第一話「湖の少女」
第一話「湖の少女」
1
高校二年の夏休みに、上村辰巳は実家へ戻る。進路相談のこともあったが、なにより顔を出さなければ、母や祖母に心配をかけてしまう。
電話で連絡を取り合っていたものの、長期休暇はおろか、年末年始にも帰省していない。
電車とバスに揺られ、五時間半。空から降り注ぐ熱線で肌を焼き、Tシャツ半ズボンで首にタオルを巻いてあぜ道を歩いた。
アメンボが田んぼの水面を蹴ると、呼応するように風が吹いた。石橋から眺めた川上で、子どもたちが遊んでいる。先を見れば、小さな山々に圧し掛かり、青い空を穿つように高くそびえる入道雲が、出迎えてくれた。都会とは空気の味が違い、青臭さが混じっている。
帰ってきた。けたたましい蝉の声や凸凹の坂道、新鮮な空気とその匂いに、辰巳は川へ飛び込む衝動に駆られた。第一に暑かった。
まずは家の敷居を跨いでからでも遅くない。ずぶぬれで帰れば、母にどやされてしまう。
歩きなれた家路を行き、林を迂回して坂を上れば、そこに家がある。屋根瓦の隅々まで綺麗に掃除された平屋だ。
辰巳は走り出す。硬い土をしっかりと踏み、勢いよく蹴った。脱兎よりも速く、吹きつける風もお構いなしに走る。
短い髪を乱したまま、家の戸を開け放ち、声を上げた。
「ただいま!」
大きな声は壁を反響して家全体に広がる。だが、一向に返事がない。
辰巳は荒げた息を整えて、家に上がった。冷蔵庫を漁り、出てきた棒アイスを咥える。
テレビをつけて、家族の帰りを待った。畳の感触と臭いに、うとうととしてしまい、しばらく横になって眠ることにした。
起きれば、もう日が沈みかけていた。台所からまな板を叩く包丁の音が聞こえてくる。テレビでは、刑事ドラマの再放送が行われている。
辰巳は体にかけられていた薄い掛布団を払い、目を擦りながら台所に向かう。
母が割烹着を着て、料理を作っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「久しぶりねえ。また大きくなったんじゃない?」
母は大きく腕を広げた。そういう歳ではないので、辰巳は無反応でいた。
「いつごろ帰ってきたんだい? 体中、びしょ濡れだったよ」
「昼ごろだけど」
「川で遊ぶのはいいけど気を付けてね。結構前に、ここら辺で子どもが溺れたらしいからねえ」
「遊んでないよ。それにもう、溺れるほどガキじゃない」
肉の焼ける匂いがした。フライパンは褐色の甘酢ダレで満たされ、ピーマンがゴロゴロと転がっている。見ているだけで涎が湧いてきてしまう。
「お父さんはもうすぐ帰ってくるからね。あの人、辰巳が帰ってくるって聞いて、すごく喜んでたのよ」
「親父が?」
「昔から恥ずかしがり屋だから」
「初めて聞いたんだけど」
「そう? そうだったかしら」
母は軽く鼻で笑う。
さらりと言われたが、辰巳にとって重要なことだ。
「ねぇ辰巳、なにか食べたいものある?」
「なんでもいいよ」
父が帰宅する前に夕食が出来上がり、辰巳は先に頂くことにした。
口いっぱいに広がる牛肉の旨みと焦げの香ばしさ。そこに加わるピーマンの苦みが食欲を駆り立てる。むしゃり、むしゃりと齧りついては、白いご飯に箸が伸びる。
学生寮の食堂には無い味だ。自然と食事の手が進む。
祖母が、父よりも先に帰ってきた。辰巳の顔を見るなり、食卓につき、背筋をぴんと伸ばして祖母は聞く。
「学校の方はどうだい?」
「友だちもいるし、勉強もそれなりに頑張ってるから心配いらない」
辰巳が無表情でも、祖母は年甲斐もなくはしゃぐ。
「そうかい、そうかい。私が死ぬ前に、子どもは見せられんかね?」
「それは難しい」
「ははは。湊さんは高校卒業してすぐ、甲と結婚したがね」
「俺は男だ。母さんと一緒にしないで」
父が帰ってきたのは、辰巳が風呂を済ませ、自室に戻ってから一時間後のことだった。
辰巳は寝床につくなり、頭を悩ませた。天井の木目を数えても眠気は訪れない。
○
朝になると、居間に父がいた。髭を生やし、Tシャツとパンツ一枚で新聞を読んでいる。筋骨隆々の体は張りが増し、若々しくなっている気さえする。
「おはよ」
辰巳は、なげやりな挨拶をした。父の反応に、何を期待したわけでもない。脇を抜けて食卓に向かう。
父が言葉を返した。
「おかえり」
確かにそう言った。父の口から聞いたことのない言葉だった。
辰巳は朝食を口に詰め込むなり、外へ駆け出す。
○
ぶらぶらと外を歩き回って時間を潰し、日が落ちる頃に辰巳は家へ帰る。
居間では、父が尻を掻きながら相撲を見ていた。台所で夕食の支度をする母を余所に、テレビに食い付く。
「ちっ、なーにやってんだよ」
お気に入りの力士に、父は愚痴を吐いた。年を取るにつれて独り言は増えると言う。
壮司は父を尻目に、台所につま先を向ける。父の背後を通った時、まさか声をかけられるとは、露ほども思っていなかった。
「おい、待て」
父の乱暴な口調に渋々、返事をする。
「なに」
辰巳が聞けば、父は首を鳴らしながら立ち上がった。辰巳を手招く。
「ちょっとこい」
ずしずしと歩いて行く。
辰巳は汗臭い父の背中を追い、家の隅にある父の自室に来た。戸は無い。そんな不用心な部屋には、猥本くらいしか置いていないはずだった。
脇を締めて、父の動向を伺った。
丸窓から一線、道を作るように橙色の明かりが入り込む。父は日差しを跨ぎ、小さな机の前に腰を下ろして引き出しを勢いよく引いた。
引き出しの擦り切れ音に、辰巳の全身が粟立つ。
汚れた紙芝居が顔を出した。
ピカソのキュビズムのように、常人には理解しがたい紙芝居だ。頭の片隅にあった記憶が今、父の手に収まっている。
父は三本の指で持っていた厚紙の束を、辰巳に押し付けた。
「お前がやれ。道端でも公園でもどこでもいい」
「やれって。なにを」
辰巳は後ろにのけぞり、やむなく紙芝居を手にし、その重量でバランスを取った。意外にも紙芝居は重かった。
「同じことを何度も言わせるな。どうせ暇だろ。駄賃でアイスでも買って、ガキ釣って、下手でも良いからやれ」
(一度しか、言っていないではないか。)
有無を言わせず、父は先に部屋を出ていってしまう。
紙芝居を抱えた辰巳は、丸窓の外をじっと眺め、日の光が消えるまで父の部屋にいた。
暗くなり、部屋を出た時には、父は食卓におらず飲みに出ていた。
その日の夜、辰巳は紙芝居を片手に、祖母のところを尋ねる。
祖母の部屋の、ぼんぼりの明かりが灯る。薄暗い部屋で祖母に座るよう言われ、座布団へ腰を下ろした。祖母の部屋は、菓子パンに似た小麦の匂いがする。辰巳は鼻をひくつかせた。
祖母が正座をするものだから、辰巳も改まって正座をしてしまう。
「全然、似とりゃあせんからねえ。どうしてだろうねえ」
父と比べているのだと、辰巳でも理解できた。
「よく、分からなくなってきた」
「なにが?」
「親父のことが」
「そうかい。そんなものだよ。おじいさんにも、あたしにも似てないからね」
祖父のことは顔すら知らない。それもそのはず、辰巳が生まれた時には既に、この世を去っていた。
辰巳は間髪入れず、尋ねる。残っているものは紙芝居だけだ。
「これ、なにか知ってる? 親父に渡されたんだけど」
祖母は口をへの字に曲げて、困った顔を浮かべる。
もはや、父に関連する何かであることは明白であり、辰巳はほっと息を吐いた。
「なあ、ばあちゃん」
「慌てなさんな。それはね、お守りなんだよ」
辰巳は足を崩した。前のめりになり、紙芝居に乗せた手に力が入る。
しわの重なる目蓋を落とし、唇が小刻みに震えたかと思えば、祖母は深呼吸をする。
辰巳の手は自然と汗ばんでいった。
「お守り……? なんの?」
健康、安産成就祈願のお守り、というわけでもなさそうだ。祖母の手が紙芝居に伸びる。
辰巳は紙芝居がめくられるのを黙って見ていた。
外が騒がしい。静寂を食う勢いで、夜風が木々を薙ぐ。
空が晴れれば、おどろおどろしい半月が散りばめられた星々と共に、部屋に一筋の光を作った。
次に月の明かりが絶えた時、紙芝居がトンと軽い音を立てて置かれる。
「初めはね、辰巳のおじいちゃんだったよ。あたしと出会った時にはそれを持っていたんだ。兵隊さんに頂いたものなんだって、大事にしていたよ」
「親父はじいちゃんに、貰ったのか」
「そうだよ。おじいちゃんは言っていたよ、お守りなんだって。誰のための、なんのためのお守りなのかまでは、言ってくれなかったけどね。男ってのは頑固で面倒臭い生き物だね。けどね、一つだけ確かなことがあるよ」
祖母は対峙している辰巳の目の、奥の奥を見据え、さらに長い間を置いた。
「今度はお前が、それを持つ番なんだよ。甲がお前に託したってことは、そういうことなんだと、あたしは思うよ」
祖母はほほ笑んで、紙芝居を返した。
自室に戻った辰巳は寝られずにいた。風がやかましく、朝まで眠りにつくことはなかった。目を覚ましたのは昼過ぎ。
食事を摂るために、誰もいない居間に降りる。
○
母も祖母もいない。閑静な時間を過ごす。
蝉の鳴き声はする。
けれど、どこか遠く、一つ向こうの山から届いてくるように思わせる。
甘いアイスキャンディーをしゃぶりながら、辰巳は横になる。テレビを点けて一通りチャンネルを回すが、どの番組も気に食わず、おもむろに起き上がった。
課題に取り組むのも良かったが外に出た。強い日差しを眩しく返す川に沿って坂を下る。途中、あまりの日の強さに眩暈を起こし、近くの木陰で小休止を取る。
服を脱ぎ払って川に飛び込みたくなったが、顔を洗うだけにして道へ戻った。
○
じりじりと熱せられた砂利道を進んで橋を渡り、目の前に小学校が立つ公園までやってきた。
青い葉を付けた木々に囲まれ、雑草が乱暴に生い茂る。木陰の下の乾いたベンチに腰を下ろした。
子どもが数人、公園の木製遊具で遊んでいる。楽しそうにしている子どもを、足を掻きながら眺めた。
(ここの子たちは、どうしているだろうか。)
プールの匂いが鼻を掠めた。皆、元気でいることを願うばかりだ。
あまりの暑さに何をする気も起きず、蝉の合唱に気だるさを感じていると、辰巳の方へ近づいてくる人陰が一つ。猿目で様子を伺った。女性だ。
歳は辰巳よりも下に見えた。清涼感のある白いブラウスに、足元まで伸びる水色のスカートは、浜辺や丘で着ていれば、絵になることだろう。
麦わら帽子を取れば美人に違いない。そう確信させるセミロングの黒髪が、帽子の下でなびく。
あまりじろじろと視線を送るのはまずい。辰巳は上を向いてやり過ごす。空が青い。
ざっざっ、と草を倒す足音の拍が通りすぎるのを待った。
(綺麗な人だ。)
初めて告白した女子生徒に似ていた。辰巳は中学校で二人の女子に振られている。どちらも、それから話すようなことはなくなった。
「ごめんなさい。仲の良い友だちでいたいの」
そう言われるだけマシなものだ。世の中にはもっと悲惨な人がいるのだから、贅沢は言えない。
唐突に、思い浮かんだ父の顔。髭を蓄えた武骨な顔は、実に男らしい。
近くの駄菓子屋でアイスでも買ってこようと、ベンチから腰を上げた。
勢いを付け過ぎてしまい、ベンチが大きく揺れた。その音に、女性は体を強張らせ、歩みを止めた。
狭い公園の中で鉢合わせになり、気まずい空気に包まれる。
辰巳は時間が止まる錯覚に陥った。後ろでは蝉がうるさく鳴くばかり。
何事もなかったかのように、そそくさと去ろうとする辰巳に、女性が声をかけた。
「か、上村くん?」
緊張して裏返る声に、女性はすかさず両手で口を覆い隠した。
どうやら辰巳の知り合いのようだ。
2
名前を呼ばれては、返事をしないわけにもいかない。
辰巳は届いた言葉に振り返る。
「はい? なんでしょう」
変に改まる。辰巳には見覚えのない女性だったからだ。
顔を合わせると、女性はさらに動顛して顔を赤らめる。もごもごと口を動かすが、一向に喋ろうとしない。
辰巳の視線は、変人を見るそれと同じになる。
(それともなにか。思い出さないといけないわけか。)
怪訝に思った。だが話を進めたいというのなら、仕方のないことだ。
顎に手を当てた。麦わら帽とワンピースの似合う女性を辰巳は知らない。
かといって、どなた様ですか、などとブシツケな質問はできない。あてずっぽうで名前を言うのも失礼だ。
かんかん照りの中、重くなるまで頭を働かせた辰巳。せめて何か思い付いたふりをしようと、餌を貰う金魚のように口を開閉する。
「あ、あはは、平気です。へーき」
その言葉とは裏腹に、女性は空笑いをする。
辰巳は大人しく白旗を上げ、失礼を承知で尋ねる。
「……すいません。もしかして、同じ小学校出身だったり、します?」
地元の知り合いなら、幼稚園か小学校が同じなはずだ。
「そ、そうだよ。同じ芝窓小の、えーっと、これをかければ……」
女性は太もも辺りに刺繍されたポケットから眼鏡を取り出した。小振りな鼻の上に、丸みのある眼鏡が乗り、印象ががらりと一転した。
そのおどおどとした喋り方と、眼鏡の奥で下向きがちな瞳に見覚えがあった。
口を開くたびに、言葉に詰まることがその女性の特徴だ。辰巳の頭の中の彼女は、教室の隅でひっそりと読書をしていて、根暗というよりも、喋り下手な少女。
芝窓小学校は辰巳、そして彼女の出身校だ。
「もしかして、猫塚か?」
「ち、違います。ぶー。ふ、不正解」
「え? はァ?」
「うぇああぁ……ご……ごめんなさい。調子に乗りました。う、嘘です。猫塚です。愛理です。ご無沙汰しています」
女性は何度も頷いて、あたふたと手を動かし、名乗ってから今度は頭を下げた。
「おう。ご無沙汰、してます」
ほう、と感嘆の息を漏らす。顔を上げた猫塚の身体を、なめまわすように観察してしまう。身体の線をなぞり、下から上へと眼球を動かした。月日が経てば、人は変わるものだ。
(そう言われれば、どことなく面影がある。)
長い髪がそうだった。
「ど、どうかした?」
小首を傾げる猫塚。
辰巳はふくよかな胸から目線を外し、平静を装う。
「久しぶりだなーって思って。だいぶ、その、背も伸びていたから分からなかった。元気してたか?」
「げ、元気、ちょー元気」
猫塚はガッツポーズをしてみせる。力こぶは皆無だ。
「上村くんも凄いおっきくなってて驚いたよ」
「イケメンになっただろ?」
「ぜんぜん」
辰巳は頬をぽりぽりと掻く。
(猫塚は一目見て分かった。それなのに、情けない。)
「あの、いつごろこっちに戻ってきたの?」
「つい二日前にこっちへ……うん。とりあえず、座る? そこ暑いだろ」
猫塚の問いで辰巳は我に返った。人一人分の間を取り、互いにベンチに座る。
猫塚は帽子をうちわ代わりにしてあおいだ。華やかな香りが漂う。
帽子を膝に置き、今度は服の胸元を摘まんで、はためかすものだから、辰巳は目のやり場に困ってしまう。とりあえず、一旦途切れた話を続けて、意識を別の方へ持っていく。
「今どこの高校に通ってるんだ?」
「と、隣町の北芝窓高。か、上村くんは中高一貫校だったよね。ずっこいずっこい」
「ずっこいって、なんだよ」
「わ、わざわざ遠くの学校に行く必要はあったのかなーって」
「……お前、口数が増えたっていうか、学校じゃ喋りかけても一言二言、返事をするだけだったろう」
「そ、そうかな。本読んでるときは、話しかけてほしくないから、淡泊になっちゃうんだよね。い、一緒に学級委員やってたときは、それなりに喋ったはずだよ」
「覚えてねーなあ」
辰巳の通っていた小学校は規模が小さく、一学年一クラスだけだった。教室には多くて四十人の子どもしかいない。同級生の顔を覚えるのは簡単な法ではある。
男女お構いなしに、クラスのメンバーでドッヂボールをする中、猫塚はその様子を教室の窓から眺めている子だった。特別、身体が悪いわけでもない。
ただ孤高の存在でもなく、テストは満点を連続で取っても浮いておらず、周囲には馴染んでいた。
「やっぱ変わったよ」
「じ、自分が覚えていなかっただけでしょう。それはひどい」
猫塚は口を窄める。
「……すまん」
「か、上村くんの敬語、おもしろかったな」
散々弄られた辰巳は余所を向き、手うちわで暑さを凌ぐ。一挙一動に、どうしても意識してしまう。挙動不審にならないよう、言葉選びを慎重に行った。
「アイス、買ってくるわ。なにか食べたいものあるか?」
「私も一緒に行くよ」
「公園に用事があるんだろ」
「う、うん。イトコがね、遊びに来てるから迎えに来たんだけど」
「急にいなくなったらそのイトコも心配する。ほら、何食べたいんだ?」
「じゃあ、ごりごりくんを……あっ、お、お金」
「久しぶりに会ったんだ。気持ちよく奢らせてくれ」
逃げるように、箱入りのアイスを調達しに出た。駄菓子屋の冷凍庫を開ける。充満する冷気に、薄い鳥肌を立てた。
迷っていると、駄菓子屋のおばさんに後ろから声をかけられた。おばさんも辰巳の顔を覚えていた。
他愛の無い世間話から始まるが、おばさんの独壇場へと変貌した時にはもう遅い。近所の酒屋の店主が浮気をしていたことから、隣町にできたデパートの娘さんについてまで、井戸端会議で得た情報をべらべらと喋り尽くす。よく舌が回るものだ。
辰巳は背中を丸めたまま公園へと戻った。
猫塚に袋ごとアイスを渡す。
「お、遅かったね。な、なにかあったの? 道に迷った?」
「駄菓子屋のおばちゃんが中々、帰してくれなくて。あの人、疲れる」
「は、はは。しょうがないよ」
辰巳は本日二本目のアイスキャンディーを咥えた。ひんやりとした甘味が、身体に染みわたる。
「あれ、箱アイス? か、上村くんゲリピーになっちゃうよ」
おちょくりながら、猫塚がアイスの箱を開けた。
「俺のじゃねーよ。あそこのちびっ子たちの分だよ」
「し、知ってたし」
「なら、溶ける前に呼んで来てくれ」
スカートの裾を翻し、サンダルで駆けていく猫塚に、辰巳の肝が冷える。細い足が今にも折れ、転んでしまいそうだった。
小さい子どもたちに手を取られながら、ひょろひょろと猫塚が戻ってくる。
辰巳は背の高い順に、アイスを配ってベンチに座らせた。
帽子を被った男の子が一人、無垢な眼差しを向けた。その先には、余所を向いてアイスキャンディーをしゃぶる辰巳がいる。
「ねー、にーちゃんは高校生?」
「そうだけど。きみは小学四年生くらいか?」
「うん。よく分かったね」
半袖に短パンの、虫取り網と虫かごの似合う少年だ。年相応の態度に、辰巳は自身の昔の姿を重ねる。多少なりとも、似ているところはある。
帽子の子は笑みを作って、歯の抜けたところを見せる。
「高校って楽しい?」
現役高校生にこれほど酷な質問があるだろうか。帽子の子の両脇に座る二人も、目を光らせている。
雑な返し方はできない。辰巳は猫塚へ目配せした。
天然なのか、それともわざとなのか、猫塚は首を傾げて幸せそうに顔を緩ませ、アイスを頬張っている。
アイスの棒を齧り、よく考えてから答えた。
「あぁ、楽しいかもな」
アイスの棒の渋みが、辰巳の口の中に広がる。
紅一点の女の子が、次に質問した。
「やっぱり勉強とかは、大変なんですか?」
「大変だよ。けど、小学生のときが一番、大変だったかな」
「そんなの嘘っぱちだー」
帽子の子どもがそう口にすると、残り二人も同じようなことを言って笑う。
手を叩いて、猫塚が子どもたちの気をそらした。唇を丸め、アイスの棒を咥えながらもう何度か手を叩いた。軽快にクラップを続ける。
辰巳も目を凝らして、その様子を伺う。
子どもたちから熱い眼差しを向けられながら、猫塚は鼻歌を歌いだした。
「んーんっんーんー、んっんーんーんー、んっんっんーんー、んっんっんー」
シンプルなメロディだ。鼻から息が抜け、シャープ気味の綺麗な高音が出る。
ビスケットとポケットの歌だった。手拍子を鳴らしてリズムを取った。
歌詞の通りに、猫塚は眼鏡の入っていたポケットを叩いた。咥えていたアイスの棒を手に持って、もう片方の手でポケットを探る。
「は、はーい。みんな手を出して」
包装されたビスケットをポケットの中から取り出して、子どもたちの手に乗せる。一袋、二枚入り。小さなポケットには収まり切らないほどのビスケットが、次々と出てくる。
「ほ、ほら、上村くんも」
「手品か?」
ポケットの中身を覗こうとする。
猫塚は子どもたちの目を盗み、辰巳だけに聞こえるよう声をしぼる。
「そ、そんなところ。簡単だよ。こ、今度、教えてあげようか?」
「……いや、いいよ」
胸を張る猫塚からビスケットを貰った。ビスケットは口の中でほどけ、溶けてしまう。甘味に期待した舌を刺激する唐辛子。
猫塚が腹を抱えて笑う。
その背中に平手打ちし、新しいアイスを手に取って齧りついた。
3
子どもたちに、川までの付き添いを頼まれる。
小学生は保護者同伴でないと、川に遊びに行ってはいけない。担任の先生に言いつけられていたようだ。子どもだけで行くには、川は危険な場所だ。
近隣の街でも、夏になると水難事故が後を立たない。
下流からと登っていき、辰巳の家の近くまで歩いてきた。浅瀬なら辰巳たちでも連れていける。
「か、上村くんの家って、ここらへんだっけ?」
「よく覚えてるな」
「にーちゃんの家、行きたいなー」
「川で遊んでいたら、すぐ暗くなる。また今度な」
川に飛び込んで、子どもたちは足元の水をかけあって遊ぶ。
高く育った木が日傘になっている。まだらに差し込む日差しが、水面を光らせた。辰巳は目を細めて、子どもたちの様子を見守る。
辰巳と猫塚も川に足をつけて涼んだ。緩やかに流れる冷たい水が、足から余分な体の熱を持っていってくれた。
「む、向こうの方では、なかなか見つけられないよね。こういう場所」
手でぐるぐると水を掻き、猫塚は辰巳の方を見る。
「ここが地元で良かったよ」
「そ、そうだね。が、学校はどう? なにか部活とかやってるの?」
「バイトしてるくらいだ。お前の方こそどうなんだ。友だちできたか?」
「ひ、ひどい。友だちくらいいるよ。文学部に入ったんだけど、みんな良い人たちばかりなんだよ。せ、先輩たちとは作品を評価し合ったり、今年入部した一年生や二年生も積極的で、うちの高校の文化部の中じゃ、人気な部活なんだ。私も、話し相手が増えて楽しいし、それに互いを高め合っていくって、とても素敵なことだと思う。単純に、作品の理解力や読解力や執筆を上達させる場としても、文化部は有意義な場所だよ。古典なんかにも手を伸ばしていて、最近だとドフトエフスキーの『罪と罰』を読んでいて」
熱弁する猫塚を、どうどうとなだめる。
「しかし、珍しいな。文学部が人気だなんて」
「う、うん。か、上村くんは、転入とか考えてない? よかったら一緒に部活を」
「個人的な理由で転入とか、ありえないだろ」
「じょ、冗談だよー」
「他の連中はどうしてるんだ? 夕海とか、松村とか」
「み、みんな元気だよ。ゆ、夕海ちゃんだけ、違う高校に行っちゃったけどね」
「みんな文化部?」
「男の子たちはほとんど運動部か帰宅部」
「女子はその文学部ってやつか」
「た、たまに声かけたりするよ。文化祭とか、学内行事では特に。そ、それでもやっぱり、四六時中、一緒にいるようなことはなくなったけどね」
「もう高校生だ。ずっとは、きもち悪ぃよ」
辰巳はクラスメイトの顔を思い出す。皆、猫塚と同じように成長しているので、どこかですれ違おうと、気付くことはないだろう。
既に見かけているのかもしれない。流れてくる冷や水を被ろうとした辰巳に、水がかけられる。子どもたちが三人そろって、水鉄砲の銃口を辰巳に向けていた。
辰巳は服を脱いで川に飛び込む。
猫塚に笑われながら、はしゃいだ。
「俺は休むわ」
「もう疲れたのかよー」
「お前らが元気すぎる。気をつけて遊べよ」
びしょ濡れになり、疲れて陸に戻ると、猫塚は砂利の上で横になって寝ていた。
(猫塚も自由すぎる。)
辰巳は横に座り、子どもたちの様子を見守ることにした。注意を払うに越したことはない。保護者として同伴している限り、子どもたちから目は離せない。
体が乾くのを待ってから服を着て横になる。
何もしていないので、ぼーっとしてしまう。元気に遊べる子どもたちの体力と気力は、どこから溢れてくるのか、下らないことを考えた。たまに、隣にいる猫塚の寝顔を見る。
今度は、女の子が一人で辰巳に近づいてきた。辰巳は胸の前で手を交差させ、防御態勢を取ったが、水は飛んでこない。
女の子は恥ずかしそうに俯く。
「もしかして、トイレか?」
辰巳が聞くと女の子は黙って頷く。
すると、寝ていたはずの猫塚が起き上がった。
「上村くん、デリカシーないよね」
そう言って、女の子を連れて川を離れていく。
「起きてたなら言えよ」
辰巳は川の方に顔を戻した。砂利に手を付き、レモン色の空を仰ぐ。
風が水面を撫でて、耳に心地いい音を残した。川上からは緑の匂いが流れてくる。日が沈んでいくにつれて、それらが遠ざかっていくように感じられた。
そろそろ帰らなければ、あっという間に夜になってしまう。
子どもたちの親御さんに心配はかけられない。腰を上げた。
誰もいない川を見て、辰巳の肝はアイスのように凍りつく。
何にも阻まれることのない水流が煌めく。
一人は猫塚が連れて行った。残る二人の姿が、どこにも見当たらなかった。
ヤブサメのジージーという鳴き声を、川に飛びこんで掻き消す。
脛の半分までしか浸からない川だ。流れも緩やかで滑って転んでも、溺れることはないだろう。川の中から四方八方を見渡して探す。
「おーい、チビどもー! 帰るぞー!」
川を離れた猫塚にも聞こえるようにと、腹から大きな声を出した。
がさりと川上の茂みが揺れる。辰巳はそちらを向いた。茂みから出てきたのはタヌキだった。タヌキは茂みへと引き返していく。
水滴が辰巳の首筋を伝った。イタズラにしては度が過ぎている。もう一度、辺り一帯に声を張ったが反応は無し。
ちらちらと光を返す川の中で一人、突っ立っていると静けさにやられて、白昼夢でも見ているかのような、そんな気にさせられる。
辰巳は川から上がり、川下へと走る。当てはない。
じっとしていることだけは避けたかった。
靴を履かなかったため、足裏の皮がずるずると剥けていく。けれど走った。石の段差を飛び降り、緩やかな坂で躓きながらも、子どもたちを探した。
どこまで行っても見つからない。遂には転んでしまう。派手に転び、川へ突っ込む。
水が耳を叩く。真っ白になる頭で辰巳は起き上がった。
きーんという金属音に似た耳鳴りに、頭がふらついた。
耳の奥で鳴り響く。
(なにをやっている。)
猫塚と女の子の背中を見送ったその間に、子どもの足で移動出来る距離は限られる。二人の子どもは、急に姿を消した。
茂みに隠れていたのなら、辰巳が顔を青ざめて駆けだしたところで、事の重大さに気付いて飛び出てくるだろう。
だが、焦る辰巳を見て、罪悪感に苛まれ、出るタイミングを逃してしまった可能性も拭いきれない。
まだ茂みに隠れているに違いない。胸に手を押し当てて、鼓動を鎮めようとした。まずは考えを改め直す。
水を被り、冷静になっていった。
溜め息を吐いて来た道を戻ろうとする。
首に張るような痛みを感じ、指で痛みの元を探って顔をしかめる。転んだ際に、薄い石で切ったのか、指には血が付着した。
首の傷を押さえつつ、一歩一歩と皮の向けた足で歩く。足の裏の方が大惨事だ。子どもたちにゲンコツを落とすか、それとも正座をさせるか、選択に迷う。
「いてぇ……」
首の傷は浅い。だが歩くたびに痛みは増していき、遂に膝をついて、うずくまってしまう。喰いしばった歯から呻き声が漏れた。
「うぐぁ……」
ヒルに食われるよりも、スズメバチに刺されるよりも強烈で。五寸釘を打ち付けたかのような痛みだった。
失うことの出来ない意識の中、目蓋の裏で途切れ途切れに、覚えのない光景が映し出される。川辺で何者かに首を締め上げられる光景だ。連鎖するように、首回りが熱くなる。
のた打ち回っている内に、痛みと熱は引いていった。
辰巳は首に爪を立てながら肩で呼吸を整える。川の流れていく先を振り返り、全身を覆う冷や汗を払うように、低い姿勢から駆け出した。
首の傷が疼き、目蓋を閉じれば、また首を締め上げられる光景に襲われる。
踵を返せば、首が熱くなる。胸倉を掴まれ、背を押されるように進んだ。
進めば進むほど樹木の密度が増し、川は狭くなっていく。
景色は辰巳の知らない川辺へと、変貌していく。鬱蒼とした木々に囲まれ、川は深すぎて底が見えなくなっている。辺り一面の影も濃くなる。
(この先にいるのか。)
暗く、日も沈みつつあった。足の裏から血を飛び散らせながら駆ける。突如として視界が開けて小さな湖が現れる。
川は湖と繋がっていた。
湖全体を覆うように芝生が生え揃い、霧が立ち込めている。周辺からは生き物の気配がしない。灰色の空を映す湖は、薄い光りを帯び、ゆらゆらと揺れる。
4
辰巳は目を細めた。湖の中央に立つ人影と対峙する。その人影は二人の子どもの襟を掴み、まるで辰巳を待っていたかのように、じっと立っていた。
子どもたちは気を失っている。
一歩、先に踏み出したのは人影の方だった。波紋を生み、辰巳へと近づいてくる。
「なんだ……なんなんだ、お前は」
辰巳の口から、震え声が漏れた。腰を引かされ、後退を迫られる。
人の形をした水の塊が目に映る。透明で内臓や骨は存在せず、背格好は子どものそれと同じだ。
近づいてきた水の塊は、返事の代わりに、子どもを辰巳へと投げる。
すかさず、腰を戻して辰巳は飛び出す。頭から飛び込み、投げられた子どもたちを両手と背中で受け止めた。
子ども二人を仰向きで寝かせた。口の前に手をかざし、息があることを確認してから、水の塊の方を向いた。
しかし、そこには誰もいない。湖が小さく、波を打っているだけだ。辺りを見渡すが、姿を捉えることができない。
逃げ出す好機。辰巳は寝ている二人を抱えようとする。
人を象る水の塊に、浮き足立つ。このまま立ち尽くすのだけは駄目だと、頭の中でサイレンが唸る。
一秒でも早く、この場から立ち去ろうと、身を屈め、子どもたちに手を伸ばした。
辰巳の首に水が絡みつく。
湖から伸びてきた、ツルのようにしなう水の鞭が、そのまま首を締め上げた。
水の鞭を解こうにも、伸ばした手は虚しく水を切り、飛沫を起こす。
次に湖から伸びてきた水の鞭に腹を殴られ、膝を付いてしまう。
まるで、何度もそうしてきたかのようで、狩りのように正確かつ軽やかな一連の流れに、例外なく辰巳も捕えられた。成す術がない。
草を噛む辰巳の視界に、白い光の粒が散らばる。酸素が足りない。倒れても、首は絞められたままだ。せめて意識のある内にと、震える手足で這いずり、子どもたちの上に覆いかぶさった。
「苦しんで。もっと、もっと」
高い、女の声だ。湖の中から上がってくる水の塊が、口を開いて喋った。
(会話ができるのに、どうして先に手が出る。)
辰巳の生気は一瞬だけ燃え上がり、やがて消える。視界もぼやけていった。
べちゃべちゃと足音を立てて、水の塊が近づいていく。
身長差を諸共せず、気を失いつつある辰巳の首を掴んで持ち上げた。腕らしきものと首に絡まる鞭が同化していき、一つになる。
人の形をした水の塊は、宙吊りの辰巳を弄ぶ。
絡めた手の力を緩め、呼吸を催促させた。
「っかは……げほっ……」
途端に空気が入り込み、辰巳は咳き込んだ。同時に圧迫された首の痛みに奥歯を噛みしめる。もがいて足を振り上げても、水の塊に確かな感触は得られず、すり抜けてしまう。
辰巳は四肢を垂れ下げた。
頭にうまく血液は上らないが、喋ることは出来た。
水の塊は、子どもの影がそのまま立体になったような姿をしていた。鼻のでっぱり、耳、口の凹みは確認できる。頭髪と目は存在しない。
半透明で、その向こう側には草の生えた地面が見える。
「お前は、なんだ……?」
辰巳が聞けば、水の塊は快く応じる。
「私? 私は魔法使い。お前らよりも強くて、偉い」
半透明の身体に色が浮かんでくる。薄い肌色を纏い、より人の姿に近づいてく。顔面に沸いた気泡が眼球へと変わる。目蓋が作られ、頭部から毛も生えてきた。
辰巳は吐き気を催した。腕に力が入らないので奥歯を噛む。
丁寧に洋服までこしらえて完全な人、少女へと化ける。身体の肉付きに無駄はなく、顔のパーツは驚くほどに整っている。鼻は高く、目の彫は深い。 西洋人のようだ。
少女は首を振って、艶のある黒い長髪を払う。
「私は人が嫌い。だからお前たちを食べる」
辰巳が尋ねる前に、べらべらと喋り出した。
(どうにかしなければ。)
首を絞める少女の指が、徐々に力が強くなる。
辰巳は咄嗟に口を開いた。
「食べると言ったな……どうやって食べる」
頭が上手く働かないので、上げ足を取るような形となってしまう。
「溺れさせてから食べる」
「そこのガキ二人は好きにしていい。だから、見逃してくれ」
「嘘。お前は逃げようとしている。私が離せば、お前は二人を連れて逃げ出す気だ」
「頼む」
「お前らの考えていることくらい、分かるもの。お前は逃げる気だ」
「なんだよ、それ」
隙を見つけることができない。喋るたびに、吐く息の量も増えていく。再び、意識が朦朧としてきた。辰巳の脳裏に、川辺で首を押さえて見た光景が蘇える。
誤差は生じているものの、現状と似たような光景だ。
(予知夢だったのか。)
首を握りつぶされて息絶える自身の姿が写る。
この地方に特別な言い伝えは存在しない。
どちらかといえば、辰巳も怪談の類は笑って聞き流す人間だった。川で遊んでいたら、何かに足首を掴まれて溺れた。よく耳にする話だが、それは足を釣っただけだと、辰巳は思う。
それらは少女によって覆された。少女の力がじわりじわりと強くなっていくのを、苦しみながら待つことしかできない。
(親父と和解するつもりもなかったが、もう少しだけ話をしてみかった。)
意識が遠退き、泡を吹いた。心臓の鼓動に明確な間隔が生まれる。
少女の指が首にめり込んでいくが、せめて一矢報いようと、辰巳は少女を睨む。
貧相な威嚇だったが、少女の顔に焦りの色が浮かぶ。
「お前、何をした?」
少女は顔を顰めた。
「あ……?」
「私はお前を一度、食べた? お前は私に食べられたのか? 私はお前を食べていない。食べていたら、お前がここにいるはずがない。じゃあなんだ、お前が見たものは?」
掴んでいた手が色を失っていき、水に戻ると爆ぜて消えた。
辰巳は尻餅をついて咳き込んだ。後退りする少女を見上げる。
「お前、何をした? 答えろ……教えろ!」
少女が声を張り上げ、怒りを露わにした。般若のような形相で辰巳に飛びかかる。
辰巳は血の巡る四肢に動くよう命令した。震えながらも確かに反応する。横に飛んで、少女の突進を回避した。
腰を低くして構える。辰巳の手元に、小石らしきものが転がっている。落ちているそれを握りしめ、振り返る少女に向かって駆け出した。もはや自棄だ。
辰巳一人で逃げることはできるだろう。気を失っている子どもたちの横を駆け、今度は辰巳が少女に飛びかかった。
物理的な攻撃は効かないが、頭さえ吹き飛ばせば、時間を稼げると踏んだ。確信はない。
力任せに、握りしめた物を振るった。
その腕は、いとも容易く止められる。
少女は眉間に皺を寄せて、もう片方の手で辰巳の首を掴んだ。今度こそと止めを刺しにかかる。
辰巳もそれだけでは終われない。手首を捻り、持っていた物を投げつけようとする。
しかし、それは投擲に値しない物だった。
石にしては異様な形をしていた。握りしめた物が視界に入り、辰巳は困惑する。それはブーメランのように曲がり、一本の細長い円筒と持ち手が組み合わさって出来ている。
黒光りする鉄で造られ、円筒の根本にはもう一つ、大きな筒が埋め込まれていた。
辰巳の手に握られていたのは小石などではなく、拳銃だった。思い浮かべたのは、警察官が所持している物だ。リボルバー式で、手に収まるほどの大きさを想像する。
だが、こうして少女に口を向けている銃は、想像したものよりも一回り大きく、装填できる銃弾も九発と、より攻撃性に優れていた。
少女の頭を貫くように伸びる銃口が、ぎらりと光る。引き金には指がかかっていた。
引かなければ逃げられない。引けば逃げられる。
予期せぬ二択が、辰巳に突き付けられる。
(次はない。)
少女も違和感に気付いて、首から手を離そうとしている。
三度、辰巳の脳裏を過るのは、少女に首を絞められて絶命する光景だ。ありもしない記憶に煽られる。あからさまな武器を手にし、思考回路が焼き切れる。
銃弾の有無は確かめられていない。
「うおおおおおぉ……!」
雄叫び。ありったけの力で拳銃を握りしめ、本能の赴くままに辰巳は引き金を引いた。寝ていた撃鉄が、起き上がった刹那に振り下される。
湖一帯に雷管の弾ける音が木霊する。どんぐりをアスファルトに投げつけた音を、何倍も膨らませたかのようだった。銃弾は、距離を置こうとする少女の左胸部を打ち抜いた。
少女は水の塊へと戻り、弾け飛んで、いなくなってしまう。
その一方、辰巳は銃の反動に耐え切れずにいた。腕を腹に抱え込み、苦痛に顔を歪める。少女の塩梅を確認して安堵する余裕などなかった。
銃声に劈かれた耳の奥が痛む。
5
二人の内、帽子を被っていない方の子どもが目を覚ました。少女が姿を消し、十分ほど経過していた。その子を自力で歩かせ、辰巳は帽子の子をおぶり、湖を脱出する。
川を遡り、遊んでいた場所まで戻って来る。湖への道は振り向いても見つからない。
「なんだったんだろう。僕たち、神隠しに、あっていたのかな」
辰巳の手を握り、子どもが言う。
関節の痛みが治まるころには、辰巳の手から拳銃が跡形もなく消えていた。
辰巳はまだ名前も知らない子どもの手を握り返す。「大丈夫だ」と呟いた。
意識を取り戻し、まだ元気のあまる二人の子どもを家に送り返す。
辰巳と猫塚、それと紅一点の女の子は公園のベンチで、日が沈むまで話をした。その女の子が猫塚の言う従妹だった。
「じゃ、じゃあ、またね。なにかあったら、ケータイに連絡してね」
水の少女のことを、話しはしなかった。
猫塚と女の子にも別れを告げて家路に付く。覚束ない足取りで山を登っていく。
(地元を離れた裏切り者への洗礼なのか。)
ありもしない湖。水の少女。少女を倒した拳銃。辰巳の脳内をぐるぐると回る。
まず少女が不思議でならなかった。趣味で辰巳が得た知識に該当する存在は、ウィンディーネと呼ばれる生き物。強引だがカッパも当てはめていく。昔の人も衝撃的な出会いをしたに違いない、と決めつけた。
辰巳は薄暗い山道を一人で歩くことに耐え切れず走り出す。時折、背中から吹く涼しい風に追い立てられる。
靴下に血を滲ませ、ようやく家へと戻ってきた。胸を撫で下ろし、我が家の敷居を跨ぐ。
居間のテレビに電源は点いておらず、父の姿が見当たらない。血だらけの足で食卓に向かう。案の定、母はいた。
声をかけようとした辰巳だが、母の様子がおかしいことは火を見るよりも明らかだった。眠るように、机に突っ伏している。辰巳は忍び足で食卓を去る。
居間に戻り、棚の引き出しから消毒液とガーゼ、それからテープを用意して、首と足の怪我に不格好な治療を施す。不器用さに辰巳は呆れた。
そろそろ、食事をしようと立ち上がる。廊下で母に出くわし、夕食が何か、尋ねた時だ。
母が辰巳を抱きしめる。それも、強い力で、だ。
帰りが遅くなったわけではない。遅くなったところで、泣くほど心配されるような歳でもない。放任主義を踏まえて、それだけは全面的に否定できた。母は泣いていた。
「辰巳……辰巳……」
わが子の名前を連呼して、息を整えようとしていた。
「ど、どうしたの」
聞いても、おいおいと泣くばかりだ。部屋から出てきた祖母に介抱され、子どものように母は眠りにつく。
辰巳は居間でテレビを点けて待っていた。ぼーっと野球中継を眺める。
学校の窓ガラスを割った辰巳に説教する時と同じ面持ちで、祖母が居間に来た。腰を下ろす祖母に、辰巳はテレビを消してから向かい合う。
「湊さんは、なにも言えなかったか」
ゆっくりと口を開いた。祖母は一呼吸置いて言葉を繋ぐ。
「甲……お前のお父さんね。亡くなったよ。交通事故だとさ」
三日後、葬儀が執り行われる。
棺に収まる父が、辰巳には驚くほど小さく見えた。トラックに轢かれたようだが、傷跡はどこにもない。遺体屋の賜物だ。熊に引っ掻かれたと言っていた傷跡も、治されている。
父の仕事の関係者や多くの友人が参列した。屈強な男たちが次々に頭を下げてくるのは圧巻だった。
辰巳が現実を受け止めるのは、それからさらに三日後のこととなる。
6
朝起きるとケータイに、猫塚からのメールが届いていた。
暑い日差しに当てられ、ふらふらと公園まで歩く。ベンチでアイスを食べて人を待った。
丁度、アイスを食べ終わる頃に、猫塚が現れる。黒を基調としたワンピースでその身を装っていた。眼鏡もかけている。
「おう。元気してたか?」
「か、上村くん。この度は、ご愁傷さ……す……」
「気を遣わなくていいよ。お前も疲れるだろ」
「う、うちのお父さんと、上村くんのお父さん、飲み友だちだったから、その」
「そうだったのか。初めて知った」
「た、たまに、うちに来てくれてたんだよね」
「迷惑かけただろう」
「そんなことないよ。酔うと、二人して子どもの自慢ばかりするんだ。恥ずかしいよね」
猫塚もベンチに座る。
辰巳は背もたれに寄りかかって空を見上げた。
(なぜ、父は。)
二人の間に沈黙が生まれる。緊張や悲壮感ではない。言葉を交わさず、事実だけを噛みしめ、嚥下していく。
ベンチのすぐ後ろで蝉がたくましく鳴いていた。蝉の近くには抜け殻があり、宝石のように眩しく光る。
7
それまで父のことが嫌いだった上村辰巳は、他の家族の了承を得て家を出た。
炬燵で寝る父のいびきは、二階の部屋まで聞こえてくる。飯を食う時は口を開ける。テレビを見ている辰巳の前を横切ると、芋臭い屁をこいた。
なにより辰巳が気に食わなかったのは、興味をしめしてくれないことだった。情けのない話、辰巳が遠い学校へ通い、学生寮に住むようになった理由がそれだ。
辰巳が、遠くの中学へ行く、と言っても、父は新聞を開き、テレビ欄を確認しながら淡々と答える。
「そうか」
父の体格と性格は、辰巳とは似ても似つかない。屈強で、まさに山の熊にまたがる漢のようだ。ばっさりと切られた角刈りの頭。頬の大きな傷跡は熊と喧嘩した勲章だ、と豪語する。
父はいままで辰巳の世話を直接した試しがない。おむつを替えたのは母、たまにあやしてくれたのは祖母だった。
構ってほしいわけでもないのだが、無視されるのは気に食わない。似ていなくても、辰巳は紛れもない父の子だ。
小学四年生の頃、行動に出る。土木作業から早く帰ってきた父に、満点のテスト用紙を見せつけた。難しいテストで、辰巳もはしゃいでいたことだけは思い出せる。
「おうおう退け坊主、おいらは腹が減っているんだ」
大木のように太く、剛毛な腕で、小さな辰巳の襟首を引っ掴んでは玄関へと放り投げる。
辰巳は悟った、父が辰巳を見ていないことを。
いつも目で追っているのは母と、母の尻と母の作る料理だけだ。
また、珍妙な紙芝居を腰を据えて見ていた。卑猥なものではない。それはそれで別のところに隠してある。
紙芝居など、イカツイ体躯の父には似合わない代物だ。テレビによって淘汰されてしまった芸能を、父がどのようにして手にし、保管しておいたのか、辰巳は知らない。
そして、辰巳が家を出る当日、父が見送りに来ることはなかった。