第10章 頁の向こうへ
長谷部知紀は、文科省を退官する日、誰にも告げずに庁舎を出た。
年度末。花粉の浮いた夕方の空気に、ネクタイの結び目が妙に重かった。
机を空にしたあと、彼はひとつの書類を封筒に入れて、自分宛てに郵送した。
宛名の下に書かれた送り主の欄は、空白のままだった。
封筒の中身は一枚の内部メモ。
「掲載は見送られたが、証言の内容は明らかに歴史的事実に基づいている。
資料の真正性に関する再調査を望む有志意見、付記。」
形式上は、何の効力も持たない文書。
だが、それでも彼は記した。
“制度の中で黙っていた者が、最後に記すとすれば――
それは制度にではなく、誰かのための記録になる”
その年の秋。
佐伯澪は、ある中学校からの依頼で出張授業を行っていた。
題目は「教科書に載らない歴史をどう教えるか」。
教室の一番前の席に座っていた男子生徒が、ふと手を挙げた。
「教科書に書いてなかったら、それは“なかったこと”になるんですか?」
佐伯は一拍置いて、答えた。
「そうならないように、記そうとする人がいます。
それが“教育”の一部だと、私は思います」
生徒は頷いた。だがその頷きは、理解というより、まだ言葉にできない実感の種のようだった。
教室にいた教師は、黒板の端に小さくこう書いた。
「歴史は、記されたものだけではできていない」
夜。
佐伯は帰宅後、小冊子の増刷分を仕分けていた。
刷り上がったばかりの第3版。表紙の裏には、寄稿者として芦田と長谷部の名も加えられている。
封筒に冊子を詰める手が止まる。
ある図書館からの依頼状の手紙があった。
「記されなかった頁にこそ、これからの読者が出会うべきものがあると信じています。
あなた方が記した一行一行が、未来の“問い”となることを願って。」
佐伯は、それを静かに読み返した。
制度ではなく、誰かに向けて書くこと。
それは、一人ひとりの存在が記された頁――その“向こう”を見ようとすること。
彼女はゆっくりと目を閉じた。
記された頁は閉じられても、
その向こうには、まだ終わらない問いがある。
誰かが読む限り、
歴史は「終わったこと」ではなく――
「これからの話」として、生き続ける。
(終)