14話:精霊
砂漠の夜は深く、星々が無数の光の点となって空を飾る。
カリムは砂丘の頂上に立ち、ナディールの姿を思い浮かべていた。
「ナディール、君はどこにいるんだ……」
カリムの声は風に乗り、静かな砂漠に消えてゆく。
彼は拳を握り締め、自分の無力さを痛感していた。
しかし、彼は諦めなかった。
ナディールとの絆を取り戻し、共に砂漠を守るためにはどうすればいいのか……その答えを探し求めていた。
そうして何日歩き回っただろうか。
ある夜、微かな風がカリムの頬を撫でた。
まるで誰かが彼を呼んでいるかのように。
カリムは目を閉じ、心の中で強く願った。
「ナディール、もう一度だけ会いたい。
君と共に歩むために、俺を精霊にしてくれ」
突然、眩い光が彼の周りを包み込んだ。
カリムは驚きつつも、その光の中で温かさと懐かしさを感じた。
光の中から現れたナディールは、優しい微笑みを浮かべていた。
「カリム……本当にそれでいいの?」
ナディールの声は穏やかで、しかしどこか哀しげだった。
カリムは力強く頷いた。
「ああ……。
俺は人間としての欲望に囚われ、君を苦しめてしまった。
それでも、君と一緒に砂漠を守りたい。
君の孤独と苦しみを理解するために……精霊として、君と共に生きたいんだ」
ナディールはしばらくの間、カリムの瞳を見つめていた。
その中に揺るぎない決意を感じ取り、深く息をつく。
「わかったよ、カリム。
君の願いを受け入れる。
でも、それは簡単なことじゃない。
君はこれまでの全てを捨てることになるんだ。
それでも構わないの?」
「構わない。
君のために、この命を捧げる覚悟はできている」
「家族は?
君にとって一番の宝物で、生きる理由だったはずだ」
「…………」
「カリム?」
「死んだよ。
あの侵略戦争の一部で殺されていた。
貧しい隣国の……小さな部族だった」
ナディールは息を呑み、目を見開いた。
「でも勘違いしないでくれ。
俺は自棄になったわけじゃない。
人間としての希望が一切なくなったから楽になりたいとか……
そういうのじゃないんだ」
「……じゃあ、どうして」
「言っただろ。君を理解したい。
それと……」
カリムは夜の砂漠を一望する。
そこには無限の大地と、宝石の夜空と、確かな生命の息吹があった。
だが、全てが疲弊していた。
「……俺の欲から始まった。
命の恩人である君を利用した。
友だと言いながら、出世のための道具にした。
君が……悩んでいたことにすら気付かないまま」
「カリム……」
「ちゃんと納得したいんだ。
俺はどうすべきだったか、ちっぽけな人間の尺度だけじゃわからない。
精霊ってなんなんだ?
力を使うってどういうことだ?
全部知って、理解して、責任を負いたい。償いたい」
カリムの言葉は風に流される。
流されて……この砂漠全域に届く。
人には感知できないが、砂漠に息吹く全ての神秘には伝わっていた。
「……君って、そういうところ、真面目だよね」
「そ、そうか?
俺が適当な野心家だったから、こんなことには……」
「ううん、真面目だ。
優しくて、立派で、誇らしい」
優しく微笑んで、ナディールはカリムを抱きしめた。
優しく、愛おしく、温かな抱擁だった。
「君はたくさん間違えた。
僕もたくさん間違えた。
君は精霊を、僕は人間をわかっていなかったから……
ふたりで、何度も間違えた」
ナディールはカリムを見上げる。
その瞳には、初めて出会った頃よりもずっと神秘と愛に満ちた輝きがあった。
「それでも、あのとき君を助けてよかった。
君を友と呼べてよかった」
「ナディール……」
「愛してるよ、カリム」
ナディールの抱擁に、カリムは棒立ちのままだった。
まだその資格はないと感じていた。
代わりに、言葉を返す。
「もし……もし君もまだ、悩んでいて、
どうするべきだったか、その答えが見つかっていないとしたら……
俺も一緒に探したい」
幾度も間違えた罪人には、あまりに贅沢な。
それでも望まずにはいられない、願いの言葉を。
「これからは……家族だと、呼ばせてくれないか」
ナディールは静かに目を閉じ、抱擁を解く。
そして、両手をカリムの胸にかざした。
「それじゃ……最後の力を振り絞って、君を精霊へと導こう」
その瞬間、二人を包む光が一層強くなり、砂漠全体を照らし出した。
カリムの体は宙に浮き、彼の中から人間としての穢れが洗い流されていく。
心が澄み渡り、自然と一体化していく。
「これが……精霊の……」
カリムの体は徐々に透明になり、ナディールと同じような姿へと変わっていった。
水のように揺らめく髪、透き通る肌、そして深い瞳。
彼は新たな存在として生まれ変わった。
「ようこそ、カリム。
これからは君も、精霊として生きるんだね」
ナディールは目を開け、カリムの変貌を見届けた。
カリムは自分の手を見つめ、笑みを浮かべる。
「ありがとう、ナディール。
俺の……大切な家族」
二人は手を取り合い、空へと舞い上がった。
精霊としての新たな力が彼らを包み、砂漠全体に広がっていく。
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それからしばらくして、砂漠の各地では異変が起き始めた。
干上がっていたオアシスに再び水が湧き出し、枯れ果てていた植物が蘇り始めたのだ。
人々は驚きと喜びに満ちた声を上げ、天を仰いだ。
「これは一体……精霊のご加護か!」
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砂漠都市アサイルは疲弊していた。
崩れ去った王宮に、もう偉大な統治者の姿はない。
あらゆる富の集積所としての信頼も瓦解していた。
それでも……それでも、人々はいずれ立ち直ってゆく。
国とは人の集まりであり、そこに人がいる限り滅びることなどない。
そして、精霊が報いる限り、人もまた滅びたりはしない。
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カリムとナディールは砂漠の空を飛び回り、各地を見守っていた。
彼らは人間の理から外れた「精霊」として、人々に恵みをもたらす存在となった。
「ナディール、これから俺たちはどうするんだ?」
カリムはナディールに問いかけた。
ナディールは微笑んで答える。
「砂漠の守護者として、人々と自然の調和を見守っていこう。
精霊と人間が共に生きる未来を信じて」
「……そうだな。
俺たちならきっと、できるはずだ」
カリムも頷き、遠くの地平線を見つめた。
朝が、近づいてきていた。
【続く】