第2話 陳腐な内容だった
そのラボに入ったのは、つい一年半ほど前のことだった。
俺が命じられたのは、戦闘で死亡したトレーナーのラボに行き、彼の後始末をすることだった。
俺は、死んだトレーナーのことはよく知らなかった。
心底嫌いだったのだ。あの男が。
知らなかったというよりは、知ろうとしなかったということのほうが正しいかもしれない。
バーリェをまるでモノのように扱っていたからだ。
俺のように、何人も彼女達を管理しているが、戦闘に連れてくるバーリェは皆一様に生気がなく、瞳には光が映っていなかった。
ボロボロの皮膚、整っていない、浮浪児のような髪。
少なくとも、同じ職場で仕事をする仲間として俺は奴を認めていなかった。
◇
一度雪を本部に連れて行った時。
その、目が見えない俺のバーリェが通路の真ん中で立ち往生したことがあった。
彼女のことは廊下に残して来たのだが、いつまでたっても戻ってこない俺を探しに来ていたらしい。
人を呼べばいいのに、あの子はそれをしなかった。
その時の俺は他ならぬ雪の体調について説明を受けていた。
彼女を呼ぶわけにはいかなかったのだ。
何しろ俺のいる、死星獣という正体不明の化け物を駆逐する組織、エフェッサー内部ではバーリェは生命体ではない。
単なる生体燃料の道具だ。
担当医師の説明にはいわゆる『容赦』がない。
薬についての説明が終わり、医務室を出たのと、『そいつ』が雪のことを蹴り飛ばした現場に遭遇したのはほぼ同時だった。
その彼女に対し、邪魔だとか、何だか言葉にも出来ないようなドス黒いセリフをあいつは投げつけていた気がする。
一瞬何が起きているのか分からなかった俺の前で、雪は壁にぶつかってその場にうずくまった。
バーリェにとって、トレーナーの言葉は絶対だ。
それが誰であろうとも彼女達の意識下に刷り込まれたプログラムにより、絶対服従の姿勢をとる。
奴はうずくまって震えている雪を殴りつけようと、手を振り上げていた。
その時だった。
俺が、生まれて始めてキレたのは。
よく分からなかった。
分からなかったが……そいつを、ただ殴り飛ばしてやりたくなったのだ。
そして数秒後には思い描いていた通りの行動をとっていた。
ジンジンと痺れる右拳。
骨が痛いというのは本当に、今まで経験したことがない体験だった。
血だ。
白い欠片も床に転がっている。
俺は、そいつの歯を叩き折ったらしい。
あまりに頭に血が昇っていたので、自分がした行動を理解するのに何秒か間が必要だった。
まさか相手に逆襲されるとは思ってもいなかったのだろう。
口から血を流しながら、そいつは何かを喚きつつ、逃げるように通路の奥に走って行った。
まるでモノのように、無表情な奴のバーリェを抱えて。
その子は、目の前で自分の主人が殴られたというのに表情一つ変えていなかった。
何もない、何も映さない空虚な瞳。
……壊れている。
俺はそれを見て、ゾッとした。
何が怖かったのかは今でもよく分からない。
だが何かこう、人形じみた狂気を感じたのだ。
明日も、今日さえも存在しないただそこにあるだけの存在。
その諦めきった灰色の瞳だったのだ。
数秒後、呆然としていた俺の隣で雪が泣いた。
本当に大声で、赤ん坊のように俺にしがみついて泣いた。
俺はただ、彼女を抱いてやることしか出来なかった。
◇
それから一年。
奴には一回も会っていないが又聞きで、死星獣に、待機していた野営地ごと飲み込まれて死亡したということを知った。
正直せいせいした、と言うとまるで悪魔のセリフのように聞こえるが、実際そう感じたんだからしょうがない。
そしてすぐ、俺と同僚の絃に、奴のラボを捜索するようにという元老院からの直接のお達しがあった。
その時は、彼らの出した命令の意味は全く分かっていなかった。
ただの遺留品回収だとばかり考えていたのだ。
◇
「……酷いな、こりゃ……」
絃の声が聞こえる。
絆は唾を飲み込んで、その場に凍りついた。
死亡したトレーナーのラボに侵入し、奥の部屋に入った途端、その地獄は目に飛び込んできた。
全く予想もしていなかった衝撃だった。
熱湯を浴びせられたかのように、二人は通路に硬直していた。
まるで、養鶏場だった。
広い部屋の四方には、壁に固定された鎖がある。
その先端に首をくくりつけられたバーリェの姿が幾体も床に転がされていた。
無残な、腐臭。
全員事切れている。
足を踏み出し、絃は大きく息をつきながら手近なバーリェの亡骸の脇にしゃがみ込んだ。
無論、彼女達は服など纏っていなかった。
やせ細った体が目をそむけたくなるくらい凄惨だ。
絃がその腕を持ち上げると、骨と皮ばかりの上腕に無数の注射の跡のようなものが確認できた。
丁寧に元の場所に腕を置き、絃は立ち上がって呟いた。
「何だ……? 一体何が……」
吐き気をこらえながら絆は唾を飲み込んだ。
そしてやっと口を開く。
「……バーリェが……こんなに……」
「生体実験でもしてたのか……妙にこの部屋、何もないが……」
目を剥きながら周りを見回す。
確かに、十数体のバーリェの亡骸の他にはアスファルトの床と壁がむき出しになっているだけだ。
換気扇だけが空虚な音を立てて回転している。
窓もない。
床を見ると、ホコリが溜まっているが……何か機材類のようなものを置いていたらしい場所はその密度が薄かった。
引きずった跡もある。
誰かが何かを移動させたというのは明白だった。
しばらくして、二人は逃げるようにその悪魔の部屋を出た。
ラボの外に掛け出て、二人で大きく息をつく。
「絆、とりあえず本部に応援を呼べ。これは異常事態だ。俺達じゃあ対応しきれない」
「……分かった」
頷いて携帯端末のスイッチを入れ、手短に用件を伝える。
そして絆は地面に座り込んだ。
「……何が、あったんだ……」
まださっき見た光景を理解できていなかった。頭の芯の奥がそれを認識するのを拒否しているのだ。
二人で大きく息をつき、外見的にはごく一般のラボを見上げる。
「元老院はこれを確認したかったんだ」
大分経って絃がポツリと言った。
「最近、工場出荷前のバーリェが大量に行方不明になってる。人権擁護派とかの狂った奴らがやってることかと思われてたが、まさかその犯人が身内にいたとはな……俺もそこまでは考えていなかった。確かにここの持ち主はいい同僚じゃなかったが」
「聞いたことはある。だが……」
「いずれにせよ、調査は俺たちの役目じゃない。任務は確認だ。素直に応援が来るのを待とう……大丈夫か?」
心配げに覗き込まれ、絆はしかし気を張る余裕もなく大きくため息をついた。
「……これで三件目か」
「ああ。今年に入ってからな。お前さんは見るのが初めてだったな」
「まぁ、な……」
小さく呟いて遠くの青い空を見上げる。
今年に入ってから三件目。
バーリェの失踪事件に合わせて、大量に死亡した亡骸が発見された事件だ。
しかしトレーナーのラボから見つかったのは初めてのこと。
「これじゃ、本当にモノだな」
さりげなく呟いて頭を抱える。
そのまま吐き気を息と共に外に出す。
「……ヒトじゃない。バーリェは実質的にはAADを動かすための燃料だからな……きちんと動作すれば、極論的に言うと管理体制はどうでもいいんだ。あとはモラルの問題だ」
淡々と絃はそう返した。
絆はとっさに返すことが出来ずに口をつぐんだが、聞こえるか聞こえないかの声で小さく言った。
「ヒトじゃなきゃいいのかよ」
それに答えず、絃は軽く首を振ってもう一度ラボを見上げた。
そこで彼の瞳が一瞬大きくなる。肩を掴まれて、絆は振り返った。
「どうした?」
「何かいる。あの窓のところで動くものが見えた」
「野良猫じゃないのか?」
言いながら立ち上がって絃が指差した方向を見上げる。
最上階に当たる部屋の窓。黒いカーテンが敷き詰められていて中は確認できない。
あまりの部屋の惨状に驚き、あそこまでは行っていない。
「……生き残りがいるのかもしれない。絆、行くぞ」
「あ、ああ……」
どもりつつも絃の後につき、絆は悪夢の空間に再び足を踏み入れた。
上階は死亡したトレーナーの仕事場のようだった。
雑然とした部屋。
ホコリが溜まっている奥に、クローゼットのような一角がある。
先ほどの窓は、あの場所だ。
絃がそこを無造作に開けた。
途端に、情けないことに絆の腰は、一瞬抜けた。
理解できないことが起こっていた。
よろめいて背後の壁に背をつく。
しかし目はそれから離すことが出来なかった。
何もない、クローゼットの中。
狭い空間に全裸のバーリェが一人、鎖でつながれていた。
首と、動けないように手、足。
目には目隠しがされている。
まるで事切れているかのように俯いていたが、体が時折かすかに痙攣していた。
絃も言葉を失い、数秒間停止する。
しかしいち早く立ち直り、彼は呆然としている絆に向かって声を張り上げた。
「何してんだ! この子、まだ生きてるぞ。銃を貸せ、早く!」
こみ上げてくる嗚咽感を押し殺し、震える手で絃にハンドガンを渡す。
彼は銃口をハンカチでくるみ、鎖に当てると何回か引き金を引いた。
重い衝撃と共に少女が解放され、床に力なく転がる。
銃声がしたというのに彼女には反応がなかった。
慌てて転がるようにして駆け寄り、絆はそのバーリェを抱き上げた。
軽い。
信じられないほど。
「だ、大丈夫か? 気づいてたら何か言え。俺たちは敵じゃない」
喉の奥が震えている。
彼女の目隠しをむしりとると、奥から光がなくなった灰色の瞳が表れた。
バサバサの金髪がより無残さを際立たせている。
「……あ……」
大分経ってバーリェが口を開けた。
「よかった。絆、そろそろ応援が到着する頃だ。早く外に連れ出すぞ」
「分かった。もう少し我慢し……」
「ご主人さま……」
かすれて消えそうな声。
立ち上がろうとした瞬間、少女が発した声に二人は心底ゾッとして同時に立ち止まった。
「お帰りなさ……」
感情のない、機械のような声だった。
オウムとでも言えばいいだろうか。
希望も、未来も、現在もそれさえない声。
何もない、空っぽだ。
一瞬それが信じられないくらい恐ろしくなったのだ。
だが数瞬後、追って感じたのは火のような『怒り』だった。
雪を蹴り飛ばしたあいつが、あの時に持って行ったバーリェ。
あの瞳と同じ。
何もないガラス玉。
……そんなことが許されるのか。
『ヒトじゃない』
絃の声が頭の中にこだまする。
ヒトじゃない?
だから、だから何だって言うんだ。
少なくとも手の中のモノは、目も、口も、鼻も、耳もある。
動いている。
喋っている。
それだけじゃダメなのか。
どうしてこんなに酷いことができるんだ。
歯を噛み締め、少女の目にそっと手を当て、つぶらせる。
そして絆は大きく息を吸って、彼女の耳に囁いた。
「帰ろう。家に帰ろう」
絃が何かを言いたそうに口を開く。
だが彼は思いなおしてすぐに言葉を飲み込んだ。
◇
「……本当にあのバーリェを引き取られるんですか?」
エフェッサーのバーリェ生産工場担当職員から不思議そうな声を投げかけられ、絆は答えずに、無菌室のベッドに横たわっている金髪のバーリェに目をやった。
死亡したバーリェの体は、本来は火葬されるでもなく分解され、新しい彼女達の体を構築するために再利用される。
心が壊れてしまったものも同様だ。
心がなければ、生体エネルギーを発することが出来ない。
あの地獄のラボから救出した少女も、最初はリサイクルに出されるものとばかり周りには思われていた。
絃でさえも。
しかし絆は、無理矢理に引き取ると、それを通したのだ。
理由はなかった。
死んだバーリェたちについて一切言及せず黙殺し、違反を犯したトレーナーについての調査を優先させる元老院や同僚たちへの、収まらない怒りの感情をあてつけたかっただけかもしれない。
だが、何となく……本当にただ何となく。
絆は胸が苦しくなったのだ。
古い文献から引用すれば『切なくなった』という感情の動きを言うのだろうか。
良く分からなかったが、彼女を見て見ぬふりをするのが、自分にとって更に滞る怒りの感情を誘発しそうに思えたのだ。
「構いません。意識野を初期化して、まっさらな状態に戻してくださればいい」
大分経ってそう返すと、職員は慌てて口を開いた。
「し、しかし……私どもも、よりハイレベルな新型をお渡しできますが……このバーリェは、その……汚れています」
控えめに彼が言う。
一瞬カチンと来たが、絆は息を吸って答えた。
「綺麗じゃないですか」
「い、いえ……しかし……無理矢理に意識野の調整を行うと、幼児退行化してしまいますが。それでもよろしいのですか?」
それを聞いた時、一瞬ラボで見せたあのバーリェの空っぽの瞳が脳裏に浮かんだ。
「……構いません。あとの調整は、俺が日常生活の中で施していきます」
どうにも理解できない、と言った顔で職員がため息をつく。
絆はそれを見ないふりをして、部屋を後にした。
◇
それから一週間後のことだった。
金髪のバーリェが目を覚ました、と報告を受け本部にやってきたときには、彼女は出荷された瞬間のバーリェ特有に、意識が混濁している状況だった。
初めて見る外の世界、初めて聞く外の音に脳内にインプットされた知識が追いついてこないのだ。
ベッドの上に上半身を起こし、ボーッとしている少女の脇に座り、絆は控えめに声をかけた。
「……俺が分かる?」
それを聞いて少女はゆっくりと絆の方を向いた。
ぼんやりしているが、瞳の焦点は合っている。
綺麗な薄い黄色の目。
金色の髪も、綺麗に梳かされている。
完全に記憶を消し、新しい人格を植え込んだのだ。
体は成長した状態だが、中身は初期状態である。
少女はしばらく不思議そうに絆のことを見ていた。
彼の経験からして、大体バーリェが一番最初に発する言葉は
『ここはどこですか?』
だ。自分が置かれている状況をまず知ろうとする。
しかし、この子は違った。
「ごしゅじんさま?」
言われて絆の脳に電流が走った。
この子の記憶は全部消えているはずだ。
初期化されたんだから。
偶然だ。
そう自分に何回も言い聞かせて、無理矢理その考えを頭から追い出す。
そしてゆっくりと、絆は笑顔を浮かべた。
手を伸ばし、彼女の髪に触れて頭を撫でる。
そうすると少女は目を閉じて、ネコのように気持ちよさそうに体を揺すった。
「んー……」
鳴き声のように音を出すバーリェの顔を覗き込んで口を開く。
「俺の名前は絆。今日からお前の保護者になるんだ」
「ほごーしゃー?」
間延びして怪訝そうに聞かれる。
バーリェに、そんな赤ん坊のように問いかけられたのは初めてのことだったので困惑しながら絆は頷いた。
「あ、ああ」
「ほごーしゃー、さん?」
指差されて繰りかえされる。
どうやら自分の名前がそれだと思ったらしい。
幼児退行とはこういうことなのか……? と息をついて絆はもう一度言った。
「俺の名前は絆。よろしくな」
「よろーしくー。ほごーしゃーさん」
「いや、絆だ」
「あははっ」
今度は笑い始めた。
会話が噛みあっていない。
でも……絆は正直心の底から安堵していた。
目に、光がある。
いくら言っていることの意味が分からなくても、この子は生きている。
俺と同じように、生きている。
息をついて、また頭を撫でる。
「まぁこれから詳しいことは覚えていけばいい。じゃあ帰ろうか、愛」
「まーなー?」
「お前の名前だ」
そう言って小さな少女をベッドから抱き上げる。お姫様を抱くように持ち上げ、絆は小さく笑った。
「愛、だよ」
「まーな」
「そう、良く出来た」
微笑む彼女から目を離し、絆は足を踏み出した。
一年半前のこと。
それから彼女が、絆の名前を覚えるのに二週間がかかった。
◇
朝が来る。
今日も、何の変哲もない朝が。
絆は小さく呻いて目を開けた。
最近は夜半がやけに冷え込むので、ラボの中は暖房器具をつけ放しにして最適な温度に保っている。
しかし、何だか今日は寝苦しかった。
仕事がない日は大体朝の七時半から八時に起きるようにしているが、時計を見るとまだ六時になったばかりだった。
ベッドの上に上半身を起こす。
まだ外には太陽は出ていない、薄暗い。
周りを見回すと、バーリェたちは静かに寝息を立てていた。
死星獣を倒すための兵器、AADを動かすために使用されるクローン、生体弾丸。
しかしその実態は、なんら自分たち人間と変わらない、いや……むしろ感情を失くしたこの社会の中では、絆たち人間よりもよほど鮮やかな表情を持っている生き物だ。
眠気の残る頭を振って、絆は大きく欠伸をした。
そして水でも飲もうかとベッドの下に降りる。
食堂に向かう途中、姿勢正しく人形のように寝ているひときわ色の白いバーリェの前で止まる。
雪だ。
最近、ますます髪が白くなってきたように思える。
新型AADの実践訓練後の延命手術以来戦闘には出していないが、日に日に弱っていくような気がするのはたぶん気のせいではない。
バーリェの寿命は長くても三年。
雪は、あと四ヶ月でその期間を迎える。
そうでなくても彼女は……何というか特別だった。
普通のバーリェがたとえ三十体束になったとしてもかなわないほどの生体エネルギー含有量を持っている。
故に、絆たちの組織は盲目の彼女を非常に酷使したがる。
延命手術を施行したのも、貴重なサンプルである彼女をもっと利用したいがためだ。
雪から目を離し、食堂に向かう。
考えても仕方ない。
今は。
少し前は、もう雪はだめかと思っていたのだ。
今生きているだけでも御の字だろう。
そう、割り切らなければやっていけない。
そう、考えなければ何を考えたらいいかいつも分からなくなる。
いつも。
◇
「絆さん、朝ごはんができましたよ」
ソファーにだらしなく横になっていると、黒髪のバーリェ、命の声が頭の上から投げかけられた。
瞑っていた目を開けて、大きく伸びをする。
「今行く」
答えて立ち上がろうとしたときに、小さな影が目の前でピョンと飛び上がった。
次いでみぞおちに強烈なタックルが降ってくる。
さすがにそれの予測はできずに、モロに飛びかかってきた小さなバーリェの全体重を受け、絆の視界に星が散った。
くぐもった声を上げつつ、自分の体に猿のように抱きついた子を引きはなす。
小さく咳をして呼吸を整え、絆は大きく息を吸って吐いた。
「愛……お前の攻撃は回を増すごとに凶悪になっていくな……」
「絆ー、ごはん食べようー」
青年に話しかけられたのが嬉しいのか、パッと表情を明るくして愛が答える。
この金髪のバーリェは、他の子に比べて極端に精神年齢が幼い。
人間で言えば六、七歳に相当するだろうか。
普通工場を出荷される時点でのバーリェの設定年齢がおよそ十七歳前後であることからも、かなり発達が遅れていることが分かる。
つまり体は大きいが、心が幼児なのだ。
当然小さい子ならたいしたことがない衝撃も、いくら小柄で痩せている女の子だとは言え結構なものになる。
最近はさらに絆へのタックルに助走をつける方法を編み出したらしく、気が緩むとはるか上から降ってくる。
本人は楽しいらしい。
額を押さえて衝撃を緩和しようとしていると、パタパタとスリッパの音をさせながら命が駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫ですか絆さん! 愛ちゃん何やってるの!」
「ごはん呼びに来たんだよ」
「だったら言葉で言いなさい。絆さん、私が誰だか分かりますか?」
ピシャリと愛を抑えたにも関わらず、まるっきり見当違いな心配の仕方をされて、絆は小さく息を吐いた。
そして愛の体を軽く持ち上げて、肩車の要領で肩に上げる。
「大丈夫。いい加減慣れたよ……」
「苦しそうにされた直後は必ず少しずつたくましくなりますね。さすがです」
ニッコリと寸分の疑いもなく、笑顔。
大人ぶっているがこの子は実は一番単純。
多分、道端で見知らぬ人間に『飴をやるから』と言われてもついていってしまうだろう。
その純粋さは、トレーナーとバーリェの信頼関係で成り立っているこの仕事においてはかなりのステータスとなるが、この灰色の人間社会で生きていくうえでは極端なマイナス要因にしかならない。
可愛らしさなんて、所詮他人から見れば物質的な人形要素の観点だ。
妄想のはけ口にしかならない。
だからこの子達は、絆の管理を離れて少しでもラボの外に出たら名実ともに生きていくことはできない。
それだけは確かなこと。
この笑顔も、可愛らしさも。絆と言う一つの存在に強固に守られているからこそ、閉鎖的なこの空間の中でのみ成り立つものなのだ。
「ほら、お前らもゲームはそれまでだ。電源つけといていいから、メシ食うぞ」
少し離れた巨大なテレビを占領してゲーム中だった優と文、二人のバーリェに声をかける。
彼女たちは双子だが、文の方は口が利けない。
雪と同じく欠陥品のバーリェだ。
声をかけられた優は
「はーい!」
と元気に返事をし、きちんとゲーム機の電源を消してから文の手を引いてきた。
彼女たちと連れ立って隣の食堂に入る。
すでに雪は席についてゆったりと座っていた。
命がかけてやったのか、寒くないようにと羽毛のケープが肩に乗っている。
「おはよう、絆」
「おはよう。具合はどうだ?」
「元気だよ。ほら」
ニッコリと笑う。
こけた頬が、本人は気づいていないのだろうが妙に生々しい。
数ヶ月前まではばら色の顔色だったのが、今では目の下にくっきりとクマができているのがデフォルトになってしまっていた。
だが、気づかないフリをして頭をなでて、席に着く。
本来なら、この子はもうとっくに死んでいるはずのバーリェ。
生きているだけで、異例。
無理やりに臓器の交換手術を受けさせられ、生き延びてしまった個体。
それだけで御の字ではないか。
何を考えることがある。
目の前で席に着く少女たちを見回す。
みんな生きている。今、今日この朝は生きている。
生きて笑っている。それだけで十分じゃないか。他に何を求めるというんだ。
俺は他に、何を求めるというんだ。
求めるものなんて何もないじゃないか。それだけで十分じゃないか。
「絆さん?」
命に呼びかけられてハッと顔を上げる。
そして絆は軽く笑った。
「よし、食うか。その前に全員薬飲め。雪は、ちょっと待ってろな」
立ち上がり、目が見えない雪の分の薬を棚から取り出す。
そして絆は、今まで彼女が飲んでいたものの一つを、さりげなく本部から渡された更に強力なものに取り替えた。
そして何食わぬ顔で雪の手に握らせる。
彼女がそれを、何の疑いもなく水とともに飲み込むのを確認し、絆は息をついた。
そう、十分なんだ。
これで。
◇
今日はエフェッサーの本部で、先日配属された新型人型戦車、AAD七〇一号に関する説明を受ける会議がある。
雪を使って本格的に量産、実戦投入が検討されている、これからの対死星獣戦闘を一変させる可能性を秘めた兵器。
今までの応用性のない戦闘機、戦車砲台と違って、七〇一号以降のAADは人型、かつバーリェの想像するとおりに脳波を感知して動く。
本質的には関節のある戦車なのだが、漫画の世界のロボットと似たようなものだ。
前回の戦闘で使用されたのは動くかどうかを確認するための試作品。
それで雪は、あまつさえ死星獣を撃退するという離れ技をやってしまった。
最も、それをさせたのは絆だった。
あそこで退くわけにはいかなかったのだ。
離脱したらまた実験で雪が駆り出される。
そうすれば彼女はたちどころに死んでしまうかもしれない。
いわば撃破せざるを得ない状況。
初めて乗った機体で、初めての実戦。
さらに雪は目が見えない。
そんな状況で、絆が同乗しているとはいえ死星獣を完全に撃滅したのだ。
期待以上の成果を確認した本部が、更に兵器の強化を検討しても不思議ではない。
七○一号には新たな追加装甲と、更にまだ説明は受けていないが……何らかのシステムが組み込まれるらしい。
また、絆のバーリェは優秀が故の実験台にさせられるというわけだ。
大きくため息をついて、小奇麗に整備された休憩室のソファーにだらしなく寝転がる。
隣には愛が座り、暇そうに足をプラプラさせていた。
今日は彼女の定期健診の日だ。
会議のついでに連れてきたのだ。
少し早く来すぎてしまったために、ここで時間をつぶしているというわけだ。
全面ガラス張りの、休憩室の壁を見つめる。
もう雪は降らなくなったが、まだ二月。
肌寒いと言えば肌寒い。
「絆ー、遊ぼうー」
ついに検診までの待ち時間に耐え切れなくなったのか、寝転がっている絆に、愛がラボでしているように抱きついてきた。
猫のように胸に顔をこすり付けてくる彼女を、ため息をついて引き離す。
「おいおい。ここはラボじゃないんだから。おとなしくしてなさい」
「やだ。遊ぼう。じゃなきゃ帰ろう」
反抗された。
普通バーリェはトレーナーの言葉には逆らわないものだが、愛は違った。
知能の発達が遅れているせいだからなのかはよく分からないが、他の子たちが押し殺そうとする感情をそのまま口に出す。
困ったように息をついて彼女の頭をなでる。
寝転がっている絆に馬乗りになっているバーリェという、誤解されそうな状況。
明らかに不機嫌そうな彼女は、ちゃんと対応しなければ癇癪を起こしそうな雰囲気だった。
無理もない。
今日は休日で、優たちとゲームをやって遊んでいたところを無理やり連れてきたのだ。
「……何やってんだお前ら」
そこで頭の後ろから呆れたような声を投げかけられ、絆はそちらに目を向けた。
同僚の絃がポカンとした顔で休憩室に入ってくるところだった。
彼も、絆と同じく人型AADを任された上級のトレーナーだ。
ひげを蓄えたガッシリとした体つきは微妙な威圧感をかもし出しているが、実際は面倒見がいい変わった人間。
後ろには長い髪を背中で一つに結んだ彼のバーリェ、桜がついてきていた。
「あー、さくらー」
彼女を確認すると、絆の腹を踏みつけるのも構わず、愛はソファーを飛び降りると桜に駆け寄った。
「あらあら。おはよう、愛ちゃん」
「さくらまた大きくなった」
「愛ちゃんも背、伸びたねぇ」
嬉しそうに話し始める彼女たちを横目で見ながら起き上がる。
バーリェは何故か同種を見ると過剰に仲良くしたがる傾向がある。
DNA管理され、人間間の関係なんて希薄なこの世界、絆の目にはやはりどこかその光景は異質に映る。
ひとまず文句から解放されて息をついた絆の隣に、絃が無造作に腰を下ろした。
「よう。検診か?」
「ああ。薬もらって終わりだけどな。会議中は遊戯室にでもおいとこうかと思ってる」
「そうか。一人で桜をラボに置いておくのも不安でな。連れてきたんだが、じゃあ愛ちゃんと一緒に遊ばせといていいか?」
聞かれて絆は軽く笑ってみせた。
「願ったりだよ。最近妙に我侭になってきてな。どうしようかと思ってたところだ」
それに肩をすくめ、絃は返した。
「いい傾向じゃないか。一度知覚が全て初期化の結果、退行化してもあそこまで回復することが実証できたんだ。俺はそれだけでも毎回驚いてるよ」
「人事だと思って気楽に言ってくれるよ。まぁ、所詮俺のエゴイズムで引き取った子だ。実証とか、そういうことは関係ないさ……」
ぼんやりと呟いて天井を見上げる。
しばらく窓の外に目をやっていると、不意に絃が持っていたファイルケースから一枚の資料を出した。
それを無造作に絆の前に差し出す。
「……何だ?」
首をかしげ、受け取る。絃は愛と桜の方をちらりとみてそれきり口をつぐんだ。
何か聞かせたくない内容なのかと察して、無言で資料に視線を落とす。
そこで絆は顔をしかめた。
それは、失踪したバーリェがまた発見されたということを示す報告書だった。
絃が捜査を担当したらしく、まだ上には提出していないようだ。
今回のケースで、四件目。
愛が見つかってから途絶えたと思っていたが、それは単に表に発覚していなかっただけらしい。
まだバーリェを誘拐し続けている組織の実情も、目的も、そして誘拐対象に施されていると思しき実験内容も定かになっていない。
相手の方が何枚か上手なのは認めるしかない事実だった。
今度はここから相当離れたリェンクロンという街の外れで放置されていた廃工場での発見だった。
死亡していたバーリェの総数は、五十二。
例によって実験器具などは全て運び出された後で、何も確認できていない。
生存していた個体はなし。
最悪だ。
資料を絃に返し、絆は息を吸って額を抑えた。
愛が監禁されていたあの惨状が脳裏にフラッシュバックする。
「……どうしたものかな、俺にもよく分からん」
しばらくしてポツリと絃が呟く。絆は小さく首を振って答えた。
「さぁな。これから先は俺たちの管轄じゃないだろ。お前は首を突っ込みすぎなんだよ」
「……そうだな、ああ……そうだ」
曖昧に頷き、絃はため息をついた。
「だが誰か生きてたらな。俺かお前がいないと駄目だろう」
その言葉を聴いて、絆は背中を鞭で打たれたような気分になった。
言葉を返せずに、にこやかに談笑している二人の少女に目をやる。
「とりあえず、出荷工場の管理体制の強化を進言するしかないな。それが現段階で俺にできることか……」
呟く絃の肩を叩く。
「気負いすぎるな。次からは俺も行く」
そこで彼はバーリェ達が駆け寄ってくるのを感じて顔を上げた。
愛が困った顔の桜の手を引っ張っている、彼女は絆の前に立つと、満面の笑顔で言った。
「絆、アイス食べよう。桜のも」
一瞬言われた意味をすぐ飲み込むことができずにきょとんとする。
「ま、愛ちゃん。私は……あの……」
いくらなんでもバーリェがトレーナーに金を要求するのはあまりにもありえないことだ。
戸惑って目を白黒させている桜を見て、絆は絃の方を見て呆れた息を吐いてみせた。
「この寒いのにアイスか? 腹壊すぞ」
「大丈夫だもん。あー、げんも食べよう」
唐突に呼び捨てにされる彼。
しかし慣れているのか、絃は豪快に笑って立ち上がった。
「ははは。絆は疲れてるからな。今日は俺が買ってやろう。桜もそれならいいだろう」
「え……あ、はい。絃様がそう仰るのなら」
丁寧に頭を下げる桜。
几帳面な性格のバーリェ故の特徴が本当に出ている個体だ。
絆は苦笑して口を開いた。
「いいのか?」
「これくらい気にするな。よし、二人とも売店に行こうか」
「いこー!」
嬉しいのか、先頭に立って歩き出す愛。
階下の売店に歩いていく彼らを見送って、絆はまたソファーに横になった。
絃は冗談で言ったんだろうが、疲れているというのはあながち嘘でもなかった。
加えて先ほど、あんな事件を見せられては沈んだ気分も倍加するというものだ。
これで四件。
何か異常なことが起こっているというのは確かなことだった。
エフェッサーや元老院にとってはバーリェはただの備品だ。
人権などが存在しないクローンたちの重要性はさほどない。
重要なのは、トレーナーが成育させて生体エネルギーが熟成した……つまりは成長した個体であり、成長していない初期状態のバーリェがどんなにいなくなろうとも、また生産すればいいという常識的な認識だ。
上が問題にしているのは、無断で機密備品であるバーリェを窃盗している組織があるという事実。
それももちろん問題だが、絆や絃の感じている不安感情とは全く別のものだ。
しばらくぼんやりとしていると、小さな足音が駆け寄ってくるのが耳に届いた。
閉じていた目を開ける。
すると、両手に巨大なソフトクリームを持った愛が危なっかしい足取りで走ってくるのが見えた。
慌てて飛び起き、駆け寄る。
彼女はかなりの内股気味で意識せずともよく転ぶ。
絆が愛を支えるのと、彼女が足をもつれさせて倒れたのは奇跡的に同時だった。
何とか両手のソフトクリームは落とさなかったらしく、今しがた転びかけたことも忘れて愛は片方を差し出した。
笑顔だ。
「はい!」
それだけの言葉。
絆は一瞬ポカンとして、そしてそれが自分のものであることに気がついた。
遠目に、苦笑しながら階段を上ってくる絃と桜が見える。
絆はソフトクリームを受け取り、愛の頭に静かに手を置いた。
「良かったな。ありがとう」
「うん。食べようー」
満面の笑顔。青年はそれを受け、軽く息を吐いた後優しく笑った。
◇
「これが、先日撃滅した死星獣の破片です」
説明を受け、巨大な長テーブルの上に乗った、コンクリートのような断片を見る。
午後の指定の時間になり、エフェッサー本部役員との会議が始まって数時間。
決まりきった予算やバーリェの体調についての報告を終え、本題に入ったところだ。
数人の職員に運ばれてきた、銀色の台に乗った白い牙のような物体は、天井の蛍光灯の光を受け微妙に青白く光っていた。
上座に座っている、この支部のエフェッサー本部長が表情を変えないまま口を開く。
「先日、Dインパルスキャノンの斉射、そして絆執行官の搭乗したAAD七〇一型の超伝導ナイフにより駆除された死星獣のコア、つまるところこれは奴ら化け物の心臓に当たる部分だ」
「……これが……」
一人の幹部が呟いて手を伸ばす。
すると本部長の隣に立っていた若い女性職員が、無言で手に持っていた万年筆を白い破片に向かって放り投げた。
次の瞬間、会議室全体に戦慄が走った。
万年筆が当たるか、当たらないかのうちにそれは強烈な水圧に押しつぶされたかのように、くしゃりとサイコロ大に圧縮された。
それも、空中で。
そして死星獣の破片に当たるころには更にビーズ玉ほどに小さくなり、ついには黒い点となり、視界から消えた。
「な……っ」
声が出ず、あまりのことに席から腰を浮かせる。
手を伸ばしかけていた幹部も呆然とした後、慌ててそれを引っ込めた。
凍りついてテーブル上の死星獣の破片から体を離した一同を見回し、本部長は冷静な声で続けた。
「見ての通りだ。過去五十年間、我々は死星獣と戦ってきたわけだが、このように奴らのサンプルが採取できたのはこれが初めてのことだ。死星獣は機能を停止させると、普通は溶けてなくなるからな。絆執行官の働きはとても大きい。感謝している」
「しかし、これは一体……」
呆然とした顔で幹部の一人が呟くと、本部長の脇の女性職員が口を開いた。
「先ほどの通り、いまだにこの死骸の一部からは、極端な力場が発生し続けています。密閉した空間におくと、空気それ自体の圧縮を始めるので外気にさらし続けていますが、私たちはコレをマイクロブラックホール粒子、つまるところ極小の圧縮空間を発生させる一種の装置のようなものと考えています。危険ですので、二十センチ以内には近づかないようにしてください。固定台は三分ごとに交換しています」
(マイクロブラックホール……?)
その単語を聞いて、絆は改めて背鈴が寒くなるのを感じていた。
今まで散々聞かされてきたこと。
死星獣は、体表からその圧縮粒子を発散させながら侵攻してくる。
しかし現物として触れる距離にそれがある、というのは初めての経験だった。
こんなものと、自分や雪は戦っていたのだ。
無言で先ほど女性職員がやったように、テーブルに置いてあったコーヒーの入った紙コップを、中身ごと死星獣の破片に放り投げてみる。
コーヒーは空中で外に飛び出したが、破片にぶちまけられる……と思った瞬間、空中でビー玉のような球形になった。
全方向から同一の力がかかったときに起こる現象。
米粒ほどに潰れた紙コップと同じように、コーヒーの球体は段々と小さくなり、そして消滅した。
つばを飲み込んで腰を落ち着ける。
絆の一連の行動を黙って見ていた本部長は、それを確認してまた喋り始めた。
「この圧縮空間の干渉は、今まで通りにバーリェの発する生体エネルギーにより中和することが可能だ。先日絆執行官が使用したエネルギーコーティングされたAAD用超伝導ナイフなどで切り裂くことが可能になる。原理は今、まだ研究中だ……下げてくれたまえ」
「はい。了解いたしました」
頭を下げ、隣の女性職員がインターホン越しに死星獣の破片回収を要請する。
数分もたたずに、先ほどと同じ、運んできた職員たちがそれを持って部屋を退室した。
「逆にこの技術を応用し、更なる兵器の強化システムを構築している。トレーナー各員には、今までよりもよりハイレベルなバーリェの育成を期待している。私からの話は以上だ」
◇
会議が終わり、すぐ近くに設置されている廊下脇のソファーに腰を下ろし、大きく息をつく。
背伸びをして首の骨を鳴らすと、絃が表情を落として近づいてきた。
そして絆の隣に座る。
「……何だアレは?」
意外なことに最初に口を開いたのは彼だった。
背伸びを止め、絆は黙って天井を見上げた。蛍光灯の白すぎる光が目に刺さる。
「知らん……化け物だとは思う」
一言、簡潔に答える。
正直絆にもそれは分からなかった。
生まれたときから既に、この世界には死星獣がいたし。
実際のところどうしてそんな化け物が存在しているのかなんて考えたこともなかった。
死星獣も、バーリェも。
自分がこの世に存在したころには当たり前に在った。
絃は大きく息をつくと、珍しく苛立った様子で片手で額を押さえた。
「分かってる。だが……何なんだ、アレは」
「……さぁな。お前、間近で見るのは初めてだったか? そういえば、ここでは俺以外、肉眼で死星獣を見たことがある奴はいなかったな……」
ぼんやりと呟いて大きく息を吐く。
「バーリェはいつも、あんなのと戦ってるんだ。それが何なのかは俺も分からない」
「お前さんは雪ちゃんが乗るときだけは同乗するからな……悔しいが、その通りだ。実際この目で見るのと、想像するのとじゃやはり全く違う」
「だろうな。でも、事実だ」
そう答えて立ち上がる。そして彼は絃の肩を軽く叩いた。
「ほら、小さいのが待ってるぞ」
「……だな」
軽く笑い、絃はゆっくりと立ち上がった。
日常。
非現実のようだが、何もかもが本当のこと。
自分達はそこに生き、彼女達もそこに生きている。
その日も、普通に過ごし、何事もなく終わり。
その次も、そのまた次も、灰色の日常が続くとばかり思っていた。
頭のどこかで拒絶して、現実から目をそむける自分。
数年に一度、必ず訪れるその『平穏』と名前がついた異常な世界が崩れる時間。
それは唐突に、何の予兆もなく訪れる。
◇
お前たちは人形だ。
そう、誰かは言った。
人の形をさせてもらっている、人形。
だから自分の考えなんて持たなくていい。
だから、ただそこにいればいい。
考えず、動かず、停止した時間の中でただ待っていればいい。
それが終わるのを。
そう教えられてきた。
そう、ずっとずっと言い聞かされてきたからそれが真実だと思っていた。
頭の中の声が言う。
その人の言うことは真実だって。
だから、疑うことなんてしなかった。
ただそこに在ることが幸せだって。
幸せってそういうことだって思ってた。
人形。
人形って、何だろう。
考えても仕方ないから考えるのをやめる。
でも人形って、生きてないよね。
誰かが、頭の奥でそう言った。
◇
ぼんやりと目を開ける。
愛は薄目に飛び込んできた朝の光を振り払うかのように、軽く頭を振ってベッドの上に上半身を起こした。
また、あの夢だ。
暗い、深い黒の奥で誰かが小さな声で囁きかけてくる、あの夢。
どうしようもなく不安で……何だかすごく気持ちが悪くなる。
一週間に一回くらい。多いときでも二回くらい。
けど、こんなにはっきりと言葉を覚えているのは久しぶりだった。
「あれ……?」
呟いて顔を片手で覆う。手のひらに生ぬるい感触。水……違う。涙だ。
(泣いてる)
誰が……と思ったが、自分しかこのベッドの上にはいない。
私が泣いてる。
すぐにそれは止まったが、何だか更に不安になって呆然と目をゴシゴシ拭う。
(絆、絆)
思考が切り替わる。
怖い。
何でか知らないけど、怖い。
あの人はどこだろう。
探さなきゃいけない気がする。
周りを見回すと、雪の隣のベッドに寝ているのが見えた。
急いでベッドを降りて、駆け寄ろうとする。
途端、愛は自分のシーツに足を絡めて、盛大に床に転んだ。
絆のラボは、目が見えない雪が転んでも痛くないようにと、過剰なほどふわふわした弾力素材が床のいたるところに敷き詰められている。
頭から床に落ちた愛は、音こそ立てなかったものの息を詰まらせて小さく咳き込んだ。
壁の時計はまだ五時を指している。
みんなが起きてくるまで、あと二時間はある。
(あれ……?)
そこで愛は、立ち上がろうとした自分の体がピクリとも動かないことに気がついた。
(何で……? あれ?)
足と、口が動かない。
どうしていいか分からずに、自分の肩を抱いて床に転がる。
どうしたんだろう。私は一体どうしちゃったんだろう。
怖い。
何だろうコレは。
何回目だろう。
時々、こんな感じになる。
でもいつもはベッドの中でだ。
床の上で動けなくなったのは初めてのことだった。
みんなが寝てるベッドの足しか見えない。
暗い。
……暗い?
途端、喉が痙攣し、愛は激しく咳き込んだ。
怖い。
何だか知らないけど怖い。
絆の名前を呼ぼうとするが、言葉が出ない。どうして?
絶対おかしい。
こんなのは初めてだ。
『俺が帰ってくるまで、少しでも音を立ててみろ。生きてるのが嫌だと思うほど後悔させてやるからな』
心臓が跳ね上がった。
誰かが、自分のことを覆うように覗き込んでいた。
首が上手く動かないので目だけを動かして黒い人影を見つめる。
顔が見えない。
『何とか言ったらどうなんだ? え?』
(え?)
『生意気な目しやがって。クローンの癖に人間様との身分の差がまだわかんねぇのか?』
(くろーん? え?)
怖い。
誰なんだろう、この人、誰なんだろう。
何だかすごく怖い。
逃げなきゃいけない気がする。
でも、体が動かなかった。
「やだ……やだ!」
やっと口が開いた。
激しく咳き込みながら声を張り上げる。
「やだ! いやだ!」
「どうした! 愛、おいしっかりしろ!」
その時、唐突に聞きなれた声が耳に飛び込んできて、弾かれたように愛は顔を上げた。
自分に覆いかぶさっていたのは、絆だった。抱きかかえるようにして青くなっている。
「あれ……? 絆……」
「体どうしたんだ。怖い夢でも見たのか? いきなり騒ぎ出したからびっくりしたぞ」
「声、違う……」
「声? 何のことだ?」
違う声だった。
こんなに優しくなかった。
あの声は。
氷みたいな、黒い声だった。
「愛ちゃん、大丈夫……?」
そこで雪の声が聞こえてきて顔を上げる。
いつの間にか、他の子たちが全員起き出して心配そうにこっちを覗き込んでいた。
「絆さん、ち、血が……」
素っ頓狂な命の声が響く。それを聞いて初めて、愛は絆の寝巻きが異常に乱れていることに気がついた。
そういえば彼はものすごい汗をかいている。
ランニングの後みたいだ。
だが、流れていたのは汗だけではなかった。
顔面に無数の、猫に引っかかれたような傷が走っていたのだ。
そこから次々と血が流れ出て、愛の寝巻きにポタポタと垂れている。
「い、いやこれくらい何ともない。それより薬棚から、D三十五を持って来い」
「わ、分かりました!」
動転しているのか、足音荒く命が食堂の方に消える。
「大丈夫じゃないよ。血止めなきゃ。文、包帯も持ってくるようにって命に言ってきて」
優がそれに付け加える。
頷いて文が命を追って食堂の方に走っていくのを横目で見ながら、愛は初めて自分の両腕が絆によって強く床に押し付けられていることに気がついた。
「い、痛いよ……」
鈍痛を感じて口を開く。
それを聞いて、青年は大きく息を吐いて手をどけた。
優が彼の隣にしゃがみこんで、顔の引っかき傷にティッシュを当てる。
「落ち着いたか? 俺の顔が分かるか?」
「絆の顔……?」
きょとんとして聞き返す。
ずり落ちたパジャマを直そうとして、愛は自分の手の爪におびただしい量の血がこびりついているのを目に留めた。
「あれ……?」
そのまま硬直する。
「絆さん、このお薬でいいんですか?」
慌しく命と優が走ってくる。
「何……これ」
喉が軽く痙攣する。
何だか、頭の裏がじんじんと痛い。
苦しい。
「愛? おい!」
血の臭い。
生臭い、しょっぱい人間の臭い。
ズキリとこめかみが痛む。
何だか、深い海の底に落ちていくような感じ。
息を吐こうとして、腰が抜けるのを感じた。
あの人が遠くの方で私を呼んでる。
でもそれに答えることができずに、愛の意識は垂直にその海に落ちていった。
◇
居間で、心配そうな大きな目が四対、こちらを凝視している。
絆は命に、愛に引っかかれた傷の手当てを受けながら心の中で戸惑いのため息をついた。
(……どういうことだ……?)
何度か夢遊病者のように、愛は寝ているところを起きだして一人で動き回っていたことはあったが、あんなになったのを見たのは初めてのことだった。
検査に連れて行って、帰りに絃と彼のバーリェ、桜と一緒に愛が気に入っているレストランに寄って。
薬の投与もなかったし。
体調、メンタルも安定が確認されていたというのに。
(あれは多分……逆行錯乱状態だよな……)
軽く唇を噛んで、頭の中でその言葉を反芻する。急激な教育プログラムを生まれた時に組み込まれるバーリェは、時にその成長を経ない知識量に対して混乱し、錯乱状態に陥ることがよくある。
それが表面化しないのは彼女たちそれぞれが非常に高度な環境適応資質を持っているからであり、だからこそ様々な性質を持つ、それぞれのトレーナーに適合することができる。
逆行錯乱状態とは、その適合処理が追いつかずに……人間的に言えばキレてしまうという状態に陥ることを指す。
おそらく、愛が暴れたのもそのため……と、そこまで考え、しかし絆は表情を落とした。
(一年半……)
唾を飲み込んでそう、頭の中に思い浮かべる。
そうだ、この一ヶ月間は、すっかり忘れていたが愛が再調整を受けてから丁度一年半が経過した頃だった。
彼女が人格を破壊された状態で見つかった時、既に半年が経過していたと考えられる……と、施設の職員から言われた。
つまり、彼女が生まれてから現在で丁度ほぼ二年。
この時期まで生き延びたバーリェは、ほとんどが人格的に個々が構築されている。
そして同時に、戦闘によるエネルギー抽出により、体組織、加えて脳組織の崩壊が始まるのが丁度この頃だ。
つまり。
製品としてのバーリェの保障期限は約二年。
(まさか……な)
軽く首を振ってその考えを外に追い出そうとする。
しかし……どこか頭の片隅でそれは間違っていない気もしていた。
愛は普通のバーリェではない。
前例がない、人格矯正を受けた個体だ。
早期に、脳組織に何らかの影響が発生しても不思議ではない。
検査も一応は体全体のスキャンはするものの、バーリェの成長、老化速度は人間の十数倍にも及ぶ。
必ずしも数日前の結果が参考にできるとは限らないのだ。
(もう一度医療部に相談してみるべきかもしれないな……)
心の中で呟いて、ぼんやりと目の前のテーブルを見つめる。
暴れこそはしていないものの、最近愛はやけに起きるのが早い。
日彼女たちに飲ませている薬の中には睡眠誘発剤も入っているので、抵抗力がついたのではと思い、こっそり昨日医療技師に聞いてみたが……回答はそんなことはない、という一言だけだった。
「絆さん? 絆さん、終わりました、けど」
控えめに命に呼びかけられ、絆は顔を上げた。
そして指先で頬や鼻先に貼られたガーゼを確認する。
「あ……ああ。ありがとう」
「絆、大丈夫? 血は止まった?」
見えない目を大きく開いて雪が上ずった声を発する。
絆は彼女の頭を軽く撫でて言った。
「大丈夫だって。それより、まだ五時半だ。お前らもう少し寝てていいぞ。愛も検査で少し疲れたんだろう」
しかし四人のバーリェは、戸惑ったように寝巻き姿のまま互いの顔を見あわせただけだった。
そして、しばらくして口が利けない文が、絆の服の袖を引いて指を胸の前で軽く動かす。
『今日のは特に強くて、愛ちゃんの心の中がはっきり私たちの中に入ってきたんです。何か怖がってるみたいでしたけど……あの子、私たちには教えてくれないんです』
手話の意味を解して、絆は文から軽く目をそらした。
彼女たちには、愛の生い立ちのことは一切言っていない。
愛自身も記憶が完全に消えているから、教えたくても本人にはわけが分からないだろう。
だが、バーリェは人ではない。
感情に左右される、不確定な生体エネルギーを発するクローン生命体だ。
彼女たちは、絆には全く感覚は分からないが……なんとなく相互の心理状態や、体調を肌で感じ取ることができるらしい。
心の中、と文は表現したがおそらく夢のことだろう。
(やっぱり逆行錯乱だったのか……)
それを確認して絆は四人に気づかれないよう、小さく息を吐いた。
記憶を一度初期化したとはいえ、累積された脳細胞の成長痕跡として、ある程度の欠片、つまりトラウマとしての断片は脳に残ってしまうという説明は受けていた。
完全にその記憶を消すためには、脳の記憶野を切除するしかない。
しかしそれは同時に生命体としての存在を奪うということに他ならない。
それが、段々と老化してきた脳細胞の僅かな衰えとともに、微かだが得体の知れない恐怖として蘇ってきたんだろう。
その本人が知らないはずの記憶によって混乱する、つまるところ逆行錯乱だ。
「うん、あたしもそれ感じた。絆、愛って何怖がってるの?」
優が不安げな顔で絆を見上げる。
彼女は目が見えない雪に対し、同時通訳のように文の手話を伝えていた。
手の平に簡単な手話文字を書いてやるのだ。
文の双子の姉である優は、ほとんど自分の義務と言わんばかりにそれをやる。
伝えられた雪も頷いて、表情を落とした。
「やっぱり私たちね、一緒に暮らしてるし、時々愛ちゃんは何か怖がってたまらなくなるみたいだから。あんまり言うと愛ちゃん怒るから、言わないようにしてたんだけど。絆も怪我しちゃってるし……」
言いにくそうにポツリポツリと白髪のバーリェが呟く。
愛が怒る、というのは本人にもその恐怖の実態がよく分からないということだからだろう。
しかし……ずいぶん前からそれに気づいていた風の彼女たちの話し方に、絆は怪訝そうに口を開いた。
「お前ら。愛にああいう発作が起きてること知ってたのか?」
時々愛が震えながら自分のベッドに入ってくることはあったが、それはこの子達には言っていない。
また四人は顔を見合わせて、今度は控えめに命が口を開いた。
「今回みたいに酷いのは初めてです。でも時々怖い夢を見るって、あの子は言ってました。起きると忘れてるから、絆さんには言わなくてもいいからって。だから私たち、あんまり問い詰めたりするとかえって思い出させて、悪い気持ちにさせちゃうかなって思いまして。だから言わないようにしてたんですけど、でも」
全員の視線が、顔の怪我の痕に集中していることに、絆はその時初めて気がついた。
言いにくそうに言葉を濁している彼女たち。
その訳がなんとなく分かったのだ。
バーリェの心、つまり好意感情の一番の優先は、自分を管理するトレーナーに向けられるようになっている。
つまり彼女たちは……トレーナーたる絆が傷つけられたことにより、心のどこかで『怒って』いたのだった。
しかし愛は一緒に暮らす同族だ。
それゆえにそのもやもやした感情を外に出すべきなのかどうか、混乱しているのだろう。
こう言った、バーリェ特有の『奇妙な』感情は、当初の絆に理解することが出来なかった。
一人だけではなく二人以上を管理するようになって兆候が現れ始めた。
これは原理的に仕方のないことだというのは、複数管理を決めた時に分かっていたことだったのだが。
実際目の前でそれを体験するのと理論だけを知っているのとでは全く違う。
何度か対処法が分からずに混乱したこともあったが、それらの失敗の末見つけ出した効果的な言葉を、絆は慎重に選んで口を開いた。
「誰にだって不安はあるさ。仲間なんだから、お前らは今まで通りに愛をサポートしてやればいい」
仲間。
今まで生きてきてほとんど使ったことのない言葉だった、それは。
いや、この世界に生きるおおよそ全ての人間がそんな言葉を使ったことはないだろう。
自分のことを第一に優先する、灰色の世界。
他人なんて利用するだけの存在だ。
利用して、動かして、そして結果自分が無事ならそれでいい。
それが世界の理屈だし、社会というものだ。
だがバーリェは人間と自分たちの心のつながりを求める生き物である。
確かに利用関係はあるが、彼女たちのエネルギーを引き出すには心を解放させなければならない。
そうするには親密になる必要がある。
上辺だけの利用ではない、心の繋がり。
それを生まれながらにして、人間とは違いバーリェは本能的に求める。
だから、それに関連する言葉をかけてやれば当然反応する。
案の定四人はそれぞれ考え込んだが、やがて小さく頷いた。
全員の頭を撫でて、絆は言った。
「今日は休みにしよう。寝坊していい日だ。週末にでも、いいところに連れてってやる。だから、あんま愛のことは心配するな。あいつだってリラックスすれば怖いものなんてすぐ忘れるだろう」
「いいところ?」
優がいち早く反応して目を大きく開く。
「何処? 私、フォロントン行きたい!」
「地球の裏側だろそれは……」
絆は軽く息を吸って、そして彼女の頭をくしゃくしゃと撫でた。
◇
「絆」
朝日が完全に昇った窓の外を見ていると、後ろから声をかけられ、絆は振り返った。
壁の手すりで体を支えながら、雪が歩いてくるところだった。
最近、彼女には薬がきかない。
あの後バーリェ全員を安定させるために、即効の薬を飲ませて寝せたのだが。
やはり雪には効果がなかったらしい。
本部の医療班も、彼女の、薬を受けつけなくなっていく急激な耐性には首をひねっていた。
今のところ何の問題もないが……いずれ何らかの障害が起こる可能性は高い。
絆はまだ手にもてあそんでいた小さな注射器の針を折り曲げ、そっとゴミ箱に放り投げた。
先ほど、愛の腕に注射してきたものだ。
他の子に投与した薬より何段階か強い精神安定剤。
催眠作用もあるので、今日の午後までは彼女を含めた全員は目を覚まさない。
雪は考え込んでいる青年の脇に手探りで歩み寄ると、慣れた動作で脇に腰を下ろした。
「絆?」
もう一度呼びかけられて、そこで初めて彼は雪の方を向いた。
「ン……ああ。どうした? やっぱり寝れないか」
「うん。でも、今日はお休みの日だから……絆もゆっくりするんでしょ? だから私もゆっくりしようと思って」
そう言うと、雪は手を伸ばして絆の肩辺りに触れた。
指をぼんやりと這わせて、先ほど愛に引っかかれた頬の手当ての痕を触る。
「大丈夫?」
「これくらいなんてことない。第一、お前だって来たばっかの頃は俺のこと引っかいて凄かっただろ?」
「それは……」
困った顔で手を離し、少女が俯く。
絆が言ったのは本当のことだった。
当初、目が見えない雪を戦闘に出したらパニックを起こし、コクピット内で暴れたことがある。
それから彼女は……いわゆる戦闘恐怖症というものにかかってしまったらしく、今の愛のように夜中、無意識に暴れるようになってしまったことがあった。
極度の恐怖が生んだトラウマだとか何とか医療班は言っていたが、当時の絆はほとほと困り果てた。
戦えないバーリェほど、存在価値がないものはない。本部から処分命令が来るかもしれない。
だから、予備として二体目のバーリェ管理を始めたのも一つの理由だった。
いわば切羽詰っていたのだ。
二人目を管理し始めても、雪の調子は一向に良くならなかった。
そんな彼女を救ったのは、音楽だった。
今の社会ではあまり見かけることのなくなった、そのような音源情報がバーリェの精神安定に効くという話を聞き、やってみないよりはいいだろうと、本部に格納してあったデータを数点持ってきて聞かせてみたのだ。
生まれてはじめて音楽を聴いた雪は、驚くほど静かな性格になった。
それまでのびくびくして臆病だったのが嘘のように、安定し始めたのだ……理由は良く分からないが。
音楽なんて、絆は嫌いだった。
非効率的で、よく分からない。
そもそも芸術分野など、今の人間の大部分が苦手なものを彼は同様に好きではなかったのだ。
そこまで思い出して絆は小さく呟いた。
「……そういえばあのディスク、何処行ったかな……」
雪が気に入った、と言ったので渡して。
それから先は把握していない。
絆の呟きを効いて少女は少しの間考え込んでいたが、やがて思い出したのか、軽く手を叩いて口を開いた。
「あの、ワッハフバンの第十八楽章? そういえば、絆が私に何かくれたのはあれが初めてだったね」
嬉しそうに少女が言う。
絆は顔を上げて、彼女の焦点が合わない瞳を見た。
「まだ持ってるのか? 愛にはあいつが欲しいってもんは色々買ってやってるけど……悪いがあいつの不安定も治せるかもしれない、貸してくれるか?」
聞かれて雪はきょとんとしてそれに返した。
「どうして?」
「どうしてって、お前、音楽を聴いたら大分静かになったよな。あれ聞くと安心するんだろ?」
「安心……? うーん……どうだろ……」
少し、少女は考え込む。やがて雪は顔を上げると小さく首を振った。
「あれは私のものであって、愛ちゃんのものになるわけじゃないから。だから、絆は別のものを買ってあげた方が喜ぶと思うよ」
「ん……そうなのか?」
「うん」
それはつまり、自分のものだから貸したくないということなのだろうか。
瞬間的に意味を理解することが出来ずに聞き返したが、雪は軽く頷いて目を閉じてしまった。
寄りかかって深く息を吐いたバーリェの頭を撫でながら、少し表情を落とす。
喜ぶ……か。
十年前まではその意味さえ知らなかった言葉。
実際、そんなことを意識して生きている人間なんて、今の社会にはおそらく数えるほどしかいない。
喜びも、それがあるからこそ感じる哀しいと言うものも、バーリェはほいほいと簡単に使う。
意味なんて多分分かっていない。
しかし、あっさりと口に出す。
絆はいまだ、それの言葉の意味が良く分からなかった。
ただ、つまるところバーリェが笑えば嬉しい、喜んでいる。
泣いていれば悲しんでいる。
そういう外見的な特徴を見てどことなく判断しているだけなのだ。
自分が子供の時には、そんなこと考えたこともなかった。
四歳の時には、既に親が出した金を使って自立し、住んでいた。
自分の身の回りのことはすべて自分でやっていたし、それが当たり前だと思っていた。
一人で生きていくことが、当たり前。
他の誰かに合わせる必要もなければ、協力する必要なんてない。
そんな自分が、バーリェの精神……心について気にかけている。
たとえ業務上に必要なことだとしても、どことなく矛盾しているような気もする。
「……久しぶり……」
不意に、雪が言った。
「ん?」
「絆と二人きりになるの、久しぶり」
彼女は笑った。
喜んでいるんだろう。
頭の奥で、機械的に絆は判断し小さく微笑み返してやった。
◇
その電話がかかってきたのは、数日後の昼を過ぎたあたりのことだった。
「点検……ですか?」
思わず聞き返して首を傾げる。
電話口の向こうで、エフェッサーの連絡要員が無機質にそれに応答してきた。
『はい。絆執行官所有のAAD、七〇一号の動力駆動系システムに点検、および改善の要請が元老院から来ています。つきましてはドックに輸送させていただきたいのですが』
突然点検作業が入ったという内容だった。
確かに最近は死星獣の出現がなく、それにあわせて出撃もしていなかったが、そんな話は初耳だ。
「元老院が?」
もう一度聞き返す。
実のところ、二日前に七○一号はメンテナンスを終えていた。
いつでも出撃可能だと太鼓判を押されたばかりだったのだ。
『左様です。今朝〇七三一に本部に指示が下されました』
「絃執行官のAADはどうなっていますか?」
『現在のところ、指示が出ているのは絆様のAADのみです。輸送許可をお願いします』
自分の機体だけが再点検……少し考えて絆は軽く息をついた。
おそらく、ただの点検ではない。
この前回収した死星獣の残骸から、何らかの兵装を開発すると言う話を聞いたことがる。
多分、その試験台にされるのだ。
確証はないが、連絡員を問い詰めても仕方がない。
この人は何も知らないだろう。
短く輸送許可を出して、絆は通信を切った。
その『点検』作業が終わるのは、明後日の夜らしい。
ずいぶんと時間がかかる点検だ。
とりあえず本部が詳しく説明をしてこない以上、何を聞いても無駄だろう。
いざとなれば出撃拒否をすればいい。
そう考えて、絆はバーリェたちが食事中の食堂に戻った。
AADがないということは、死星獣が現れても出撃ができないと言うこと。
つまり、点検が終わるまで自分達は待機を解除されている状態に他ならない。
こんな機会はめったにない。
……軍のレジャー施設にでも連れて行ってやろうかな、などと考えながらドアを開ける。
レジャー施設というよりはリラクゼーション用、つまり軍人個々の精神安定のために設けられている特設施設であり別に遊ぶ場ではないのだが、リラックスできる空間なのは間違いがない。
席に着くと、皿の片づけを始めていた命がこちらを向いて口を開いた。
「絆さん。お仕事ですか?」
「また怖いのが来たの?」
まだ食事を続けていた愛が顔を上げて首を傾げる。
そしてガオーッ、と怪獣のようにおどけて見せた。
それを見て優と文がクスクス笑っている。
何か、内輪で話をしていた最中だったらしい。
どことなく安心しながら絆は軽く首を振った。
基本的に、彼女達バーリェは同族同士ではよほどのことがない限り喧嘩はしない。
そもそもが生体弾丸の特質上、互いに不快感を持つようには調整されていないのだ。
まぁ、あくまでそれはデータ上の調整における話であり、現実では当然該当しないケースも数多く存在しているが。
とりあえず、今回に限っては愛が他の子と不仲にならなかったようで、絆は安心していたのだった。
そもそもの愛の明るい性格もあり、また、あれから夜中暴れ出したりはしていなかったために、話を蒸し返したりする子はいなかった。
幸いだ。
「逆だよ。死星獣が出てこないから、ニ、三日遊んで来いってさ」
短く言うと、全員が一旦きょとんとした後、戸惑って互いの顔を見合わせた。
「あら……暇ですね……」
残念そうに命が呟く。
バカみたいに喜ぶとは思っていなかったが、雪までが少しがっかりした顔をしているのに気がつき、絆は僅かに予測を外れた展開に軽く息をついた。
日常生活の喜びと、彼女達個人が保有している自己顕示の欲求は別だ。
何よりもバーリェは戦闘で自分の命が消費されることを幸せと考える生き物。
難しい。
正直何年経っても、慣れない。
しかし絆はすぐに持ち直し、軽く笑いながら続けた。
「まぁ、滅多にないからなこういう機会は。優が行きたいって言ってた……アレ。フォロントンだっけか? さすがにあそこまで行くことは出来ないけど、軍のリラクゼーション設備を貸しきってやることは出来るぞ。たまにはここの外にも出てみたいだろ?」
そう聞くと、五人のバーリェの反応が一気に二分されたのが絆には分かった。
素直に喜んだ顔をしたのは、優、文、そして愛の三人。
雪と命は戸惑った顔でこちらを見ている。
「ほんと? 私本部の検査室以外に行くの生まれて初めて。絆、いつ行く?」
目を輝かせながら、優が身を乗り出して聞いてくる。
その隣で文も小さく笑っている。
言われてみればそうだ。
彼女達はここに来てから、他の場所に行くのはおそらく初めてのことだ。
「ラボにいても特にすることもないしな。俺が本部に了解もらったらすぐにでも移動するか」
「お出かけだって、愛、リラクなんとかってとこ、泳げるのかな?」
「泳ぐってここのお風呂よりおっきい?」
「バカだなぁ愛、泳ぐって言うのはもっと広くて深くて……」
聞いちゃいない。
絆は少しばかり表情を緩めて、反応がない二人の方を見て口を開いた。
「命も、雪も大丈夫か?」
言われて二人ともハッとしたように顔を上げる。
「あ……いえ、楽しみです」
一拍遅れてニッコリと命が笑う。
しかし雪は表情を落として下を向いてしまった。
「ゆ……」
雪、と呼びかけようとしたところで、いきなり目の前に愛の顔が飛び出してきて、危うく椅子から倒れこみそうになる。
大きな目を更に大きくした彼女が下からこちらを覗きこんでいたのだ。
「絆、私泳ぎたいー」
間延びした声で言われて、雪に向けかけていた言葉を飲み込む。
そして青年はポン、と愛の頭に手を置いた。
「分かった。じゃあ泳げるところを貸しきっておくか。必要なものは後で教えるから。とりあえずお前ら。メシ食って薬飲め。ちゃんとやることやらんとつれてってやんないぞ」
両手の平を叩いて、絆は言った。
◇
結局出発するのはその日の夜、六時に決定した。
本当なら明日の朝に出発すると言う余裕ある行動をとりたかったのだが、優、文と愛が騒いで仕方なかったのだ。
自室で本部に、リラクゼーション施設の一角を完全に貸しきる申請を出しながら、絆は軽く自分の顎を押さえた。
こんな風に休みになったから、バーリェを一度にどこか遊びに連れて行ってやるのは、この数年間で初めてのことだった。
個別に仕事や検査の合間に、精神を安定させるために連れて行ってやることはあっても、管理している子を全員いっぺんにと言うのはなかったことだ。
実を言うと、今回遊ばせたかったのは愛一人だけだった。
彼女だけを連れ出すことは出来た。
適当な理由をつけて全員に説明して出てくればよかったのだ。
しかし、何となく愛を一人にするのははばかられた。
理由は良く分からないが、そう感じたのだ。
申請はあっけないほど簡単に受理された。
絆ほどのトレーナーとなれば、多分施設の大部分を無条件で開けてもらえる。
だが今回はそんなに長く滞在はしないため、プールがついているところと、宿泊施設周辺に予約を入れただけだった。
パソコンから目を離し、椅子に体を預ける。
何となくノリで決めてしまったが、どうにも元老院の対応が気になった。
そういえば絃が調査してきたと言う、バーリェ強奪組織についての本部、元老院の意見も聞いていない。
さすがに今回で一、二回ではない。
黙殺するつもりはないと思うが……と、そこで息をついて窓の外を見る。
山の中の空気は澄んでいる。
ここ一帯の自然は特別保護を受けているため、バイオ技術でコントロールされていて殆ど年中青々としている。
しかし少し離れた大都市は、一面を紫がかった灰色のスモッグが覆っていた。
どんよりと、昼間でも霧がかかっているように見える。
最近はよりそれが顕著になってきたように感じる。
彼女達は、地球の裏側の『最後の自然が残っている』とメディアでは報道されているフォロントンという土地も、ここと同じようにバイオ技術で管理された場所だと言うことを知らない。
人間の手で守られていないところで、そもそも今の時代自然なんて存在することは出来ない。青い空も、緑色の草も、茶色の木も。
そんなものは自然発生でなんて生まれないものだ。
バーリェは、それを知らない。
例えばフォロントンに連れて行ったとして。
たとえまやかしだったとしても彼女達は喜ぶのだろうか。
何が嬉しいのだろうか。良く分からなかった。
◇
最近よく、少し歩いただけで息切れを起こす雪を抱いて車の助手席に乗せたころには、もうまわりは薄暗くなり始めていた。
そのまま車を飛ばし、いつも向かっているエフェッサー本部隣の軍施設に向かう。
軍人は基本的にバーリェに対していい感情は持っていない。
だから正面は避け、施設に入る裏口から直接乗りつける。
門をくぐったところで待機していた軍施設職員が数人現れ、絆たちはすぐさま宿泊予定の場所に通された。
まずは雪の手を引いて部屋に入り、ソファーに座らせる。
続いて高級ホテルの一室のようになっている部屋に、四人のバーリェが駆け込んできた。
命も、来る前までは納得のいかないような表情をしていたが、来てみれば来てみたで一番はしゃいでいるのは彼女だった。
急遽二段ベッドを二つ運び込んでもらっていたため、優と文がじゃんけんで、どちらが上に寝るか、早速揉めている。
そもそも相手の思考が何となく分かるバーリェにとって、じゃんけんは無意味なんだが、それに気づいていない。
……現に十数回あいこ。
絆から見ればどことなく異常な光景だが、それが楽しいらしく四人で集まって笑いあっている。
さすがに軍の一番高級な部屋を借りたので、いつも住んでいるラボよりもはるかに広かった。
それに、生活感がない小奇麗な部屋と言うのはたまに見てみると宝石のように感じるものだ。
数分後結局、どこをどうやって決まったのか、命と愛が上の方に寝ることになったらしい。
おそらく年長者の功とでも言ったのだろう。優と文は双子なため、どちらかが近くにいないと落ち着かない。
多分そうなるだろうな、と静観していたとおりになって、絆は少しだけ心の中で笑った。
ラボと違う雰囲気に呑まれているのか、四人の少女達全員がだらしなくベッドに寝転がりながらこっちを向く。
というか、全員靴を履いたままだ。
足をプラプラさせながら愛がこちらを見て、言った。
「雪ちゃん、一緒に寝ようー。ここ、二段ベッドでね、上の方気持ちいい」
突然呼びかけられて、ソファーで落ち着いていた雪は慌てて顔を上げた。
隣に座っている絆でさえ分かるほど、何だか元気がない。
ラボの外に出た途端落ち着かなくなってしまったようだった。
少し迷った後、雪は微笑んで顔の前で右手を振った。
「うぅん。私は高いとこ怖いから、愛ちゃん、ゆっくり広いとこでごろごろするといいよ」
「そ? じゃあそうするー」
即答して毛布を抱いてころころ体の位置を変える彼女。
気配がしないな、と思って視線をやると文は行儀良く枕に頭を乗せて寝息を立てていた。靴は履いたままだ。
……まぁ、滅多に外に出れないんだからしょうがないか。
と心の中で自分を納得させ、転がり落ちそうな愛と、便乗して遊んでいる命に声をかける。
「お前ら、その辺にしとけ。結構高いから落ちたら痛いぞ」
「私は大丈夫ー」
愛が元気に答えた端から、命が落ちた。
幸いなことに、床に積んであった毛布の山に背中から着地したので衝撃はなかったようだが目を白黒させている。
そんな彼女の様子を見て、優と愛が弾けるように笑い出した。
それにビクッと反応して文が飛び起きる。
バカ騒ぎ、とも言える光景だったが、不思議と怒る気も口を出す気にもならなかった。
命を真似して、彼女の上に愛が転がり落ちる。
何故か毛布の山の上めがけて優と文もジャンプし始めた。
ぐちゃぐちゃになった毛布の中、半泣きで命がもがいている。
「よかった。みんな楽しそうだね……」
不意に、ポツリと聞こえるか、聞こえないかの声で雪が呟いた。
彼女の方を見ると、目を閉じてコックリ、コックリと半分ほど眠る寸前の様子だった。
就寝前の、睡眠作用がある薬は飲ませていない。
薬に関する耐性……つまり雪の体質それ自体が変わってきている節がある、という話を思い出し、絆は黙って彼女のことを抱き上げた。そして小さく囁く。
「三時間くらい経って十時ごろ起こすから、そのときに薬を飲め。少し寝てろ」
「うん、そうする……」
ぼんやりと答えて、今度は完全に雪は目を閉じた。
騒いでいる四人を一瞥して、絆は自分用に用意されていたベッドの方に行き、白髪の少女を寝かせた。
そして枕の投げ合いを始めているバーリェたちの方に歩み寄る。
「おいお前ら、雪が寝たんだから少しは気を使え。メシをオーダーするよ。何でも好きなもの言え」
名目上はバーリェの精神安定、性能強化のためにこの施設を借り切っている。
費用は全額本部が負担だ。
気兼ねする理由はどこにもなかった。
◇
数時間後、絆は食べ散らかされたテーブルを見て大きく息をついた。
……疲れた。
大騒ぎ、という表現が一番適切だろう。
このように遊ぶために外に連れ出したのが初めての優と文が主体になって騒ぎ始めたのが発端。
バーリェはものを殆ど食べないために、料理はあらかた残っている。
が、何故か飲み物は全てなくなっていた。
彼女達全員を寝かせたのが、つい十分ほど前。
テーブルの上の惨状をもう一度見渡し、インターホンで係員を呼び出す。
しばらくすると軍部でもエフェッサー管轄の係員が数人現れ、慣れた手つきで料理の片づけをし始めた。
ものの五分ほどで全ての掃除を完了させ、彼らが出て行く。
一言も、言葉はない。
それが普通だ。
あっちは仕事でやっているんだし、こっちは仕事でやらせている。
そこには何の人間的関係はない。
エフェッサーの仕事も同じだ。
自分達が生き延びるために戦闘し、他の何かを犠牲にして勝つ。
ただそれだけが定理だし、後腐れも何もない。
それが常識。
この世界の当たり前のこと。
だが、バーリェとトレーナーの関係だけは違う。
そこにあるのは「感情」だし、社会に生きるうえでは全く必要のない温かさ、人を思いやる心。
そんなもの、自分が生きるためには必要のない要素を彼女達はこうまでして発散する。
嬉しいからと。まるでそれが、当たり前のように。
息をついて雪が寝ているベッドのほうに足を踏み出す。
そして絆は、白髪の少女の寝顔にそっと手を触れた。
温かい。
人が、人に触れること。
それもこの仕事を始めてから知った感触だった。
そのまま雪を揺すり、起こす。
少女は小さくうめくと眠そうにぼんやりと目を開けた。
焦点の合わない白濁した瞳がこちらを見つめる。
「雪、薬の時間だ。飲もう」
言うと、彼女はゆっくりと頷いて体を起こそうとした。
しかし力が入らないのか動きが途中で止まる。
それの介助をして上半身を起こさせ、絆は先ほど用意しておいたおびただしい数の錠剤が入ったケースを手に取った。
これで二十五種類。
「飲めるか?」
「……うん」
まだ寝ぼけているのか、返答が曖昧だ。
えづいて喉に詰まらせでもしたら大変なので、軽く頬を叩いて目を覚まさせる。
「しっかりしろ。薬だぞ?」
そこでやっと覚醒したらしく、雪は目をこすって絆の方を向いた。
「分かってるよ。大丈夫」
「そうか。じゃあ、自分で飲めるな」
そう言って水の入ったコップと、錠剤を次々に渡していく。
彼女は機械的に薬を飲み干し、小さく咳をしたあとまた横になった。
「ごめん、眠い……」
「気にするな。そのまま寝ていいぞ」
「うん」
ごく短いやり取りをして、雪の体に毛布をかけてやる。
改めて正面から見た彼女は、持ってきたふわふわした寝巻きを着せたとはいえ、非常に軽く、不気味なほど痩せていた。
絆は一つ息をついて、彼女の頭を撫でた。
そのまますぐに寝息を立て始める。
しばらくなにも考えずに少女のことを見つめていたが、青年はやがて立ち上がると、他の四人の少女達の寝ている場所へと足を踏み出した。
全員疲れたのか、ぐっすりと眠っている。
薬の作用もあるだろうが明日の朝までは目を覚まさない。
眠っている子達を順繰りに見回す。
愛は、うつ伏せになって枕を抱くようにして眠っていた。
他の子たちと変わらない。
いや……人間と見た目は寸分違うことはない。
このバーリェは、汚れています。
この子を引き取る時に、施設の研究員が言った言葉。
何気なく、彼は真実を言った。
仕事だから。
短く、効率的に本当のことを伝えた。
そう、それは本当のことだ。
愛は汚れていた。
ココロも、カラダも前のトレーナーに汚されきっていた。
でも絆は言った。
綺麗じゃないですか。
と、言った。
そうだ。
例えそれが本当のことでも。
なにも変わらないように見えたのだ。
自分達と。他のバーリェと。
なにも変わらないように、あの時は見えた。
手を伸ばして愛の頬に触れる。
雪の頬と、同じ感触。
少し彼女より温かい。
変わらないじゃないか。
彼女が自分のところに来てから何百回となく確認した、その『生きている』感触。
これでも汚れているというんだろうか。
今でもまだ、そう思う。
◇
悲鳴。
それを聞きながら絆は軽くため息をついた。
命が優に、プールに突き落とされた音。
泳げない命は足がつく深さなのにばたばたと水を撒き散らしている。
「助け……絆さん? 絆さん!」
それを見ながらプールサイドで爆笑している優と愛に視線を移動させ、絆は軽く頭を掻いた。
自分のバーリェながら、酷い。
急いでプールまで走っていき、飛び込む。
そしてもがいている命を抱えて軽々とプールから上がった。
文が心配そうに近づいてくる。
止めたのだろうが、彼女は泳ぐのは初めてだ。
助けに行こうか行くまいか迷っていたのだろう。
荒く咳をつきながら、プールサイドに救出された命は完全に泣いていた。
目を真っ赤にして優をにらんでいる。
さすがに恐怖を感じたらしく、愛と優は先を争うようにプールに飛び込んでいった。
二人とも、泳ぐのは初めてだ。
しかし驚くほど綺麗なフォームで着水する。
そのまますいすいと競争を始めたのを見て、絆は内心舌を巻いていた。
バーリェは生まれつき、このような運動能力をある程度はプログラムされて製造される。
実のところ、自由に泳がせるためにプールに連れてきたのは初めてのことなので、軽々と泳ぎ始めるとは全く思っていなかったのだ。
今までに泳がせたことがあるのは命一人だけ。
しかも彼女はしょっぱなから完全に溺れてしまい、水が嫌いであることが発覚した。
いくら個人差があるバーリェだといってもこんなことは初めてだ。
愛と競争している優を戸惑ったように見つめている文の背中を、軽く押す。
「大丈夫だ。お前もすぐに泳げるよ」
そう言ってやると、彼女はにっこりと笑ってプールに向けて走り出した。
そして姉と全く同じフォームで綺麗に飛び込む。
それを見て、目を赤くした命が傍目で分かるほど明らかに肩を落とした。
「……どうせ私はノロマですよ」
いじけたように呟く少女の黒髪をゴシゴシと撫でて軽く笑う。
「いや……まぁ、バーリェにも個人差があるさ。あいつらにはお前みたいに料理は作れないだろ?」
実際、そんなに運動能力について個人差はないはずなのだが、そう言っておく。
命は少し表情を明るくしたが、もうプールには近づきたくないらしく、ぴったりと絆の腕に張り付いていた。
少し離れた、芝生が広がっているエリアに彼女を連れて歩き出す。
ここは軍関係者が休暇に使うレクリエーション施設の一つだった。
天井がスクリーン形式になっていて、年中真夏のような人工の太陽光が照射されている。
日差しがきついらしく、パラソルを立てて作った日陰に、雪は静かに座っていた。
他の子は急遽本部から取り寄せた水着を着せているが、彼女だけいつも通りの……いや、朝に寒い気がするといっていたので少しばかり厚着の状態だ。
大きなタオルで丹念に髪を拭きながら命が雪の隣に座る。
「雪ちゃん、気分はどう?」
「うん。命ちゃんは泳がないの?」
「私は水は……ちょっと」
困ったように笑う命。
雪も微笑み返して、見えない目をプールのほうに向けた。
ここは貸切状態なので、自分達以外には誰もいない。
「でも水は、何だか小さいころを思い出すから私もやだな」
ポツリと雪が呟いた。
「小さいころ?」
聞き返すと、命も頷いて絆の顔を見上げた。その隣に腰を下ろす。
「はい。私たちが人工羊水の中に入っていた頃です」
そんなことをバーリェの口から聞くのは初めてのことだった。
驚いて思わず息が詰まる。
「な、何だって?」
「え? 絆は覚えてないの?」
問いかけると、逆に、ものすごく意外そうに雪がそう問い返してきた。
命の方を見ると同じようにきょとんとした顔をしている。
「覚えてないというか……俺のはもう二十年以上前の話だ。普通は覚えてないぞ」
困ったように雪と命が顔を見合わせる。
少しして、命がためらいがちに口を開いた。
「暗くて、息が出来ない場所です。私たちみんなそこの一つから生み出されました」
「あそこ、静かで冷たいから嫌いだった」
二人とも表情を落として口に出す。
人工羊水というのは、バーリェが細胞の状態から今の大きさまで成長させられる、人工的に作られた子宮の、内部に満たされた細胞液のことだ。
つまるところ、人間大の試験管。
バーリェの生産工場に行くとそれが何百何千と、気の遠くなるほどずらりと並んでいる。
それは、今の人間についてもシステムは同じだった。
細胞から培養されるわけではないが、精子と卵子を掛け合わせて病院で造られる。本質的にはバーリェとあまり変わりはない。
しかし、バーリェ一人一人が全て、自分が人工羊水に入っている間の記憶を保有しているというのは初めて知る事実だった。
おそらく、他のトレーナーも知らないだろう。
「愛とかも、覚えてるのかな?」
そう聞くと、屈託なく二人は頷いた。
「怖かったけど、気づいたら絆が私の傍にいた」
「私もですよ」
二人が笑う。
戸惑ったように笑い返し、彼女達の頭を撫でるが同時に絆は心のどこかで戦慄を感じていた。
今まで考えたこともなかったような、事実だった。
バーリェの記憶能力はすさまじい。
AADを動かすためには相当な知能指数が必要だからだ。
それはもう、生まれた瞬間にかけられた言葉さえも覚えている。
しかし生まれる……つまり試験管から排出される前にも自我があるということは。
つまり、生まれてこなかったバーリェ全員にも、自我があるということ。
一ヶ月に一つの工場から出荷される個体は、多くても五十。
それ以上出されても、トレーナー各員が管理することは出来ない。
単純計算で行くと、解体、リサイクルされる個体は、その何倍。
知らなかった。
体の芯が冷える感触。
何故か分からないが、どこかが恐ろしくなったのだ。
何が怖いというのだろう。
分からない。
だが、今目の前で笑って、はしゃいでいるバーリェたち。
この子達は選ばれた、特別な個体であることは分かっていた。
分かっていたが……理解をしていなかったんだと自覚したのだ。
「絆さん?」
青年の動揺を察したのか、命が心配そうに呼びかけてくる。
絆はハッとして今しがたの考えを、静かに胸の奥に押し留めた。
そんなことを今、自分が考えてもどうなるものでもない。
この子達に教えても、何がどうなるものでもない。
「……そっか。まぁ泳ぎたくなければ無理に泳がなければいい。ここはあったかいからな。のんびりしてろ。何か食べるか?」
「暑いからソフトクリームが食べたいです」
即座に命が返してくる。
休暇だ、と言っていた為にいつもよりふてぶてしいように感じるのが……妙におかしい。
「ああ。持ってきてやるよ。雪は何かいらないか?」
今日くらいはいいだろう。そう思って聞くと、雪は軽く首を振った。
「私は……ここにいるだけでいいよ」
「いいのか?」
問い返したところで、何かが走ってくる気配を感じて振り向く。
途端に芝生を蹴って、愛が勢いよく絆の腹に頭部から飛び込んだ。
モロにみぞおちに入ってそのまま倒れこむ。
「絆、アイス食べたい」
出し抜けに言われて、息が詰まったままの青年は目を白黒させながら小柄な少女を両手で持ち上げた。
「……お前な……」
小さく咳をして立ち上がる。命がそれを目を丸くして見ていた。
「絆さんって強い……」
小さい呟きが聴こえる。
愛を降ろし、じりじり痛むみぞおちをさすりながらプールの方を見る。
さっきまであんなに怖がっていたのに、文はもうすいすい泳いでいた。
優はというと、いない。
見回すと丁度飛び込み台の頂上に昇っている少女の姿が見えた。
一瞬血の気が引いて大声を上げる。
「おい優何やってんだ! 危ないぞ!」
走り出そうとしたところで、彼女が飛び降りた。
息が詰まる。
しかし小さな少女はそのまま綺麗に伸ばした手先を下にして着水した。
数秒して浮かび上がり、楽しそうに手を振っている。
大きくため息をついて額を抑える。
元気なバーリェだとは思っていたが、ここまでとは。
「おー、ゆう凄い」
素直に感嘆符を口に出し、しかしすぐに愛は絆の方を向いた。
「絆、アイス」
「……分かった。じゃあ今から一緒に買いに行くか」
「うんっ」
嬉しそうに頷く愛。
絆は座っている二人の方を向いて口を開いた。
「じゃあ少しはずすから、あの二人が無茶しないように気をつけててくれ」
「はい」
「分かったよ」
頷いたのを確認して、耐水性のジャージ上下を着込む。
さすがに競泳水着一つでは外に出れない。
愛にも同じものを着せて、手を繋いで部屋の外に向けて歩き出した。
◇
部屋の外に出ると、白い通路が続いている。基本的に同じような部屋が両脇の壁にずらりと並んでいる。
この辺りはトレーナーなどのVIP待遇を受ける役職の者が使用するエリアだが、いくつか自分達のように使われているところもあった。
食用品を購入できる場所は階下にある。
ポタポタと水滴を垂らしている愛の金髪を持ってきたタオルで拭いてやりながら、絆は廊下を歩き出した。
「泳いで気持ち悪くとかなってないか?」
「どうして? 気持ちいいよー」
屈託ない笑顔を向けられ、絆は思わず目をそらした。
そのまま前を向いて軽く笑い返す。
「……そうか」
この子も、生まれた時のことを覚えているのだろうか。
……いや、それはない。
二年以上前の記憶は完全に消されているはずだ。
覚えているはずはないんだ。
仮に……覚えているとしたら。
もしかしたら、何もかも記憶は消えていないんじゃないだろうか。
ふと、そんなことを思ってしまった臆病な自分がどことなく嫌になる。
何を考えているんだ、俺は……と、軽く息をついて少女の手を引く。
怖がっているのは他の誰でもない。
多分自分だ。
あの記憶を、誰よりも怖がっているのは、多分他でもない自分自身なのだ。
動かなくなったバーリェの山。
鎖に家畜のように繋がれた少女の姿。
忘れたくても忘れることなんて出来ない。
だから、この心のどこかから来る恐慌の気分はおそらく自分のものなのだ。
階下に下りるためにエレベーターに乗り込む。
愛はよほど絆と一緒にいることが嬉しいらしく、隠すそぶりもなく彼の腕に抱きついていた。
そのまま肩に猿のようにのぼり、ぶらぶらと宙に揺れている。
雪のように穏やかで静かでもなければ、命、優や文のようにことあるごとに自己主張したりもしない。
ただその場その場が嬉しければ、それでいい。
そんな子だ。
それが正しいかどうかなんて絆には分からなかった。
しかし、ただ言えることはこの子は他のバーリェと別の部分が確かにあるが……やはり同一の存在だということだった。
多分、触れないと分からない。目の前で感じてみないと分からない。
暖かさの確認というのだろうか。
理屈で説明することなんて出来ないが、そう思うのだ。
「絆」
扉が閉まったとき、唐突に愛が口を開いた。
「ん? どうした?」
「絆と遊ぶの、初めて」
端的に言われて一瞬きょとんとする。
そしてエレベーターが動き出した時、彼はその言葉の意味を理解した。
濡れた少女の金髪を撫でつけ、それに答える。
「ああ……そういえば、そうだな」
「絆はたのしくない?」
楽しいか。
瞬時には答えることが出来なかった。
これは、仕事だ。
トレーナーとしての仕事だ。
他でもないこの子の精神を安定させるために用意した舞台だ。
根幹的な要因はそこにあるし、実際そんなに深く考えているわけでもなかった。
首をかしげた少女を見下ろし、絆は息をついて静かに言った。
「楽しいよ。お前と遊びに来るのは、初めてだからな」
「あはは。後でいっしょに泳ごう」
「分かった分かった。ほら、肩から降りろ」
軽い少女の体を持ち上げて床に下ろす。
そこでエレベーターが停止し、扉が開いた。
しかし足を踏み出そうとして、反射的にその場に停止する。
勢いよく飛び出した愛は頭から目の前に立っていた男性にぶつかった。
そのまま跳ね返されるようによろめく。
とっさに彼女を抱きかかえて、さりげなく背後に移動させる。
状況を理解していない愛を庇う形で、絆は抑揚のない威嚇の視線を前に向けた。
エレベーターの前には、間が悪いことに軍部の兵士が六……七人待っていた。
いずれも若い。
そして全員が、愛を見た瞬間にまるで汚物を見るような嫌悪感をあらわにした表情になったのだ。
そのまま数秒間にらみ合い、絆は愛の手をしっかりと握った。
相手は七人。
ここで騒ぎを起こすのは得策ではない。
基本的に軍の人間は、バーリェを憎んでいる。
人ではない、人の形をした動く『動物』に自分達が劣っているのだという劣等感を常に抱いている。
それもそうだ。
軍の人間は、バーリェのエネルギーチャージのために囮や捨石にされることが多く、扱いは当然エフェッサー関連よりも低い。
軍がバーリェをどう呼んでいるか。
通称は、犬だ。
油断していたがここは軍の施設。
一般兵士がいても不思議ではない。
……無視するに限る。
そう決め、愛の手を引いてエレベーターから出ようとする。
途端に一人が、締まりかけたドアに手をかけて前に立ちふさがった。
「トレーナー様じゃありませんか。こんな場所にどうして?」
ぶしつけに質問され、絆は冷たく相手を見上げた。
トレーナーになってから、こういうことは殆ど日常的なものになっていた。
気に入らないからと、どうにもならないからと、それでも軍の人間は相手に干渉しようとする。
人間というのは、自分の命がかかっていると途端に醜い本性を出すものだ。
自分達の兵器は効かないのに、死星獣との戦闘では前線に出せられ、相手を駆逐できるバーリェは後方。
理解できる。
面白いはずがない。
だが、そんなことは知ったことではない。
「どけてもらおう。貴様らにはなんら関与する権利がない話だ」
鉄のように抑揚なく言い放つと、七人の兵士が一様に表情を歪めた。
それを見て、笑顔だった愛の表情が引きつる。
途端に体をすくめて絆の後ろに隠れた少女を見て、青年の言葉を無視して兵士の一人が口を開いた。
「休暇に女のガキ連れてきてご満悦とは、トレーナー様々だなぁ」
「……どけと言っている」
頭に血が上った。
冷静な表情のまま、言葉を発した兵士に向かって左手を伸ばす。
間髪を入れずに絆はそいつの胸倉を引き込んで足を払い、重心を崩しがてら廊下に投げとばした。
頭から倒れこんだ兵士が、綺麗に気絶したのか小さくうめいて動かなくなる。
トレーナーの思わぬ早業に、他の兵士達の動きが停止した。
絆は、こいつらが嫌いだった。
トレーナー関連……つまりエフェッサーになれるのは、社会でも『上層』の者達だ。
遺伝的にレベルが高い人間。
それが主に、この社会では政府の役人など、重要なポストにつくことが圧倒的に多い。
絆もそうだ。
遺伝的なランクはAAに属する。
しかし、この兵士達は違う。
Bか、それ以下。
上層ではない者たちがつくものだ。
別に差別主義者というわけではない。
そんなことどうだって良かったし、気にしたところで自分自身の何が変わるわけでもない。
しかし軍は違った。
一方的な劣等感を抱き、一方的な敵対感情を抱いてくる。
そうしなければ、社会的、遺伝的な不利を忘れることが出来ないのだということは分かる。
だが、それにいちいち相手をしていられるほど、絆は強くも弱くもなかった。
無駄口を叩くのを止め、兵士達の目が猫のように瞳孔拡大の様相を呈する。
「貴様らの行動は、軍令第三十五条二十八に触れているはずだ。ここでその場をどくなら、軍部に報告はしない。いちいち私も暇ではないのだからな」
同レベルに下がる気もなく、淡々と言い放つ。
しばらく迷っていたが、兵士達は倒れている一人を無理やりに起こして、絆から視線をそらした。
それを確認して、硬直している愛の手を強く引き、足早にその場を後にしようとする。
「……人間まがいが」
その時だった。
吐き捨てるように兵士の一人がそう呟いたのを聞き、絆は弾かれたように振り返った。
それと間髪をいれずに、エレベーターが音を立てて閉まる。
彼らが乗り込んだ音だった。
頭の中が妙に熱かった。
エレベーターののっぺりとした扉をにらみつける。
「絆……?」
そこで愛が戸惑ったように震える声を発した。
ハッとして、彼女の手を強く握り締めていたことに気づき、それを離す。
「あ……いや。気にすんな。変なことに時間とっちまったな」
息をついて歩き出す。
しかし愛はその場に停止したままだった。
振り返って怪訝そうに、青年は少女を見つめた。
「どうした?」
「わたしって、絆とちがうの?」
問いかけられて、息が詰まった。
バーリェにとって、『人間』という単語はトレーナーそのものに位置する。
自分のマスターたる者が世界の中心であり、それを核に存在しているバーリェにとって、時に人との言語認識には微妙な差異が生じることがあった。
最後の罵倒が、自分に投げつけられたことだというのをこの子は本能的に理解していたのだ。
答えられずに数秒間を置く。
しかし愛は、絆が言葉を発しようとしたのに被せるように、照れるように笑った。
「あの人たち……きらい。また会うの嫌だから、早くいこ」
そして早足で絆の手を引いて歩き出す。
息を吐いて、それに続く。
不意に先ほど兵士を掴んで投げた手に痛みが走り、絆は少女が掴んでいる方と反対側の手に視線を落とした。
気づかなかったが、小指を僅かにひねってしまっていたらしい。
ニ、三回曲げて、青年は小さくため息をついた。
◇
全員分の飲み物や冷物を買って、部屋に戻った時には意外に時間はかかっていなかったらしく、まだ優と……文まで加わって飛び込台から次々に落下している最中の光景が目に飛び込んできた。
命と雪は、少し離れたプールサイドに腰掛け、くるぶしくらいまでを水に浸している。
命は何でもないような自分の好きなものの話をするのが好きだ。
眼の見えない雪にとってそれを聞くのは、多分楽しいんだろう。
少しすれば飽きるだろう、とパラソルのところに愛と一緒に戻る。
持ってきたクーラーボックスにジュースの缶などを突っ込んで、絆はその場に腰を下ろした。
愛はというと、戻る途中からかぶりついていた特大のソフトクリームをまだ舐めている。
「お前も飛び込んできたらどうだ? 腹から落ちると痛いから、気をつけろよ」
そう呼びかけると、意外なことに愛は軽く首を振って絆の隣に腰を下ろした。
そして体を移動させ、青年の足の間に腰を下ろす。
椅子のように体を預けられ、絆は少しばかり戸惑ったが苦笑して少女の体を支えた。
「どうした?」
「……わたしだけの、絆」
聴こえるか聴こえないかの、本当に小さな声だった。
「一分くらい、このままでいたい」
愛にしては小さな声だった。
どうすればいいのかはよく分からなかった。だが、何となく少女の肩に手を回し、軽く抱いてやる。
冷たいソフトクリームを食べているせいかもしれない。
先ほど、軍部の人間に罵倒されたせいかもしれない。
愛の体はどことなく冷たかった。
「……気にすんな。お前と俺は、同じだよ」
大分経ってから絆は小さく、彼女に囁いた。
「……同じ?」
目の前でソフトクリームが溶けて、流れていくのをぼんやりと見つめながら少女が答える。
「ああ。俺の心臓の音が聞こえるか?」
胸が少女の背中についている。愛はかすかに頷いた。
「お前の、自分の心臓の音は聞こえるか?」
もう一度少女が頷く。
「…………それでいいと、俺は思うぞ?」
上手く言葉にすることが出来なかった。
何かを言おうとして失敗した、という表現の方が近いかもしれない。
ただ本当に、それだけで充分じゃないかと。
そう思っただけだったのだ。
「……ときどき、怖くなるんだ」
ポツリと愛は言った。
「絆が絆じゃなくなる気がして。わたしがわたしじゃなくなる気がして……何だか、よくわかんないけど……怖くなる」
「…………」
「ここにいないような気がする」
淡々と、金髪のバーリェは呟いた。
いつも元気で、何も考えていないように思っていた子。
彼女のそんな顔を見たことがなかった。
ぼんやりとした不安を恐れているような、そんな顔だった。
「でも絆といると、あんしんする」
「……そうか」
「絆のこと、好きだから」
幾度となくバーリェから聴いてきたそのセリフを、絆は愛から初めて聞いた。
小さな頭を軽く腕で抱いてやる。
「大丈夫だ。俺も、お前のことは好きだ」
「うん」
かすれた声で答えて、愛は指に流れてきた溶けたソフトクリームを見つめ、そして舐めた。
◇
数時間後、絆は食べ散らかされたテーブルを見て大きく息をついた。
……疲れた。
大騒ぎ、という表現が一番適切だろう。
このように遊ぶために外に連れ出したのが初めての優と文が主体になって騒ぎ始めたのが発端。
バーリェはものを殆ど食べないために、料理はあらかた残っている。
が、何故か飲み物は全てなくなっていた。
彼女達全員を寝かせたのが、つい十分ほど前。
テーブルの上の惨状をもう一度見渡し、インターホンで係員を呼び出す。
しばらくすると軍部でもエフェッサー管轄の係員が数人現れ、慣れた手つきで料理の片づけをし始めた。
ものの五分ほどで全ての掃除を完了させ、彼らが出て行く。
一言も、言葉はない。
それが普通だ。
あっちは仕事でやっているんだし、こっちは仕事でやらせている。
そこには何の人間的関係はない。
エフェッサーの仕事も同じだ。
自分達が生き延びるために戦闘し、他の何かを犠牲にして勝つ。
ただそれだけが定理だし、後腐れも何もない。
それが常識。
この世界の当たり前のこと。
だが、バーリェとトレーナーの関係だけは違う。
そこにあるのは「感情」だし、社会に生きるうえでは全く必要のない温かさ、人を思いやる心。
そんなもの、自分が生きるためには必要のない要素を彼女達はこうまでして発散する。
嬉しいからと。まるでそれが、当たり前のように。
息をついて雪が寝ているベッドのほうに足を踏み出す。
そして絆は、白髪の少女の寝顔にそっと手を触れた。
温かい。
人が、人に触れること。
それもこの仕事を始めてから知った感触だった。
そのまま雪を揺すり、起こす。
少女は小さくうめくと眠そうにぼんやりと目を開けた。
焦点の合わない白濁した瞳がこちらを見つめる。
「雪、薬の時間だ。飲もう」
言うと、彼女はゆっくりと頷いて体を起こそうとした。
しかし力が入らないのか動きが途中で止まる。
それの介助をして上半身を起こさせ、絆は先ほど用意しておいたおびただしい数の錠剤が入ったケースを手に取った。
これで二十五種類。
「飲めるか?」
「……うん」
まだ寝ぼけているのか、返答が曖昧だ。
えづいて喉に詰まらせでもしたら大変なので、軽く頬を叩いて目を覚まさせる。
「しっかりしろ。薬だぞ?」
そこでやっと覚醒したらしく、雪は目をこすって絆の方を向いた。
「分かってるよ。大丈夫」
「そうか。じゃあ、自分で飲めるな」
そう言って水の入ったコップと、錠剤を次々に渡していく。
彼女は機械的に薬を飲み干し、小さく咳をしたあとまた横になった。
「ごめん、眠い……」
「気にするな。そのまま寝ていいぞ」
「うん」
ごく短いやり取りをして、雪の体に毛布をかけてやる。
改めて正面から見た彼女は、持ってきたふわふわした寝巻きを着せたとはいえ、非常に軽く、不気味なほど痩せていた。
絆は一つ息をついて、彼女の頭を撫でた。
そのまますぐに寝息を立て始める。
しばらくなにも考えずに少女のことを見つめていたが、青年はやがて立ち上がると、他の四人の少女達の寝ている場所へと足を踏み出した。
全員疲れたのか、ぐっすりと眠っている。
薬の作用もあるだろうが明日の朝までは目を覚まさない。
眠っている子達を順繰りに見回す。
愛は、うつ伏せになって枕を抱くようにして眠っていた。
他の子たちと変わらない。
いや……人間と見た目は寸分違うことはない。
このバーリェは、汚れています。
この子を引き取る時に、施設の研究員が言った言葉。
何気なく、彼は真実を言った。
仕事だから。
短く、効率的に本当のことを伝えた。
そう、それは本当のことだ。
愛は汚れていた。
ココロも、カラダも前のトレーナーに汚されきっていた。
でも絆は言った。
綺麗じゃないですか。
と、言った。
そうだ。
例えそれが本当のことでも。
なにも変わらないように見えたのだ。
自分達と。他のバーリェと。
なにも変わらないように、あの時は見えた。
手を伸ばして愛の頬に触れる。
雪の頬と、同じ感触。
少し彼女より温かい。
変わらないじゃないか。
彼女が自分のところに来てから何百回となく確認した、その『生きている』感触。
これでも汚れているというんだろうか。
今でもまだ、そう思う。
◇
悲鳴。
それを聞きながら絆は軽くため息をついた。
命が優に、プールに突き落とされた音。
泳げない命は足がつく深さなのにばたばたと水を撒き散らしている。
「助け……絆さん? 絆さん!」
それを見ながらプールサイドで爆笑している優と愛に視線を移動させ、絆は軽く頭を掻いた。
自分のバーリェながら、酷い。
急いでプールまで走っていき、飛び込む。
そしてもがいている命を抱えて軽々とプールから上がった。
文が心配そうに近づいてくる。
止めたのだろうが、彼女は泳ぐのは初めてだ。
助けに行こうか行くまいか迷っていたのだろう。
荒く咳をつきながら、プールサイドに救出された命は完全に泣いていた。
目を真っ赤にして優をにらんでいる。
さすがに恐怖を感じたらしく、愛と優は先を争うようにプールに飛び込んでいった。
二人とも、泳ぐのは初めてだ。
しかし驚くほど綺麗なフォームで着水する。
そのまますいすいと競争を始めたのを見て、絆は内心舌を巻いていた。
バーリェは生まれつき、このような運動能力をある程度はプログラムされて製造される。
実のところ、自由に泳がせるためにプールに連れてきたのは初めてのことなので、軽々と泳ぎ始めるとは全く思っていなかったのだ。
今までに泳がせたことがあるのは命一人だけ。
しかも彼女はしょっぱなから完全に溺れてしまい、水が嫌いであることが発覚した。
いくら個人差があるバーリェだといってもこんなことは初めてだ。
愛と競争している優を戸惑ったように見つめている文の背中を、軽く押す。
「大丈夫だ。お前もすぐに泳げるよ」
そう言ってやると、彼女はにっこりと笑ってプールに向けて走り出した。
そして姉と全く同じフォームで綺麗に飛び込む。
それを見て、目を赤くした命が傍目で分かるほど明らかに肩を落とした。
「……どうせ私はノロマですよ」
いじけたように呟く少女の黒髪をゴシゴシと撫でて軽く笑う。
「いや……まぁ、バーリェにも個人差があるさ。あいつらにはお前みたいに料理は作れないだろ?」
実際、そんなに運動能力について個人差はないはずなのだが、そう言っておく。
命は少し表情を明るくしたが、もうプールには近づきたくないらしく、ぴったりと絆の腕に張り付いていた。
少し離れた、芝生が広がっているエリアに彼女を連れて歩き出す。
ここは軍関係者が休暇に使うレクリエーション施設の一つだった。
天井がスクリーン形式になっていて、年中真夏のような人工の太陽光が照射されている。
日差しがきついらしく、パラソルを立てて作った日陰に、雪は静かに座っていた。
他の子は急遽本部から取り寄せた水着を着せているが、彼女だけいつも通りの……いや、朝に寒い気がするといっていたので少しばかり厚着の状態だ。
大きなタオルで丹念に髪を拭きながら命が雪の隣に座る。
「雪ちゃん、気分はどう?」
「うん。命ちゃんは泳がないの?」
「私は水は……ちょっと」
困ったように笑う命。
雪も微笑み返して、見えない目をプールのほうに向けた。
ここは貸切状態なので、自分達以外には誰もいない。
「でも水は、何だか小さいころを思い出すから私もやだな」
ポツリと雪が呟いた。
「小さいころ?」
聞き返すと、命も頷いて絆の顔を見上げた。その隣に腰を下ろす。
「はい。私たちが人工羊水の中に入っていた頃です」
そんなことをバーリェの口から聞くのは初めてのことだった。
驚いて思わず息が詰まる。
「な、何だって?」
「え? 絆は覚えてないの?」
問いかけると、逆に、ものすごく意外そうに雪がそう問い返してきた。
命の方を見ると同じようにきょとんとした顔をしている。
「覚えてないというか……俺のはもう二十年以上前の話だ。普通は覚えてないぞ」
困ったように雪と命が顔を見合わせる。
少しして、命がためらいがちに口を開いた。
「暗くて、息が出来ない場所です。私たちみんなそこの一つから生み出されました」
「あそこ、静かで冷たいから嫌いだった」
二人とも表情を落として口に出す。
人工羊水というのは、バーリェが細胞の状態から今の大きさまで成長させられる、人工的に作られた子宮の、内部に満たされた細胞液のことだ。
つまるところ、人間大の試験管。
バーリェの生産工場に行くとそれが何百何千と、気の遠くなるほどずらりと並んでいる。
それは、今の人間についてもシステムは同じだった。
細胞から培養されるわけではないが、精子と卵子を掛け合わせて病院で造られる。本質的にはバーリェとあまり変わりはない。
しかし、バーリェ一人一人が全て、自分が人工羊水に入っている間の記憶を保有しているというのは初めて知る事実だった。
おそらく、他のトレーナーも知らないだろう。
「愛とかも、覚えてるのかな?」
そう聞くと、屈託なく二人は頷いた。
「怖かったけど、気づいたら絆が私の傍にいた」
「私もですよ」
二人が笑う。
戸惑ったように笑い返し、彼女達の頭を撫でるが同時に絆は心のどこかで戦慄を感じていた。
今まで考えたこともなかったような、事実だった。
バーリェの記憶能力はすさまじい。
AADを動かすためには相当な知能指数が必要だからだ。
それはもう、生まれた瞬間にかけられた言葉さえも覚えている。
しかし生まれる……つまり試験管から排出される前にも自我があるということは。
つまり、生まれてこなかったバーリェ全員にも、自我があるということ。
一ヶ月に一つの工場から出荷される個体は、多くても五十。
それ以上出されても、トレーナー各員が管理することは出来ない。
単純計算で行くと、解体、リサイクルされる個体は、その何倍。
知らなかった。
体の芯が冷える感触。
何故か分からないが、どこかが恐ろしくなったのだ。
何が怖いというのだろう。
分からない。
だが、今目の前で笑って、はしゃいでいるバーリェたち。
この子達は選ばれた、特別な個体であることは分かっていた。
分かっていたが……理解をしていなかったんだと自覚したのだ。
「絆さん?」
青年の動揺を察したのか、命が心配そうに呼びかけてくる。
絆はハッとして今しがたの考えを、静かに胸の奥に押し留めた。
そんなことを今、自分が考えてもどうなるものでもない。
この子達に教えても、何がどうなるものでもない。
「……そっか。まぁ泳ぎたくなければ無理に泳がなければいい。ここはあったかいからな。のんびりしてろ。何か食べるか?」
「暑いからソフトクリームが食べたいです」
即座に命が返してくる。
休暇だ、と言っていた為にいつもよりふてぶてしいように感じるのが……妙におかしい。
「ああ。持ってきてやるよ。雪は何かいらないか?」
今日くらいはいいだろう。そう思って聞くと、雪は軽く首を振った。
「私は……ここにいるだけでいいよ」
「いいのか?」
問い返したところで、何かが走ってくる気配を感じて振り向く。
途端に芝生を蹴って、愛が勢いよく絆の腹に頭部から飛び込んだ。
モロにみぞおちに入ってそのまま倒れこむ。
「絆、アイス食べたい」
出し抜けに言われて、息が詰まったままの青年は目を白黒させながら小柄な少女を両手で持ち上げた。
「……お前な……」
小さく咳をして立ち上がる。命がそれを目を丸くして見ていた。
「絆さんって強い……」
小さい呟きが聴こえる。
愛を降ろし、じりじり痛むみぞおちをさすりながらプールの方を見る。
さっきまであんなに怖がっていたのに、文はもうすいすい泳いでいた。
優はというと、いない。
見回すと丁度飛び込み台の頂上に昇っている少女の姿が見えた。
一瞬血の気が引いて大声を上げる。
「おい優何やってんだ! 危ないぞ!」
走り出そうとしたところで、彼女が飛び降りた。
息が詰まる。
しかし小さな少女はそのまま綺麗に伸ばした手先を下にして着水した。
数秒して浮かび上がり、楽しそうに手を振っている。
大きくため息をついて額を抑える。
元気なバーリェだとは思っていたが、ここまでとは。
「おー、ゆう凄い」
素直に感嘆符を口に出し、しかしすぐに愛は絆の方を向いた。
「絆、アイス」
「……分かった。じゃあ今から一緒に買いに行くか」
「うんっ」
嬉しそうに頷く愛。
絆は座っている二人の方を向いて口を開いた。
「じゃあ少しはずすから、あの二人が無茶しないように気をつけててくれ」
「はい」
「分かったよ」
頷いたのを確認して、耐水性のジャージ上下を着込む。
さすがに競泳水着一つでは外に出れない。
愛にも同じものを着せて、手を繋いで部屋の外に向けて歩き出した。
◇
部屋の外に出ると、白い通路が続いている。基本的に同じような部屋が両脇の壁にずらりと並んでいる。
この辺りはトレーナーなどのVIP待遇を受ける役職の者が使用するエリアだが、いくつか自分達のように使われているところもあった。
食用品を購入できる場所は階下にある。
ポタポタと水滴を垂らしている愛の金髪を持ってきたタオルで拭いてやりながら、絆は廊下を歩き出した。
「泳いで気持ち悪くとかなってないか?」
「どうして? 気持ちいいよー」
屈託ない笑顔を向けられ、絆は思わず目をそらした。
そのまま前を向いて軽く笑い返す。
「……そうか」
この子も、生まれた時のことを覚えているのだろうか。
……いや、それはない。
二年以上前の記憶は完全に消されているはずだ。
覚えているはずはないんだ。
仮に……覚えているとしたら。
もしかしたら、何もかも記憶は消えていないんじゃないだろうか。
ふと、そんなことを思ってしまった臆病な自分がどことなく嫌になる。
何を考えているんだ、俺は……と、軽く息をついて少女の手を引く。
怖がっているのは他の誰でもない。
多分自分だ。
あの記憶を、誰よりも怖がっているのは、多分他でもない自分自身なのだ。
動かなくなったバーリェの山。
鎖に家畜のように繋がれた少女の姿。
忘れたくても忘れることなんて出来ない。
だから、この心のどこかから来る恐慌の気分はおそらく自分のものなのだ。
階下に下りるためにエレベーターに乗り込む。
愛はよほど絆と一緒にいることが嬉しいらしく、隠すそぶりもなく彼の腕に抱きついていた。
そのまま肩に猿のようにのぼり、ぶらぶらと宙に揺れている。
雪のように穏やかで静かでもなければ、命、優や文のようにことあるごとに自己主張したりもしない。
ただその場その場が嬉しければ、それでいい。
そんな子だ。
それが正しいかどうかなんて絆には分からなかった。
しかし、ただ言えることはこの子は他のバーリェと別の部分が確かにあるが……やはり同一の存在だということだった。
多分、触れないと分からない。目の前で感じてみないと分からない。
暖かさの確認というのだろうか。
理屈で説明することなんて出来ないが、そう思うのだ。
「絆」
扉が閉まったとき、唐突に愛が口を開いた。
「ん? どうした?」
「絆と遊ぶの、初めて」
端的に言われて一瞬きょとんとする。
そしてエレベーターが動き出した時、彼はその言葉の意味を理解した。
濡れた少女の金髪を撫でつけ、それに答える。
「ああ……そういえば、そうだな」
「絆はたのしくない?」
楽しいか。
瞬時には答えることが出来なかった。
これは、仕事だ。
トレーナーとしての仕事だ。
他でもないこの子の精神を安定させるために用意した舞台だ。
根幹的な要因はそこにあるし、実際そんなに深く考えているわけでもなかった。
首をかしげた少女を見下ろし、絆は息をついて静かに言った。
「楽しいよ。お前と遊びに来るのは、初めてだからな」
「あはは。後でいっしょに泳ごう」
「分かった分かった。ほら、肩から降りろ」
軽い少女の体を持ち上げて床に下ろす。
そこでエレベーターが停止し、扉が開いた。
しかし足を踏み出そうとして、反射的にその場に停止する。
勢いよく飛び出した愛は頭から目の前に立っていた男性にぶつかった。
そのまま跳ね返されるようによろめく。
とっさに彼女を抱きかかえて、さりげなく背後に移動させる。
状況を理解していない愛を庇う形で、絆は抑揚のない威嚇の視線を前に向けた。
エレベーターの前には、間が悪いことに軍部の兵士が六……七人待っていた。
いずれも若い。
そして全員が、愛を見た瞬間にまるで汚物を見るような嫌悪感をあらわにした表情になったのだ。
そのまま数秒間にらみ合い、絆は愛の手をしっかりと握った。
相手は七人。
ここで騒ぎを起こすのは得策ではない。
基本的に軍の人間は、バーリェを憎んでいる。
人ではない、人の形をした動く『動物』に自分達が劣っているのだという劣等感を常に抱いている。
それもそうだ。
軍の人間は、バーリェのエネルギーチャージのために囮や捨石にされることが多く、扱いは当然エフェッサー関連よりも低い。
軍がバーリェをどう呼んでいるか。
通称は、犬だ。
油断していたがここは軍の施設。
一般兵士がいても不思議ではない。
……無視するに限る。
そう決め、愛の手を引いてエレベーターから出ようとする。
途端に一人が、締まりかけたドアに手をかけて前に立ちふさがった。
「トレーナー様じゃありませんか。こんな場所にどうして?」
ぶしつけに質問され、絆は冷たく相手を見上げた。
トレーナーになってから、こういうことは殆ど日常的なものになっていた。
気に入らないからと、どうにもならないからと、それでも軍の人間は相手に干渉しようとする。
人間というのは、自分の命がかかっていると途端に醜い本性を出すものだ。
自分達の兵器は効かないのに、死星獣との戦闘では前線に出せられ、相手を駆逐できるバーリェは後方。
理解できる。
面白いはずがない。
だが、そんなことは知ったことではない。
「どけてもらおう。貴様らにはなんら関与する権利がない話だ」
鉄のように抑揚なく言い放つと、七人の兵士が一様に表情を歪めた。
それを見て、笑顔だった愛の表情が引きつる。
途端に体をすくめて絆の後ろに隠れた少女を見て、青年の言葉を無視して兵士の一人が口を開いた。
「休暇に女のガキ連れてきてご満悦とは、トレーナー様々だなぁ」
「……どけと言っている」
頭に血が上った。
冷静な表情のまま、言葉を発した兵士に向かって左手を伸ばす。
間髪を入れずに絆はそいつの胸倉を引き込んで足を払い、重心を崩しがてら廊下に投げとばした。
頭から倒れこんだ兵士が、綺麗に気絶したのか小さくうめいて動かなくなる。
トレーナーの思わぬ早業に、他の兵士達の動きが停止した。
絆は、こいつらが嫌いだった。
トレーナー関連……つまりエフェッサーになれるのは、社会でも『上層』の者達だ。
遺伝的にレベルが高い人間。
それが主に、この社会では政府の役人など、重要なポストにつくことが圧倒的に多い。
絆もそうだ。
遺伝的なランクはAAに属する。
しかし、この兵士達は違う。
Bか、それ以下。
上層ではない者たちがつくものだ。
別に差別主義者というわけではない。
そんなことどうだって良かったし、気にしたところで自分自身の何が変わるわけでもない。
しかし軍は違った。
一方的な劣等感を抱き、一方的な敵対感情を抱いてくる。
そうしなければ、社会的、遺伝的な不利を忘れることが出来ないのだということは分かる。
だが、それにいちいち相手をしていられるほど、絆は強くも弱くもなかった。
無駄口を叩くのを止め、兵士達の目が猫のように瞳孔拡大の様相を呈する。
「貴様らの行動は、軍令第三十五条二十八に触れているはずだ。ここでその場をどくなら、軍部に報告はしない。いちいち私も暇ではないのだからな」
同レベルに下がる気もなく、淡々と言い放つ。
しばらく迷っていたが、兵士達は倒れている一人を無理やりに起こして、絆から視線をそらした。
それを確認して、硬直している愛の手を強く引き、足早にその場を後にしようとする。
「……人間まがいが」
その時だった。
吐き捨てるように兵士の一人がそう呟いたのを聞き、絆は弾かれたように振り返った。
それと間髪をいれずに、エレベーターが音を立てて閉まる。
彼らが乗り込んだ音だった。
頭の中が妙に熱かった。
エレベーターののっぺりとした扉をにらみつける。
「絆……?」
そこで愛が戸惑ったように震える声を発した。
ハッとして、彼女の手を強く握り締めていたことに気づき、それを離す。
「あ……いや。気にすんな。変なことに時間とっちまったな」
息をついて歩き出す。
しかし愛はその場に停止したままだった。
振り返って怪訝そうに、青年は少女を見つめた。
「どうした?」
「わたしって、絆とちがうの?」
問いかけられて、息が詰まった。
バーリェにとって、『人間』という単語はトレーナーそのものに位置する。
自分のマスターたる者が世界の中心であり、それを核に存在しているバーリェにとって、時に人との言語認識には微妙な差異が生じることがあった。
最後の罵倒が、自分に投げつけられたことだというのをこの子は本能的に理解していたのだ。
答えられずに数秒間を置く。
しかし愛は、絆が言葉を発しようとしたのに被せるように、照れるように笑った。
「あの人たち……きらい。また会うの嫌だから、早くいこ」
そして早足で絆の手を引いて歩き出す。
息を吐いて、それに続く。
不意に先ほど兵士を掴んで投げた手に痛みが走り、絆は少女が掴んでいる方と反対側の手に視線を落とした。
気づかなかったが、小指を僅かにひねってしまっていたらしい。
ニ、三回曲げて、青年は小さくため息をついた。
◇
全員分の飲み物や冷物を買って、部屋に戻った時には意外に時間はかかっていなかったらしく、まだ優と……文まで加わって飛び込台から次々に落下している最中の光景が目に飛び込んできた。
命と雪は、少し離れたプールサイドに腰掛け、くるぶしくらいまでを水に浸している。
命は何でもないような自分の好きなものの話をするのが好きだ。
眼の見えない雪にとってそれを聞くのは、多分楽しいんだろう。
少しすれば飽きるだろう、とパラソルのところに愛と一緒に戻る。
持ってきたクーラーボックスにジュースの缶などを突っ込んで、絆はその場に腰を下ろした。
愛はというと、戻る途中からかぶりついていた特大のソフトクリームをまだ舐めている。
「お前も飛び込んできたらどうだ? 腹から落ちると痛いから、気をつけろよ」
そう呼びかけると、意外なことに愛は軽く首を振って絆の隣に腰を下ろした。
そして体を移動させ、青年の足の間に腰を下ろす。
椅子のように体を預けられ、絆は少しばかり戸惑ったが苦笑して少女の体を支えた。
「どうした?」
「……わたしだけの、絆」
聴こえるか聴こえないかの、本当に小さな声だった。
「一分くらい、このままでいたい」
愛にしては小さな声だった。
どうすればいいのかはよく分からなかった。だが、何となく少女の肩に手を回し、軽く抱いてやる。
冷たいソフトクリームを食べているせいかもしれない。
先ほど、軍部の人間に罵倒されたせいかもしれない。
愛の体はどことなく冷たかった。
「……気にすんな。お前と俺は、同じだよ」
大分経ってから絆は小さく、彼女に囁いた。
「……同じ?」
目の前でソフトクリームが溶けて、流れていくのをぼんやりと見つめながら少女が答える。
「ああ。俺の心臓の音が聞こえるか?」
胸が少女の背中についている。愛はかすかに頷いた。
「お前の、自分の心臓の音は聞こえるか?」
もう一度少女が頷く。
「…………それでいいと、俺は思うぞ?」
上手く言葉にすることが出来なかった。
何かを言おうとして失敗した、という表現の方が近いかもしれない。
ただ本当に、それだけで充分じゃないかと。
そう思っただけだったのだ。
「……ときどき、怖くなるんだ」
ポツリと愛は言った。
「絆が絆じゃなくなる気がして。わたしがわたしじゃなくなる気がして……何だか、よくわかんないけど……怖くなる」
「…………」
「ここにいないような気がする」
淡々と、金髪のバーリェは呟いた。
いつも元気で、何も考えていないように思っていた子。
彼女のそんな顔を見たことがなかった。
ぼんやりとした不安を恐れているような、そんな顔だった。
「でも絆といると、あんしんする」
「……そうか」
「絆のこと、好きだから」
幾度となくバーリェから聴いてきたそのセリフを、絆は愛から初めて聞いた。
小さな頭を軽く腕で抱いてやる。
「大丈夫だ。俺も、お前のことは好きだ」
「うん」
かすれた声で答えて、愛は指に流れてきた溶けたソフトクリームを見つめ、そして舐めた。
◇
この死星獣の本体は、おそらくブリキの化け物のようなあの風体ではなく、影のようなこの蟻地獄なのではないか。
それが分離してこちらに向かってきていたのではないか。
考えたくない事実が、一人でに脳の奥に湧き上がる。
周囲に、黒い霧のような粒子がいつの間にか充満していた。
ブラックホール粒子だ。
絆と他のバーリェ達AADは自動で生体エネルギーが膜のように周囲を張り、灰化を防いだが、彼らが乗っている巨大なキャノン砲は直接死星獣に触れている。
しかもエネルギーコーティングされていないために、ゆっくりと、表面から灰になって散っていった。
周囲に立ち込めているこの粒子は電波も何もかもを吸収してしまう。
ここまで接近、展開されてしまったら、通信も使えない。
迂闊だった。
まさか足元に出てくるとは思ってもいなかった。
周囲を確認すると、司令部からの操作が切れた、バーリェ達の乗るそれぞれの戦車が、コントロールを失って所在なさげにキャノン砲の上で揺れている。
指示がなければ、彼女達は逃げることも出来ない。
仮に逃げようとしたところで、戦車ではどうしようもない。
横を見ると、エネルギーコーティングのために力を吸収され、僅かに苦しそうにしている愛の様子が目に入った。
最悪だ。
今まで何回も戦闘をしてきたが、こんなに最悪になったのは初めてのことだ。
ついさっきまで、元気に泳いでいたこの子達と笑って。
そしてなだめて寝かしつけて。
そんな日常が現実のことではないと、無理やりに頭に叩きつけられる感覚。
どうする?
どうすればいい。
ここは戦場だ。
俺達は、この化け物がいる世界に生きている。
そして俺は、これを破壊しなければならない。
生きるために。
それが一番目の優先事項だ。
何にも変えがたい真実。
だから、戦わなければならない。
それがたとえどんなに非現実に感じられたとしても。
戦わなければ、死ぬ。
「愛、動くぞ!」
もう、愛の生体エネルギーは殆ど限界に近かった。
計器が指しているラインは、起動状態を保つのに必要なだけだ。
雪の時と比べ、およそ三十分の一の出力。
だが……動くしかない。
灰化を続ける巨大キャノン砲を蹴り上げ、人型戦車はその鈍重な巨体を宙に躍らせた。
そして細長い棍を下に向け、蟻地獄の中心に落下する。
エネルギー抽出でいっぱいいっぱいの愛が操作できないのなら、動かすのは自分がやるしかない。
数十メートルも急速に落下する感触。
まるで滝から落ちていくかの上に、体が僅かにシートから浮く。
そして陽月王の重量と落下の速度を含有した、金色に光る棍は、そのまま黒い影に突き刺さった。
脳が飛び出しそうな衝撃。
歯を食いしばって耐え、とっさに計器を操作する。
そして絆は棍に出力している愛の生体エネルギーを瞬間的に最大まで上げた。
隣の席で、金髪の少女の体がビクンと跳ねる。
明らかに、不自然な体の反応。
チャンスがあるとすればこれだけだ。
棍から影に、金色の光が広がる。
それは瞬く間に蟻地獄状態の足元全体を覆い包むと、次の瞬間、白く爆ぜた。
空気中に黒い影が散り、霧へと霧散して光に溶けていく。
すり鉢上に抉れたアスファルトの地面に、機械人形が肩部から落下する。
衝撃で一部の装甲が弾けとんだ。
激しく咳をしている愛に目をやり、慌てて彼女の頭を抱きかかえる。
「大丈夫か!」
「く、苦しい……」
計器はもはや限界だった。
エネルギーゲインが圧倒的に足りなく、一部の装置が危険値を示す点滅を繰り返している。
『生体エネルギー融合炉、活動限界まで、あと百二十秒です』
AIが唐突に告げる。
しかし顔を上げた絆は、再び心の底から青くなった。
飛び散らせた黒い影状の死星獣は、所々が周囲の建物に張り付いている。
それら一つ一つが、ナメクジのように動き……そして瞬く間に道路の真ん中で一つにまとまりはじめた。
「まさか、分離してたんじゃなくて。さっきもこうやって再生したのか……」
何だこれは。
目の前で起こっていることに、頭がついていかない。
こんなに高度な再生能力を持つ死星獣は、今までに存在していない。
触れただけで消滅。
エネルギー兵器で攻撃しても、即座に再生。
倒せるのか?
(倒せるわけないだろ、こんなの!)
本部との通信のボタンを何度も押すが、今だ周囲に立ち込めているブラックホール粒子に干渉されて繋がらない。
それ以前に、あと百二十秒後には七○一号は停止してしまう。
そうすればエネルギーコーティングがなくなり、自分達も消滅だ。
「愛、離脱するぞ!」
押し殺した声で叫ぶ。
咳を続けていた少女は、しかし言葉の意味を察して機体を反転させた。
そのまま脚部のキャタピラを高速で回転させ、死星獣と反対方向に退避を始める。
だが、数秒も経たずに機体は揺れて停止した。
「な……」
言葉を発することも出来ずに呆然とする。
最初に焼け跡で見た状態の、ブリキの化け物のような死星獣が、手を伸ばしていた。
それが七○一号の背部装甲に食い込んでいる。
とんでもない力で押さえつけられ、機械人形が激しく振動する。
「馬鹿な……あの状態から、こんな時間で」
『活動限界まで、あと百秒です』
AIの声が、うるさい。
焦り出す間もなく、軽々と七○一号は持ち上げられると、化け物の方に引き寄せられた。
死星獣の腹に当たる部分が大きく開き、内部の黒ずんだ……まるで沼のような空間が目に飛び込んでくる。
それは本で読んだ、ブラックホールに酷似していた。
虚無というのだろうか。
何もない。
光も、空気さえも何もかも存在していないただの黒い空間。
本当に、そこには何も存在していなかった。
伸ばした手が曲がり、機械人形がその穴の真上に移動させられる。
『活動限界まで、あと八十秒です』
「くそ……!」
もがく。
もう棍は使えないので、AADの素手で死星獣の、アメーバのような腕を掴む。
しかしそれは氷のように硬かった。
流れ落ちる水のようにどろどろしている外見なのに、めり込むこともない。
握り潰すことも出来ない。
『活動限界まで、あと七十秒です』
瞬間、隣で座っていた愛の鼻から、一筋だけ赤い血が流れ落ちた。
少女がそれを手で拭い、一瞬だけポカンと見つめる。
「愛、機体を捨てて脱出する。ハッチを開けるんだ。早く!」
AADには、脱出装置はついていない。
バーリェが逃げ出さないようにという、残酷な配慮だ。
外に出たとしても、上空十数メートルに持ち上げられている状態。
無事に逃げられるとは限らない。
しかし、ここにいるよりは遥かにましだ。
愛の答えを待たずに、ハッチを空けようとボタンに手を伸ばす。
そこで絆は、ハッとして手を止めた。
愛の小さく、細い手が軽く自分の手を引いたのだ。
彼女は、ボタンを押そうとする彼の手を止めた。
冷たかった。
十数分前にこの機体に乗るまでは、温かかった手。
それがまるで石のように冷たかった。
その感触に呆然とする。
愛は絆に寂しそうに笑いかけると、乾燥した唇を開いた。
「……にげないで。お願いだから」
「え……?」
「わたし、ちゃんと動く。ちゃんとあれ、壊せる。だからにげないで。一緒に、戦って」
『活動限界まで、あと六十秒です』
「お願いだから……」
手が、震えていた。
絆は胸の奥がナイフで切り刻まれるような感覚に襲われた。
バーリェの存在価値は、AADを動かし、トレーナーの命令で死星獣を破壊すること。それ以外にはない。
バーリェの中での神はトレーナーだし、自分の管理者の言うことが全ての絶対事項。
動かすことが、戦うことが存在理由。
そして意義。
「絆、大好き。だから、わたし……できる」
荒く息をついて、少女が息を吸う。
小さな肩が上下していた。
「やめろ……」
思わず呟いていた。
彼女が何をするつもりなのか、分かったから。
それを瞬時に理解してしまったから。
絆は自分の顔から血の気が引いていくのを確かに感じた。
「やめろ愛、俺の話を……」
『活動限界まで、あと四十秒です』
「絆、大好き。あれは絆の敵。私の敵。だから、壊さなきゃ……壊さなきゃならないんだよね」
「愛!」
「……絆はどこにも行かない。私の傍にいる。ここにいるんだから」
彼女の大きな目からが強い紺に変色をする。
『活動限界まで、あと三十秒です』
もうすでに死星獣内部のブラックホールは目前まで迫っていた。
機体の脚部先端はその強力な虚無空間に触れ、削り取られてしまっている。
そこで、七○一号が動いた。
今までの絆の操縦とは全く違った、完全な俊敏さで機体を横に反転させる。
そして両手で胴体を固定している腕を掴んだ。
手の平が強い金色に輝き、ガラス細工を砕き割るように、化け物の腕が粉々になり空気中に散っていく。
自由落下でブラックホールに落ち込む寸前に、七○一号は背部のブースターエンジンを最大に点火した。
そのまま全長十メートルを越える巨体が宙に飛び上がる。
すさまじいGに、押しつぶされそうになりながら絆は歯を食いしばった。
鼻からとめどなく血を流しながら、愛は紺色の瞳を見開いて死星獣をにらみつけていた。
そこにあるのはただ一つ、純粋な怒りだけだった。
鉄のように頑強な意志の光。
息を吐いて、愛は呟いた。
「どこにも行かせない……行かない。私の絆。私だけの絆。殺させない。ばけものなんかに、絶対に、殺させない」
人が変わったようにはっきりと口に出す。
次の瞬間、ブースターエンジンを逆噴射して七○一号が急降下した。
腕部の装甲が一人でに競り上がり、拳を隠すように固定される。
次いで、七○一号の二本の腕が金色に輝いた。
肘から先が目を刺すような光に包まれる。
上腕部に設置されている排気口から、ジェット噴射のように灰色の煙が噴出を始めた。
弾丸のように死星獣に向かって落下し、繰り出した左手でその中央の頭部を抉り千切る。
醜悪な化け物の一部を軽々と握りつぶし、七○一号は地面に落下する直前に腰部のブースターエンジンを点火した。
そのまま地面と水平に横に飛ぶ。
進行方向にあったビルを倒壊させながら、着地後数十メートルもスライドしてからやっと止まる。
人間業ではないAADの動きに、完全に絆はついていくことが出来なくなっていた。
それ以前に状況の理解が出来ない。
「ま、愛!」
『活動限界まで、あと二十秒です』
「殺させない!」
愛が、吼えた。
既に活動の限界まで差し掛かっている七○一号が、まるで猫のように地面を蹴って跳ねた。
鈍重な戦車とは思えないほど軽々と、鉄の巨体が宙を舞う。
中央の頭部を吹き飛ばされ、死星獣の肩部についている残りの二つの頭がぐるんとこちらを向く。
しかし相手が反応するより早く、AADは金色に輝く右腕に速度と重量の全てを乗せて繰り出した。
一撃で死星獣の腹部に大穴が開いて、あたりに黒い煙が吹き荒れる。
「わたしの! たった一人の……!」
もう絶叫だった。
そこまで言った時、愛の喉の奥から赤黒い血の塊が競りあがった。
口の端から更に大量の血を流しながら、少女が歯を食いしばる。
死星獣が瞬く間に再生を始める。
しかし七○一号は全く怯まなかった。
輝く腕を振り上げ、地面を蹴ってブースターエンジンの圧力と共に飛び上がる。
そして大上段から、死星獣を真っ二つにする軌道で右腕を振り下ろした。
『活動限界まであと十秒。九、八、七……』
カウントダウンが始まる。
着地と共に、すさまじい衝撃が脳幹を襲う。
目の前に火花が散り、絆は口から胃の中の空気を全て吐き出した。
気管が収縮し、激しく咳き込む。
『六……』
両断された死星獣を背後に、陽月王は前傾姿勢のままぐらりと揺れた。
絆の隣で、小さく愛が咳をする。
少女は、手を伸ばした。
その目から白濁した涙ともつかないものがボロボロと流れ落ちる。
血で濡れた口を微笑ませ、愛は小さく囁いた。
「きずな」
そして彼女は、最後に笑った。
「……楽しかった……なぁ」
『五……四』
金髪の少女が、カクリと。
関節が切れた西洋人形のように首を垂れた。
絆の方に伸ばした手が途端に力を失って脇に流れる。
慌ててそれを掴んだ青年の耳に、無機質なAIの声が飛び込んできた。
『エネルギーシステムのラインが切断されました。システムエラー。当AADは、全ての機能を停止します』
「…………」
とっさに言葉が出なかった。
膝をついた巨大兵器の背後で、頭部から二つに割れた死星獣が、それぞれ風船のように膨らむ。
そして一拍置き、音も立てずに破裂した。
黒い粒子が吹き荒れる。
その風を浴びた陽月王の装甲が削り取られるように少しずつ消えていく。
エンルギーコーティングも何もかも。
全てが消滅して機械が停止していることの表れだった。
「愛……?」
やっと戦闘の衝撃から脳が立ち直る。
握った彼女の手を引く。
「……おい?」
かすれた喉の奥で声が引っかかって出てこない。
少女は手を引かれると、マネキン人形のように力なく、シートから崩れ落ちた。
「……愛?」
答えはなかった。
『絆様、ご無事ですか!』
その時、唐突に通信回線が回復して絆はぼんやりと顔をあげた。
絃のバーリェ、桜の声だった。
少し離れたところから、緊急整備を終えて発進したのか、もう一機の人型AADが土煙を上げて向かってくるのが見えた。
いつの間にか、あたりに吹き荒れていたブラックホールの煙はもう存在していない。
『絆、無事だったか!』
絃の声。
青年はゆっくりと愛を抱き上げ、彼女のこめかみや喉に刺さった白いチューブを引き抜いた。
そして軽く肩を揺する。
どちらも、言葉を発することはなかった。
◇
朝日が昇る。
手術室の前で、絆はソファーに座って頭を抱えていた。
頭が痛い。
召集されてから半日も経っていないこととは思えなかった。
夢の中のように感じる。
妙に体がふわふわしていて、足が地面についていないかのようだ。
足音がした。
エフェッサーの本部長、駈だった。
女性職員を二人連れてきている。
彼は静かに絆の前に立つと、抑揚なく口を開いた。
「今回の件では、我々本部の支援が一切出来ない状況に陥ってしまったことを、私の立場から君に、一個人として深くお詫びをする。対処認識不足だった。許してくれ」
頭は下げない。
見下ろした姿勢のまま、無表情で彼はサングラスの位置を直した。
絆は、答えなかった。
顔も上げなかった。
もう、何が何だか分からなくなっていた。
女性職員の一人が手に持ってきていたタオルで青年の髪を拭き、そして肩にかける。
もう一人が湯気の立っているコーヒーが入った紙コップを差し出した。
それを受け取り、水面をぼんやりと見つめる。
「元老院は今回の戦闘を受け、君に勲八等を授与することを先ほど発表した。情報がない未知の戦いでこれだけの戦果をあげた君の事を、本部内でも高く評価している」
「…………」
「君の検査をさせてもらいたい。メディカルルームに移動してくれないか?」
反応は、しなかった。
しばらく青年を見つめた後、駈はきびすを返して静かに言った。
「……よろしい。気が向いたら顔を出してくれたまえ」
そのまま、彼と、もう一人の女性職員が歩み去っていく。
絆はふと気がついて顔を上げた。
片方の女性職員は、残っていた。
名前は分からない。
愛のような金髪で、幼い顔立ちをした女性だった。
他の職員とは違った、白い肌が印象的だったので何となく顔を覚えていたのだ。
長い髪を揺らし、控えめに彼女は口を開いた。
「あの……」
「……?」
「コーヒー、冷めてしまいます」
ああ、そうか。
機械的に頷いて口に運ぶ。
泥水みたいな味がした。
「あの……」
もう一回、女性職員は口を開いた。
絆が顔を上げないのに戸惑ったような感じだったが、気を取り直して喋り始める。
「おめでとうございます。私、見てました。凄かったです」
何だこいつ。
心の底からそう思い、無表情で顔を見上げる。
それを勘違いして捉えたのか、職員は慌てて付け加えた。
「あ……私、オペレーティングをさせていただいています、渚と申します。戦闘中にあなたのサポートをしていました。絆執行官」
渚、と言った女性は微笑んで見せた。
その笑顔に、どことなく愛の顔が重なって視線をそらす。
「……すごい? 何が凄いんだ」
ぶっきらぼうに返すと、渚は不思議そうに息を呑んで、そして言った。
「いえ……あの、戦闘の……」
「俺は何もしてない……!」
呟くように言って、絆は息を詰めた。
意識せずにコーヒーが入った紙コップを握りつぶしてしまい、熱湯が手全体に飛び散る。
熱い。
そう考える間もなく渚は慌ててしゃがみこみ、彼の手についたコーヒーをポケットから出したハンカチでふき取った。
「だ、大丈夫ですか? 火傷になっちゃうかも……あの、早く冷やさないと……」
「うるさい……!」
冷たく、絆は言い放った。
突き放された渚が困ったように笑って立ち上がる。
「ごめんなさい……いきなりで、執行官も疲れていらっしゃるでしょうし…私、あの……」
瞳の色を見て分かった。淡い、赤。
妙に人に干渉したがる、この社会では不気味な性癖。
バーリェの精神面のサポートなどを良くしている、クランベという種類の人間だ。
街の下層……DNA管理もされていない、つまるところスラム街で、男女間の交わりで生まれた『不完全な』人間。
ランクEに相当する種類の人間だ。
スラムで生まれた人間は、皆一様に瞳が赤い。
そして不気味なほど……まるでバーリェのように他人に干渉したがるのが常だった。
努力しだいではそのような人間でも市民権を得ることは、十分可能だ。
しかしどこでも差別という人間の根幹的な闇の部分は発生する。
人と言うものは、自分より下の者を確認しないと自己の存在を安心できない、くだらない生き物なのだ。
それゆえに、人間以外のバーリェを管理しているエフェッサーの中にはクランベが多かった。
今までは大して気にしたこともなかったが、今日に限っては渚とか言うこの女性の絡みが、正直煩わしかった。
「……あの子、駄目だったんですか?」
しばらくの沈黙。
その後に、小さく息を吸って。
不意に渚はそう言った。
弾かれたように顔を上げて彼女を見つめる。
クランベの女性は床を見つめながら深く頭を下げた。
「……申し訳ありません。私が触れていいことではありませんでした」
「……いや」
ため息と共に否定し、視線を床に戻す。
ぶちまけられたコーヒーの臭いが鼻に刺さる。
「死んだよ」
淡々と呟いて、絆は息を吸った。
「あんたのオペレーティングが途絶えた最中に死んだ」
「そう……ですか」
だから何だって言うんだ。
一人にして欲しかった。
考える時間が欲しかった。
だが、渚はためらいがちにまた口を開いた。
「私の敵分析とオペレーティングが……遅れたから……」
ぼんやりと顔を上げて、彼女を見上げる。
「だからかもしれなくて……でも、バーリェだから執行官は気にしてないかなっても思ったけど……でも、私……」
瞬間、思考が沸騰した。
烈火のように立ち上がって渚というクランベの肩を掴み壁に叩きつける。
そのまま押さえつけるとくぐもった悲鳴をあげて、彼女が激しく咳をした。
そのまま数分、硬直する。
喉の奥が乾燥して張り付く寸前に、絆は口を開いた。
「……教えてくれ……」
「……え?」
「……あの子が、何をしたっていうんだよ?」
かすれた声でそう問いかける。
この人に言ったのではなかった。
自分自身に、言ったのだった。
「俺は……一体何をしたんだ……?」
長い、沈黙。
しばらくして渚は憔悴した絆の顔を見て、小さく言った。
「……執行官。何ていう言葉を……言って欲しいですか?」
答えられなかった。
ただぼんやりと目の前の女性の顔を見る。
その顔が愛の顔に、どうしても重なって。青年は顔を背けて、呟いた。
「もう、聞けないから。後悔してるんじゃないか……」
そのまま手を離し、ポケットに火傷ごと突っ込む。
そして絆は、手術室を後にした。
◇
映画を見ていた。
陳腐な内容だった。
客なんてまばらで、ニ、三人程度しか広い劇場には見えない。
大きなスクリーンに展開されている、嘘の物語。
嘘の記録。
トレーナーに命令され、映画の中のバーリェは涙を流して喜んで、死んだ。
ただそれだけの物語。
けど、それが真実なのかもしれない。
そうも思う。
思う……しかし。
ねじ切れそうになるほど切ない気持ちになるのは、気のせいではなかった。
途中で席を立って、劇場を出る。
向かいのカフェに、絃に面倒を見てもらっている他のバーリェが待機していた。
『愛は、役目を全うしたんだ』
そう、他の子達に言った。
彼女達は泣いた。
しかし同時に、愛のことをうらやましいと、そう言った。
愛は、幸せだったはずだと、そう言った。
自分には命を管理する資格なんてないのかもしれない。
責任を持つ権利なんて、本当はどこにもないのかもしれない。
やっていることなんて、映画の中の陳腐な動きとなんら変わらない。
バーリェを実験台にし、選ばれなかった個体を廃棄にする者たちと変わらない。
でも。
何だか。
少しだけ。
幸せだったはずだよ、という言葉を聞いて。
何故だかほんの少しだけ。
救われた気がした。