13話:決別と怒り
…………。
砂漠の空は暗雲に覆われ、遠くから戦火の煙が立ち上っていた。
王はついに隣国への侵攻を開始し、その野心は止まるところを知らなかった。
彼はナディールから奪った精霊の力を乱用し、強大な軍勢を率いて砂漠の民に大いなる災いをもたらし始めたのだ。
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村々は焼き払われ、人々の悲鳴が砂漠の風に乗って響き渡る。
かつての豊かなオアシスは干上がり、砂漠は荒廃の一途をたどっていた。
その光景を高台から見下ろすナディールの瞳には、深い哀しみと怒りが宿っていた。
「……僕のせいだ」
ナディールは自らの手を見つめ、かつてカリムに力を貸し与えたことを思い出していた。
善意で始めた行為が、結果的に多くの人々を苦しめる結果となった。
精霊としての使命を忘れ、人間の欲望に加担してしまった自分を激しく責める。
その時、背後から足音が聞こえた。
振り返ると、砂まみれの姿でカリムが立っていた。
彼の表情には疲労と焦燥が浮かんでいた。
「ナディール、王を止めよう。
彼は君の力を使って、無謀な戦争を始めてしまった。
俺たちで止めないと」
カリムの必死な訴えに、ナディールは静かに首を振った。
「カリム、もう遅いんだ」
今も昇り続ける遠い戦火を、ナディールは目を細めて眺めた。
「ごめん……。
僕が力を貸したことで、こんな悲劇が起きてしまった。
僕の責任だ」
「違う! 君は悪くない! 悪いのは王だ。
だから一緒に彼を止めよう!」
「カリム、僕はわかったんだ。
そして、君はまだわかっていない」
ナディールは悲しげな目でカリムを見つめた。
「人間の欲望には限りがない。
僕が力を貸し続ければ、同じことが繰り返されるだけだ」
「つまり、俺一人でやれって?
俺一人じゃ無理なんだよ!」
カリムは一歩踏み出し、ナディールの手を握ろうとした。
「でも……君とならきっと正せる。
だから、もう一度だけ俺に力を貸してほしい」
しかし、ナディールはそっとその手を避けた。
「ごめんね、カリム。
僕はもう、君と一緒にいることはできない」
「なぜだ? 今まで一緒に乗り越えてきたじゃないか!」
「それが間違いだったんだ。
精霊としての使命を忘れ、人間に力を貸すべきではなかった。
僕のせいで自然の調和が崩れ、多くの命が失われている……」
カリムは必死に言葉を探す。
どこか遠くへ行ってしまいそうなナディールを、この場に引き留めるための言葉を。
「でも……でも、君がいなければ俺は何もできない!
俺一人じゃ王を止められないんだ!
ナディール!」
「カリム、君は強い人だよ。
僕がいなくても、自分の力で道を切り開けるはずだ」
「そんなことはない! 君が必要なんだ!」
ナディールは、ただ静かに微笑むばかりだった。
張り上げる声の大きさとは裏腹に、カリムは自身の気持ちが急激にしぼんでいくのを感じた。
何を言っても、ナディールには届かない。
彼の覚悟の方がずっと強固だった。
ナディールは背を向け、遠くの砂嵐を見つめる。
「これ以上、僕は人間に関わるべきではない。
……さようなら、カリム」
その瞬間、ナディールの体が淡い光に包まれ始めた。
彼は精霊としての本来の姿に戻り、風と共に姿を消そうとしていた。
「ナディール、待ってくれ! 行かないで!」
カリムが伸ばした手は空を切り、ナディールの姿は風に溶けて消える。
残されたのは、静寂と深い孤独だけだった。
カリムは膝から崩れ落ち、拳を砂に叩きつけた。
「ナディール…………」
ナディールを失った喪失感と、自分の無力さへの苛立ち。
それらが心の中で激しく渦巻いていた。
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ナディールは砂漠の中心部へと向かっていた。
彼は精霊としての使命を取り戻し、自然の調和を再び整えようとしていた。
だが心の奥底には、カリムとの別れによる深い哀しみもまた残っていた。
「人間と精霊は、やはり交わるべきではないのか……」
自問自答しながら、砂漠の精霊たちに呼びかける。
「皆、聞いて。
人間たちの欲望が自然を乱し、多くの命が失われている。
このままでは砂漠そのものが滅んでしまう」
精霊たちはナディールの呼びかけに応じ、彼の周りに集まった。
風の精霊、水の精霊、砂の精霊……それぞれが力を合わせ、大いなる力を生み出そうとする。
ナディールは手を広げ、精霊たちの力を受け入れた。
「……これで、人間たちを止めることができる」
その力は計り知れない。
制御できるか、ナディール自身も不安を抱いていた。
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王の軍勢は、精霊の力を得た王の指揮下、隣国の領土を次々と侵略していた。
兵士たちは恐怖と欲望に駆られ、破壊と略奪を繰り返す。
隣国の兵士たちは、成す術もなく次々と倒れていった。
「手に入る……全てが、この手に……。
父も祖父も、歴代の王の誰もが成し得なかった偉業……。
アサイルが、この砂漠の全てを掌握する時代……」
王の言葉は譫言のようで、瞳の焦点もどこかおぼろげだった。
見えているのは凄惨な現実ではなく、己の思い描く未来――肥えに肥えた愛しき砂漠都市アサイルの姿だ。
その欲に果てはなく、進む足に躊躇はない。
しかし何度目かの進軍の時、突然空が暗くなり、激しい砂嵐が巻き起こった。
兵士たちは前が見えなくなり、馬は暴れ出し、隊列は崩壊した。
「何事だ! 進め! 止まるな!」
王は怒鳴り声を上げたが、兵士たちは恐怖に震え、動けなくなっていた。
王の視界に、一人の少年の姿が現れた。
ナディールだった。
「王よ、これ以上の暴挙は許さない。
精霊として、自然の秩序を乱す者を許すことはできない」
「……お前か、小僧。
そうか、生きていたか。
存外しぶといのだな、精霊というものは。
おとぎ話では、いつも儚く消えていくものだが」
ナディールの姿を見て、王は嘲笑した。
「……だがもはや、私にお前の力など必要ない!」
王は精霊の力を操り、ナディールに向けて強力な一撃を放った。
黒い霧がナディールへ猛然と迫る!
だが……ナディールはそれを軽々と受け流した。
「なっ……!?」
「あなたが持つ力は借り物に過ぎない。
真の精霊の力は、そんなものじゃない」
ナディールは手をかざし、王を強烈な光で包み込んだ。
決着は、一瞬だった。
王は苦悶の表情を浮かべ、力が奪われていくのを感じた。
「なぜだ……私は、全てを……手に入れるはず、だったのに……」
「……欲望に支配された者に、精霊の力は扱えない。
あなたは自らの行いの報いを受けるべきだ」
王はその場に崩れ落ち、彼の軍勢もまた戦意を喪失していった。
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その光景を、カリムは遠くから見ていた。
ナディールの圧倒的な力に驚愕し、自分の無力さを痛感した。
「ナディール……」
カリムはナディールの元へ駆け寄ろうとしたが、砂嵐がそれを阻んだ。
ナディールはカリムに背を向けたまま、風に乗って去ろうとしていた。
「待ってくれ、ナディール!
俺は……」
彼の声は風にかき消され、ナディールの姿は遠ざかっていった。
砂漠には再び静寂が戻り、人々は戦いの終結に安堵した。
しかし、カリムの胸には深い喪失感が残っていた。
「俺は……くそっ……」
彼は空を見上げ、ナディールの存在を感じようとした。
「……ナディール。
もう一度だけ、君と話がしたい……」
呟きは砂と共に、乾いた風に流された。
【続く】