうして……」

「……」

「なのに、貴方まで、人じゃなくなるなんて」

 辰巳は口を結んで黙る。

 悩む。そして浮かんだ疑問のほとんどは、猫塚の言葉で解決してしまう。

「上村くん。ごめんなさい。私は、貴方を確かに殺した」

「自分が正しいと思ったことなら謝るなよ」

「か、上村くんってそうだよね。おじさんが嫌いで、遠くの学校に行くくらいだもんね」

「やかましいわ」

 顔を上げて笑みをこぼす猫塚。

「上村くんは私よりも強いから大丈夫だよね。もう、私が殺すこともないんだよね」

「なぁ猫塚。悩みがあるなら俺にぶちまけてくれ。お前がそんな体になったのも、なにか理由があるんだろう?」

「も、もう平気。迷惑かけられないし。またね。メ、メールするから」

「……冬に戻ってくる。また一緒に紙芝居、作ろうな」

 猫塚からその場を去る形で別れた。細い足で家に戻っていく。



 辰巳は朝一の鈍行電車に乗る。見送りに来てくれた母と祖母、そして猫塚に手を振り、故郷を後にした。

 車掌の終点アナウンスがあるまで、寝ながら電車に揺らされた。そこから乗り継いで五時間半ほど。すし詰めに合い、景色を楽しむ余裕はなく、サララリーマンの波に流されながらも、学生寮にたどり着く。もみくちゃにされ、髪や服がぼろぼろだ。

(課題は終わらせた、進路について話す余裕はなかったけれど。)

 三階建ての学生寮の階段を、くたびれた足で上っているところ、制服を着た男子生徒と遭遇した。上から降りてくる生徒に、辰巳は道を譲ろうとする。

 狭い階段なので、男二人が通るにはどちらも半身にならなければならない。だが、男子生徒の方は、そのまま辰巳を呼び止める。

「あれ辰巳。今日、帰ってきたの?」

 辰巳は顔を上げた。低身長の同級生が見下ろしてくる。その同級生の苗字を前川(まえかわ)、名前は飛鳥(あすか)という。辰巳のクラスメイトだ。

「あぁ。あと三日もすれば学校だからな」

「早い早い。夏休みなんてあっという間さ」

後部(あとべ)とは一緒じゃないのか」

「その後部に呼ばれたんだ、ゲーセンで待ってるって。こっちは朝から塾で勉強してきたっていうのに、帰ってきたらこれだよ」

「おうおう熱いね。お天道様も焼いちゃうよ」

「腐れ縁ってやつだよ。一緒に来るか?」

「馬に蹴られて死にたくないから遠慮しておくわ」

「……今日は随分と、機嫌がいいのな」

 前川はぶつぶつと文句を吐露する。

「そうか? そうかもな」

 その脇をすり抜け、部屋に向かおうとした。

「あぁ辰巳の部屋ね。ちょっと大変なことになってるよ」

「大変? 大変ってなんだ」

 二階にずらりと並ぶ十三部屋。その一番奥に辰巳の部屋がある。

(実家へ戻る前に戸締りはしっかりした。)

 大家を含め二十ある部屋の中から、泥棒がわざわざ二階までよじ登り、ピンポイントに辰巳の部屋の窓を割る確率はいかほどだろう。

「その様子だと外から見ていないみたいだね。部屋を空けていてよかったと、僕は思うよ」

「なんだそれ」

 辰巳は鍵を差し回し、ドアノブに手をかける。

 ドアは開かない。施錠してしまったようだ。

(本当に泥棒に入られたのか。)

 前川が背後に立つ。

「ぶっ壊れているんだ、辰巳の部屋」

「お前、急いでいるんじゃないのか」

「別に。それに辰巳がテンパらないよう一緒にいてやらないとね」

「ぶっ壊れているってお前がやったのか? それとも後部か?」

「違うよ。まぁ、見た方が早い。そして、チャップリンのモダンタイムスを始めて見たときくらいの衝撃は、覚悟しておいた方がいい」

「見たことねーよ。ったく、予備の鍵を借りて、俺の部屋に入るのは構わないけどなあ。掃除とか戸締りはちゃんとしておけよ」

「チャップリンがね、喋るんだよ」

 無視して今度こそ部屋に入った。

 部屋の惨事を目の当たりにし、辰巳はぽかんと呆けてしまう。

 丁度、真正面に大きな穴が空いている。本来なら窓際と呼び、等身大の窓ガラスがベランダと部屋を分けているのだが、それが無くなっている。四畳半の部屋の二畳は破損し、住めるような状態ではない。

 外から見られないよう、申し訳程度に垂らされているブルーシートがはためく。

「気に入った。俺ここに住む」

「既に住んでるだろ。説明ほしいか?」

「いや、なにがあったの。俺はこれからどうすればいいの」

「まずは落ち着いて僕の話を聞いて」

 辰巳は落とした手荷物に目もくれず、土足のまま部屋へ上がる。洗面所を通りすぎて部屋の中央である、外と部屋の境目に立って見回した。

 ベッドもテレビも撤去されていた。火事にしても発火元であるコンセントは、部屋の左手隅にまだ見られる。

「操縦を誤ったヘリコプターが墜落の際、寮にぶつかった。そこが偶然、ここだった」

「なんだそれ……なんだそれ」

 破損箇所は大きい。

「各メディアにも大々的に取り上げられたよ。ニュースは鮮度が命だから、二週間も経てば話題にもされなくなったけど。最近は、なにかと物騒な事件が多いから余計にね。この間の同級生殺害事件なんかも」

「……お前の部屋は?」

 隣は前川、そのさらに隣が後部の部屋だ。

 前川は首を横に振る。

「寮の隅を掠ったんだ。いや辰巳が寮を離れていて良かったよ。一緒に遊んでいるときにヘリが突っ込んできたんじゃ、笑い話にもなりゃしない。ベッドの上で受験勉強をしなきゃならないなんて苦痛すぎる」

「お、おう。そうだな」

「学校に電話するより、やっぱり管理人さんに会った方が早いかもね。空き部屋があれば荷物をまとめて移動するだけで済む」

「そうするわ」

「呑みこみが早いな」

「寮に思い入れも何もないからな」

「前向きに生きていかなきゃってことか? じゃなきゃ、失恋する度に泣いてるもんな」

 前川の冗談を軽くあしらい、一人で管理人の部屋を訪ねた。留守だったので、ケータイを取り出して電話を試みる。しかし、電池が切れており、学校まで足を運ぶ羽目になった。

 その高校は中高一貫の進学校で、偏差値が全国平均の中の上。学び舎としては立派な所だ。辰巳も満足している。

 教師方も授業は勿論の事、親身になって生徒の相談を受けていた。

目的も無く入学した辰巳はその真摯な姿勢を見て、とりあえず教師を目指すことにした。

 辰巳の意志が曲がることはない。そのためにも、雨風凌ぎ、飯にも有りつける宿が必要不可欠だ。



 石灰色の学校へ着いた。職員室にいた学年主任に話を聞く。

 冷房の入った教室には教師が数名、新学期に向けての作業をしていた。

「第三学生寮に空き部屋は一つあった。それも7月までの話だったが」

 主任は蓄えた髭を弄り、低い声を胸元で響かせた。

「一体、どういう」

「地方の高校から一人、学生が転入してくる。二年生だ。その子が寮に住む」

「は、はぁ。珍しいですね」

「そうだな。で、親戚にあては……あったら寮に住んでいないよなあ」

 胸ポケットから取り出したタバコを噴かそうとしたところで、若い女性教師に睨まれる。

 室内は禁煙だ。渋々とタバコをしまい、睨んでいた教師の名前を呼ぶ。

「ねえ甘い物大好き真見(まみ)ちゃん先生」

川鍋(かわべ)です」

「……川鍋くん、連絡は取れたかね」

「先日うかがった、第一学生寮に電話しています」

 川鍋の手には白い受話器が握られている。

「だそうだ、上村くん。その間、よければ私と将棋でも」

「仕事してください、センセイ」

「むぅ。じゃあ、上村くんちょっと話をしようか。なに、手短に終わるよ」

 辰巳は学生相談室に連行された。

 寮の一部屋と同じ広さの相談室は、進路相談や人間関係に悩む学生へカウンセリングを受けられる場として、学校側が開放していた。

 主任は扇風機の電源を入れ、窓を開けてから、足の短い椅子に腰を下ろす。

 辰巳も正面の椅子に座った。

「その、辛いだろうけど、自分を強く持つことを忘れずにな」

 主任は拳を作り、辰巳の目を見ていった。

「はい。話せる友人がいたので、なんとかなりました。心配していただき、ありがとうございます」

 がたがたと扇風機の首が回る。だいぶ使い古されている。主任が叩くと首の動きも滑らかになった。

「寮に関してはキミが気にすることでじゃあない。今日中には用意できるはずだ。荷物が多ければ学校の方に連絡を入れてくれれば、手伝いに行く」

「ありがとうございます」

「うん。すまないがタバコ、いいかな」

 辰巳が頷くなり、懐に手を伸ばす。開け放たれた窓の前に立ち、主任は一服した。

「うちの父は階段から落ちてね。キミと同じ高二年の時だった。首の骨を折ってぽっくり逝ってしまったよ。人生、なにが起こるか分からないよね」

「先生は、どうしました」

「どうしたもこうしたも、しばらく、ぽかんとしていたよ。ぽかんとしたまま大人になった。長すぎたのかもしれないが、それでも歳を食って分かったことがある」

 煙を燻らせる。

「あの日、いつものように階段掃除をすっぽかして部活に行っていれば、父は階段から落ちることもなかったんじゃないか。けどそれは起こってしまったことで、悔やんでもどうにもならないことなんだって」

「それは別に、先生のせいじゃないんじゃ」

「皆、そう言ってくれる。ある生徒には笑われてしまった。その生徒も、事故で亡くなってしまってね。今度はその生徒の顔が忘れられずにいる。補修を一週間、早めていれば。そう思わずにはいられないんだ」

 目を伏せ、主任は何度も頷いた。

 第二学生寮に空きが出来た――その連絡が入ったのは夕方、四時過ぎのことだった。

 辰巳の住んでいたところは第三学生寮。一人部屋しかないのに対して、第二学生寮には共同部屋が設けられている。そのいくつかある共同部屋に一人分の空きがあった。

 第二学生寮の一人部屋に住まう学生が、共同部屋を利用している友人と部屋を一緒にしてほしいと元より申し出ていて、そこに辰巳が転がり込んだ。

 第二学生寮と第三学生寮は、学校を挟んで離れた場所に建てられている。荷物をまとめ、地図を片手に荷物を背負って移動すれば、それだけで夜になってしまう。

 部屋で寝転ぶ。

 そこにやってきたのは、前川と後部だった。

 間取りは第三学生寮とほぼ変わりない。ベッドシーツや枕は新品に交換され、床は隅々まで磨かれている。

 何もない、綺麗なだけの部屋で、携帯ゲームをして二人は帰っていった。

置いていかれた菓子パンを辰巳は食べ、眠りについた。閑散とした日々に戻る。生ぬるいだけの空気を吸い込んで、思い出を反芻する。

 充電中のケータイが振動する。メールだ。手を伸ばすが、確認する前に意識が遠のいた。

 悪夢にうなされて朝を迎える。



 全校集会の校長の長い挨拶から解放された。がやがやと廊下がざわめき、そのざわめきは教室内を埋めていく。部活、勉強、遊びと、各々の形で満喫した夏を語った。

(誰にも話せるものか。)

 場をうすら寒い空気にしてしまうのが、明白だった。そっと胸にしまいこむ。

 前川と後部が辰巳の机に集まっていた。

「辰巳くんは実家に戻っていたんだっけ?」

 後部が黒茶の髪を揺らし、顔をずいっと前に出す。名前は寿美(ひさび)で、前川の幼馴染だ。特徴的なのは、大きな背丈と瞳と胸。

「あぁ。祭りとか、花火とか楽しかった」

 辰巳も五年ほど知り合いをしているが、後部のことはあまり知らない。ただ前川のことが好きだということくらいにしか、認識していない。

「もっとマシな感想は言えないのか」

 呆れる前川に、後部がしがみついた。その豊満な胸を押し付ける。

 前川はうっとおしそうに体を揺らした。

「くっつくなアホ」

「それで他には他には」

「他に、って言われてもなあ。あっ、スイカ二玉、買って食った。叩き割って砕いたやつを食べたかったんだけど、雨に降られちゃってな。ちょっとそれが残念だったな」

「スイカなら私たちも食べたよ! ねー飛鳥。ハワイ、楽しかったねー」

「ハワイってなんだ」

「アメリカの州。四つの主島からなる諸島。一七七八年に海洋探検家ジェームズクックが三回目となる航海で上陸し、同時にそこで先住民たちと争いになり、あえなく死亡。彼の航海のサポートをしていたサンドイッチ伯爵に因んで、サンドイッチ諸島とヨーロッパでは呼ばれていたこともあったが、ハワイ諸島を初めて統一したカメハメハ大王によってハワイ王国が建国され、一八九四年、ハワイ共和国となって独立する。アメリカによるハワイの併合化が米西戦争により加速し、一九○○年には領土併合法が認められて一九五九年に立州したのがハワイ州だ」

「調べたのか。いや、そういうことじゃなくて」

「ヘリが寮にぶつかってから三日後くらいか。デパートのガラガラくじで、二泊三日の旅行券をこいつが当ててきたんだ。その一週間後に連れて行かれた」

 げんなりとした顔で前川は言った。密着する後部を、引き剥がすことすら面倒になっている。

 辰巳は紙芝居のことでも話そうとした。注意を払えば詮索もされずに済む。

 口を開いたところで、教室のドアが開き、担任教師が入ってきた。

 先日、辰巳の住いを探した女性の教師だ。

「おっと、先生がきたな。寿美、離れてくれ」

「タイミングわっるー。ぶーぶー」

 二人はそう言って前の席へ戻っていく。

 女性教師――川鍋真見(かわべまみ)は教卓に出席簿を置いて、生徒が着席した確認が取れると、元気な声を張り上げた。

「おはよう! 夏休みを堪能した生徒もそうでない生徒も、気を引き締めて学校生活に戻るよう、気合いを入れていきましょう。はい出席ィー!」

「まみちゃんせんせー」

「なんだァ後部。ついに前川と別れたのか」

「いやいやありえない」

「付き合ってもねえよ!」

 後部は横槍をするりとかわして続けた。

「そんなことより、せんせー。出席取る前に転校生、紹介しなきゃいけないんじゃないの?」

 今朝。辰巳が登校してきた時には、その噂で持ちきりだった。噂に尾ひれが付き、いつのまにか転校生は、このクラスに加わることとなっていた。

 緊張と期待から生徒たちは胸を躍らせ、川鍋先生に視線を向ける。

 生唾を飲む音が聞こえてくるほど、静かになった教室で、先生は頭を掻きながら言う。

「あぁ裏切るようで悪いが。転校生な、隣のクラスだぞ」

 隣のクラスで万雷の拍手が沸き起こった。

 クラスのテンションが下がったまま点呼が行われた。しかし、転校生見たさに、隣のクラスまで行く生徒は、ほとんどいなかった。

 新しい環境で不安を与えないように、という配慮もある。辰巳も前川と教室に残って、昼食にありつく。

「午後は暇だけどどうする。辰巳も、夏休みに入る前にバイトやめたんだろ?」

「どっか出かけるのもだるい」

「じゃあ、また後部と遊びに行くわ」

「好きにしてくれ。後部は飯も食わずに部活か?」

「転校生を見に行っている。迷惑かけていなければ良いけど」

「お前は、興味ないのか」

「相手は猿山の大将じゃなくて転校生。小学生じゃあるまいし、興味本位で見物しにいくのは気が引ける」

「しかも高校二年の二学期に、だからなあ」

「事情があるんだろうな」

 転校生はツーサイドアップが似合うカワイイ女子だった、と風に乗って流れてきた情報だけを耳にして、二人は教室を出た。



 辰巳は神社を前にして足を止めた。砂利の弾ける音がした。神社を囲う塀の隙間から、子どもたちの声が聞こえてくる。

 塀の向こうで子どもが転んで泣いてしまっていた。

「なにしてる」

「夢中になって飛び出して、車にハネられないか心配で」

「お前こそ前向いて歩けよ。こっちの方は車の往来が激しい」

 先を行く前川に急かされた。

 塀の穴から子どもの様子を覗く。一人で立ち上がるところを見届けてから、前川を追いかけた。

 コンビニ、本屋、花屋と商店街を通りすぎていく。以前、住んでいたところよりも、色のある景色だ。精肉屋から、こんがりと焼けたコロッケの香りがして、豆腐屋の風鈴の音が残暑を霞める。

 どこもかしこも見慣れない店ばかりで、辰巳には新鮮だった。行き交う車に人々。旅をしているかのように、浮つく。

 音響装置付信号が設置された交差点を渡り、きょろきょろとあちこちに目を配る。

「朝とはえらい違いだな」

「僕もこっちの方には用事でもない限り来ないから、その気持ち、分からないでもないよ。だからもう少し落ち着いてくれ」

「すまん」

「買い物には困らないだろうね。ちょっと見通しが悪い気がするけど、気をつけるほどのことでもないだろう」

「なんでそんな過保護なんだ」

「見ていて危なっかしいんだよ。お前も、寿美もな」

 他校の制服を着た学生も、ちらほらと観られる。紙芝居のネタになりそうなものがないか、つい探してしまう。辰巳は深呼吸をした。

 寮に戻るなり、ゲームをして遊び、勉強も済ませてしまう。後部も来た。

 二人を見送ってから、辰巳は夕食を食べるために階段を下りる。



 渡り廊下を歩いた先にある食堂へと赴く。全体的な作りはどの寮も、だいたい同じだ。

 献立に違いは出るのだろうか、と辰巳の腹の虫が鳴く。

 豚の生姜焼き定食を持ち、無表情で空いている席に着いた。二週間に一度は出される定番メニューだった。

 不満ではないが、朝もパンにハムエッグ、トマトサラダと、以前の寮で食べていたメニューが揃っていた。

 黙々と箸を進める。湯気の立つなめこ味噌汁をすすり、豚を食らう。ピリリと辛い生姜焼きは、食べごたえのある焼き具合だ。

 食事を貪る辰巳。その隣に、生徒が一人、やってきた。

 辰巳のいる机は、隅に設置させられた机なので、他人と対面することはない。

 箸を動かしながら横を一瞥する。後ろ髪が腰元まで伸びた女子生徒が、椅子に手をかけていたところだった。

「隣、いいですか?」

 小動物のように怯えながら、女子生徒は聞いてきた。席と席との間は、およそ人半分ほどの空きがある。

「はい。どうぞ、お構いなく」

 辰巳はそのまま首をひねり、辺りを見渡す。食堂は学生で埋まっていた。中には一人くらい、寮外の生徒が混じっているのかもしれない。

「失礼しま~す……」

 女子生徒は声を震わせながら座った。前髪も鼻先にかかるほど長く、目が隠れてしまっている。

 辰巳は食事の手を止め、米が甘くなるまで咀嚼を繰り返していた。

「あのー……不快にさせたのなら、すいません。すぐ退くんで」

 女子生徒は顎を引いて言う。前を向いたまま、辰巳の定食に目線を落とす。

(何を言っているのだろう。)

 辰巳は、いえ、と茶を濁し、食事を済ませるなり席を立った。



 風呂に入って部屋へ戻る。

 ケータイを開く。猫塚からの着信に、折り返して電話をかけた。繰り返す呼び出し音に、貧乏ゆすりをしてしまう。

 五コール目で猫塚は電話に出た。

「あ、はい。こ、こんばんわです」

 電話の向こうで、お辞儀をしているのが容易に想像できる。

「こんばんは。なにか用か?」

「こ、これといって用はないけど、元気にしてるかなーって思って」

「一週間くらいしか経ってないのにお前は何を言っているんだ」

「あ、あと、気にならないのかなと……」

「あぁ? うん。お前のことか」

「う、うん」

「そりゃ、怖いけど」

「や、やっぱり……」

「けどな、考えてもどうにもならん。お前は俺を信じているんだろ。なら俺もお前を信じる。それで十分じゃないのか」

 なにも、水の少女のことを忘れていたわけではない。

 電話の向こうから、布の擦れる音がする。辰巳は口をつむいだ。

「じゃあ。一つ、聞かせてくれないか」

「なに?」

「お前が言うには、俺も人じゃないんだろ? ということはお前みたいに、体を液体状にできたりするのか?」

 部屋の灯りに手をかざす。念じたり、願ったり、試してはみるものの、その兆候すら見られない。

「か、上村くんは、ちょっと変わってるみたいだから、そういうのはできないかも」

「俺だけ仲間はずれかよ。水の少女に襲われたからなのか」

「違う、と思うけど。わ、私からはなにも」

「まぁ気が変わったら、話をしてくれ」

「……上村くん!」

 猫塚が急に声を張り上げたので、ケータイを落としそうになる。

「なんだ」

「また、私みたいな……上村くんのいう、水の少女みたいな存在と出会うはず」

「俺が人じゃなくなったのって、つまりはそういうことだろ。なんとなくだけど分かる」

 水の少女に襲われた日のことを思い出す。ぞわり、と背筋が凍りそうになる記憶とも、猫塚の声を聞けば、落ち着いて向き合えた。

「わ、私たちの中には、人を好んで襲うやつがいるから、そいつらの力の行使から逃れようとすれば感付かれて、否が応でも争うことになる。そ、そいつらを見かけたら迷わず、撃ってほしいの。ためらっちゃいけない。で、でないと貴方が、やられるから」

 そこで、電話は切られた。

 辰巳は洗面台の前に立って、鏡に写った自分の頬を叩いた。

(あの少女みたいな存在が、公衆の面前で暴れれば大ごとだ。少女に知識や常識がなかったと考えれば、そういう存在が他にいることも頷ける。では、そのような連中はどうやって人を襲う。そもそも、人を襲うことに利点があるのか。)

 以前の住いである第三学生寮の部屋の惨状が頭の中に蘇えり、それが人ではない者の仕業ではないのか、と勘ぐってしまう。

 人を襲わない輩もいる。

(力、というものを扱いきれずに、放棄してしまったのか。人として長く生き過ぎていたのか。猫塚はどうなのだろう。他人を手にかける、残忍な性格はしていない。けれど殺すと言っていた。)

 布団を被って眠りにつくまで悩んだ。

 少しずつだが、夜風に寒気が混じる。初秋の日のことだった。

 それ以降、猫塚と連絡が取れなくなる。着信は入らず、メールをしても音沙汰がない。

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