氷河の夜3
どのくらい時間が経ったのかは分からない。
ただただ真っ暗な空間に天札詠だけがそこにいた。
「なんだ…ここ…?」
疑問はその暗闇に溶けて響くことはない。誰にも届かない。
「そうだ。俺はあの狼男に…。クソっ!オレは…結局何も…できなかった。芥丸に、豊花に、二降先輩に、何もしてやれなかったッ!!」
その後悔すらも暗闇はただただ覆いつくすだけだった。どれだけの言葉を紡ごうとも、もう詠の言葉は誰にも、何も届くことはない。それがこの暗闇の、人間がやがて行きつくところのルール。
「…それでもオレにできることはやることはやった。あんなバケモノどうしようもないだろ…。力が及ばなくたって…。もう疲れた。もういいよな…。そろそろ休もう。」
「オイオイ…。」
「!?」
その暗闇の中からくぐもったようなノイズのような声が聞こえた。
「気持ちは分からんでもねェけどよ。身を委ねんなって。ここでの物わかりの良さとか勘弁してくれよ。なァ。よウやくオ待ちかねの反撃タイムだろウが。アきらめんなって。」
「何なんだ…?誰なんだよお前…?」
「グラトだ。よろしくな詠ィ?」
詠が目を凝らすと、そこには暗闇よりもさらに黒く光る牙が一つ。生物としての原型はなく、口だけがそこに、詠の目の前にあった。
「グラト…?意味が分からない…。オレはあの狼男にやられて死んだんだよな…。」
「ハハハッ!異能のことは飲み込めんのにこの状況はアりエねェって?笑わせるじゃねェか。」
「…そもそもここはどこなんだ?」
その暗闇に光る口は笑みを浮かべて答えた。
「ここはオ前の深層心理の中だ。その中にオレは居る。オ前はこれで異能が使えるようになった。以上。行ってこイ。」
「ちょ、ちょっと待てよ!割愛しすぎだろ!意味わかんねぇって!」
「イや、意味なら分かるはずだぜェ詠。」
グラトと名乗る謎の口はそう断言した。
「オ前の中での線引きがどウでアれ、オ前は命をかけても決着をつけなきゃいけねェことを既に見つけてる。自分を誇れよ詠ィ。てめェの命より優先するべきものなんてのウのウと生きてる奴には到底見つかるもんじゃねェんだからよ。」
この時、詠の頭の中で、何かが痺れては弾けるような感覚があった。それは今の状況下への恐れ、動揺もある。だが一番は、自らが確かに生まれ変わったと感じる、迸るような期待だった。それらを握りしめて、強く、はっきりと少年は答える。
「分かった…。力貸せよグラト。有事の時はオレと心中しろ。」
「ハハハッ!面白れェ。オレの悪喰の黒の力ァ、上手く使エよ詠ィ!」
狼の性質を自らに付与できる能力・[吠える暴狼]を持つウォルフは信じがたい光景を目の当たりにしていた。
「何が…起きている…?」
そのまま窓から外に投げ出されて命を落とすはずだった一人の少年が、空中で黒い靄のようなものに包まれたかと思えば、今自分の前に立っている。
ウォルフは困惑しながらも口を開いた。
「へえ。生と死の狭間を体験して異能が開花したか。」
「あぁ。どうやらそうらしい。今ならアンタでもこれでなんとかなりそうだ。」
そう詠が答えると、その両腕からまた黒い靄のようなものが出てきた。
「いったい何の能力かは知らねえが偶然、異能に目覚めたルーキーが力の使い方もよく分からねぇで、ハイになって大怪我をするのはよくある話だぜ。お前はそうならないでくれよ?」
「忠告どうも。じゃあ…。行くぜ!」
詠が勢いよく体制を低くしてウォルフの腰に飛び込んだ。
「なかなかの速度が出るな。だが!」
ウォルフはそれに反応し、やや後ろに飛んでから詠の顔めがけてその巨大な爪を薙いだ。
「なッ!?」
予定外の結果になったのはウォルフの方だった。
詠の腕がそれをすんでのところで止めていた。
いや、止めているのは詠の腕ではない。詠から出ている黒い靄から牙が飛び出し、詠の腕との接触を防いでいたのだ。
それは狼の爪を嚙み砕いた。
「(よし…。この力があれば…戦える。この際だ。何でも使えるものは使ってやるよ。)」
「イイ感じだぜェ詠ィ。だったらオレの『喰ウ』力ももっと応用しな。オ前はさっき他にも喰ってイたはずだぜ。」
「あぁ。[吹雪く花弁]咀嚼!」
「ッッ!!何ッ!?」
そして後ろに飛びのいたウォルフはさらに驚愕した。
詠の両手からドライアイスのような白い冷気が出た。そしてそれはみるみるうちに形を変えて、夜の闇でも白くつるりとした光を放つ刀となった。
「あれは…。あの冷気女の異能!?いや、あいつは冷気であんな精巧な氷細工は作ったりしてねえ。じゃああれは一体何なんだ…?」
「頭が追い付かないか?[悪喰の黒]。それがオレの異能らしいぜ。食らったもの、喰ったものを俺の解釈でその能力を応用して使うことできる。これは二降先輩の異能だな。」
「そんな無茶苦茶な能力…聞いたことねェぞ。ガキが調子に…乗んなッ!!!」
ウォルフの激昂が夜の校舎に刺さる。
「希え。お前の全てを貪りつくして、オレの糧にしてやる。」
四章 人は人を理由に生きている。
「流石ですねー…。」
その頭以外を氷漬けにされたイレーザがほぼ動かなくなった口を開いた。
「…貴方の…異能の練度…ついこの間覚えたばかりとは思えませんねー…。天然モノの天才か…努力の天才か…或いははその両方なのか…。」
「…。」
「精々力の使い方を間違えないことです…。ふふふ…。」
そのままイレーザの意識は薄れ、気を失った。
二降澪奈はそれを一瞥した後、下の階段を振り返って言った。
「…貴方たち何をしているのよ。」
視線の先にいたのは下の階に隠れていた芥丸とひのり。何やら長い棒状のものを持って駆け付けたようだった。
「だ、だって心配じゃないですか!二降先輩も天札君もあんな得体の知れない大人たちに立ち向かっていくなんて…。」
ひのりのトレードマークの赤い毛布を抱く力が籠る。両足の震えとの対比だった。
「そうだぜ!武器になりそうなものも見つけてきたからさ!これで少しは」
「そんなさす又一本じゃ、どうにもならないわよ…。」
二降澪奈は頭を抱えた。
「はあ。とにかく私の方はもう終わったから。気持ちだけ受け取っておくわ。私はまだ戦闘が続いている天札君のところへ急ぐから。貴方たちは巻き込まれないうちに早く戻りなさい。」
ケガをしないうちに、と二の句を繋ごうとした二降澪奈だったがそれはぴしゃりと跳ねのけられた。
「分かってる!俺達が出ていったってどうしようもねぇ…。何の役にも立たねえ!けどさ!」
「友達なんだよ!!!」
「…っ!」
突っぱねることもできた。何なら自分の異能を使うことも考えた。ただ二降澪奈に訴えかけるその目と熱量は、彼女の心を動かすには十分すぎた。
「分かったわ..では付いてくることは許可するわ。ただし、ここからは私のつま先より一歩でも前に出たら即死だと思いなさい。」
「…はいっ!」
「おうっ!」
「クソがァァァァァァ!」
激昂が響く校内で、所々に凍傷のような傷を負ったウォルフが直線的に詠に飛び込んでいく。
「そろそろ終幕だぜェ詠ィ。」
「あぁ。決めるぞグラト!」
詠は生成した氷刀を飛び込んでくるウォルフに投げた。
「ッッ!」
勢いよく右肩口に刺さる。そしてすかさず、詠の生成したもう一本の氷刀でもう一撃入れようと横に薙いだ。
(「かかった!!!」)
ウォルフは勢いよく斜め上に飛び上がり、体を捻りながら後ろに回り込み、詠の首めがけてその鋭利な牙を伸ばした。
(「これが俺の必殺の刃。これで仕留められなかった奴は居ねェ!氷刀での一閃。黒い靄での防御。どっちが来ようが、俺の牙がヤツの首根っこを引き裂く方が早ェ!」)
「死ねェ!」
「[吠える暴狼][咀嚼]!」
ゴガン!!!!!!
その瞬間、天井と床を同時に観るような錯覚だった。下顎に激しい衝撃が入った。そう分かったのは詠の姿がおぼろげに見えてからだった。
「…何が…っ?」
「ふう。危なかった。悪いな。いいの入ったからあんまり動かない方がいい。お前の異能。戦闘中にちょっと味見させてもらったよ。」
「まさか…ッッッ!俺の[吠える暴狼]まで…?」
「ヒャハハッ!!犬っころの隠し芸にしちゃ悪くなかったぜェ?」
特にグラトの軽口には反応せず、ウォルフは仰向けになっていた。
(「…戦闘に無我夢中で今まで気づかなかったけど…。こいつ、グラトの声が聞こえてないのか?ってことはもしかして、俺だけに聞こえるのか。」)
「天札君!」
「ヨム!」
「天札君っ!」
「あ、二降先輩…。」
気絶したらしいウォルフを確認してから、二降澪奈、芥丸、ひのりが駆け寄ってきた。
無事なのか。心配した。生きていてくれてよかった。そんな言葉が飛び交っていた。
「とにかくここから出ましょう。この狼男に関しては能力で氷漬けにしてから縛って朝、警察に発見してもらうのが最善よ。そうなっては異能はしばらく使えないでしょうし。」
「わ~流石二降先輩!冷静でカッコいい!」
「豊花さん。流石という言葉は目上や年上の人間に使う言葉ではないわ。私は気にしないけれど。」
「…うっ。ごめんなさい…。」
「まあまあひのり。これで長かった夜も一段落だろ。窓から見えるあの透明男も同じように警察に届けてもらえば…。え?」
「どうした芥丸。」
「あれ…。いねぇ。ついさっき窓から確認できたのに、あの透明男がいねぇんだよ!」
「なんだって…!」
風景に同化できる異能を持っている。そんな人間が突如消えた。油断した詠たちをゆっくりと狙っているかもしれない。
「それはまずいよ!どうしよう…。あたしのせいだ…。早く探さないと!」
「その必要はないかな。」
タン。タン。タン。
ゆっくりと階段を上がってくる。それは透明男イレーザ。を背負った、ところどころ包帯を巻いていて学生服を着た眼帯の女だった。マゼンタが怪しく光るその目はこちらを見ているようで見ていないような神秘性も持ち合わせていた。
「部下の報告がないからここまで通りかかっちゃったけど、すごいね。異能解放してからそれほど練度は高めていないはずなのに倒しちゃうなんてさ。大金星だ。おめでとう。
眼帯女の長い銀髪。首に巻いている灰色のマフラーとその先のサイドテールが揺れる。
「え?誰?あんなセクシー系美少女ウチの学校にいたか⁉っていうか制服が違うから他校の生徒か?」
「バッサリ二降先輩に振られておいて元気だね芥丸君…。」
「退がりなさい!」
その激昂は二降澪奈からだった。何事かと彼女の方を見ると、眼帯女の方を凝視したまま暗がりでも分かるくらいに冷や汗をかいている。呼吸も思い切り持久走でも走った後のように荒くなっていた。
「あの女は…何でここに…?いや何をしにここに来たの…?」
「あれ?私のこと知ってるんだ?仕事柄あんまり有名になるのはちょっと困っちゃうな。」
「貴方の組織を知っているものならその名を知らないはずがないでしょう。だって貴方は」
「ところでさ。」
二降澪奈の言葉を置き去りにして彼の前に一瞬で。
天札詠の前にその眼帯女は現れた。
「ちょっとだけ遊ぼうよ。ヨミ君?」
微かに聞こえたその声から寸分違わずに、眼帯女の腰から一振りの刀が詠の[悪食の黒]と衝突した。
それでも止めきれずにかなり後方に吹っ飛ばされる。転がりながら清掃用具の入ったロッカーにあたってようやく止まる。
「ッッッ!?!?」
「天札君っ!!!」
胃の奥から熱いものがこみ上げて、吐いた。ぐらつく視界の中でもそれが血液であることは容易に分かった。それでも決死の思いで立ち上がる。
そして追撃してきた眼帯女の袈裟斬り、薙ぎ払いの連打に詠が生成する氷刀も次々に折られていく。
「ふふっ。初撃を耐えただけでもすごいけど、これもギリギリで凌ぐんだ。久しぶりに心が躍るね。君と狼男君、ちょっと名前は忘れちゃったけど、君たちの戦いを陰から見ていたけど君の異能、見たことない種類だからさ。つい一勝負したくなっちゃったんだよね。」
「なんでオレのことを知っている?アンタは…一体何なんだ…。」
「抽象的だね。知っているのはほら。あの子たち3人が名前を読んでたから。それと私自体の性質で言うなら異能に魅入られた女の子、かな。好きなものは戦闘とイチゴ大福だね。」
「何なんだこイつは…。オイ、詠!こイつはやべェ!今のオ前じゃ、10人イても倒すどころか、一太刀も浴びせられねェ!勝負にならねェぞ!二降とかイウ、異能持ちと協力して今すぐ脱出しろ!」
「それじゃダメだろ!!!」
「詠!」
「?」
「この眼帯女が誰なのか。何の目的のためにここまで来たのかなんて今はどうでもいい。だけど!この後狙われる危険性があるのは絶対にあの3人だ!二降先輩たちには近づけさせない。近づけさせるわけにはいかない。そのためなら俺は、ここで刺し違える覚悟がある‥!」
「わお。」
「何言ってんだ!オ前、この出血じゃ本当に死ぬぞ!」
「俺なんだよ。」
「ア?」
「[氷河の夜]見たさに…この校舎に芥丸と豊花を連れてきたのは…オレなんだ。」
続く