水の滴る嫌な男 【めにはめをハニハハヲ】
紀元前1792年にバビロン第一王朝の第六代目の王となり、弱小国の王ながら紀元前1757年にメソポタミア地方を統一したとされる。
晩年に発布された法典は、現代日本においても広く知られており、法を体系化しようとした事は文明の発展に多大なる貢献を残したとされる。
【ハンムラビ】
紀元前1810頃〜紀元前1750年頃
◇
カランコロン
扉を開けば連動して鳴る鈴。これの正式名称は知らないまでも、耳心地に良いことは知っている。
「(あぁ懐かしい)」
二、三ヶ月ぶりに訪れたそこは以前と大して変わらず、古かしくも洗練された内装に、奥深く芳しいコーヒーの香り。奥で優しげに豆を燻す老齢のマスターと、穏やかに流れるジャズが聞こえてくる。
まさに理想の喫茶店と言って過言ではない。
いや〝過言ではなかった〟が正しい表現だろう。そう、嘗ての憩いの地も今は昔の話。
三ヶ月前にテレビで紹介された影響で、知る人ぞ知る名店だった喫茶サテラは、今や県外からも人が訪れる人気店となってしまった。
それは普通なら喜ばしいことなのだろう。
けれど、その所為で嘗ての静けさはどこへやら。現状の店は良く言えば活気が溢れ、悪く言えば喧騒に塗れている。
お気に入りだった席も今では知らないおじさんに占拠され、空いている席といえばカウンターくらいなもんだ。
「(はぁ…一杯飲んだら直ぐに帰ろ)一人です」
「いらっしゃいま――」
「――!!」
久しぶりに訪れた喫茶店で過去の思い出との乖離に哀愁を込めて浸っていた時だった。突然、女性の金切り声が店内に響き渡った。
そのお陰とでも言うのか、店内に流れるジャズだけが耳についた。
「(痴話喧嘩かな?そういうのは他所でやってほしいな)」
だから人気店は嫌なのだと、心の中で文句を言いつつ、なんとなく。本当になんとなく音の発生源であろう窓際の席を見ると――男が女性にコップの水を引っ掛けている真っ最中だった。
「…は、はぁ!?――って、ちょっと貴方!なに、して…いるの?」
女性の髪から水が滴り落ちるのと反射して、咄嗟に立ち上がった私は、空のコップを傾けている男に近づく。
そうして説教の一つでも垂れてやろうと声をかけようとして直ぐに、尻すぼんだ。
――何故なら男の方が女性よりも、遥かにびしょびしょだったからだ。
「(へ?なに、コントロールに失敗して自分にも掛かったの?でもコップにそんな量の水なんか入る訳――)」
「騒がせて悪かったね。もう出るよ」
「ちょっ、ちょっと待ちなさいよ!」
反射だった。
ここまでの惨状を作り上げておいて、何事もなかったかのようにレジへ向かおうとする男を帰らすまいと、私が立ち塞がったのは。
「ん、何かな?」
「か、彼女に謝りなさいよ」
「どうして?」
男は心底不思議そうに、私を見る。
「…いや、彼女に水を引っ掛けたんだから――」
「――あぁ、彼女が先に飲みかけのコーヒーと水を浴びせてきたんだ。だから僕もやり返した。もし仮に僕が謝るのなら彼女が先に謝るべきだろう」
「そ、そんな子供じゃないんだから」
「――ハンムラビ法典。知っているかい?かつてバビロニアを統治していたハンムラビ王が発布した法典。有名なのは目には目を、歯には歯をってやつだね」
「は、はぁ」
「身内の恥だから本当はあまり言いたくはないんけど、でもそれだとお姉さん引きそうにないから簡潔に話すと――彼女が浮気したんだ」
「え!?」
「!?」
「当然、僕は傷付いた。彼女を信じていたからね。けれど起きてしまったからには仕方ない。彼女の罪を精算する為に僕も法典に倣って浮気した。
そのことを話したら彼女は怒って僕にコーヒと水を浴びせてきた。だから僕も彼女に水を浴びせてやった。頭を冷やしてもらう為にもね」
サッパリとした表情で語る男の目には、何の迷いもなく。滴るコーヒー水の一粒一粒が、男の主張を肯定するかのように煌めいていた。
「…ッ(何を言っているんだ、貴方は)」
そう言おうとして喉に言葉が引っ掛かり『帰ろうとした時に君が現れた』と締めに入ろうとする男を、ただ見つめることしか出来なかった。
なんでこの人は至極真っ当なことを言っているみたいな顔しているの?おかしいでしょ。え、私が間違っているの?違うでしょ。
「まぁ耳が削がれなかっただけマシだと思ってよ…。…あーあ、美人は性格も良いって噂に騙されてみたけど、本当に騙されちゃったな」
「――ちょっ、流石に失礼ですよ!」
「さっきから何?お姉さん――あー、もしかして彼女の知り合いだった?」
「いえ、知らない人です。けど、貴方の発言は見過ごせません。いくらなんでも彼女に対して失礼です」
「はぁ…何が?」
「何がってそれは――」
「性格が悪いと言った事か?水をひっ掛け合った事か?それとも外面を見て付き合った事か?」
男の口調がガラリと変わる。
おそらくこれが男の素なのだろう。纏っていた爽やかな雰囲気から目付き、何から何まで急激に変化する。
「ぜ、全部です!」
「じゃあ貴方は浮気する奴の性格が良いと?逆上してコーヒーをかけてくる奴の、人のクレジットカードで勝手に豪遊してた奴の性格が良いと?」
「え!そんなことまで…いや、それでも流石に」
「汚いモノを汚いと、綺麗なモノを綺麗と言って何が悪い。第一、良い外面を求めるのも、良い内面を求めるのも、両方を求めるのもさして違いはないだろ」
「それは、でも!」
「なら君は何を持って、何を求めて恋人を作るんだよ」
「だとしても女性に…」
「女性に…なんだ?」
男の凄む目が私に刺さる。
未だ沈黙を貫く女性もさることながら、この人もとんでもない美形だ。女性に酷いことをした筈の男を追求する言葉が更に出てこなくなる。
「はぁ…女はすぐ女を庇う」
「へ、偏見です」
「僕には〝男なら例え浮気されても、コーヒー掛けられても、都内に一軒家が立つ程の金額を他の男に貢がれていても〟ぐっと堪えて許してやるべきだ。という君の意見の方がよっぽど、差別と偏見に溢れていると思うけど?」
「私は別に、何もそこまでは言って」
「癇癪を起こし、謝罪もせず、むやみやたらと噛み付いてくる。僕の目には君たちの方がよっぽど子供にみえるよ」
これが、この偏屈で業突張りな男とのファーストインプレッションであった。
《目には目を歯には歯を、暴論には暴論を》