35
兄弟の時間。神様との時間。そうして――
茜色に染まる空。
僅かに開かれた窓ガラスの隙間から吹き込むのは、心地の良い春風。
グラウンドの方から聞こえてくる、気合に満ちた運動部の掛け声。
そして――既に終礼を終え、シンと静まり返る教室内。
「……」
その隅っこの席で本を読んでいた私の隣には、相も変わらず何が楽しいのか、ぼんやりとした表情で手元に開く小説の活字を盗み見る弟の姿があった。
正直、今の今まで全く気が付かなかった。いつまでも昇降口に降りてこない私に痺れを切らし、ここまで迎えに来たのだろうか。
それならそうと、一声かけてくれればいいのに。
「……何度も呼んだよ。でも、反応がないから」
「……」
自覚はないが、どうやらそういう事らしい。
まあ、人間誰しもミスはある。大切なのは、そこから何を学び、どう改善していくのかということだ。
「昨日も一昨日もその前の日も、僕、兄さんを迎えに来たと思うんだけど……」
あれ、そうだっただろうか。
何とも言えない表情で私を見つめる弟の視線から逃げるように顔を逸らし、これ以上の追及はこちらに不利だと争点を変える。
「……先に帰ってても大丈夫」
お互い既に高校生。この歳になってまで一緒に登下校しているのも、本来珍しい話だろう。読書に没入するあまり、度々周りの事が見えなくなる私の事など気にせず、放って置いてくれたらいいのに。
「そういうわけには……だって、兄さんが心配だし」
「……」
普段から私の半歩後ろを付いてくるだけだった臆病な性格の弟にいつの間にか心配されていた兄の心情、これ如何に。
「い、いつの事を言ってるの……僕だって、もうだいぶ成長したんだよ?」
そう言って気恥ずかし気に胸を張る弟の姿は、けれど、やっぱりどこか頼りない。
「……う、運動だって…してるもん」
それは知らなかった。いつまで経っても私の傍から巣立とうとしないから、何か良い治療法はないかと考えていたというのに。
「……ぇ、そんなことを考えてたの?!」
まぁ、嘘だけど。
「………」
私の言葉を受けて愕然とした表情で固まったかと思えば、一瞬でジト目になりこちらを睨みつけてくる。少しからかっただけだというのに……あぁ、横から本を取り上げられてしまった。
折角読了まであと数ページの所だったというのに、いつから弟はこんな意地悪な子になってしまったのだろう。
こちらも抗議の意味を込めて精一杯の睨みつけを執行するが――駄目だ、勝てない。
「……はぁ。兄さんって、本当に本が好きだよね」
呆れた様子でそう言う弟の言葉に、当たり前だと強く頷く。
そもそも私がいかに本を好きなのかは、幼い頃から一番近くで私を見てきた弟なら知っていて当然の事だろう。今更そんな顔をされた所で、特に後ろめたさを感じる事もない。
「………」
まあ、その本を取り上げられてしまった以上。私もこれ以上ここで駄々をこねるつもりはない。大人しく帰宅の準備を始め、奪い取った本を胸に抱く弟の姿を横目に、誰かの善意で点けてもらっていた教室の明かりを消すことにする。
パチッと、乾いた音が小さく響く――途端、窓ガラスの外から差し込む光と同じ色に染まる教室。寂寥感を感じる明るさに照らされて出来た2人分の影は、まるでお互いの居場所を探しているかのように揺れていた。
「それじゃあ帰ろう」
振り返って、そう告げる。
家に帰ったら、取り敢えずお預けを食らってしまった本の続きを読んでしまおう。それが終われば、今度はネットで話題になっていた長編ミステリー小説を読みたいな。手にずっしりとくるあの重さから、きっと全てを読み終えるまでに1週間程度の時間を要することになるだろう。
(……あぁ、今からワクワクが止まらない)
頭に未知の物語への空想を思い浮かべながら、その日もいつもと同じように、ガラガラと音を立てる入口の扉を開いて――
「――兄さんて、やっぱり物凄く鈍感な人だよね」
瞬間、まるで世間話でも始めるかのような穏やかな口調でもって後方から聞こえてきた唐突な侮蔑の言葉に、思わず前に出しかけた足を止めてしまった。
あまりにも聞き馴染のある声から発せられた、あまりにも聞き馴染のない言葉。
ひょっとして自分が何か致命的な聞き間違いをしてしまったのではないかと、限りなく淡い希望を持ちながらも、けれど、やはり自信はないので――結局。ギギギ……と、まるで錆びついた機械のような愚鈍さで背後を振り返る。
「鈍感」
「……っ」
今度はもう完全に、目を見ながら言われてしまった。そのあまりの衝撃に、思わずその場に崩れ落ちそうになってしまう。
弟から悪口を言われた経験など、これまでの人生で一度もない。まさかこの場に潜む第3者でもいたのではないかと疑ってしまうが、しかし、先程の声は間違いなく慣れ親しんだ弟のもの。それを私が聞き間違うはずもない。
「バカ、アホ、ドジ、マヌケ」
「……」
息をつく間もない程の追撃、追撃、追撃……
別に私はブラコンというわけではないのだが、懐かれていると思っていた弟からの暴言はかなり堪えた。まさか私と変わらないほど無口な弟にここまで言われるほど恨みを持たれていたとは……
「……」
なんで急に、こんなこと。
そんな私の反応がさらに癪に障ったのか、ついには目の端に涙を浮かべながら理由を言おうと――しそうになって……けれど、何か口にできない訳でもあるのか、口をもごもごと動かし続けた後、結局、その場に顔を俯かせて沈黙してしまった。
「「――――」」
穏やかな放課後の雰囲気から一変、居心地の悪い気まずさに包まれる教室。
気が付けば先ほどまで聞こえていた運動部の掛け声もなくなり――いや、それ以前に、私達2人分の呼吸音をしっかりと聞き取れるほどに、辺りは非現実的な静けさに満たされていて……
一向に暗くなっていく気配のない茜空も、記憶にある姿よりも少しだけ成長しているように見える目の前の弟の事も、いつの間にか、まるで知らない制服に身を包んでいる、少し背の縮んだ自分自身の事も……
全部が全部、まるで夢のような出来事で――
「……どうして、僕を置いていっちゃったの?」
相変わらず顔を俯けたまま、肩を震わせそう言う弟の言葉に、なぜか金縛りにでもあったかのように動けなくなってしまう。――言葉が、出せない。
「あんな馬鹿みたいな最後を見せられて……それで、もう一生会えないなんて」
先程から、一体。何の話をしているのだろうかと――そう不思議に思う私の脳内に、なぜか身に覚えのない記憶が流れ込んでくる。
そこに見えるのは、私達兄弟の後ろ姿。同じ制服に身を包み、優れない表情の弟から相談を受けていて――
「あの時の子に、たくさん酷い事言っちゃった。同じ光景を見て、同じように凄く動揺していた彼女に……それで、結局、もう2度と学校には来なくなっちゃって……」
刃物を持った、狂気的な表情の女の子。
弟を庇う私。
――そうして、なぜか車にはねられて。
「あの時の事を、自分の中で上手く消化することが出来ないんだ」
「……」
「急に兄さんが死んじゃって、どうしようもなく悲しくなって――僕も死のうって思っても、お母さんやお父さんに止められて……」
全く、馬鹿な理由で死んだものだと……記憶に映る自分に文句を言ってやりたくなる一方で――けれど、目の前で涙を流し始める弟の姿を目にして、やっぱり何も言えなくなってしまう。
「どうしても、生きる気力が湧かなくて。いつか死のう、どうやって死のうって……そんなことばかり考えるようになってしまって」
遺影を前に嗚咽を漏らす、弟が見える。その後ろに座る両親も、同じように泣いている。こじんまりとした葬式に参列しているクラスメイト達、馴染の本屋の店主、もう二度と会えないと思っていた――近所に住んでいた同い年の男の子の姿も。
それは夢だと断定するにはあまりにも鮮明な光景で、自分自身が死んでしまったのだという事実が、意外なほど自然に受け入れられて――
「僕は多分……これから先、どんな出会いや、どんなきっかけに巡り合うことが出来たとしても、きっと立ち直れない」
「……」
幼い頃からずっと、傍にいるのが当たり前の存在だった。
本に夢中になる私に引っ付いて、少しでも離れてしまうと、泣きそうな顔になりながら手を伸ばして、必死に駆け寄ってきて――
「久しぶりに、嬉しかったよ。また本に夢中になってる兄さんを見られるなんて、思わなかったから……」
寂しそうに、席を立つ。大切に胸に抱いていた本を両手で持って、こちらへと向ける。
無言のままに、私がそれを受け取った事を確認すると、満足気に頷いて。
「それじゃあ、山城さん達によろしくね」
唐突に言われた、誰かの名前。
知らない人物のはずなのに、なぜか思い浮かぶ顔がある。
「お別れの言葉くらい、ちゃんと言ってあげなくちゃ」
ベンチ以外は何もない、殺風景な公園。その背後には、なぜか懐かしさを感じる小山が見える。私は、この光景を知っている。
「兄さんが思っている以上に、兄さんの事を大切に思っている人は沢山いるんだよ」
知らないタイトルの書籍ばかりが収まっているどこかの家の書斎。心療内科の談話室。心落ち着く古書店カフェ。賑やかな声が聞こえてくる児童養護施設。おでんの屋台。桜舞い散る大木も――
濁流のように押し寄せてくる記憶の中に、いくつもの泣き顔が見える。
知らない顔のはずなのに、なぜだかとても懐かしい。
「だから、ちゃんと向き合ってあげて」
優しい表情で笑う、弟の姿が消えていく。
「約束だからね」
続く言葉に頷く私を見て、今度こそ満足そうに、きっと沢山あるのだろう心残りをこちらに悟らせる事もなく、淡い光となって――
私達兄弟らしい、あまりにも静かなお別れだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「お久しぶりです」
「……」
感傷に浸る間もなく、唐突に変わった白い景色と共に、1人の老女が私の前へと現れる。
艶のある白髪に、薄明るい深緑色に染まる瞳……数十年前に一度会っただけだというのに、彼女が醸し出す強烈な存在感はあの時のまま変わらない。
「先程はごめんなさい。現世にいる貴方を唐突にこちら側へ呼び戻してしまった影響で、記憶の混濁を生じさせてしまったようです」
穏やかな口調のままに、サラッと意味の分からない事を言う所も。
「……」
「……」
「……」
「……ふむ」
「……」
「改めて、自己紹介が必要でしょうか?」
先程から一言も発さない私を見て、未だに記憶が戻っていないと思われたらしい。けれどその心配は不要だ。目の前の自称神様と対面した段階で、既に全てを思い出している。
「それなら、良かったです」
そんな事より、私は先程の出来事について尋ねたい。
「先程、というと……」
考えるまでもない。つい数分前まで会話をしていた前世の弟の事だ。
「はい」
最後に見た姿、恐らくまだ高校を卒業してもいないのだろう。前世と今世の時間軸の齟齬がどの程度か知らないけれど、あれは今もまだ現世に生きている弟の姿だったのだろうか。
「……」
それに、山城さんの事を知っているような素振りだった。世界線の違う彼女の事を弟が知り得るはずはないのだし、まさか私と同じように死んでしまったわけでは――
「皆まで言わなくても、ちゃんと分かっていますよ。貴方の困惑は」
「……」
「ですが、ごめんなさい。その全ての疑問に対して、こちらから詳細をお答えすることは出来ません。先程の状況を実現させるために、私もそれなりに無茶をしてしまったので」
「………じゃあ」
「生きていますよ」
続く私の言葉など既にお見通しだったのだろう。彼女はとても簡潔に、一番知りたかった答えを返してくれた。
「きっと全部、夢の中の出来事だと思っている事でしょうね」
「……」
「元気、とは間違っても伝えることが出来ませんが……それでも、ちゃんと生きています」
「……」
ちゃんと、生きている。
そうか。それならまぁ…良かった。
それならきっと、大丈夫だ。
生きてさえいれば、私が死んでしまった事など……時間さえ過ぎればきっと、立ち直ってくれる事だろう。見かけによらず、強い子だから。
「……鈍感」
そうやって1人で納得している私の傍で、まさか神様にまでその言葉を言われるとは思わなかった……のだけれど、話が長くなるので突っ込まない。彼女はまだ、私をここへ呼び戻した本題を語ってはいない。
あちらの世界にはまだ読みかけの本もあるので、直ぐに帰れるように話を促す。
「それで結局、どうしてここに?」
問われた彼女は、しかし、なぜか歯切れ悪そうに、何か言葉を探すように――私を見つめたまま、数秒の間沈黙してしまって。
そうして、やがて私がギリギリ聞き取れるくらいの声量でポツリと、どうしようもなく抗いようのない現実を伝えてきたのだった。
「バレちゃいました」
「……?」
「貴方をこちらの世界へ転生させた事。向こうを管轄している子にバレてしまったんです」
――だから、どうやらここまでのようです、と。
「……」
そう言われて、ここまでとは何の事だと聞き返す程、私も馬鹿じゃない。
初めて会った時、こんなことは初めてだと、彼女は言っていた。
最初から、無条件に最後まで生きられると信じていたわけではない。
「魂の返還を、要求されてしまいました。そして、それは元居た場所へ――正しく貴方を死後の世界へといざなうためという、至極真っ当な話」
「……」
そんな唐突に、なんてことは言わない。私が死んでしまった時もまた、それは唐突な出来事だったのだから。
「バレてしまった以上、それを無視する事は出来ません」
そう言って申し訳なさそうにする神様に、私は問題ないと伝える。
いや、問題がないどころか、今日この瞬間まで第二の世界で沢山の小説を読むことが出来たという唯一無二の経験は、ただの高校生に過ぎなかった私にしてみれば、些か過剰に過ぎるほどの幸運だろう。
確かに転生した直後は今度こそ寿命で死ぬまで本を読むと息巻いてはいたものの……それがこういった形で頓挫してしまったのだとしても、それで自称神様を責めるなんてことはしない。それは横暴過ぎるだろう。
「……」
そういうわけで、なんなら今から送ってもらっても大丈夫だと伝える。家の書斎にはまだ購入して読み切れていないいくつかの本もあるが、まあ、どうせ読める本にはどうしたって限りがあるのだ。潔く諦めよう。
「……」
それに、彼女の粋な計らいで最後に弟と話すこともできた。
私の方から何かを伝えることは出来なかったとはいえ、あの子の元気な姿を見られただけで、私は満足だ。これ以上は望まない。
「……」
さぁ、やるなら早くやってくれと――未だ中学生の姿まま、細く短い腕を広げ、その瞬間を待つことにする。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
――おかしい、いつまで経ってもその時がこない。
閉じていた目を薄く開けると、目の前には未だに難しい表情をした神様がいる。
一体、ここにきて何を悩んでいるというのだろうか。
「………」
困惑する私を他所に、神様は――
「あぁ、困りました。どうしましょう」
まるでスーパーにいる夕飯の食材選びに迷う主婦のようなセリフを吐いて、そうして――
「残された彼女達が……暴走しています」
「……あ」
頭の中からすっぽりと抜けていた。
あまりにもどうしようもない現実を口にして、頭を抱えてしまったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
――その日は朝から、妙な胸騒ぎが止まらなかった。
『現在日暮市全域に捜査網を広げていますが、依然として何の痕跡も見当たらずっ――監視カメラの映像からも得られる情報はありませんでした!』
『これだけ探しても手がかりが見つからないなんて……明らかに計画的な犯行です! すぐにでも人員を増やして、隣市の警察署とも連携を取るべきでは?!!』
――胸元で音を立てる公用携帯を持つ手が震えていた。嫌な予感はしていたんだ。
『被害者の母親は依然として錯乱状態にあり、未だ会話をすることが難しくっ――現場周辺にいた住民に聞き取りを行うも、怪しい人物など見ていないと』
『学校を抜け出して来たと思われる女子生徒を複数確認! は、何でそんなことを報告しているのかだって? そいつらが滅茶苦茶暴れてるからだよ!! 至急応援をっ!』
――あぁ、怒りで思考が上手く纏まらない。
あまりにも受け入れがたい現実を前にして、脳が事態を詳細に把握することを強く拒んでいるのが分かる。
強く握りしめていた手元のペンは粉々になり、先程から情報を届けてくれる部下達は私の顔を見るなり悲鳴を上げて後ずさる。
「署長、顔が怖いです……」
いつもなら癒されるはずの部下の軽口にも、今だけは返事を返す事すら億劫だ。
「きっと大丈夫ですよっ! だって、私達が思っているよりずっとあの子は強いんですから! ――だから」
あぁ、駄目だ。胸の内に溜まるヘドロのような感情を制御することが出来そうにない。
どんな時でも泰然自若であれ。常に冷静に物事を判断できると信頼されての、今の重責だというのに。
『十分に、綺麗な顔だとおもうけど』
脳裏に浮かぶあの時の光景――ただそれを思い出すだけで、どうしようもなく胸が苦しくなる。
悪戯だったとしてもいいんだ。冗談であっても、私にそう言ってくれた。あの不器用な少年が、どこの馬の骨とも分からないゴミに凌辱されているのかもしれないという事実が、その可能性が少しでも存在しているのだという現状が、はらわたが煮えくり返りそうな程に腹立たしい。
「もういい、私が行く」
正直、我慢の限界だった。
これ以上は、待てそうにない。
「――はっ?!! いやいや、駄目ですって! 署長がいなくなったら誰がここをまとめるんですか?!!!」
腕に縋りつく部下の制止を振り払い、感情に任せるままに扉を開く――あぁ、その前に伝えておかなければ。
「関係する者全員、ぶち殺してから署に戻る」
――被害者:公立桜花中学校1年生 北条 望。母親の送迎する車に同乗していた彼が忽然と姿を消してから、およそ1時間後の出来事だった。
次話で長かった(自分のせい)3章もラストです。
それが終われば最終回。
気張っていきましょう。




