第一話:過労死OL、豪華絢爛な異世界で目覚める
午前三時。蛍光灯の無機質な光だけが、オフィスに残された私、神谷彩奈を照らしていた。カチカチと時計の秒針が進む音だけがやけに響く静寂の中、デスクに突っ伏したままの私は、もはや体力の限界を超えていた。目の下のクマはもはやアートの領域に達し、鏡を見るたび悲鳴を上げたくなるほど肌は荒れていた。
夢、だったはずの「いつか幸せな結婚をして、穏やかな家庭を築くこと」は、遥か遠い幻になっていた。仕事に追われ、日付が変わる前に帰宅できる日は年に数えるほど。恋人とはすれ違いが続き、つい先日、彼は疲れ切った顔で私に「もう無理だ、別れてほしい」と告げた。「結婚も考えていたんだけど、君とは未来が見えない」――その言葉が、私の心を完全にへし折った。
頑張ってきた、つもりだった。誰かの役に立ちたくて、期待に応えたくて、ひたすら走ってきた。それなのに、結局何一つ報われないまま、私はこの薄暗いオフィスで、一人ぼっち。スマートフォンを握りしめ、ぼんやりと昔のSNSの投稿を遡る。友人の結婚報告。子どもの笑顔。輝かしいばかりの「幸せ」がそこにはあった。私は、いつからこんなに疲弊していたのだろう。
子供の頃、よく絵本を読んでいた。お姫様が住むお城、豪華なドレス、優雅なお茶会、そして王子様との運命の出会い。そんな夢のような世界に、どれほど憧れたことか。現実とはかけ離れたキラキラした生活に、心を躍らせていた。でも、大人になるにつれて、そんな夢はいつの間にか忘れて、ただ目の前の仕事に追われるだけの毎日を送っていた。
急に、胸の奥から突き上げるような激しい痛みが走った。呼吸がうまくできない。体中に鉄の塊が流れ込むような、重苦しい感覚。視界が急速に狭まり、デスクの上の書類が滲んでいく。ああ、これ、前にネットで見たやつだ。過労死――。
意識が遠のく中、走馬灯のように過去の記憶が脳裏を駆け巡った。楽しかった学生時代。恋人と初めて手を繋いだ日。両親と笑い合った食卓。――そして、最後に浮かんだのは、ただ一つの切なる願いだった。
「もし、もう一度人生をやり直せるなら……」
どうか、今度こそ。本当に、幸せな人生を……。
その言葉が、私の唇から滑り落ちるより早く、意識は深い闇の中へと沈んでいった。
目覚め、そして衝撃の転生
次に目覚めた時、私の目に飛び込んできたのは、度肝を抜かれるほど豪華絢爛な光景だった。
そこは、まるで映画のセットのような空間だった。天蓋付きのベッドは、見るからに上質な絹のカーテンで覆われ、天井からはきらびやかなクリスタルシャンデリアが煌めいていた。壁には緻密な彫刻が施され、窓からは柔らかな日差しが差し込んでいる。どこからか、甘やかな花の香りが漂ってきた。
「ゆ、夢……?」
恐る恐る体を起こすと、肌触りの良い薄手のナイトドレスが体に触れる。病院の白い天井でもなければ、見慣れたアパートの天井でもない。まるで時間が止まったかのような静けさの中、ただただ戸惑いが心を占めた。
ふと、視界に入った自分の手に、私は息をのんだ。小さく、白く、柔らかな子供の手。思わずガバッとベッドから跳ね起き、近くにあったアンティーク調の豪華な姿見に駆け寄った。
そこに映っていたのは、まさしく、私の知っている「私」ではなかった。
幼いながらも完璧に整った顔立ち。透き通るような雪肌に、桜色のふっくらとした唇。太陽の光を吸い込んだかのように輝くプラチナブロンドの髪は、背中までさらさらと流れている。そして、見る者を吸い込むような、大きく潤んだアメジスト色の瞳。まるで最高級の人形のような、信じられないほどの美少女が、鏡の中にいた。
「だ、誰……これ……私!?」
現実離れした状況に、全身の血の気が引いていく。あまりの衝撃に、額から冷や汗が流れ落ちた。
その時、私が物音を立てたのに気づいたのだろう。扉が静かに開き、一人の女性が慌てた様子で入ってきた。彼女は、裾の広がった豪華な紺色のドレスをまとい、白いエプロンとカチューシャを身につけている。紛れもなく、「侍女」と呼ぶべき姿だった。
「フローラ様!もう大丈夫でございますか!?」
彼女は心配そうに駆け寄ると、優しく私の額に手を当てた。その声は、驚くほど流暢な日本語に聞こえるのに、どこか耳慣れない響きがある。
(モノローグ)「この世界の人たちは、なぜこんなに自然に日本語を話すんだろう……? いや、私がこの世界の言葉を理解しているのか? どちらにしても、違和感がない……」
自身の名前を呼ばれたことに、私はさらに混乱した。「フローラって、誰のこと?まさか、この美少女が私!?」侍女は私の顔を覗き込み、心から安堵したように微笑んだ。
「熱はもう下がったようですわね。この数日、ずっとお休みになられていましたから、ご心配いたしましたのですよ。ご心配なさらないでくださいませ、フローラ様。」
侍女の言葉を聞いているうちに、まるで壊れたフィルムが突然回り始めるように、私の中に大量の記憶が流れ込んできた。
この身体の名前は、フローラ・ヴェルデール侯爵令嬢。この屋敷は、王都でも指折りの名家、ヴェルデール侯爵家のものであり、私はその一人娘。幼い頃から病弱で大切に育てられてきたこと、周囲の人々からの寵愛。そして、その愛らしい容姿は、幼い頃からすでに評判で、侯爵令嬢フローラとして、このアルカディア王国中にその美貌が噂されている、と……。
そして、その膨大な「フローラ」の記憶と、私が「神谷彩奈」として生きてきた記憶が、まるでパズルのピースのようにカチリと嵌まった瞬間、私は全てを悟った。
「そ、そうか……。私、死んだんだ。あのオフィスで……。で、異世界に……転生したんだ……!」
過労死した社畜OLが、まさかの超絶美少女令嬢に転生。しかも、子供の頃に憧れた、絵本の中のお姫様みたいな世界。こんなファンタジー小説みたいな展開、誰が信じるだろうか。いや、私が今、まさに体験しているのだ。鏡の中の天使のような少女と、前世で婚約破棄されたくたびれたOLの姿が交互に脳裏をよぎる。
(モノローグ)「……信じられない。けど……これは、寧ろチャンスなのでは!? 私に与えられた、セカンドチャンスだ!」
混乱の最中にも、どこか冷静なOL脳が働き始める。前世で叶わなかった幸せな人生を、今度こそ掴むチャンス。そう思った途端、私の心の中に、今まで感じたことのない希望の光が灯った。
優雅な貴族生活と「使命」
目覚めてからの数日、私は「まだ少し体調が優れない」という体で、このヴェルデール侯爵家の生活と、自身の状況を観察することに努めた。
まず驚いたのは、その生活の優雅さだった。朝には眩しい日差しが差し込む寝室で目覚め、侍女のエマ(私の専属侍女のようだ)が、私が選ぶ前から完璧なドレスを用意している。食事は、毎日がまるで高級レストランのフルコース。彩り豊かで、見た目も美しい料理が惜しみなく並べられた。
(モノローグ)「これが、夢見てた優雅な生活ってやつか……。でも、あれ? このナイフとフォーク、前世の記憶ならもっとこう、大雑把に切ってた気が……あ、体が勝手に優雅に動く……」
出されたローストチキンを上品にナイフとフォークで切り分けながら、私は内心で感動と戸惑いを同時に味わっていた。前世ではコンビニ飯が主食で、贅沢といえばご褒美のデパ地下スイーツくらいだった私にとって、この暮らしはあまりにもかけ離れていた。
しかし、同時に学ぶことも多かった。貴族としての立ち居振る舞い、食器の扱い方、紅茶の淹れ方一つにも細やかな作法がある。そして何より、この世界の共通語であるアルカディア語。幸い、フローラとしての記憶があるので会話に困ることはないが、その言葉遣いは前世のビジネス敬語とは全く異なる、丁寧で格式高いものだった。
(モノローグ)「まるで、新人研修だな……。いや、これは、最高の『プレゼンテーション』を成功させるための準備期間だわ。フローラとしての記憶と、彩奈としてのスキルを融合させれば……最強じゃない?」
内心でそんな感想を抱きつつも、私は完璧な侯爵令嬢として振る舞い続けた。何せ、この完璧な美貌が武器なのだ。
数日後、両親が私の部屋を訪れた。ヴェルデール侯爵である父上は、威厳がありながらも優しいまなざしで私を見つめ、母上は淑やかで、それでいて底なしの慈愛に満ちた笑顔を浮かべていた。
「フローラ、元気になってくれて本当に良かった」
「もう、どれほど心配したことか……」
そう言って、二人は私を優しく抱きしめた。その温かさに、私の目からは自然と涙が溢れ出した。前世では、両親とは忙しくてなかなか会えなかった。心のどこかで求めていた、無条件の愛情。それが、今、この身体を通して与えられている。
だが、その深い愛情は、同時に若干の重圧も伴うことを、私はすぐに悟ることになる。
「フローラは、我々の希望だからな。このアルカディア王国で、最も気高く、最も美しい花として咲き誇ってほしい」
父上の言葉に、私は内心冷や汗をかいた。「最も美しい花」か……。鏡に映る自分を改めて見る。透き通るような肌、輝く髪、吸い込まれるような瞳。これは、確かにとんでもない美貌だ。前世で婚約破棄を突きつけられた男も、これを見たら腸が煮えくり返るだろう、と、どこか冷静な私が皮肉っぽく思った。
エマを始めとする侍女たちも、私を見るたびに「お嬢様は本当に美しゅうございます」「まさに天使のようでいらっしゃる」と、ひそひそと囁き合っている。どうやら、この美貌は、私が転生したこのフローラという少女の「生まれ持った宿命」らしい。
(モノローグ)「まさか、転生してまでこんなに注目されることに……? でも、これは最高のアドバンテージ。有効活用しない手はないわ。フローラとしての才能と、彩奈としてのスキル……これは強力なシナジーを生むわね」
前世では無縁だった「モテ期」というものに、私は早くも内心ビクビクし始めていた。
「婚活」という名の人生再建プロジェクト
それから数年。フローラ・ヴェルデール侯爵令嬢として、私は健やかに成長した。
私の美貌は、年を追うごとに磨きがかかっていった。幼い頃の愛らしさに、少女らしい可憐さ、そして淑女としての気品が加わり、もはやその美しさは「噂」ではなく、「事実」としてアルカディア王国中に知れ渡っていた。王都の貴族たちはもちろんのこと、遠方の領地の者たちまでが、ヴェルデール侯爵家の「天使のような令嬢」の噂に色めき立った。
屋敷の門前には、フローラを一目見ようとやってくる者たちが後を絶たない。そして、毎日、私の元には山のような手紙が届くようになった。
「フローラ様、本日は隣国のグラディス伯爵家から、こちらのお手紙が届いております」
エマが差し出す手紙の束を見て、私はため息を漏らす。まだ十六歳になったばかりだというのに、届くのは全て「求婚」を仄めかす文面ばかりだった。
「フローラ様ももうすぐ社交界デビューですものね。きっと、この春の夜会では、王族の方々からもお声がかかるでしょうわ」
エマが楽しそうに話す。その言葉に、私は内心冷や汗をかいた。
「社交界デビューか……」
それが、本格的な「求婚ラッシュ」の幕開けとなることを、私は前世のOL経験で培った危機察知能力で理解していた。すでに、たまに屋敷を訪れる貴族の子息たちは、私の顔を見るなり露骨に視線を絡ませ、口を開けば褒め言葉ばかり。それらの言葉の裏に隠された「探り」や「下心」を、私は敏感に感じ取っていた。
(モノローグ)「うわぁ、異世界でも、このパターンあるんだ……。これは市場調査とデューデリジェンスが必須だわ」
うんざりしながらも、私は完璧な貴族令嬢として、優雅に微笑んで対応する。「素晴らしいお言葉、恐縮でございますわ」――と、内心では「君のスペックは?親のコネは?財産は?君に投資する価値はあるのか?」と、ビジネススキルで査定を始めていた。
前世では、仕事に追われて恋愛も家族も疎かにし、最終的には婚約破棄までされた。今度こそは、本当に幸せな結婚をして、穏やかな家庭を築きたい。
そのためには、この「モテ期」を、単なるチヤホヤ期間で終わらせてはいけない。この中から、本当に「いい人」を見極める必要があるのだ。私の美貌に群がってくる者たちの中から、心から私を愛し、共に人生を歩んでくれる相手を。
不安と期待が入り混じる中、私はドレスルームに並んだ、夜会で身につけるであろう豪華なドレスの数々を眺めた。
神谷彩奈として培った度胸と、フローラ・ヴェルデールとしての美貌を武器に、私はこの新たな人生に、そして、これから始まる「求婚ラッシュ」に、真正面から挑むことを決意した。
アルカディア王国の夜空には、今夜も満月が輝いている。
(モノローグ)「この世界で、私は本当の愛を見つけられるだろうか?――いや、見つけてみせる! 私のセカンドライフ・プロジェクトは、ここからが本番よ!」
第二話へ続く