氷河の夜1
序章
「あー。。夜は梅雨時もあってちょっと寒いな。。もう少し厚手のパーカーでも買おうかな。」暗い校内。夜。あの日にあれを見ずに、あれと出会うことはなかったとするのなら。人生はどうもほんの些細な出来事で進むレールが変わるものだと、天札詠は俯瞰する。
人生の分岐点というものがいつも劇的な選択肢から導き出されるとは限らない。知らない方が幸せだったのか、はたまた知っていたから恐れずに立ち向かえたのか。それは紛れもない自分自身が決めていくものなのだろう。
できれば後者がいい。そう天札詠は信じている。
[6月某日、市立巾離高等学校の校内にて1名の死亡を確認。]
一章
昼、昼食である弁当のメイン、ミニハンバーグを眺めていると詠の背後から賑やかな足音が聞こえてきた。
「おお。超旨そうじゃん。ヨム!一口くれよ!」
「これの一口は全部になるだろ…あとオレの名前は詠だ。そしてこの訂正も今日で4回目な。」
詠は知り合ってまだ2か月だが、もう騒がしいドタドタした足音だけで分かる。芥丸太我。この市立巾離高校の入学時に隣の席だったことから(向こうから一方的にではあるが)親しくなった。
「悪かったって。一緒に昼飯でも食おうと思ってさー。」
「まあ。それは全然いいけど。」
机の前を突き合わせて食べる。しばらく食べ進んでいると芥丸が咀嚼を終えた段階で明るい赤髪をくしゃっと搔きながら口を開いた。
「なあなあ。最近校内で噂になってる[氷河の夜]って知ってるか?」
「え、なんだそれ。都市伝説?」
「あんまり表沙汰にはできねえんだけどさ。22時を回るとこの本校舎のちょうどこの2階が丸ごと凍っているって話。一気に氷河期が来たみたいになってるらしい。それが季節関係なしにだぜ?どう思うよヨム?」
「いやどう思うって…」
あまりにも荒唐無稽すぎる。普通こういった学校の七不思議的なものの鉄板といえばトイレを三回ノックすると幽霊が返事をするとか、音楽室のピアノが勝手に鳴るとか、理科室の人体模型が動くとか。そういう話が一般的だろう。それが校舎の2階すべて。しかも丸ごと銀世界になっているのはオカルトの範疇を超えている。眉唾物ここに極まれりといったところか。
「まあそんな話クラス1のリアリストの詠には通じないか。まあ気をつけろよ(笑)。紹介してなんだが俺も別にそんないくら何でもアホ過ぎる話信じて…ってあっ!」
「ん?どうした?」
「俺の第六感が反応したと思ったらさ…。今、二降先輩が…二降先輩が廊下に…俺の視界を通過したあああああ!」
「へえ。そうなんだ。言ってくればいいじゃん。俺、あなたに絶賛片思い中なんですって。」
「なぜに俺の気持ち一方通行確定!?でもいいわ!ちょっと見てくる!」
そういうと乱暴に最後のミニトマトを口に放り込んで芥丸は小走りで駆けていった。
[氷河の夜]はよく知らないが、芥丸の言う二降先輩。二降澪奈は校内で割といろんな意味で有名人である。詠たちより学年が一個上で、ツヤのあるロングヘアで容姿端麗。抜群の運動能力に加え成績も常にトップクラス。締めにクール系美女として人気が高い。だが見た目通りの人を寄せ付けない雰囲気と高圧的な態度、高飛車な対応が原因で、徐々に羨望の眼差しから順番に下っていき、今ではほぼ誰も彼女と深く関わろうとしないレベルにまで変わっていった。(らしい。)詠は話したことがなかったのでその程度しか情報を持っていなかった。
「(さてと。僕も用事を授業が始まる前に済ませに行くか。)」
5分ほどその後も一人で食べ続け、綺麗に完食した詠は席を立ち、別校舎三階の国語準備室に向かった。この市立巾離高校は本校舎3階と、連絡通路をまたいだ別校舎の3階を合わせたフロアで構成される至って普通の高校と遜色のない学校だ。だが他とは違う特徴を上げるとすれば別校舎には地下があるという。が、十数年前から使われていないらしい。火事で立ち入り禁止になったとか、幽霊が住んでいるとかという根も葉もない噂でこの学校の生徒の中では大きな謎になっている。教職員は専ら否定しているが、タブーとして教えない決まりになっているのか、はたまた本当に何も知らないのかは不明だ。
本校舎二階から連絡通路を使い、国語準備室の前まで来た詠はそこで扉を開けようとすると、何もしていないのに引き戸の扉が勢いよく開いた。
「わあっ!!」
「おっと」
そこには、はつらつで元気のいい少し小柄なショートカットの女生徒が詠の目の前にいた。ちょうど詠が来た瞬間に鉢合わせてしまったようで、引き戸を開けたときに起きた風に乗って、ふわっとした甘い香りが詠の鼻腔を少しくすぐった。
「ごめんなさいっ!気づかなくって…って、天札君か!ぐっどあふたむーん!」
「アフタヌーンな。お月さん出てるぞ。豊花も来てたんだな。」
「アフタヌーンか!失敬失敬。ちょっと医雀先生にみんなのノートを集めて提出する用があってね~。」
豊花ひのり。恥ずかしそうに照れた様子で後頭部をさするクラス委員長の彼女はとにかく愛され系である。前髪の桜のヘアピンに、丸めた毛布をいつも持っているのがトレードマークの彼女は頑張り屋で、なんだか餌付けしたくなるので、周囲の男子女子関係なくあれ食べな、これ食べなという声を詠もよく聞いていた。詠と芥丸たちと同じクラスなので、そういう詠もひのりに自分が持ってきたグミなんかをあげたりしているうちに、軽口をそこそこ叩けるくらいにはすっかり打ち解けた。(ひのりのコミュ力あっての事かもしれないが…)
「あぁありがとう。助かるよ。」
「ほらほら!中の医雀先生に用があるんでしょ~?あたしはお腹がすいたから教室に戻るよ。」
「え、さっき教室で美味しそうに昼食全部食べt」
「…天札君?」
「いや、なんでも…じゃあな。」
「よろしい。また教室でね。」
ひのりはそう言って小走りで自分の教室へ帰っていった。ひのりの返事の後にかわいらしいお腹の音が聞こえたのはおそらく詠の気のせいである。
「いろんな意味でアグレッシブだよなぁ。さて、失礼します。」
詠は改めて国語準備室をノックし、引き戸を開けて中に入った。ほんのりと温かく灯油の香りがしていた。6月だというのにまだ床には小さなヒーターが設置され、低く唸りをあげながら動いている。置いてあるヒーターを一瞥すると、中にいた国語教師の医雀与一郎と目が合った。
「よう天札。何か俺に用か?」
「どうも医雀先生。少し聞きたいことがあって来たのですが、お時間大丈夫ですか?」
「あぁ。構わないぜ。」
「ここの文章の事なんですが」
実は先週2日ほど学校を休んでいた時に、授業がかなり進んでいたということを詠は芥丸から聞いていたので、その内容について少し確認しておきたかった。国語教師なのに白衣を着ている変わり者の教師(独身)、医雀はその内容について的確に答えていく。
「なるほど。丁寧に教えてもらってありがとうございました。」
「あぁ。俺は割と暇だからよ。気にするな。それにしてもお前は今時の若者とは違って、今日も異彩を放ってるな。」
「オレは特に目立つタイプじゃないですよ。」
異彩を放っているのはあなたですと、言わなかった詠は自分を褒めてやりたくなった。何かと適当でだらしない雰囲気のある医雀だが、長々と説教することもないし、フランクに生徒と話したりしているのであまり嫌われない教師だ。だが二日酔い状態で授業が始まったときはさすがにクラス中がドン引きしていた。実は詠はこの白衣の国語教師のことは悪い感情は持っていない。一応は目上の相手だ。敬意の一つや二つは払うべきだろう。最もこの考え自体が割と失礼なのだがそこは因果応報だろう。
「そうか?俺はお前に今日も興味津々だぜ?一見、冷めてそうで物事を俯瞰して見られるタイプかと思いきや、意外と頼まれると仕方ないって頷いちまうような情に流されるところがあったり、他の奴らが爆睡中にその傍らで真面目に授業を受けてると思えば、ノートに書いていたのは次の授業の予習だったりする。お前は本当に面白い奴だよ天札。」
「…オレのこと好きなんですか?」
「バカタレ。勘違いするな。俺はドロドロに甘やかしてくれる母性溢れるナイスバディな姉ちゃんしか愛せん。」
この教師は誰に対してもこんな感じである。こちらが聞いてもいないことをベラベラと話して損をするタイプだ。特に女性に対して。
「あぁ。そうだ。それと一つ、医雀先生に興味本位で聞きたいことがあるんです。」
「日を追うごとにだんだん俺の扱いが雑になってきたな。お前らしいが。」
「今日友達から噂で聞いた話なんですけど、医雀先生は[氷河の夜]って聞いたことあります?」
「え、なんだって?[氷河の夜]?新作のホラーゲームかなにかか?」
まあ当然の反応だろう。詠ですら突飛すぎて噂以下のものだと思っているのだから。聞いたその日のうちに記憶からも消えてているはずだ。だがなぜこうも耳に、そして心に残るのか詠には分からなかった。
「いや…何でもないです。忘れてください。」
「まあまた気軽に来いよ。将来の不安でも恋の悩みでもなんでも相談に乗るぜ?」
「はい。ありがとうございます。じゃあオレはそろそろ次の授業があるんで失礼します。」
詠は座っていた椅子を立ち、国語準備室の引き戸を閉めて教室に向かうことにした。
すっかりと静まった室内で白衣の国語教師は呟く。
「さて、潮時ってやつかね。」
2章
「あー…夜は梅雨時もあってちょっと寒いな…もう少し厚手のパーカーでも買おうかな。」
「ねえ天札君も芥丸君も本当に行くの?」
詠は21時50分を過ぎても校内にいた。教職員や生徒はとっくに帰宅していてもぬけの殻だ。そして背後にはもう2人。
「いいじゃねーかひのり。ちょっと早めの納涼肝試しってやつだよ!氷河より先に幽霊とか出るかもな。」
「雰囲気出さないでよ芥丸君~!怖い怖い怖い!絶対そういうこと言うと幽霊出るって!」
「というかなんで豊花まで付いてきているんだ?そんなに怖いなら付き合わなくてもいいんだぞ?」
「うっ…確かにあたし、ホラー映画のCMとかやるとすぐにチャンネルとか変えちゃうくらい苦手だけど、結局どんな映画なのか気になってあとで調べちゃうの!それと同じで[氷河の夜]のことが知りたいっていう気持ちの方が強くて…」
「それ分かる!俺も酢豚にパイナップルなんて絶対に合わないだろって最近まで思ってたけど、今は割とイケる!」
「同じ話か?それ…」
事のあらましはこうだ。詠は学校に財布を置いてきてしまったという芥丸の電話での呼び出しをくらい、途中でひのりからも連絡があって、所属している手芸部で使う備品を校内のどこかに落としてしまったらしく、合流して3人で夜の学校に行くことになった。そして時間も近づいてきたため、近くのファストフード店で時間を潰し、そのまま[氷河の夜]を見に行くことになったわけだ。
廊下も特に何もない。自分たちの教室を通っても誰もいない。念のため別校舎に行ってみても何も変化はなし。本校舎と別校舎の2階を一周したが特に何も起こらないので、とりあえず詠たちは自分たちの教室に戻ってきた。
「よし。時間はそろそろ22時!鬼が出るか蛇が出るか楽しみだな。」
「どっちもいや~!!」
「おいおい誰もいないけど一応静かにな。」
詠が二人を窘めた。そのあとすぐだった。
「…何をしているの?」
詠たち以外誰もいないはずの夜の学校。なぜか教室の外から声が聞こえたのだ。
「きゃあああああ出たああああああ!」
「のわあああああ!ってえっ!あなたは…なんで!?」
その声の主は紛れもない
あの二降澪奈だった。