遺言
エヴェンの屋敷の一角の、小さな部屋に、親族は集められた。とは言え、母側の親族からは伯母のみが顔を出し、父側には兄弟もなかった為、従妹の子供だとか言う者が2人来ているだけである。当然、遺産の配当などもある訳がなく、言うなれば立会人であった。正式な立会人としては、1人、国王からの使者が訪れた。後はルイサと、遺書を保管していた執事。それが室内の、全員だった。
葬儀の3日後に、この遺書の開封は行なわれた。
ルイサの正面に立つ執事は、遺書と、小さな宝箱を手にしていた。彼は宝箱をルイサに向けて置いたが、彼女から言葉はなかった。宝箱が視界に入っていないかの様であった。
ルイサは、礼を尽くして座っているものの、その姿はどこか定まらず、ゆらゆらと風に揺れる草花の様でもあり、お世辞にも思慮深げとは言い難い態度だった。
又従兄弟の兄らしき方は、情けなや、と陰口を叩いたが、今のルイサには、大して聞き咎めることではなかった。毅然たる態度など取れないことを自分で分かっているからだ。
彼女は、もう少しだけ父ネイアスと語った日々を心の中に呼び起こしていたいだけだった。遺書も遺産も、欲しくはなかった。いまはただ、思い出だけ、失くさずにいたかったのだ。
よく良い潰れて“シェラ=ベルネ”で眠りこけた父。
職務に当たる父。
稽古に付き合ってくれた父。
一緒に釣りに行ったり、早駆けをしたり――少年がする遊びを息子になった気分で、ルイサはよく父と楽しんだ。娘に戻る時は、年に数回しかなかった。どちらを喜ばしく思っていたのだろうと考えても、どちらの時にも喜んでくれていた様な記憶しかない。
子供の頃には、モニクのいない夜、添い寝もしてくれた。
床に伏した父。
2ヶ月前――彼はルイサにこう言った。
「お前は、輝いている。そのままに自分を磨き続けて、人々を魅了させる人間になっておくれ。女だから、などではない。人に”希望”を与えられる器になれるかどうかは、気質には、性別など関係ないのだから」
「そこまで自信ないわ。でも、それなら尚更、お父様はお元気にならなくては」
「希望を持って、か? そうだな」
そんな風に、二人は肩を竦めて笑ったのだった。ルイサは父が完治して笑い話になると信じて。ネイアスは、娘が悲しみを乗り越え、さらに光り輝いてくれることを信じて――。
嘘つき、とルイサは思った。
大事な者1人にさえ希望など与えられなかった自分が、どうして輝けようものか。
そんな理不尽な怒りが、思い出す度にふつふつと沸いて来るのだった。
お父様の嘘つき。
そして怒りは、段々と悲しみに変わる。そんな起伏の激しい感情を3日間、ずっと持ち続けていた為に、心身共に疲れきって、ルイサは遺書を読む心構えも出来ない程なのだった。
だが、構わずに執事は、遺書を読み始めた。低いトーンの、良く響く声で。
「遺言。エヴェン家所有の、東のラフタ山は、王に献上致したし」
室内が、ザワリとどよめいた。全員が亡きネイアスの心中を疑う程、その一言は重要だった。何故なら、このラフタ山を治めることが、エヴェン家繁栄に繋がっていたと言っても過言ではないからである。
港の側にそびえたラフタ山の、山頂に建てられた塔からは、町も海も一望出来る。灯台として機能する他、貿易商人らは、ロマラール王都に行く為に港からこの山の道を通らねばならず、関所の役目も果たしているのだった。サプサの港町を栄えさせ、王都との関係もより良いものに築いて行く。そんな、エヴェン家の宝とも言うべき、景観的にも価値あるラフタ山を手離すと言うことは、一族の衰退にも値する。皆が騒ぐのも、当然だった。
執事が、咳払いをした。
ふと我に返った皆が、口を噤んだ。カサリ、と皮紙が音を立てた。
「屋敷と周囲の土地300イーク、及び南の20ズイークの畑は未だ見ぬルイサの夫に託す。但し名義はエヴェンのまま――つまり姓を捨てることが出来る者に限る。更に、ルイサには、最高にして最上の宝を与える。よって、娘の夫となる者は、その宝の正体を見極めなければならない」
執事が読み終えた。
皆の視線は、宝箱に集中していた。
皮紙を巻く音が、小さな部屋に響いていた。その静寂を破ったのは、ルイサでなく伯母だった。
「そんな……」
「そんな無茶な話があるか。彼女の代でエヴェンを終われと言っている様なものだ」
言い過ぎた物言いの又従兄弟を、執事がじろりと眺めた。だがルイサ自身も、その失礼な男と全く同じ事を考えていたのだった。それまでずっと考え続け、答えの出ないでいる悩みに、拍車をかけた様な内容である。
宝の正体とは、何なのだ。
そんな得体の知れない物は、家にはない。
何となく論点のずれた所でそう考えながらルイサは、又従兄弟の出した言葉に、えっ、と目を見開いたのだった。
「ルイサ殿をめとりたい話は多いが、婿養子を申し出る者など、今居並ぶ諸候には存在しないだろう。となれば、無名の騎士位しかないではないか」
「……え?」
目を覚ました様にルイサが、遠縁の男を見つめる。又従兄弟は軽蔑した目付きを彼女に向けていたが、それ故に、その言葉の意味がぐさりとルイサの胸を突いたのだった。
そうなのだ。
父親は、婿選びという枷を愛娘に与えた代わりに、彼女が愛し尊んだ“エヴェン”とその地を他人に触れられぬ配慮をしたのである。愚かな名ばかりの諸候に彼女が売られることを見越して、事前に遺書という盾で、彼女を守ったのだ。
代わりに、ラフタ山と言う武器を王に献上したが。
執事が、宝箱をルイサに手渡した。
覗き込む伯母と又従兄弟達に気兼ねする感じで、ゆっくりとルイサは箱を開けた。箱の中には、何もなかった。蓋の裏に鏡の付いた、金属と布で構成された、全くの只の箱だった。
「何よ、これ」
「入ってないじゃないか、宝が」
伯母と又従兄弟が、続けざまに吐き捨てた。しかし3人に言葉どころか目すら向けず、ルイサは箱を食い入る様に見つめていた。伯母の大きな溜め息で、やっと顔を上げた程なのだ。
「はい?」
きょとんとした、ルイサの顔。鼻白んだ、3人の顔。
この様に破天荒で無礼な親族の立会いなど、もうお断りである、と言うのが本音だろう。3人は執事が終了の言葉と感謝の意を述べるのを聞くと、又従兄弟らはルイサと握手もせず、伯母も、そこそこの礼儀を振る舞っただけで、早々に退出したのだった。
ただ、伯母の方は、最後にこう言った。
「貴女の選ばれる殿方が、誇らしく勇敢な方でいらっしゃることを、お祈り致しますわ。かつて貴女のお父様が、私の妹をさらってお行きになられた様にね」
それは皮肉であったに違いないのだが、何故かその時ルイサには、伯母の顔が母の面影と重なって優しく見えたのだった。
その伯母の結婚は、政略だった。だから、その様に無謀なネイアスらの恋を羨ましく思い、妬んで、心を歪めてしまったのかも知れない。――だが、その歪んだ心で、伯母は伯母なりに、2人を愛していたのかも知れない――。
ルイサは、去って行く伯母の背中を見ながら、そんなことを思った。
「では、私もこれにて失礼致します」
国使が立ち上がる。流石にルイサも、この時ばかりは出来得る限りの礼を尽くして挨拶と感謝を述べた。中年の国使はどこか他所他所しい、それでいて何かしら見守る様な優しい目をして、ルイサを見ていた。
「改めて召集致します。国王の御前にて、遺書の公開をした方が良い、と今回判断させて頂きましたので」
「報告だけでは、受諾して頂けないと言うことですか?」
「正直申し上げますと、内容が内容だけに」
ラフタ山献上に際して謀叛等のあらぬ疑いを噂される恐れもあるし、婚儀の条件について誤解を招くかも知れない為、ルイサの口から諸候らに、直接説明をした方が良いだろうと言うのである。
ルイサはこれに納得し、王都に赴くことを約束した。
後に残った執事は、巻いた皮紙を赤い紐で閉じていた。
ルイサは、改めて宝箱を開けて、中を見た。
もう彼女には、父の言った「宝」が何であるかが、父の深い愛と共に痛い程理解出来ていた。
宝箱に付いた小さな鏡は、そんな彼女と、彼女の一粒の涙を映し出していた。
◇
王都に一泊してから翌朝の謁見だった為、ルイサに気のある諸候、貴族らも駆け付けて、盛大な公表会となった。
ルイサは下手な書状よりは、と、ネイアスの遺書を直接ロマラール王に差し出した。その全てが公開された時大広間には、驚きと落胆の溜め息が響き渡ったのだった。
平たく言えば、ラフタ山献上の代わりに好き勝手にやらせてくれ、と言う意味の遺言である、非難の声も上がれば、怒りさえする大臣もいた。だが一方では、エヴェン家として最良の策であると誉める者もいた。血筋を絶やすことなく、未だ政治に疎いルイサに重責を掛けることもなく――しかも灯台兼関所の役目を果たすラフタ山は王の管轄下に入り、下手な諸候らに良い様に使われる心配もない。王都側からしてみれば、ラフタ山管理は国税の良い稼ぎ口になる、献上されて困る代物ではない。
ただし、無茶な重税を掛けられはしまい、と言ってもサプサの港町にはある程度の影響が出る筈である。そこからが、ルイサの力量を問われる事となる。
しかし。
ある意味では、優越感だった。
結婚と言う重大課題は残るものの、領土が減った分荷が軽いし、何より彼女はルイサ=エヴェンのままいられることが嬉しいのだ、とつくづく感じていた。
大広間にはその時、セタク=ジュアンも参列していた。
彼は退室するルイサに、可哀相なことだ、と話し掛けた。
「可哀相?」
「そう。ちっぽけな家を必死になって守るなぞ、敵を増やすだけの愚かな行為に過ぎない。それを、遺書と言う形に押しつけられ、孤立して行き、あなたが人生の1番花咲ける時を逃してしまうことが可哀相で、手を差し伸べてやりたくたくなる」
同情の目付きでセタクは、胸に手を当てて話す。心底、自分はルイサの不遇を理解していると思っているらしかった。そのことが苛立だしく、だが滑稽でもあった為、ルイサは返って余裕の微笑をセタクに送ることが出来たのだった。
「大層なお家柄を守られることの方が大変な行為とお見受け致しますよ、セタク殿。この様な、決して身内とも成り得ぬ者に手を差し伸べていて、足元をすくわれません様」
では、と一礼してルイサはふいと顔を背け、歩き出した。横目に、口惜しがる顔が見えた時、自分の優位を実感してルイサは喜びを噛みしめたのだった。
何者にも媚びへつらう必要など、ないのだ。
そんなことさえ思いながら彼女は帰路に着いたので、その認識が非常に甘いことに、この時、まだ気付いていなかった――。




