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昨日不注意で5000文字が消えた。
病院特有の……とでもいうのか、室内に漂う何かの薬品のような匂いが、昔からどうにも苦手だ。
生前、幼い頃に処方された苦い粉薬の事を思い出すからなのかもしれない。
「あんなに小さかった君も、もう中学生かぁ……時間の流れというのはなんとも早いものだねぇ。長く生きているからか、余計にそう思うことがふえたよ」
診察室へ行く途中に見える、待合室のどんよりとした雰囲気も…少し苦手。
ここが心療内科ということもあるのだろう。待合室には目が虚ろな人や心ここにあらずといったような人が多い。そのせいだろうか、室内全体に重い重力がかかっている……ような気がする。
気分が、沈むのだ。
「新しい学校生活はどうだい? まあ君の顔を見る限り、いつものようにぼちぼちといった感じかな。可もなく不可もなく、と」
そんな私がなぜ、今日も今日とて、こうしてここに足を運んでいるのか……
全く、習慣というのは恐ろしい。
ここに通い出した当初こそ早く帰りたいという気持ちでいっぱいだったはずなのに――今はもう、若干の諦念の気持ちとともに、静かに時間が過ぎ去るのを待っている自分がいる。
「うん、今日も心身ともに問題なし。いやはや、健康であることは非常に喜ばしいことなんだろうけど、君が相手だとどうにもやりがいに欠けるよねぇ。いや、失敬。今のは失礼だったかな?」
「……」
「ふふっ…ああっ、そうだ。今日は家から煎餅を持ってきたんだった。どうだい、君も食べるかい?」
「……」
「あれ、いらない? うぅむ、煎餅はいまどきの若者の好みからは外れるのか。よし、それなら明日……いや、次は一月後になるのか。その時は私特製の抹茶クッキーを作ってこよう」
「……」
「あぁ、思い出すねぇ、そういえば、君に初めて振舞ったのも―――」
ニコニコと音がしそうな笑顔を浮かべて私に話しかけてくる先生は、6年前から変わらず饒舌だ。
気にかけてくれるのは有り難いが……一体、無反応の私相手に何がそんなに楽しいのか。
まあ、恐らく……先生も話し相手が欲しいのだろう。
女性相手ではない、同性の。
このあべこべな世界。
男性は生まれながらに人と接する機会が極端に少ない。
家に籠る幼少期を過ごし、そして小学校から高校へと、そこでようやく同性の友人もできるのだろうけど――高校を卒業してからはその限りではない。
卒業後は結婚して家庭に入るか、変わらず在宅でもできる仕事を探すか、大学へ入学するか。あとはまあ、外へ働きに出るとか。
割合的には在宅が一番多い。だが、それも仕方がないのだろう。いくら保護が充実してきたとはいえ、男性にとって外出とは常に危険が付き纏うもの。家に居れば少なくとも邪な視線を向けられることはないし、襲われる心配も少ない。
閉鎖的な考えだとは思うけれど、安全なのは確かなのだ。
ただ、中には積極的に外に出たいと思う男性も当然存在する。
先生がまさにそうだろう。
インターネット技術が発達しているこの世界、画面越しで相手と会話をすることも可能なのだろうけど、それではあまりにも寂しい。人と直接触れ合うことで得られる温もりを、情欲以外の優しい感情を――きっと、先生は求めずにはいられないのだ。
私が読書を切望するのと同様に。
「……」
――けれど
「一月後とは言ったけど、君さえよければいつだって来てくれても構わないんだよ? ああいや、君が読書の時間を大切にしていることは勿論理解しているつもりだとも。でも、せめてもう少し―――」
このしつこさだけは、なんとかならないものか。
そのまま長くなりそうな気配を察した私は椅子から立ち上がり、強制的に話を終了させる。
「ああっ、全く君も相変わらずだねぇ」
「……」
既に1時間以上も話に付き合ってあげたのだ、これではどちらがカウンセリングされているのか分からない。
「ふふふ、分かっているとも。それじゃあまた一月後に」
「……」
全然納得をしているような表情には見えない、なんて野暮なことは勿論言わない。
若干の寂しげな視線を背中に感じながらも、先生……もとい、おじいさん先生の気が変わらない内に診察室を後にした。
「あっ、のぞみくん! また坂下先生のところにいたの?」
「お腹空いてない? 私今日はパウンドケーキを焼いてきたんだ! よかったら――」
「トイレは大丈夫? お姉さんが手伝ってあげようか?(セクハラです)」
「……」
診察室を出てすぐ、いかにも今気づきましたみたいな顔で私に話しかけてくる彼女達は、何を隠そう危険人物だ。
ただ言葉を羅列しているだけでは伝わらないだろうが、漏れなく全員の瞳孔が開いている。こういう時は反応してはいけない。目を合わせるのもダメ。
過去に一度、この看護師の内の一人に対し無意識に反応を返してしまって面倒なことになったのだが。私は失敗から学んだのだ。
それから、尚も追い縋ってくる彼女達を冷静に看護師長の下へと送り届けた後、私は母が待っているであろう駐車場へと向かった。
◇◆◆
ジ―――――――――――――――――――
「……」
スマホを確認すると、どうやらちょうど着いたらしい。
ジ―――――――――――――
「……」
そういえば書斎にある本のストックも少なくなっていたんだった。久々にネットを漁ってみるか。
「ジ―――!」
……いや
「自分から口に出すんだ」
「うっさい! ていうかアンタ今絶対気づいてたでしょ!!!」
「まあ」
当然、気付いてはいた。
というか、私でなくとも廊下の隣に設けられている談話室の扉から顔を出している時点で誰でも気付くと思うのだけれど……
「うぅぅぅぅぅぅ……そ、そんなことよりっ!!! どうせまた坂下先生のところにいたんでしょ? よ、よかったらまた話に付き合ってあげてもいいけど!!!」
「……」
「ま、まあ……私も暇だったし?」
そう言いながらも、一向に私と目線を合わそうとしない彼女の名前は矢沢 真央。
私がここに通う以前からお世話になっていた子みたいで、今でこそこんなに強烈な性格をしているのだけれど、私と初めて会った頃はもっと大人しい印象の女の子だった。
髪は眩しいくらいの黄金色で、瞳は真紅に色づいている。相当に時間をかけたのであろうロングの髪はゆるく巻かれていて、私と同い年のはずなのに、その発育のよさも相まってお前は一体どこの悪役令嬢かとツッコミそうになるが……果たして現実はそうではない。
確かに私からしてみれば異世界とでも言うべきこの世界は、しかし実際は生前の日本とさして変わらない。科学的な技術のレベルは勿論のこと、この国の住人は黒髪が一般的だし、顔立ちもアジア系――いや、日本人系だ。
なので、目の前の矢沢さんも当然地毛は黒。金髪と巻き髪は彼女のたゆまぬ努力の下、今日まで維持されている。他人事ながらこれは素直にすごいと思う。
ああ、ちなみに瞳の色もカラコンだ。
「ちょっと! 黙ってないで何とか言いなさいよ!」
「……」
悪く言えば地味、良く言えば清楚な見た目であった彼女がなぜこうも劇的な変貌を遂げたのか――原因は恐らく私にある。
いつの頃だったか……朧気としか覚えていないが、きっかけはちょうどそこにある談話室で彼女と会話をしている時だった気がする。
私が熱中している小説に興味を示しながらも、しかし活字が苦手という彼女は私の口から色々な物語を聞きたがった。
そして、その話の最中に登場した悪役令嬢というのがどうにも彼女の琴線に触れたらしく、気付けば髪を金髪に染めて、瞳の色まで真似し出したのだ。
それまでのキャラから一変、相当に頑張ったのであろう彼女から「似合ってる?」と不安そうに聞かれて、果たして「いや、キツイです」とはっきり言える人間がどれほどいるというのか。
少なくとも私には無理だった。
正論が相手を傷つけることもある。どうせ一過性の事だろうと高を括っていた私の予想は見事に裏切られ、今日まで矢沢さんはエセ悪役令嬢ムーブを続けている。
ただ、性格の方はどうにも。本人としては役になりきっているつもりなんだろうけど……
「……」
「ちょ、ちょっとっ! なんで無視するのよぉ……」
彼女の容姿が山城さん並に秀でていたことがせめてもの救いか。
いや、でも流石に中学校を卒業するまでには自主的に止めてほしいものだ。他人の黒歴史をいたずらに長引かせる趣味は私にはない。
「ぐすっ……また無視したぁ」
もし高校からも変わらないようなら、その時こそはじめて彼女に指摘しよう。
……と、そんなことを無言のまま考えていた私の前には、いつの間に近づいたのか、腕を伸ばせば届く距離に涙目の矢沢さんがいた。
視線はあくまで下を向いていて、目線は合わせられないみたいだけれど……
「……怒った?」
「……」
「ご、ごめんなさい……私、ウザかったよね」
「……」
「で、でも……この話し方じゃないと自信が持てなくて」
「……」
「ううぅぅぅ……嫌いにならないでぇぇぇ」
急激なテンションの急降下に戸惑う人も多いだろうが、これは別に珍しいことではないので安心してほしい。
普段の性格こそ高飛車な彼女だけれど、やはり元の性格はそうそうなくならないのか……今みたいにすこし返事をされなかっただけで嘘みたいに気弱になってしまうのだ。こうなるのもはじめてじゃない。
それに――
「嫌ってはない(好きでもない)」
「――――っ! ま、まあそうよね!!! 勿論分かってたに決まってるじゃない! 全然不安になんてなったりしてないんだからっ!!」
「……」
テンションが下がるのが急な分、立ち直るのも相当に早いのだ。
流石に6年も付き合いがあるので、彼女の扱い方は大体熟知している。
――と
「……」
気付けばポケットに入れていたスマホが振動していた。
ああ、そういえば母からもう駐車場に着いたと連絡が来ていたではないか……
彼女に出くわしてしまって完全に頭から抜けていた。
流石にこれ以上待たせるわけにはいかないので、矢沢さんには断りを入れてその場を後にすることにした。
「そ、そう……ああっ、そういえば私も用事があるんだった!」
「……」
「まったく、人気者は大変よっ! そ、そういうことだからじゃあねっ!!!」
「……」
ものすごく哀愁漂う背中で立ち去る矢沢さん。
そっちは出口じゃないよと言いたい気持ちを必死に抑えて、私も彼女に背を向ける。
ジ―――――――
その途端、後ろからはやはりというか……彼女からの視線を感じる。
先程用事と言っていたのに――まあ学校でもボッチが常の彼女に家族以外の予定が入る事なんてないとは分かっているけども。
今日だって、本来ならここに来る予定もなかったはずだ。
にもかかわらず、およそ病院では違和感しかない気合の入っていた服装。アンティーク調の涼し気な空色のワンピースに、革製のベルトで細いウエストを強調していて――
話がしたいのなら、素直にそう言えばいいのに。まあ普通に断るけど。
「なんだか」
異性に素直になれない彼女の姿はまさに、生前の男子中学生そのものだな。
初々しいともいえる彼女の行動は、まあ、当事者でなければ可愛らしいと思うのだろうけど。
◆◆◆
あぁ、やっと出口に着いた。
外に出ると、まずは胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。
空気を吐き出した途端、頭の中の汚れが一掃されたような爽快感を感じた。
やはり、知らず知らず思考も曇っていたのだろうか……
頬に当たる春のやわらかな風が心地いい。
「……」
その場ですこし辺りを見回すと、母の乗る車はすぐに見つかった。
随分待たせてしまったはずなのに、車内に見える母の様子からは心配げな感情しか感じない。
帰り道では本が買いたいと交渉しよう。
気付けば後ろから感じる視線の事もすっかり気にならなくなっていて、頭の中にいくつもの本を思い浮かべながら帰路へと着いたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
さて、話は戻って。
振り返るは思い出すのも忌々しい、私が公立桜花小学校へ入学した直後の事。
教室の扉に手をかけたところで私に声をかけてきたのは生まれたばかりの小鹿くん。
前日の私とアニメの主人公を重ねた彼は私をセイギと呼ばせてほしいと懇願し、否定する間もなく、わらわらと増えた他の小鹿達との泣き落としもあって、私は仕方なくその場で不名誉なあだ名で呼ばれることを了承させられたのだった。
「……むぅ」
心の平穏の為だとか、女子が怖いと訴える彼らの気持ちは分からないでもないけれど。
何とも言えない鬱屈とした気持ちを抱えたまま、遅れてやってきた先生の介入もあって、ようやく教室に入ることができた。
――ガラッ
「……」
「―――」
「――――っ! ―――!!!」
「――――?!」
教室に入ってすぐ、目に映るのは既に席に座っている大人しそうな女の子や、やたら大きな声で近くの子と話している女の子。
しかし、その年でもやはり異性の存在というのは気になるのか、遅れてやってきた私や小鹿くん達のことをしきりに目の端で盗み見てくる。
本人達はさりげなくこちらを伺っているつもりだろうけど、完全にバレバレだ。前世でも女子は男子の邪な視線には敏感だと言っていたけれど、きっとこれはそれ以上にひどい。
ほら、今もすっかり萎縮してしまった小鹿くん達がまた私に引っ付いてきた……服が伸びるからほんとに止めてほしい。
こっちは朝から相当に疲れているのだ、早く座りたい。
「……」
あれ、そういえば私の席はどこだろう。
「……?」
黒板を見ても席を指定しているような紙は貼られていない。新品のように光を反射している学習机に名前が刻まれているわけでもないし、一体どこに座れば――
と、思っていたところで、答えは最後に教室に入って来た先生から得られた。
「さて、皆さん集まったみたいですね。これからの予定も詰まっているので、早めに席替え、しちゃいましょうか!」
――ザワッ!
先生から席替えという言葉が発せられた途端、教室内の温度が何度が下がった気がした。いや、気のせいではない、明らかに目をぎらつかせている子が多数。
「……」
――しかし、いきなり席替え?
はじめは予め決められた席に座るものじゃないだろうか。
「あぁ」
いや、考えてみれば簡単だった。そうだよね、学校側が勝手に席を決めたりしたら納得のいかない女子生徒による暴動が起きるもんね。
生徒の自主性に任せる場合も同様に。いや、それでは男子が固まって座ってしまう分、余計に都合が悪くなるのか……
「既に席に座っている子達も立ってくださいね。今からこの箱の中にあるくじを一人ずつ取ってもらいます。くじ引きは完全に運なので、結果が気に入らなくても怒ったりしないこと。約束ですよ?」
そう言って箱を掲げた先生は黒板に簡単な席の図を書き、その上に番号を振っていく。
縦6列×横5列。1~30番までの数字を書き終えると、いよいよくじ引きが始まった。
気の早い女の子達は我先にと教卓の前に陣取り、どうでもいい私と小鹿くん達は最後尾に並んだ。
「あ゛あ゛あ゛あああぁぁぁぁぁ!!!!!」
「いやあぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「………おえっ」
前世と同様に綺麗に並べられた机は既に2つずつでくっつけられていて、生前の小学生時代を思い出す。
あの時は男女で一組になるように席替えが行われていたのだけれど、ここでは違う。
私含め7人しか男子がいないということは、あぶれる女子は16人。
早い段階で隣が同性だと確定した女の子達は、幼いながらに悲痛な悲鳴を上げている。ところで今誰か吐かなかった?
「……お゛っ…う゛あ゛ぁ」
「……」
「……シテ…コロシテ」
「はいはいっ、そんなところで蹲っていたら後ろの人の邪魔になりますよ! ――っあ、次はいよいよ男の子達の番だね。ほらっ、どいてどいてっ!」
流石にこういった光景を何度も見たことがあるのか、手慣れた様子の先生は教卓の前で屍と化している女子生徒を的確に端へと追いやっていく。
「……」
そんな光景を横目に見ながら、私の目の前には簡素な箱が一つ。
既に夢破れた女子は生気のない眼差しで、我が世の春を待ちわびる女子は緊張の眼差しで……騒然としていた教室の空気が私の手許へと集中する。
気付けば後ろにいた小鹿くん達も私の手許を覗き込んでいて……
――いや、なんだこれ
このまま注目されるのも嫌なので、手早くくじを引く。
「っああ! そんな簡単に?!」
「さすがセイギだぜ!」
「……すごい」
やかましい後ろの小鹿を無視して取り出したくじの中身を確認する。
私の座る席は――
「……15」
「「「「「わあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」」」」」
私がそう呟いたのと同時、後ろの一部がにわかにうるさくなる。なるほど、あそこか。
私が引いた席は教室のど真ん中だった。
「……」
正直、心情的には一番後ろの席がよかったのだけれど。
それよりも早く椅子に座りたい気持ちの方が遥かに勝っていた私は、さっさと席に移動することにした。
◆◇◇
「あのっ! 私は山本 音々っていうの! これからよろしくね!!!」
「……」
席に着いて早々、疲れ気味の私に元気よく挨拶してくれたのは縁が茶色のオーバル型眼鏡、そしておさげ髪が特徴の女の子だった。
典型的な学級委員長タイプとでもいうのか……一重まぶたの細い目に、肌に目立つそばかすこそあれど、そんなことは関係ないとばかりに愛嬌のある笑顔で話しかけてくる彼女には素直に好感を抱いた。
「のぞみくんって呼んでもいいかな? あっ、もちろん私のこともねねって呼んでいいよ!」
「山本さんで」
「遠慮しなくても大丈夫! ねねって呼んでね!」
「山本さんは――」
「私はねねって―――」
互いに一歩も引かない攻防、いやに聞き慣れた泣き声が響いてきたのは、そんな最中の事だった。
「い゛や゛あ゛だあ゛あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
一旦争いを中断して後方。声の方へと視線を向けると、どうやら泣いていたのは扉の前で私に声をかけてきたパーカー姿の小鹿くんのようだ。
既にくじ引きも終わり、ほかの小鹿くん達も大人しく席に座る中、いまだ空いている席の近くで立ったまま泣いている彼は駄々をこねるように首を横に振っている。
男の子相手には強く言えないのか、先生の弱々しい説得にも一層泣き声を強くする小鹿くん。
「……?」
さっきの今で何かあったのだろうか。
小鹿くんを見ても怪我をしているようには見えないし、であれば彼の癇癪の原因は一体――
いや、それよりも
気付けば空いている席の隣、小鹿くんが座ろうとしない席の横では小柄なショートカットの女の子が泣きそうな顔で震えていた。
目の端にはすでに大粒の涙が溜まっていて、それでも泣くまいと必死に耐えているのか、強く噛まれた下唇が痛々しい。
まるで前世の女子が不潔な男子の隣に座りたくないと騒いでる様子を連想させるようで、見ているこちらまで心が痛くなってくる(いや、その場合は不潔な方が悪い気もするけども)。
このまま傍観していても事態は収まりそうにない……
尚もいやいやと首を振り続ける小鹿くんの様子に迷っている暇はないと判断し、私は咄嗟に彼の下へ急いだ。
「席、替わる?」
「あ゛あ゛あああぁぁっ……っ…ふぇ?」
「えぇぇぇぇぇぇぇ??!!!!」
取り敢えず彼を泣き止ませるだけでもと席の交換を提案してみたのだけれど、どうやら正解だったらしい。突然私に話しかけられた小鹿くんは一瞬呆然とこちらを見つめた後、直ぐに泣き止んでくれた。あと山本さんはうるさい。
「……で、でも…いいの?」
「……」
黙って頷く。
理由は知らない、けれどそんなことでこの場が収まるのならなんだってよかった。
「――っ! ありがとう望くん。さぁ、蓮人くんも望くんにありがとうって」
「うぅぅぅ……ありがとね、セイギ」
「違う」
私に感謝の気持ちがあるのなら普通に名前で呼んでほしい。
「よし、これで無事に席替えも終わったことだし、明日からの連絡事項を伝えておきます。これからプリントを配るので―――」
ようやく落ち着きを取り戻した教室では教卓に戻った先生がテキパキと仕事をこなしていく。
これで流石にもう大丈夫だろう。
◇◇◇
「……はぁ」
それにしても、今日は朝から本当に疲れたな。
ただでさえ一週間後には山城さんも登校してくるというのに……クラスが違うせいで彼女がどんな行動にでるのか予測がつかない。出来れば大人しくしていてほしいのだけれど。
「――あの」
「……?」
まだ先生の説明の途中、隣の席からぎりぎり私にだけ聞こえるような声が聞こえた。
「……ありがとう」
「……」
さっきのことか。
そう言う彼女の涙は既に引いているようで、下唇こそ赤く傷ついているものの、声が少し震えている以外は特に問題がないように思えた。
私よりも小柄な体躯に、小動物を思わせるようなパッチリとした瞳。特徴的なのは前髪につけられているいちごのヘアピンか……山城さんほどではないにせよ、その整っている顔立ちも相まって、子役をしていると言われても驚かない。
「……」
今更小鹿くんが泣いていた理由を聞くつもりもないけれど、果たして原因はどちらにあったのだろうか……
そんなことを考えている私の横で、前を向いたまま、先生の話を聞いている彼女は小声で問いかけてきた。
「のぞみくんは、嫌じゃない?」
「……」
――急になんの話なのか。
「……その……私の、となり」
「……」
これは……どういう意味で…
なんで突然そんなことを聞いてくるんだ。
「……むぅ」
質問の意図は分からないけれど、「嫌じゃないです」と答えると、じゃあ好きなのかってなりそうだし、かといって「嫌です」と言えばまた教室がカオスに包まれるのは分かりきっている。
熟考する私の横で何を勘違いしたのか、再び肩を震わせる彼女からは悠長に考える時間ももらえそうにないらしい。
「「……」」
気まずい沈黙が続く中、まあ問いかけに応えないよりはいいかと投げやりな気分に行き着いた私の出した答えは、果たして、あまりにも味気ないものだった。
「……普通」
「――っえ?」
「だから、普通」
「えっと、普通?」
「普通」
「……そう、なんだ」
――なんだこの会話。
まあこれで問いかけには応えたのだ、もう答えることは何もないと私も前を向く。
「……」
隣で沈黙する彼女は満足したのだろうか――せめてもう、小鹿くんのように私の近くで泣くのだけは止めてほしい。
「それから男の子達はもう知っていると思うけど、隔日休日制度は来週から―――」
先生の話は続く。
私と替わって真ん中の席に座っている小鹿くんは少し眠たそうだ。まあ朝からあれだけ泣けば疲れも出るか。
「各教科の教科書はこれから第二体育館で受け渡しを―――」
ざわめきもなく、ただ淡々とした先生の声が教室に響く。
今日は午前中で学校が終わる予定だ。
家に帰ったら本を読もうと思っていたけれど、昼寝をするのもいいかもしれない。
「……」
カチ――コチ――と、規則的な時計の音が眠気を誘う。
開けた窓からは春の風が舞い込んでくる。
気が付けば、髪を優しく揺らす風の心地よさに、穏やかな気持ちの中、ゆっくりと目を閉じて――
――そんなときだろうか、再び声が聞こえたのは。
「ふふっ、普通」
「……」
「嫌だ以外の言葉を聞いたのは、初めてかも」
「……」
「あぁ、嬉しいなぁ」
緩やかに過ぎる時間の中で、小さな声はやけにはっきりと耳に届いて。
「……ねぇ、のぞみくん」
真剣な声音に、けれど――なぜか隣を見ることは躊躇われた。
「これからもよろしくね」
あの時、そう言って俯く様子の彼女に、私は何と声をかけたのだったか。
今はもう思い出せない。
◇今日の登場人物
矢沢 真央
山本 音々
ショートカットの女の子(前半の文からこの子と矢沢さんがごっちゃにならないか心配だったで一応ここで訂正しときます。この子は矢沢さんではないですよ。)