衝撃
「ただいま、モニク」
すっかり空も赤く染まった夕刻に、ようやくルイサは屋敷の玄関を潜った。モニクは騒動の終わった屋敷内を片付けていたが、ルイサの言葉に上体を起こした。彼女は、ルイサが1人で帰って来たことに、ぎくりとした様子だった。
「どうかして?」
「いえ。あの、息子は……」
妙におどおどとしたモニクを、葬儀の悲しみと疲れで動転しているのだと考えたルイサは、彼女を労る意味で、そっと微笑んだ。
「買い物を頼んだわ。やっと落ち着いたから、明日はあなたに腕を振るって欲しいなと思って」
「そう、ですか……」
しきりに手を口に当てる彼女を、少しでもいつもの調子に戻してやりたいと思ったルイサは、まだ彼女に話していなかった遺書の話をすることにした。
宝箱の中身。
きっとモニクは、宝の正体を見極める事だろう。
「ねえ、モニク」
くすりと笑みをもらして、モニクを指示す。
その時モニクのさまよっていた目が、ルイサに釘付けになった。
「いいえ。やはり、いけません」
突然、モニクはきっぱりとそう言った。目が釘付けになるのは、今度はルイサの方だった。
振っ切れた様にいつもの彼女に戻り、モニクはルイサの手をがしっと掴むと、ずんずん裏口に引っ張って行った。
「な、何。どうしたの、モニク」
「手短に話します。今、応接間でセタク=ジュアン様がお待ちでらっしゃいます」
「セタク=ジュアン?」
来ている、と言うことよりも、ルイサらより先回りをして来ていることの迅速さにルイサは驚いた。よっぽど早駆けをしたのだろうが、それにしても速い。
「一体、何の用で?」
モニクは首を振った。眉間に皺が寄った。
「ですが、良くない予感があります。少なくとも今日はお会いにならない方が良いでしょう。セタク様には、上手くごまかしを申し伝えますので」
「そうね。そうするわ」
ルイサも即決して、屋敷を出ることにした。セタクにしてみれば、これ以上ない屈辱を受けたも同然の今日の今日で、怒りをたぎらせているだろうことは必至である。何を言い出すかも知れないし、まともに何事かを話し合いに来たとも思えない。
「モニク。ありがとう」
モニクの方をポンと叩いて、今夜は何処に泊まるかと思いながらルイサは裏口の戸を開けた。が。
「エヴェン家では、お客を放っておくことが礼儀らしい」
「……!」
腕を組んだセタク=ジュアンが、涼し気な顔で立っているではないか。ルイサは一瞬喉を詰まらせ、ばっと胸に拳を当てた。彼の目が涼し気であると言うより、しごく冷静な、無感情な目であることに気付いたのは、その後だった。
セタクの目が、彼女の後ろをちらりと見た、その瞬間――。
「ぐっ……!!」
押さえた呻き声が、ルイサの耳に入った。
誰の声かは、一瞬分からなかった。すぐに分かってからは、信じたくなかった。
慌てて振り向いて視界に飛び込んで来た、その光景。ルイサは、ただ口を開けて凝視した。
セタクと同じ目をする彼の部下らしき男が、モニクの口を押さえている。押さえた、その指の間から赤い筋が2筋、降りて行った。彼女の目は開ききって、白目を向いている。彼女のその、ふくよかな体のど真ん中に見える赤い液体の噴出と、妙に白々と輝く、突き出した剣先。
モニクから吹き上がる大量の血が、ルイサに降り掛かる。
金の髪から、赤い雫が落ちた。
ルイサは、叫ぶことすら、出来なかった。
「おや、これはいけない。服が汚れてしまった」
耳元に聞こえた男の言葉に、ルイサは、固まった首をぐぐ、と下げた。碧瞳に、紅色の自分の姿が映る。
服の染色ではないのだ、と言う様に、自分の服に触れたルイサの手に、モニクの血は暖かく、ねっとりとまとわり着いた。
――どうして。
そんな言葉が、しかし出そうと思っても喉から出て来ず、彼女はひたすら自分の体が震え出しているのを止めようとしていただけだった。顎が震えている。膝が鳴り出している。
ルイサは、もう少しで倒れる所だった。
膝の力が抜けてしまった彼女の体をセタクが支え、抱き上げた。
「?!」
その傍らで、モニクの肢体が重苦しい音を立てて崩れ落ちた。
セタクは、それを邪魔な荷物であるかの様に眺め、そして、ひょいとまたいだのだった。
「……!!」
それが何なのか、自分が今何をされているのか、ルイサは、その時やっとはっきりと、理解したのだった。
キッ、とセタクを睨み付ける。
「降ろしなさい」
だが、セタクは、スタスタと応接室まで歩いて行く。
「降ろしなさい! 何て……何てことを!」
荒れるルイサの力の方向を総てセタクは受け流し、物ともせずに部下に扉を開けさせ、中に入った。
彼は、ルイサをソファに放り投げた。
体勢を整えた彼女が、改めてセタクを睨み上げた。脳裏に先程の光景が火の様に焼き付いて、離れない。怒りに燃えたルイサの瞳から、どっと涙が溢れ出た。
「あなたは……!!」
「どうもあなたと言う方が、疎外感や孤独、修羅場と言ったものを知らずに、ぬくぬくと暮らして来たらしい事が伺い知れますよ」
その、口調に。
その、今迄ルイサが知っていたはずのセタク=ジュアンと彼が全くの別人の様である事に、ルイサは息を止めた。そして、この冷たい仮面の様な顔こそが彼の本性なのだと言う事を、ルイサは理解した。
この冷酷さこそが、彼を高い地位にのし上げた“力”なのだ、と。
だが、その冷酷さを形作っている彼の心は、その想いは確かに怒りである。やり切れない、怒り。多分にセタクは、心底ルイサを手に入れられるものと信じて疑わなかったのだろう。
「ちっぽけな“家”にしがみつく、ネイアス殿もあなたも、許せない。そんな小さな我を通して、どれ程の人間が幸せになるものか。これから先、この町も含めてエヴェン家は、衰退を覚悟したまえ」
セタクが、ルイサの体に手を伸ばした。ルイサは避けようとしたが、胸ぐらを掴まれ、引きずり立たされた。涙が血を洗う濡れた顔に、1本の布が絡み付いた。ルイサの口に入れ込まれたそれは、彼女から言葉を奪った。
「話せなくする為ではありません。あなたが、舌を噛んで自害なさらない様にです」
そう言った時セタクは、一瞬だけいつもの笑みを浮かべた。その笑顔の中で双方の目に愛憎が、同時に浮かんで、消えた。
セタクは、勢いをつけて、ルイサの衣服を引き剥がした!
「!!」
「あなたは私を、態度によって踏みにじった。あの侍女は、身分にあるまじき下賎な侮辱を私に対し働いた。相応の報いは、受けて頂こう」
ソファに押し倒されたルイサは暴れたが、セタクの片手のみに両手は押さえられてしまい、足も、虚しく空を切るばかりである。彼のもう片方の手は、その間にも次々に彼女から衣服を剥ぎとって行く。
心の中でルイサは、何度もコーディの名を呼んだ。だが実際には、ルイサが屋敷に帰って来て今まで、15分と経っていない出来事であるし、彼はルイサと違い、馬車である。未だ小1時間は戻って来ないのだ。
用心棒である筈のコーディに、下らないことを言い付けたものだ、とルイサは自分を嘲笑った。だから、この様な報いを受けることになる。
自分が、人を軽んじたから。
重くのし掛かって来る体に、ルイサは後悔してもしきれない己の未熟さを思い知らされた。
彼女の精一杯の抵抗も、くぐもった叫び声も、誰の耳にも届く事はなかったのだった――。
◇
遠目から見た時にコーディは、ふと正門が開け放してあることが気に掛かった。夕刻になれば、門は閉めておくのが定石である。もともと使用人と言うものが少ないエヴェン家では、特に用心をして、空に赤味が差し始めれば門に閂を掛ける様にしている。だが、今日は日もすっかり落ちていると言うのに、どうした訳か。
コーディは、門に近づいた。正門からは、絶対に入らない。
しかし誰も――庭師さえいない、シンとした玄関に、コーディは心がざわついた。
何かが、起きた。
そんな胸騒ぎを抱えて、彼は急いで裏口に回った。
裏口すら、開いている。
その戸を越えた所で、コーディでさえ、さすがに立ち尽くしたのだった。
「……母さ……」
いつもは無表情を装う彼の顔に、はっきりと動揺と悲しみの色が現れた。
「誰が、こんな……」
呟いた自分の声にコーディは、はっとした。
ルイサが、先に帰って来ている筈なのだ。
「ル……ルイサ様!」
血溜りの中に荷物をべしゃと落として、コーディは駆けた。2階のルイサの部屋は、空である。食堂にも誰もいない。どうやら他の使用人は、皆逃げたらしかった。が。
書庫の入口付近で倒れているのは、執事だった。
「バトラー!」
仰向かせたその身に、傷はない。気絶だった。コーディは息を突いた。2・3度頬をはたくと、執事は目を覚ました。
「……あ。私は、」
「気絶しておられました。ルイサ様は?!」
いつになく激しい口調のコーディにおののきつつも執事は、ただごとでない事態が起きたのだと悟った。彼は急いで記憶をたどった。
「ああ、そうだ。お客様が……セタク=ジュアン様が!」
「!」
コーディは執事を置き去りにして、走り出していた。応接室のドアを開けながら、彼は迷わず短剣を手にした。
「ルイ! ……サ、様……」
――危うく。
コーディは、短剣を落とす所だった。
それは、ルイサと言う者の性格を考えれば、囚人とされるより人形扱いされるより、死体とされることよりもなお、無残な姿であった。
猿ぐつわを噛まされ、手足を縛られたままの彼女は、何も身に着けていなかった。何ヶ所か打たれたらしい赤い痣もあり、血糊が着いた髪も乱れたままである。ソファに横たわったまま、身を起こすことさえ出来ずに、ただその美しい碧い瞳だけを、じっと開いていた。
コーディは俯き、顔を歪ませた。
彼が自分の上着を脱いで近付いて来るのを、まるでルイサは見えていないかの様に、見ていなかった。
中空を凝視したままルイサは、何度も脳裏にセタクの言葉を呼び起こしていた。
「恥辱と敗北と、エヴェン家の滅亡を抱えて自殺なさるなら、それも一興」
彼は、そう言い残して去ったのだった。
セタクは、ただ怒りにまかせて彼女を汚したのでなく、誇りと教養を持つ男ならおよそ彼女とは結婚しないであろう状況を作り上げたのである。世聞からも卑俗な女として見られるだろうし、王都との交流も失くなるかも知れない。王城仕えの騎士団長どころか、彼女が騎士になることさえついえる。女として社交パーティに出席することすら、はばかられよう。
だが、きっとセタク=ジュアンは、あの涼しい顔で、そう言ったすべての脚光を浴びるのに違いない。
「私も下賎な女に惑わされる所であった」
とか何とか、言うつもりだろう。
ルイサは動かないまま、セタクの、一瞬の愛憎の目と、能面の様な険悪な顔を思い浮かべた。
そっと上着が掛けられ、ブッと言う音と同時に彼女の手足が軽くなった。外された縄には、激しく動いた為に肌が切れて出血した跡が――そして、猿ぐつわにはしっかりと歯型が残っていた。コーディはそれらを見ない様にして、捨てた。
何と話しかければ、良いものか。
いつもの無口でなく、本当に言葉が見付からずに立ちつくすコーディに、ルイサは、まだ震え、かすれる声で、
「……殺して……」
と、言った。
「ルイサ様?」
コーディが、控え目に近付く。
ルイサは身を起こした。コーディの顔を見た途端、涙が流れ出た。コーディへの理不尽な怒りと安心感と恥辱と、悲しみが、そしてセタクへの憎しみが心を埋めた。
「あの男を殺して!!」
血を吐く様な憎しみの言葉。
コーディは息を止めた。
執事がやって来て、ルイサの姿を見るなり、慌てて部屋を飛び出した。多分、着替えを取りに行ったのだろう。
ルイサは、思い出した様に髪に手櫛を掛けた。しかし固まったモニクの血が彼女の手にごわついて、美しい金髪が白い肩に流れることはなかった。
コーディは、ただ黙って、短剣を右手に立ちつくし――。執事が、そんな彼の側を素通りしてルイサに着替えを差し出している。
やがて彼女が服を着出したこともあり、コーディは、応接室から出て行った。
――モニクの遺体は、いつの間にか埋葬されていた。
それを行なった本人は、その晩、遂に屋敷にも彼の家にも、戻る事はなかったのだった。




