『あの男との結婚は認めん』と言い残して死んだ父が、犬に転生して結婚式の準備を邪魔しています
「あの男との結婚は、認めん」
それが、私の最後の言葉になった。
本当は、逆のことを言うつもりだった。
目を覚ますと、雨が降っていた。
冷たい。土の匂いがやけに濃い。鼻が、生まれてこのかた覚えのないほど利いている。
私は泥の上に横たわっていた。
起き上がろうと手をついたら、出てきたのは、小さな、毛だらけの足だった。
……足?
私は考えた。考え事をするとき、私は左手で右手の甲を三回叩く。五十四年間の癖だ。
左の前足で右の前足を叩いた。ぽす、ぽす、ぽす。
肉球が、間の抜けた音を立てた。
肉球、だと。
目の前に真新しい石があった。刻まれた名前が読める。バルトルト・フォン・ハルデン。
私の墓だ。つまり私は死んだ。そして犬になった。
神の声も、女神の説明もなかった。誰にも何も言われなかった。気づいたら犬だった。
世の中というのは、そういうものらしい。
頭の上の雨が止んだ。傘だった。
「……犬?」
黒い喪服の娘が立っていた。目が腫れている。エルザだ。
「こんなところに、子犬が。あなた、ひとりなの?」
抱き上げられた。温かい。この子に抱かれるのは、三つのとき以来だ。
私は父として威厳ある言葉を述べようとして、
「くぅん」
と鳴いた。
「お父さまのお墓の前で、寒かったでしょう。……名前をあげなきゃね。バル、にしましょう。お母さまだけが、お父さまをそう呼んでいたの。お父さまには内緒よ」
知っている。聞こえている。私が一番よく知っている。
「お父さまはね、頑固で、意地っ張りで、照れ屋で、朝から晩まで眉間に皺を寄せていたの。……あなた、ちょっと似てるわね。その目つき」
似ているも何も、本人だ。
私は「勝手に呼ぶな」と言おうとして、また「わん」と鳴いた。尻尾が勝手に振れた。
止まれと命じても止まらない。
娘が、泣きながら笑った。
屋敷へ運ばれる腕の中で、私は、死んだときのことを思い返していた。
よく覚えている。
三日前の夜、心臓が胸の中で石になった。
寝台のまわりには、娘のエルザと、医師と、弟のギュンターがいた。
エルザは私の手を握って泣いていた。泣きながら笑うのが、あの子の癖だ。
亡き妻にそっくりの癖だ。
言うことは決めていた。三か月、毎晩考えて決めた。「ユリアン殿を呼べ。結婚を許す」。
それだけだ。
ところが口から出たのは、別の言葉だった。
「……あの男との結婚は、認めん」
医師が息をのんだ。ギュンターの目が、一瞬だけ光った。エルザの手が固まった。
違う。今のは違う。そう言おうとして、舌が動かなかった。そして私は、そのまま死んだ。
……あれから三日、私は何も取り消せないまま、犬になっている。
*
屋敷での私の扱いは、思ったより良かった。
「犬は好きですが、書斎には入れませんぞ」
家令のトマスは、六十を過ぎた堅物だ。
私が生前、一度も笑顔を見たことのない男が、私の前に皿を置きながら、小声で「よしよし」と言った。
顔が崩れていた。
「旦那様には内緒ですぞ。私は三十年、犬が飼いたかったのです。旦那様が『屋敷に獣は入れん』と仰るので」
言った。確かに、言った。
「ですが、旦那様は、もうおられません」
トマスが、泣きそうな顔で笑った。
……ここにいる。とは言えず、私は皿に顔を突っ込んだ。肉は旨かった。
……トマス。お前、そんなことを思っていたのか。三十年仕えて、初めて知ったぞ。
夜は、エルザの部屋の寝台の足元で眠ることになった。眠れなかった。
娘が泣いていたからだ。
「お父さまは、最後まで、認めてくださらなかった……」
娘は私を抱いて、枕に顔を埋めていた。
「ユリアンさまは、三年も、毎週、通ってくださったのに。それでも、だめだったのね」
違う、と言いたい。叫びたい。許す。許している。許していた。
私は床に降り、寝室の隅に溜まった埃に、前足を伸ばした。字で伝えられないか。
「ゆ」
前足で、ゆ、と書いた。そこで限界だった。
犬の足で文字を書くというのは、人が思うよりはるかに難しい。
娘が覗き込んだ。
「ゆ? ……お湯? お風呂に入りたいの?」
違う。
「明日、トマスに頼んでおくわね」
違う!
「それとも、お父さまみたいに、お酒が飲みたいのかしら。ふふ、まだ早いわよ、バル」
飲みたいが、そこでもない。
私はふてくされて窓辺に飛び乗った。月明かりの庭に、白い薔薇が咲いている。
亡き妻エルゼの薔薇だ。
エルゼはこの薔薇の前で、よく私に言った。
「あなたは、嬉しいときほど、怒った顔をするのね」。そのたびに私は「ふん」と言った。
何年経っても、直らなかった。
その根元に、私は三か月前、小さな箱を埋めた。
娘宛ての手紙だ。
私は自分の性分を知っていた。
意地っ張りで、照れ屋で、肝心なときに肝心なことの逆を言う。
医師に心臓を指摘されたのが、三か月前だ。死ぬ前に、娘に何か残さねばならん。
いずれ結婚式の前夜にでも、こっそり渡すつもりだった。
口で言えば済む話だが、言えるくらいなら苦労はしない。だから手紙にした。
日付を入れ、署名をし、印章で封をして、薔薇の下に埋めた。妻と私の、約束の場所だ。
突然死は、予定に入っていなかった。
あれを、掘り出さねばならん。
私は窓辺で、強く決意した。
ただし、読ませるためではない。燃やすためだ。
あんな恥ずかしい手紙を、娘に読まれてたまるか。
「あれは嘘だ。意地だ」などと書いてあるのだ。父親の威厳に関わる。
それに、手紙を書いたのは三か月前の、死ぬ気で弱気になっていた私だ。
今の私は生きている。この目で、もう一度あの男を見極めてから、決める。
……私は、そういう男なのだ。
*
ユリアン・クラインは、翌日の昼に来た。
二十八歳。平民の出で、財務局の書記官。
背が高く、無口で、いつも上着の内側に革の書類入れを提げている。
三年間、毎週のように屋敷を訪れては、私の書斎の前で背筋を伸ばして立ち、「お嬢様との結婚をお許しください」と言い続けた男だ。
私は毎回、「ふん」と言った。「ふん」だけを三年言い続けた。
「バル、ご挨拶は?」
エルザに促され、私は玄関ホールの真ん中で、ユリアンを見上げた。
試験の開始だ。
第一の試験。私は彼の靴の前に座り込み、動かなかった。
ユリアンは避けて通れず、立ち止まった。そして、困ったような顔もせず、膝をついた。
膝を折る動きが、ほんの少し固かった。
「失礼します。……はじめまして、バル」
犬に敬語だ。
第二の試験。差し出された手を見る。インクの染みのついた指。爪が短く整えられている。
悪くない。ただ、指先が、かすかに湿っていた。
第三の試験。ユリアンが上着の隠しから、干し肉を出した。
「トマスさんに伺いました。お好きだと」
私は鼻を背けた。誰が犬畜生の餌などで——
尻尾がぶんぶん回った。
止まれ。止まれと言っている。
尻尾は止まらなかった。干し肉は旨かった。屈辱だった。
エルザが笑い声を立てた。この家で、父の死から初めて聞く笑い声だった。
「ユリアンさま、バルが一目で懐くなんて。珍しいわ」
「そうでしょうか。……僕には、見定められている気がします」
ユリアンは干し肉を手のひらに載せたまま、私の目をじっと見た。
「どこか、閣下に似ている」
……鋭い。この男、やはり侮れん。
居間でトマスが、卓の上に暦を広げた。
「お嬢様。念のため、お確かめを。当主が亡くなり、お世継ぎの男子がおられぬ場合、三十日以内にお嬢様が婚姻なさり、夫君を後見に立てねば、領地は王家預かりとなります」
「ええ。だから、式は二十八日目。教会は押さえたわ」
「王家預かりになれば、まず間違いなく、旦那様の弟君が願い出て、叔父上のお預かりに……」
トマスが声を落とした。
私はお座りをしたまま、耳を立てた。
三十日ルール。そうだ、それがあった。
ギュンター。あの弟に、領地を渡してなるものか。
ユリアンは、卓の上の式次第に、さらさらと注釈を書き込んでいた。
字がいい。一画ごとに背筋の伸びた、美しい、読みやすい字だ。
私はかつて、この男の願い出書を見て、一度だけ、心にもなく褒めたことがある。
「……君の字は、いい字だ」
ユリアンは、石になったように固まって、それから深々と頭を下げた。
以来、三年、私は一度も、その話に触れていない。
ふん。
*
五日目に、叔父のギュンターが、息子のハンスを連れて屋敷に来た。
麝香の匂いがした。鼻が曲がる。犬の鼻には、ほとんど暴力だ。
「おお、エルザ。可哀想に。兄上を亡くして、さぞ心細かろう」
猫なで声だ。生前の弟は、私の前ではもっと低い声で話した。
私は玄関ホールで、叔父の脚の前に立ちはだかった。喉の奥から、勝手に声が出た。
「ううううう」
「おや、犬か。気の荒い」
「ごめんなさい、叔父さま。バルはまだ子犬で」
「躾が要るな」
ハンスの靴が、私の腹を狙って振られた。ひらり、と避けた。
避けたついでに、その靴下に噛みついた。
「痛っ!」
ふん。成敗である。
その夜、叔父と従兄は、書斎で酒を飲んでいた。
私は扉の隙間から忍び込み、机の下に潜った。かつて私が座っていた机だ。
叔父は、私の椅子に座って足を組んでいる。
「父上、いつまで待つんです」
「焦るな、ハンス。兄の最期の言葉を聞いたのは、俺と医者だ。『認めん』と言い残した。証人が二人いれば、口頭の遺言は立つ」
叔父は、私の秘蔵の酒を勝手に開け、妻の形見のグラスに注いでいた。そのグラスで飲むな。
「式の最中に『異議あり』と叫べば、婚姻は無効。娘は相続を失う。お前は傷心の従妹を慰めてやれ。あの娘は泣き虫だ。泣かせておけば、言うことを聞く」
「ユリアンとかいう書記官は?」
「平民一人、書類一枚で追い払える。……それに、あの男は、俺に頭が上がらん」
叔父は笑い、私の机の引き出しから、勝手に葉巻を取った。
机の下で、私の毛が逆立った。
……何だと。
私は机の下から飛び出した。吠えた。吠えて吠えて吠えた。
「うるさい犬だ」
叔父が、私の首根っこをつまみ上げた。
エルザが駆けつけて、私を抱き上げた。
「ごめんなさい叔父さま! バル、どうしたの」
違う、お前の叔父は敵だ。私は娘の袖を噛んで書斎へ引っ張った。
「あら、遊びたいのね。ええ、あとでね」
あとでではない!
言葉にならなかった。犬というのは、実に不便な生き物だ。
*
それから私は、結婚式の準備を、全力で邪魔した。
断っておくが、これは試験の続きである。
あの男が娘の夫に足る男か、手紙の私は許していても、生きている私は、自分の目で確かめねばならん。
邪魔をして、なお耐える男でなければ、娘はやれん。
ユリアンの左の靴を隠した。
三日後、彼は庭の植え込みから、土まみれのそれを見つけ出し、「バルは宝探しが好きなのですね」と言った。
式の試食に出た菓子を、長卓の上に飛び乗って平らげた。
ユリアンは空の皿を見つめ、「では本番までに三皿、用意しましょう」と言って、菓子屋に追加の注文を書いた。
エルザの仮縫いの最中に、裾に飛びついて引っ張った。仕立て屋が悲鳴を上げた。
廊下で待っていたユリアンが呼ばれ、私の首を抱え上げた。その手は、また少し震えていた。
そして、扉の向こうの娘に聞こえない声で言った。
「閣下も、この花嫁姿を早くご覧になりたいのでしょう」
……そうだ。早く見たい。見たいのだが、そう素直に言えるか。
招待客の名簿の上に座り込んだ日は、彼は私を抱き上げず、名簿のほうを私の下から静かに引き抜いた。
「席次の確認は、バルの隣で」と言って、私の座布団を卓の脇に置いた。
赤葡萄酒の栓が抜かれると、私は鼻を鳴らした。ユリアンが目を見張った。
「閣下の好まれる年の酒です。……偶然でしょうか」
偶然ではない。そっぽを向いた。
合間に、庭の薔薇の根元を掘ろうとしては、トマスに叱られた。燃やすための穴だ。
叱られるたびに掘る場所を変えたが、箱の位置は知っているので、結局いつも同じ薔薇に戻った。
ユリアンは、一度も怒らなかった。
十回邪魔して、十回、受け止めた。受け止め方が、毎回違った。
……腹立たしいほど、いい男だった。
*
十二日目の朝、エルザの供をして墓参りに行くと、先客がいた。
ユリアンだった。私の墓の前で、帽子を脇に抱え、花を供えている。
娘が少し離れた場所で足を止めたのを、彼は知らないらしかった。
足元の私にだけ、聞こえる声で言った。
「閣下。三年間、僕に『ふん』とだけおっしゃいましたね」
……ああ、言った。
「でも、僕は、数えていました。『ふん』には、十八通りありました。呆れた『ふん』。照れた『ふん』。字を見て、少しだけ感心した『ふん』。——今朝、思い出していたのですが、亡くなる前の週の、最後の『ふん』は、あれは、許しかけた『ふん』だったと、僕は、思っているのです」
私は墓石の前で、お座りをしたまま、動けなかった。
その通りだ。あの週の「ふん」は、あれだった。あと一押しで、言えた。
言えなかっただけだ。
「勝手な思い込みだと、笑ってください」
ユリアンは小さく笑って、石に手を置いた。
「お嬢様は、僕が必ず、笑わせます」
……鼻の奥が熱かった。犬になって、いちばん困ったのは、この鼻だ。
涙腺より先に、鼻が鳴る。私は「ふん」とも「くぅん」ともつかない声を出し、横を向いた。
その「ふん」は、十九通り目だったと思う。
*
十五日目の夕方、私は初めて、屋敷の塀の下の穴から外に出た。ユリアンを尾行するためだ。
財務局の帰り道、彼は、まっすぐ屋敷に向かわなかった。裏路地へ曲がった。
樽の陰から覗くと、先に叔父のギュンターが立っていた。
ユリアンが懐から、小さな革袋を出した。叔父が受け取った。重い音がした。金貨だ。
「……娘には言うな」
叔父の声が、風に乗って届く。
「承知しています。今月で、最後です。署名を」
叔父が、紙に何かを書きつけた。ユリアンは丁寧に、それを畳んで、書類入れに収めた。
最後。署名。
私の頭の中を、疑いが駆け巡った。
あの男が叔父に金を渡している。叔父の側につこうとしているのか。
それとも、領地を巡る取引か。「俺に頭が上がらん」とは、このことか。
……やはり、あの男は、信用ならん。
その夜、庭から、微かな足音がした。
エルザが寝入るのを待って窓から降りた。ユリアンが、薔薇の垣根のそばに立っていた。
毎晩来ているらしい。門番が顔見知りになっていた。
夜の屋敷を、そっと見上げてから、彼は私に気づいて、しゃがんだ。
「バルか」
私は少し離れて座った。唸りは、しなかった。
「君に話しても、仕方ないのだが」
ユリアンは、膝の上で自分の手を見た。
「実は、子どものころ犬に噛まれてから、苦手でね。君に最初に会った日、僕の手が震えていたのに、気づいていたかな」
気づいていた。
「でも、君は平気なんだ。閣下の犬だから、かな」
自分の言葉に、彼は小さく笑った。
ユリアンは顔を上げ、夜の屋敷の窓を見た。
「閣下は、僕の字を、一度褒めてくださいました。三年間で、一番嬉しかった言葉です」
……知っている。
「だから、閣下のことは、墓まで持っていくつもりです。君も、黙っていてくれ」
何をだ。
私は思わず、彼の上着に前足をかけた。書類入れの革紐を、口で引っ張った。
「バル、だめだ」
留め金が外れ、書類入れの中身が、石畳に流れ出た。
紙だ。何十枚もの紙。同じ形、同じ文面。月明かりに照らされた一枚を、私は読んだ。
『受領書 金貨五枚 兄バルトルト・フォン・ハルデンの借入金返済の一部として、確かに受領した。 ギュンター・フォン・ハルデン』
三十枚あった。日付が毎月、一枚ずつ。一番上の一枚だけ、文面が違った。
『受領書 金貨五枚 右をもって、兄バルトルトの借入金(金貨百二十枚および利息)の全額が完済されたことを認める。 ギュンター・フォン・ハルデン』
私は、前足で三回、ぽす、ぽす、ぽすと叩いた。叩いたまま、動けなかった。
三年前の洪水だ。復旧の金が足りず、私は弟に金貨百二十枚を借りた。
娘には、恥ずかしくて言えなかった。返しきれないまま死ぬのだと思っていた。
弟は、一度も催促してこなかった。催促する必要が、なかったのだ。
この男が、払っていたのだ。
毎月。三十か月。一度も欠かさず。私に、一言も言わずに。
尻尾が、初めて、止まった。
ユリアンは黙って、紙を拾い集めていた。拾いながら、ぽつりと言った。
「閣下は、お嬢様にだけは知られたくなかったでしょう。僕もです。お嬢様は、この件を知れば、きっと、自分を責める」
紙を揃えて、革の書類入れに戻す。インクの染みた指が、少し震えていた。
「……読めるのか?」
彼は、苦笑して首を振った。
「まさかな」
読めるのだ、馬鹿者。
私は、お座りしたまま、全身で彼を見上げた。尻尾が止まらなかった。
止まれと、もう言わなかった。
その日から、私が薔薇を掘る理由は、変わった。燃やすためではない。渡すためだ。
ただ、犬の足は、毎日トマスに止められた。
*
十九日目に、一つ事件があった。
ハンスが、ひとりで屋敷に来たのだ。
「従妹の見舞いに」と言って応接間に通され、エルザと二人になるなり、声色を変えた。
「エルザ。式は延期したほうがいい。父は、お前のためを思って」
「お断りします」
娘は、紅茶の湯気の向こうで、静かに言った。
「ユリアンさまとの結婚を、わたしが決めたの。お父さまが何とおっしゃっても」
「……その、書記官ごときが」
ハンスの手が、娘の手首へ伸びた。
私は、卓の下から飛び出した。靴下ではなかった。今度は、手の甲だった。
「ぎゃあっ!」
トマスが飛び込んできた。庭師と下男たちが、続いた。
ハンスは、血の滲んだ手を押さえて、屋敷から追い出された。
エルザは、私を抱き上げて、頬を押しつけた。
「ありがとう、バル。……お父さまみたいね、あなた」
……みたい、ではなく、本人だ。
それでも、この子の腕の中は、温かかった。
*
二十三日目の夜、私は庭で、とんでもないものを聞いた。
月明かりの下、ユリアンが薔薇の垣根の前に立っていた。
そして、私に向かって、咳払いをした。
「えー、バル。聞いてくれ。式の誓いの言葉を、練習したいんだ。人前だと、どうしても噛んでしまう」
誓いの言葉を、犬に?
「僕、ユリアン・クラインは。エルザ嬢を、妻として。……生涯、その笑う回数を、数え続けることを、誓います」
……数えるのか。
「病めるときも、健やかなるときも。お父上に、まだお許しをいただけておりませんが」
そこで、彼は言葉を詰まらせた。
「……それでも、許していただける日まで、毎週、通うことを。誓い、ます」
夜の庭は、静かだった。
私は、咳が出た。犬の咳は、思ったよりも大きかった。
「ううっ、ごほっ、わん」
ユリアンが、振り向いた。
「……許可、と受け取っていいのかな」
許可ではない。咳だ。
「ありがとう、バル」
彼は、本当に嬉しそうに笑った。私は、そっぽを向いた。
……尻尾が、止まらなかった。
*
式の前夜、エルザは私を抱いたまま、ずっと窓の外を見ていた。
「明日ね、バル」
二十七日目。私はもう、成犬の三分の二ほどになっていた。
娘の腕が、少しだけ重そうだった。
「ユリアンさまがいなかったら、わたし、お父さまがいなくなった日に、ひとりだった。……お父さまは、反対のまま逝ってしまったけれど、わたしは、あの方と生きていきたいの。お父さまに、許してほしかったな」
許している。
私は娘の腕を抜け出し、窓から庭に飛び降りた。
薔薇だ。あの箱だ。もう燃やす気はない。娘に届ける。今すぐ、娘の手に渡す。
土を掘った。前足で掘った。爪が剥がれそうなほど掘った。
「バル! 何してるの、薔薇が!」
エルザが追って来た。トマスが提灯を提げて走ってきた。
「いけません! 奥様の薔薇です!」
私は二人に抱え上げられ、土まみれのまま、暴れた。違う、そこだ、そこに——
庭の端で、誰かの声がした。
「お嬢様、明日は大事な日です。ここは私が見張っておきます。……掘るのには、理由があるのかもしれません」
ユリアンだった。いつもの夜の見回りに、来ていたのだ。提灯の光の中に立っていた。
「バルは、薔薇の根元ばかりを掘ります。毎日です。何かを、探しているのでは」
「そんな……。ただの犬よ」
「そうかもしれません。ですが、明日が済んだら、一緒に調べましょう」
エルザは、ふふ、と笑った。目は、赤かった。
私は、部屋に連れ戻された。
扉の内側で、エルザは私を膝に乗せ、土に汚れた爪を、濡らした布で一本ずつ拭いてくれた。
「痛かったでしょう。明日は、お父さまの代わりに、この子もそばにいてもらうわ」
娘の指が、優しかった。私は、諦めることにした。夜明けまで、あと数時間。
待つのも、父の仕事だ。
*
夜明け前、窓の外で、小さな物音がした。
娘の寝息を確かめて、私は窓から庭へ降りた。白い薔薇の前に、ユリアンが立っていた。
一睡もしていない顔だった。
婚礼の正装の上に黒い外套を羽織り、肩に小さなスコップを担いでいた。
「おはようございます、閣下」
……閣下、と言った。
「冗談です。ただの、犬への挨拶です。……でも、もし本当にそうなら、どうか教えてください。ここですか」
私は、薔薇の根元の土を、前足で三回叩いた。
ぽす、ぽす、ぽす。
ユリアンの息が止まった。
「やはり」
彼は、何も言わず、土を掘った。薔薇の根を傷つけないよう、慎重に、丁寧に、静かに。
夜明けの空が白んでいくなか、スコップが何かに当たった。
小さな木の箱だった。蓋を開けると、油紙に包まれた手紙が一通。
封蝋が押され、宛名はエルザ。見覚えのある、私の字だった。
彼は、それを箱ごと、そっと外套の中に仕舞った。
「封は切りません。司教猊下の前で開けるのが、一番、争われない形です。式が始まるまで、お預かりします」
私は、尻尾を振った。もう止めなかった。
*
二十八日目の午後。ハルデン家の礼拝堂は、満員だった。
領内の貴族、役人、商人、近隣の郡長まで来ている。
白いドレスのエルザは、私が見たこともないほど美しかった。亡き妻にそっくりだった。
私は、祭壇のすぐ脇の長椅子の下に、トマスにそっと隠されていた。
「お行儀よくしていなさい」と、小声で言われた。
司教の声が、礼拝堂に響く。
「この婚姻に、異議のある方は、今ここで申し述べなさい」
沈黙が、一拍。
「異議あり!」
叔父のギュンターが、立ち上がった。ハンスが隣で、悲痛な顔を作った。
「恐れながら。我が兄は臨終の際、『あの男との結婚は認めん』と言い残した。証人は、私と医師の二名。口頭の遺言は成立している。泣き虫の小娘に、領地が務まるものか。この婚姻は無効、相続も失われる!」
ざわめき。エルザの手から、花束が滑った。
医師が立たされた。青い顔で、小さく頷いた。
「……確かに、そのように、伺いました」
「聞いたな!」
その時だった。
「恐れながら」
ユリアンが、一歩前に出た。声は低く、揺れなかった。
「口頭の遺言は、日付と署名と印章のある書面があれば、効力を失います」
「書面だと? そんなものはない。兄は突然死んだのだ」
「ございます。司教猊下、封をお改めください」
長椅子の下で、私の尻尾が床を叩き始めた。ぼす、ぼす、ぼす。
前列の貴婦人が、足元を覗き込んだ。
止まれ。止まれと言っている。
ユリアンは外套の中から、一通の手紙を取り出した。油紙の端に、土が、まだ付いていた。
司教が封蝋を確かめ、教会に保管された、ハルデン家の印章の写しと照らし合わせた。
長い、長い沈黙の後に、彼は顔を上げた。
「……日付は、先代当主が亡くなる、三か月前。署名は、本人のもの。印章は、相違ありません」
トマスが進み出た。涙で、声が濁っていた。
「筆跡は、旦那様のものに相違ございません。三十年、見て参りました」
「偽造だ! 出鱈目だ!」
叔父が、司教の手から手紙をひったくろうと飛び出した。
私は長椅子の下から飛び出し、その向こう脛に噛みついた。
「ぎゃあっ!」
叔父は祭壇の前で見事に転び、衛兵に押さえられた。誰も、助け起こさなかった。
私は倒れた叔父の高価な外套の裾に近づき、礼として、片脚を上げた。
犬だから許される。
それから、そっと長椅子の下へ戻った。
司教が、封を切った。
エルザへと、手紙を手渡した。娘は震える手でそれを開き、声に出して読み始めた。
『エルザへ。これを読んでいるなら、私は式に間に合わなかったのだろう。先に言っておく。私はおそらく、死に際に「あの男との結婚は認めん」と言う。あれは嘘だ。意地だ。三年かけて、私はあの男に、何ひとつ文句をつけられなかった。それが悔しくて、口が勝手に反対する。信じるな』
礼拝堂が、水を打ったように静まった。
エルザの声が止まった。肩が揺れている。文字が、涙で読めなくなったのだ。
ユリアンが、そっと手紙を受け取った。娘の隣で、代わりに読み始めた。
『ユリアン殿。許す。娘を笑わせてやってくれ。——』
声が、途切れた。
彼は唇を噛んで、もう一度、息を吸った。
『頼む』
エルザが、涙の中で、ぽつりと言った。
「……ゆ。お湯じゃ、なかったのね」
あの寝室で、違うと叫んだのだがな。
長椅子の下に戻った私は、前足で三回、床を叩いていた。
ぽす、ぽす、ぽす。
ユリアンは顔を上げ、まっすぐ叔父を見た。
「ギュンター様。もう一つございます」
彼は、革の書類入れから紙の束を出した。
「兄君の借金、金貨百二十枚は、三十か月かけて、僕が全額お返ししました。受領書は三十枚。すべてギュンター様の署名入りです。『娘に言えば、領地を奪う』と、ギュンター様はおっしゃいました」
叔父の顔から、血の気が引いた。
「弱みを握って、金を巻き上げ続けた。これは恐喝です。郡長閣下」
来賓席の、白髭の郡長が、ゆっくりと立ち上がった。
「ギュンター殿。その件、詳しく伺おう」
その時、医師が膝から崩れた。
「……私も、申し上げます。お言葉は、確かに聞きました。ですが、証人になれば金貨二十枚、とギュンター様に言われて、私は……」
郡長の眉が、ぴくりと動いた。
「証人の買収もか。それと、この場での異議申し立ての経緯もだ。連れて行け」
衛兵が叔父を引き立てた。扉の手前で、叔父が振り返って叫んだ。
「兄上は、昔からそうだ! あの書記官の字は褒めたと聞いたぞ! 私には、『ふん』としか言わなかったくせに!」
ユリアンは、静かに答えた。
「閣下の『ふん』は、十八通りあります。ギュンター様は、いくつ聞き分けられましたか」
叔父は、口を開けたまま、連れて行かれた。
ハンスが、父を呼びながら後を追おうとして、長椅子の下の私に気づいた。
「この犬のせいで——」
その手首を、横から掴む手があった。ユリアンだった。
「この子は、僕の家族です」
彼は私を抱き上げた。その腕が、小さく震えていた。
麝香の匂いが、扉の向こうに消えていった。
*
ざわめきが去ったあと、エルザがユリアンの袖をつかんだ。
「手が、まだ震えてる」
「ああ……実は、犬は、その、得意ではなくて」
「毎日、バルを撫でてたじゃない」
「毎日、三回ほど、覚悟を決めて」
エルザが、吹き出した。吹き出して、泣いた。私は彼の腕の中で、少し反省した。
「どうして、言ってくれなかったの。三十か月も、ひとりで」
「言えば、お嬢様は、きっと自分を責めたでしょう。お父上のことも、責めてしまったでしょう。僕は、お父上が好きでしたから」
エルザが、彼の胸を拳で軽く叩いた。
「ばか。恐喝されていたのなら、まっさきに言いなさいよ。二人で叩き返したのに」
「……その発想は、ありませんでした」
「書類は完璧なのに、いちばん大事なところが抜けているのね」
そうだ、娘に言え。そこだけは減点だ。
ユリアンは、頭を掻いて困ったように笑った。
「一度も、許していただけませんでしたが」
エルザが、泣き笑いで首を振った。
「今日、手紙でやっとわかったの。……でもね、ほんとうは、ちょっと知ってたのよ。『認めん』って言いながら、お父さま、あなたの願い出書だけは、三年分、捨てずに机の奥にしまっていたの」
……見られていたのか。
私は、ユリアンの腕の中で、耳を伏せた。
エルザが、ゆっくりとこちらを振り向いた。
ユリアンが、そっと私を床に下ろした。私はよたよたと歩み出た。
娘が膝をつき、私の顔を両手で挟んだ。
「バル。……あなた、さっき」
私は彼女の目を見た。目の端が熱かった。
エルザは、聞いていたのだ。静まり返った礼拝堂に響いた、ぽす、ぽす、ぽす、という音を。
父の癖の音を。
「お父さん?」
私は胸を張った。威厳を込めて、重々しく、言うべき言葉を、厳かに述べた。
「わん」
娘が、泣きながら笑った。笑いながら、私を抱きしめた。
参列者は、何が起きたのか分からず、ただ拍手をした。
トマスだけが、声を殺して泣いていた。
誓いの言葉は、粛々と進んだ。
私は新郎新婦の足元に、お座りをしていた。尻尾は、床を叩きっぱなしだった。
止める気は、なかった。
ユリアンが、娘の手を取る。
「僕、ユリアン・クラインは、エルザを生涯笑わせ、その笑う回数を数え続けることを、誓います。……お父上のお許しもいただきましたので、毎週通う誓いは、取り下げます」
取り下げるな。通え。
私は、犬の喉で、それでも言った。
——ユリアン。娘を、頼む。
「わん」
ユリアンは、私に目を落として、微笑んだ。
「お任せください、お義父さん」
……お義父さん、か。
悪くない。ふん。
薔薇の香りが、風に混じった気がした。エルゼ、聞いたか。
今のは、嬉しいときの「ふん」だ。
披露の宴で、ユリアンは私の皿に、一番大きな肉を載せた。
私は、葡萄酒の香りを嗅ぎながら、娘の笑い声を聞いていた。
食べ終えたあと、左前足で右の前足を、三回叩いた。
満腹だ。満足でもある。
*
なお、後日談を一つ。
式から数年。屋敷には、金髪の小さな女の子が走り回っている。私の孫だ。
まだ四つだが、すでに求婚者の列の予告が、近隣の屋敷から届き始めている。
私は庭の薔薇の下で、すっかり貫禄のついた犬として寝そべりながら、左前足で右の前足を叩いた。
ぽす、ぽす、ぽす。
準備は、すでに始めてある。
最初の求婚者の靴下には、今のうちから、噛みついておく所存だ。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
頑固な父の「ふん」が、少しでも愛おしく思えたら嬉しいです。
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