6
静かな夜に。
入学式に引き続き、およそ平穏とは程遠い午前中を何とか乗り越えて――
心身共にすっかり疲弊しきった私はというと、現在は母の運転する車の助手席で静かに瞼を閉じていた。
「……」
背もたれに深く体重を預け、閉じた瞼の裏からは雲一つない空に燦々と輝く太陽の温かさを感じる。
まどろむ意識の中で頭に響くのは、まだ幼い子供の泣き声。既に学校は終わっているというのに、やけに耳に残るその声に、どうやらこのまま眠ることは不可能だと悟る。
少し目を開けると、隣では何やらうずうずとした様子の母が……
母の待つ車に乗り込んでからすぐ、座席に座るなりそのまま死んだように目を閉じた私を心配しているのかもしれない。
ただ――今はどうにも、誰かと話をすることすら億劫になってしまっている。
そうした様子を敏感に感じ取ったのか、母の方からも何かを口にすることはない。
「「……」」
静かな車内で微かに、ふたり分の呼吸音だけが聞こえる。
自宅まではあと少し。
やっと家でゆっくりできるという安堵の気持ちと共に――やはり、思い出すのは先程までいた小学校での事だった。
教室に入るまでの段階で小鹿の群れに捕まり、小鹿くんが泣いて……
挙句変な名前で呼ばれることを納得させられ、それが終わったかと思えば、今度は殺伐とした席替えが始まって。
やっと落ち着けると安堵したのも束の間、いつの間にかまた、小鹿くんが泣いていて。
――席替え。
そういえば、学校からの帰り際、別れの挨拶とともに教室を飛び出そうとしたところで、隣の席の女の子に呼び止められた。
篠田 香織。改めてそう名乗った彼女を前に、その時初めて名前を知らなかったことを思い出した。
遅れて私も自己紹介をした方がいいのかと思ったのだが、どうやら大抵の女子は同じクラスの男子生徒の名前は事前に把握しているものらしい。……そういえば山本さんもはじめから名前で呼んできてたな。
それで話は終わったかと思いきや、篠田さんは控えめながらも私にいくつか質問を投げかけてきて――しかし、一刻も早く帰りたかった私は用事があると嘘をついてその場を切り抜けた。
いや、嘘というのは恐らく篠田さんにも伝わったのだろう。教室を出る途中、視界の端に見えた彼女はとても悲しそうな顔をしていた。
「……むぅ」
罪悪感、みたいなものは当然感じる。
少しくらい話に付き合ってあげるべきだった、とも思う。
――けれど
どうにも、私にとって人生二度目の小学校というのは思った以上にストレスを感じるものだったらしい。
それは何も、午前中の出来事が全ての原因というわけではない。
私が元来、一人でいることが好き、というのもあるだろう。
しかし結局のところは、何というのか、根本的に"合わない"のだ。
価値観の相違。生前、離婚の原因でよく使われていたこの言葉こそ、今私が感じている気持ちに最も近いのかもしれない。
それはやはり私だけが前世の記憶を有していて、周りは年相応に感情豊かな子供なわけで……
いずれにせよ、私自身が彼・彼女らの雰囲気に順応するまでにはまだ時間が必要だと感じた。
まあ小学校、中学、高校と、時間はあるのだ。気長にやっていこうとは考えているが、それまではこの疲れが続くのかと思うと憂鬱ではある。
でも、頑張るしかないよなぁ。
「……」
と、そんなことを考えていたらいつの間にか、目に映る景色は見慣れた住宅街のものになっていて。
「よし、着いたわよ。のぞみも今日はだいぶお疲れみたいだし、ご飯の後はゆっくり休みなさい」
「……」
言われるまでもなく――正直、我が家を見た途端ご飯もいらないくらいに瞼が重くなってきた。
「ああっ、そうだ! 言い忘れてた。私今日は午後から会社で大事な会議が入ってたの。またいつもみたいにお祖母ちゃんを呼んでおいたから……後1時間くらいでこっちに着くって」
「……」
――あの人かぁ
少し苦手な人ではあるんだけど。
まあどうせ午後はずっと寝ようと思っていたところだ。誰がいようと関係ないか。
「あらら、ほんとに眠そうね。早くお昼ご飯食べよっか」
「……」
そうしよう。
それから母と軽くお昼ご飯を食べた後は、いよいよ眠気がピークにきたようで
慌ただしく家を出る母が仕事へ行くのを玄関先で見送って
頭を縦に揺らしながら、気合で歯を磨いて
重たい身体を引きずって、やっとの思いでベッドに飛び込んでからは、気付けば意識はぱったりと途切れていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……」
私が再び目を覚ましたのは、それからどれくらい経った頃だろうか――
自室の締め切ったカーテンの隙間からは、まだわずかにオレンジ色の光が差し込んでいることから、恐らく夕方ではあるのだろう。
数時間の仮眠を取れたことで気持ちはだいぶスッキリとした気がする。
「……うぅぅぅ」
さて、目を覚ましたのなら起きなければ。
正直、まだまだ瞼は重い。
身体にも若干のだるさを感じることから、もう少し寝たいとも思うのだけれど。
「寝れなくなる」
間違いなく、昼夜逆転してしまう。
ああ、学校さえなければそんなことを気にしないで寝られるのに。なぜこうも二度寝前の睡魔は暴力的なのか……
悲しいことに隔日休日制度は来週から適用されるみたいで、明日も学校は普通にある。
「よし」
一先ずこのままベッドにいては永遠に抜け出せなくなると思い、目覚めに顔を洗おうと床へと下りた――その時だった。
「どうやら、目が覚めたようですね」
「――――??!!!!!!!」
突如として聞こえてきた女性の声。
今いるのは間違いなく私の自室。
完全に自分一人だと気が緩んでいたところに自分以外の誰かの声が聞こえただけでも心臓が止まるほど驚くというのに、その相手がベッドを下りてすぐのところで正座をしていたら叫び声が出てしまうのも仕方がないと思う。
いや、辛うじて叫んではいないけども。
「……」
今日この時ほど自分の無表情に感謝した日はない。流石に肩がびくっとなるのは避けられなかったが、それ以外は普通でいられたはずだ……多分。
「先程、由紀から連絡がありました」
そんな私の動揺など露知らず、私と同じような無表情で淡々と話を続けるのは北条 陽子。今世における私のお祖母さんだ。母の母とも言う(ややこしい)。
ああ、そう言えば来るって言ってたような。眠すぎて完全に忘れていた。
「予想外に会議が長引いているようで、帰宅は19時を過ぎた頃になりそうだと。貴方とも話をしたかったみたいですが、どうやらお疲れのようでしたので、私が代わりに」
ショートボブの髪は綺麗に白髪染めされている。顔にはうっすらとほうれい線があるものの、相変わらずの鋭い目つきもあって変に緊張してしまう。他人行儀な話し方のせいもあるのだろう。
「お腹が空くのなら先に晩ご飯を食べていてもいいそうです。今はまだ少し早いと思いますが、空いていますか?」
「……空いてない」
「そうですか」
「……」
言いたいことは伝えたということか、それっきり口を閉ざしてしまったお祖母さん。
かといって別に部屋を出るわけでもなく、同じ場所で正座をしたまま私の方をじっと見ている。
「「……」」
私ももちろん自分から話しかけるタイプではないため――必然、部屋は静寂に包まれる。
「……」
うぅむ…何というのか……
私は別に沈黙を苦痛に感じるわけではないのだが、お祖母さん相手だとどうにも学校の先生を相手にしているみたいで、何か悪いことをしたわけでもないのに居た堪れなく感じてしまう。
これが山城さんが相手の場合、言葉が通じないのは当然として、代わりに別段緊張することもないため、その分まだ彼女の方がマシなのかもしれない。
『う゛あ゛あ゛あ゛あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!』
「……」
『あ゛う゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁ!!!!』
「……」
いや、やっぱりお祖母さんの方がいいな。
いずれにしろ、このまま自室に2人でいるというのも変な話だろう。
顔も洗いたかったし、ひとまず一階に降りることにする。
「……」
「……」
私が移動するということで、当然お祖母さんも付いてくる。
既に数十回は二人でいる機会があったというのに、この距離感。
昔からお祖母さんと二人でいるときは基本的に私が書斎で本を読んで、お祖母さんはその近くで私の様子をじっと見ているか、たまに書斎にある本を手に取って読んでいるか……ずっとそんな感じなので距離が縮まるはずもないのだが。
しかしいい加減、もう少し話をしてみるのもいいのかもしれない。
確かに以前までは私の為の書斎ができたことに興奮して、本に夢中になるあまり碌に話もしなかったわけだけど――
今は直前まで寝ていたこともあってか、直ぐに本を読みたいという気分でもない。
前世での事もある。
私がさよならを言えなかったのは両親や弟の他に、当然祖父母も含まれている。
両親への親孝行も然り、大切な人と生きている内に話せる機会がどれほどあるのかなんて誰にも分からないのだ。であればこそ、今世にて生まれた私とお祖母さんとの不思議な縁も、きっと大事にすべきものなのだろう。
「……」
洗面所で顔を洗い終えてから、リビングの椅子へと腰かける。
「……」
今までは書斎に直行していたはずの私を流石に不思議に思ったのだろうか。身体は書斎の方へと向けたまま、しかし一向に立ち上がる気配のない私につられてお祖母さんも対面の椅子に腰かけた。
「「………」」
さて、いざ話をしてみようとは思ったものの…話題が思い浮かばない。
私が話せる内容でお祖母さんの興味を引く話題とは何だろうか……浮かぶのせいぜい今まで読んできた本の事ばかりで、でも内容をいちいち説明するのはメンドクサイ。
もっと手軽に、簡単に場が盛り上がるような何か――
「……むぅ」
思い出せ自分、対人経験の乏しい人生を生きてきた私だけれど、きっと何か一つくらいは思い浮かぶはずだ。
いける、私はやればできる子。
「……」
「……」
「……あの」
「はい」
「……じゃんけん」
やっぱり私はダメな子でした。
なにが「じゃんけん」だ。やはり無難に本の話題にしておけば良かった。しかし既に私の右手はお祖母さんに向けられている。自分から提案した手前、今更引くこともできない。
結果的に、突然真剣な顔をした孫がじゃんけん勝負を挑んできたという、なんともおかしな空間ができあがってしまったわけだけども――
「……」
「……」
「……」
「……」
やはりむr――
――――ッス
あ、やるんだ。
突然向けられた私の右手を数秒ほど凝視したのち、意外にもお祖母さんは右腕を差し出してくれた。
相変わらずの無表情からは心の内を読み取ることなどできないけれど――もしかして、お祖母さんは私が思っていた以上に気さくな人だったのかもしれない。
まあ、何はともあれ舞台は整った。
ここからは私とお祖母さん、二人だけの真剣勝負。
「「……」」
いつの間にか、広々としたリビングの空気が張り詰める。
目の前、まるで見る者すべてを射殺さんばかりに眼光を強めるお祖母さんは流石に侮れそうにない。
今もテーブルの上にある私の小さな握り拳をじっと凝視している。
「……」
「……」
――さて、そろそろ始めるか。
最早私も当初の目的など完全に頭の中から抜け落ちて。
変わらず続く沈黙に、いつしか互いに呼吸を忘れてしまって。
かくして、勝負は始まった。
◇◆◆◆◆
――それから15分後
「「……」」
やはり互いに会話もないままに、私達は横並びで近くのスーパーまでの道のりを歩いていた。
日は既に沈みかけ、こんな時間に外出するのは初めての事かもしれない。
「……」
ちらり、と。隣を歩くお祖母さんを見る。
先程行われたじゃんけん。
結果は私の5戦全勝だった。
まさかの結果に動揺する私と同じく、小刻みに右手を震わすお祖母さんも若干目が泳いでいた。
ちなみに、一応明言しておくと手を出すタイミングは完全に同時だった。決して接待じゃんけんではない(接待じゃんけんってなに?)。
でも、流石に全部の手をパ―でいくのはいかがなものだろうか。
はじめからあいこの時まで、すべての手をパーで勝負したのはお祖母さんなりのジョークなのだろうか……それにしては動揺が激しい気もしたけれど。
まあ、そういうわけで。
全敗したお祖母さんにかける言葉も思いつかず、しかしこの微妙な空気を変えたかった私は、少し早めの晩ご飯ということでカレーライスを作ってほしいと提案した。
幸いルー以外の材料は冷蔵庫にあったため、今は二人でルーを買いにスーパーへと向かっている、というわけである。
スーパーまでは徒歩で10分程度の距離がある、歩いて行くには微妙に遠い距離にあるけれど、気分転換にはちょうどいいだろう。
「「……」」
私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれるお祖母さん。
先程のじゃんけん、蓋を開けてみれば結果は散々なものだったけれど、実はいいこともあった。
それはやはり、お祖母さんとの距離が縮まった事だろう。物理的にではなく、心理的な。
今までのお祖母さんに抱いていた印象はクールで冷たい、というものだったけれど、今思い出すのはじゃんけんで5連敗した後の動揺した姿。
思いのほか接しやすいということが分かって、私の方にはもう緊張はない。
今は隣を歩いていても安心できる程に‥‥同じことをお祖母さんも感じてくれているのならいいのだけれど。
「――あの」
そうした気持ちが伝じたのだろうか、スーパーが視界に映ったところで、突然お祖母さんの方から話しかけ――ようとしたところで止まってしまった。
「……」
少し遅れて、目の前の事態に気付いた私もその場で静止する。
なぜなら――
「むうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!!!!」
「ちょっ、落ち着いてみずきぃぃぃ!! とれちゃうっ! お母さんの腕がとれちゃうからぁぁぁぁ!!!」
「「……」」
私達の目の前、スーパーの入り口にて山城さんが暴れていた。
いや、正確には私を発見した山城さんがいつものごとく突撃しようとしたところで、ちょうど手を繋いでいたらしい母親が必死に止めようとしていた。
恐らく親子で買い物帰りだったのだろうか……山城さんの母親は右手に大きな買い物袋を持ちながら、暴れる娘を左手一本でなんとか抑えている。
彼女の腕がもげるまでは、最早時間の問題だろう。
「お知り合いですか?」
いいえ、違います。
「明らかに貴方の方へ来ようとしていますが」
ただの変態です。
「そうですか」
そう言って、とても自然に110番へ連絡しようとするお祖母さ―――いやいや待って待って。
「ですが、貴方が襲われそうで」
「……」
あれ、意外にも私の事を心配してくれていたのだろうか?
でも今回は大丈夫、あれは猪みたいなものだから。
「そうですか、なら大丈夫ですね」
うん、全く問題ない。
「う゛あ゛うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!!!」
「もうだめっ、とれた!!! もう絶対に腕とれたぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「「……」」
それよりも、やっぱり今日は肉じゃがを食べたい。
「それなら、材料は家にありますね」
うん、だから帰ろう。
「お店はいいのですか? 何か甘いものでも――」
そう言うお祖母さんの手を引いて再度帰宅を促す。
「手を……」
「……」
何か言いたげなお祖母さんを無視する。
今日は午後に仮眠を取れたとはいえ、もう面倒事はお腹いっぱいだ。
それに明日も学校がある。山城さんには申し訳ないけれど、山城母の尊い犠牲を無駄にすることもできない。
「やあ゛あ゛あぁぁぁぁ!!!!!」
「みずきのバカァぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
背後に聞こえる叫び声にいよいよ限界を察した私は、急いでその場を後にした。
◆◇◆◆◇
「「……」」
再び、お互いに無言のまま帰路に着く。
行きと少し違うのは、今は私の小さな手の先に、少しやわらかい感触があるということか。
思えば‥‥成り行きとはいえ、お祖母さんと手を繋いだのはこれが初めてかもしれない。
孫と祖母の関係だというのに、なんともおかしな話ではあるのだけれど――
「……」
迷惑だろうかと……思わず放しかけた私の手のひらは、しかし、数舜の後に――控えめながらもかすかな暖かさに包まれて。
「……」
隣を歩くお祖母さんは、一体どんな顔をしているのだろうかと――
それだけがとても気になった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「のぞみ、お祖母ちゃんと何かあった?」
「……?」
「いや、あんなに嬉しそうなお祖母ちゃんを見たのは初めてだから」
「……」
「う~ん、なんだったんだろう?」
「……」
今回登場したのは主人公の祖母、北条 陽子さん。
主人公は明言しませんでしたが、この世界では非常にお顔の残念なお祖母さん。そのせいで孫を積極的に可愛がることにためらいを感じています。主人公も幼い頃は読書に没頭し過ぎたせいでお祖母さんのことを気にもしなかったことから、お祖母さんは普通に主人公に嫌われていると思っていました。
そんな孫がいきなりじゃんけんしようなんて言ってきたら普通は混乱しますよね。