『ご厚意をありがとうございます、でも普通の挨拶から始めて欲しかったです』
朝露の残る庭園に、ララは立たされていた。
薄い亜麻色の髪を後ろで束ね、粗末な布のワンピースを着たその姿は、この豪奢な屋敷にはあまりに不釣り合いだった。とはいえ、彼女自身がそれを一番よく知っている。
「……本当に、これが“貴族式お見合い”なんですか?」
ララは、目の前に立つ女――リーナ・グランディールを見上げた。
リーナは、貴族でありながら仲人として知られる人物だった。その手腕は高名で、彼女が仲介したお見合いは必ず結ばれる、とまで言われている。
だが、実際のところは――ただの圧力と強制でしかなかった。
「そうよ。文句あるの?」
紅い唇が意地悪く歪む。
「でも……私は、お相手とまず挨拶を交わして、お茶を飲んで、お互いの趣味を話して……そういう段階を踏んでから、恋に落ちたかったんです」
「平民のくせに夢見すぎよ」
リーナの声は冷たい鋼のようだった。
「身分を上げるチャンスを与えてあげてるのよ? あなたがここで“誠実”なんてものにこだわって断れば、二度と縁談なんて来ないと思って」
そして扉が開いた。
入ってきたのは、背の高い男だった。
黒髪を短く刈り込み、肌は日焼けではなく、もともと浅黒い色をしていた。鍛えられた体つき、まるで軍人のような鋭い眼差し。
ララは息を飲んだ。
(ぜんっぜん、タイプじゃない……)
ララは金髪碧眼の、いかにも「絵に描いた貴族」のような男が好みだった。
だが、目の前の男――アシュレ・ヴェルドラ三男爵は、そのどれにも当てはまらない。
彼女は口を開く。
「ご厚意はありがとうございます。でも、普通の挨拶から始めて欲しかったです」
アシュレの表情が一瞬だけ揺れた。
リーナは小さく舌打ちする。
「さっさとベッドに入れば、話は早いのに」
この国では、貴族同士の縁談に“肉体の相性”を見るという名目で、先に一夜を共にする文化が一部存在していた。だが、それは貴族同士での話。
ララのような平民に、それを押し付けるのはただの暴力だ。
(こんなお見合い、成立するはずがない……)
だが、それでも。
ララとアシュレは、奇妙な形で惹かれていくことになる――
アシュレ・ヴェルドラは、屋敷の応接間に戻ると、ため息をつきながら椅子に深く腰を沈めた。リーナのやり方は、相変わらず強引で――そして、卑劣だった。
「……まさか、本当にただの平民を連れてくるとはな」
卓上のグラスには、甘ったるい香りの果実酒。だが、口をつける気にはなれなかった。
ララ・ミリアム。
今日、初めて会ったその平民の娘は、言葉遣いこそ丁寧だったが、目は決して媚びなかった。
貴族の男に怯えもせず、かといって意地を張るわけでもない。彼女はただ、「順番を大切にしたい」と言った。
――どうかしている。
こんな世界で、そんな当たり前のことを言えるなんて。
けれど、その「当たり前」が、自分にとっては妙に眩しかった。
「……俺は何を考えてる」
思わず独りごちる。
そもそも、この縁談は“個人的な感情”とは無縁だったのだ。
ヴェルドラ家の三男として生まれたアシュレは、家を継ぐことはできなかった。軍に出るも、途中で負傷し、現在は半ば「飼い殺し」のような立場。家名を支える資金も、今や枯渇寸前。
そこに差し出されたのが――リーナからの“援助”だった。
「この女と結婚してくれれば、あなたの家に、資金援助が入るわ。破産寸前の三男坊には、悪くない話でしょう?」
しかもその援助は、婚約成立前に“一夜を共にする”ことが条件だった。
「……俺は、売られてるんだな」
苦く笑う。
ララの“気持ち”など、誰も考えていない。
自分の気持ちすら、契約の中では無意味だ。
けれど、彼女は拒絶した。
何も知らずに、自分の本心だけを盾に、あの場所に立っていた。
その姿が、心に引っかかって離れない。
――彼女を、ただの「手段」で終わらせていいのか?
その夜、アシュレは再びララに会いに、彼女の部屋を訪れた。
「すまない。無理矢理なことをしようとして――」
彼の謝罪に、ララは目を丸くする。
「え? 貴族の方が謝るなんて……」
「俺は貴族だが、人間でもある」
そう言って、アシュレはララの目をまっすぐに見つめた。
「ひとつ、誤解を解いておきたい。……俺は、この結婚を“対価”として引き受けるつもりだった。資金と引き換えに、君を妻にする。だが……今は、それだけじゃない」
ララは、困惑と警戒が入り混じった表情を浮かべた。
「……それって、“気に入った”ってことですか?」
アシュレは一拍置いてから、真剣なまなざしで答える。
「君のことを知りたいと思った。……順番が違っていたのは、俺のほうだ」
ララの頬がわずかに赤らんだ。
けれどその後の展開が、ふたりにとって予想を超える厄介な方向へと転がっていくのは――このとき、誰も知らなかった。
しばらくのあいだ、アシュレはララに誠実に向き合った。
リーナの監視の目をかいくぐるように、ふたりは時間を重ねた。
アシュレの言葉はいつも実直で、時折冗談を挟むようになり、ララは気づけば彼と話す時間を楽しみにしていた。あれだけタイプではないと思っていたのに、気持ちは不思議と揺れ始めていた。
ある日の午後、庭園でふたりきりのティータイム。
「アシュレさんって、もっとこう……怖い人かと思ってました」
「まあ、それなりに言われるよ。軍人上がりだからな」
「でも、最近は表情が柔らかくなった気がします。貴族の方ってもっとこう、冷たくて硬い印象があったので」
アシュレは紅茶を飲みながら、薄く笑った。
「貴族の“形”に合わない俺は、よく兄たちに『平民みたいだ』と笑われていたよ。皮肉な話だな。君が好きなのは、金髪碧眼の“典型的貴族”だったろ?」
「あ、はい。……そうなんですけど……」
ララは頬を染めながら、視線を落とした。
でも次の瞬間――それは、本当に「ふとした思いつき」だった。
「でもやっぱり、アシュレさんって、容姿はちょっと平民みたいですよね」
空気が、止まった。
アシュレの手が、紅茶のカップの途中で止まる。
ララはすぐに、その言葉がまずかったと気づいた。
「あっ……! 違うんです、そんなつもりじゃ……!」
「……いや、そうだな。たしかに俺は“らしく”ない容姿だ」
静かな声だったが、その声音の奥には、深く沈んだものがあった。
ララの心臓が冷えていく。
そのまま会話は途切れ、アシュレは一礼してその場を去った。
翌日、屋敷にリーナが現れた。表情はにこやかだが、目は笑っていない。
「ララ・ミリアム。あなたの発言が、ヴェルドラ家に対する侮辱と取られました」
「……え?」
「“平民のような容姿”という言葉が、ね」
ララは、膝が震えるのを感じた。
「そんな……あれは、侮辱のつもりじゃ――」
「結果がすべてよ。ヴェルドラ家はこの縁談を正式に破棄。しかもあなたの“失礼な物言い”によって関係が損なわれたという理由で、責任はあなたにあると通達してきたわ」
「っ……!」
「ほら、見なさい。これが“恋”の前に挨拶を求めた女の末路よ」
リーナの言葉が、氷の刃となって心に突き刺さる。
「これであなたに来る縁談は、二度とないでしょうね。ああ、それとも――残された“結果”を利用する?」
リーナは冷笑するように、ララの腹部へ視線を向けた。
「まさか……」
「そう。あの夜、アシュレと過ごしたときの“証拠”が、お腹の中に残っていれば――かろうじて生き残れるかもしれないわね」
その夜、ララは鏡の前で、しばらく自分の顔を見つめていた。
口にしてはいけないことを、言ってしまった。
心にもない言葉だった。でも、もう遅い。
そしてその夜、彼女はひとつの決意をする。
「私は、この子を産もう。媚びるためでも、恋のためでもない。これは私自身の、“生きる”という意思だ」
ヴェルドラ家との縁談が破棄されてから、半年が経った。
ララ・ミリアムは、小さな農村の外れにある古びた家で暮らしていた。
もともと育った村とは違う場所。名前も、身分も、過去も、ここでは誰も知らない。
ただ、「ララ」という名だけが、彼女のすべてだった。
小さな暖炉のそばに、木でできたゆりかごがある。
その中には、目を閉じて穏やかに眠る赤ん坊――アシュという名の男の子がいた。
「あなたの名前には、たくさんの意味があるのよ。……でも、それはいつか、自分で選べばいい」
ララはアシュの頬にそっと触れた。
あの日、ヴェルドラ家に背を向け、何もかも失った――そう思った。
でも今は、それが“得たこと”だったと信じている。
彼女は誰にも縋らなかった。
貴族の庇護も、見せかけの同情も受けなかった。
そして、“愛”という名の幻想にも頼らなかった。
代わりに、自分の足で立ち、自分の手で子どもを抱いた。
農村の暮らしは楽ではなかった。
日々の仕事、育児、周囲の目。未婚で子どもを持つことは、地方では未だに軽くは見られない。
「貴族の捨て子か」と囁かれ、「夜の女だったのか」と陰口を言われたことも、一度や二度ではなかった。
それでもララは、笑わなかったが、泣きもしなかった。
ただ、赤ん坊が泣けば抱き上げ、笑えばそれを守りたくなった。
「愛してるよ、アシュ。……あなたには、自由な未来をあげたい」
ララが願ったのは、それだけだった。
ある日、村に一通の手紙が届いた。
宛名は「ララ・ミリアム」――かつての名で。
その筆跡を見て、ララはすぐに差出人が誰かを悟った。
「私は君に謝りたい。遅すぎることは分かっているが、それでも――
一度だけ、君に会いに行かせてほしい」
――アシュレ・ヴェルドラ
ララは、しばらく手紙を見つめていた。
揺れる気持ちはあった。
あのとき、もっと上手く伝えられていれば。
もっと正直になれていれば。
でも今は、母親としての覚悟があった。
自分の人生を、誰かの感情に振り回されるような場所に戻すわけにはいかない。
彼女は手紙を焚き火にくべ、静かに呟いた。
「……ありがとう。でも、普通の挨拶から始めてくれる人じゃないと、もう無理」
手紙は音もなく燃えた。
それは未練でも、拒絶でもない。
彼女がようやく手に入れた、“静かで自由な日常”を守るための、ただの一つの選択だった。
そして、アシュが初めて「ママ」と言った日、ララはその声に涙をこぼした。
愛していた。
でも、恋よりも強く――「生きること」が、今のララにとってのすべてだった。